二月十四日の朝、大広間は、ピンク色に塗りつぶされていた。
壁という壁に、けばけばしいピンクの花が飾られている。天井からは、ハート形の紙吹雪がひらひらと降り続けていた。去年の、屋敷しもべ妖精たちの控えめな薔薇の花びらとは、比べものにならない。
「何だ、これ……」
ロンが、大広間の入口で立ちすくんだ。
上座のテーブルで、けばけばしいピンクのローブを着たロックハートが、両手を挙げて立ち上がった。
「バレンタインおめでとう! 今日までに、四十六人の皆さんが私にカードをくださいました。ありがとう! そこで、ささやかなお返しとして、このようなサプライズを用意しました――しかも、これで終わりではありませんよ!」
ロックハートがぽんと手を叩くと、玄関ホールに続く扉から、気難しそうな顔をした小人が十二人、ぞろぞろと入ってきた。全員が金色の翼をつけ、ハープを抱えている。
「私の愛すべき、配達キューピッドたちです! 今日一日、学校中を巡回して、皆さんのバレンタイン・カードを配達します!」
スネイプが、毒でも飲まされたような顔をしていた。
*
同じ朝、女子寮の部屋で、ハーマイオニーは鏡の前に立っていた。
ベッドの上に、金色の紙に赤いリボンの小箱が一つ置いてある。医務室のベッドから、両親に頼んでロンドンの店から送ってもらった、ベルギーのチョコレートだった。
去年は、渡せなかった。
朝食の席でも、廊下でも、図書室でも。理由をいくつも並べて、結局一度も手が動かなかった。夕方になって、鞄の底でかさりと鳴った包みのことを、今でも覚えている。
今年は、違う。
医務室のマダム・ポンフリーが言っていた。「あの子、毎日来たのよ。四日目には、扉の前で追い返しても、また来たの」
それに、枕元に置かれていた、銀色の鶴。〈早く、よくなりますように。〉
誰からなのかは、まだ分からない。でも、少しだけ、勇気が出た。
「……今日こそ」
ハーマイオニーは、鏡の中の自分に小さく言って、箱を鞄にしまった。
*
その日、授業は何度も中断された。
教室の扉が乱暴に開いて、小人が「歌のメッセージ!」と叫びながら飛びこんでくる。宛名の生徒が真っ赤になって机の下に潜りこみ、小人がハープをかき鳴らしながら、調子外れの声で詩を読み上げる。
昼休みの廊下で、ハリーが小人に足首をつかまれて、床に引き倒された。
「あなたの目は、緑色、まるで漬けたてのヒキガエル――」
周りの生徒たちが、腹を抱えて笑い転げた。ハリーは床の上で、耳まで真っ赤になっている。少し離れたところで、ジニーが両手で顔を覆っていた。
サミュエルのもとにも、小人は七回やってきた。
七回とも、サミュエルは小人がハープを構える前に、にっこり笑ってカードを受け取った。
「歌は、送り主に直接聞かせてもらうことにするよ。そのほうが、きっと嬉しいから」
小人は、不満そうに鼻を鳴らしながら去っていった。カードを送った女の子たちが、廊下の角できゃあっと声を上げていた。
机の上には、今年も小さな山ができていた。リボンをかけた箱。ハート形の包み。パドマのルーン文字のチョコレート。パンジーの「母上に言われたので」。白い上等な紙に銀色のリボンの、パリの菓子店の小箱。黒パンが一斤と、「元気か」とだけ書いた羊皮紙。
パリの小箱のカードには、今年も流れるような字で一行だけ。
〈薔薇は二輪とも、まだ待っているわ。――F〉
サミュエルは一つずつ札をつけて、鞄にしまっていった。いつもの光景だった。
*
午後の授業が終わった、廊下でのことだった。
「……ヴェスゲレート」
呼ばれて振り返ると、ハーマイオニーが立っていた。
両手を背中に回している。頬が、少しだけ赤かった。
サミュエルの周りには、まだ何人かの生徒が残っていた。シェーマスとディーン。少し先には、ラベンダーとパーバティ。廊下の向こうから、ドラコとパンジーが歩いてくるのが見えた。
「何?」
「これ」
ハーマイオニーは、背中に回していた手を、前に差し出した。
小さな箱だった。金色の紙に、赤いリボン。端に、見慣れない横文字の店名が印刷してある。
「去年、渡しそびれたから。……今年は、ちゃんと渡そうと思って」
声が、ほんの少しだけ震えていた。
「両親に頼んで、ロンドンのお店で買ってもらったの。ベルギーのチョコレートで、とってもおいしいのよ。私、子供の頃から、これが一番好きで――」
彼女は、早口で言った。言い終わってから、自分がしゃべりすぎたことに気づいたように、唇を噛んだ。
サミュエルは、差し出された箱を見下ろした。
胸の奥で、何かがせり上がってきた。
今日、四十を超える贈り物を受け取った。どれにも、同じ顔で礼を言えた。何を感じることもなく、一つずつ札をつけていけた。
これは、違った。
喉の奥が、熱くなった。手のひらに、汗がにじんでいく。何を言えばいいのか、分からなかった。嬉しい、と、ただそれだけを言えばいいはずなのに。
列車の通路で、扇の話を最後まで聞いてくれた顔。閉館前の図書室で、隣の椅子に座っていた横顔。去年の帰りの特急で、一秒か二秒だけ合った目。それが全部、目の前の小さな金色の箱の中に詰まっているような気がした。
視界の端で、シェーマスがにやにやしている。ラベンダーとパーバティが、ひそひそと何か言っている。廊下の向こうで、ドラコが足を止めて、こちらを見ていた。
みんなが、見ていた。
サミュエル・ヴェスゲレートが、穢れた血からのチョコレートを、どんな顔で受け取るのかを。
その瞬間、口が、勝手に動いていた。
「……マグルのチョコか?」
軽い声だった。
少しだけ鼻で笑うような、いつもの、からかうときの声。
言い終わった瞬間、自分の耳を疑った。
ハーマイオニーの顔から、色が抜けていった。
差し出した手が、宙で止まっていた。赤くなっていた頬が、みるみる白くなっていく。唇が、何か言おうとして、震えた。
彼女は、何も言わなかった。
箱を持った手を、ゆっくりと下ろした。それから、くるりと背を向けて、廊下を足早に歩いていった。走ってはいなかった。けれど、一度も振り返らなかった。
廊下の向こうで、ドラコが鼻で笑ったのが聞こえた。
シェーマスが、気まずそうに目をそらした。ラベンダーとパーバティは、ぽかんと口を開けていた。
サミュエルは、その場に立っていた。
自分が何を言ったのか、正確に分かっていた。
一言一句。声の調子まで。それが、彼女にとってどういう意味だったのかも。
去年の列車の通路で、初めて彼女に「穢れた血」という言葉をぶつけたときと、同じ声だった。
*
気がつくと、走っていた。
廊下を曲がり、階段を駆け下りる。どこへ行ったのか分からない。図書室か。女子トイレか。それとも、塔の上か。
右目は、何も教えてくれなかった。数秒先の未来に、彼女の姿は映らない。
何を言えばいいのかも、分からなかった。
十一月の談話室で、一度、謝った。悪かったね、と。全部、と。
その口で、また、同じことを言った。
謝ればいい。それだけのことだ。ごめん、今のは本心じゃない、と。
――なら、本心は何だ。
その問いに答えられないまま、サミュエルは三階の廊下の角を曲がった。
そして、足を止めた。
廊下の窓辺に、ハーマイオニーがいた。
一人ではなかった。
「おお、ミス・グレンジャー! こんなところで、そんな悲しそうな顔をして、どうしたんです?」
けばけばしいピンクのローブ。波打つ金髪。白い歯。
ロックハートが、小人キューピッドを一人引き連れて、ハーマイオニーの前に立っていた。小人は、ハープの弦が切れたらしく、不機嫌そうに弦を結び直している。
「バレンタインの日に、涙は似合いませんよ。私の三冊目の著書にも書きましたがね――『どんな夜にも、必ず朝は来る』。ワガドゥグの吸血鬼の洞窟で、私自身がそれを学んだのです」
ロックハートは、片目をつぶってみせた。
「さあ、笑って。君のような賢い生徒が泣いていたら、ホグワーツの損失です」
ハーマイオニーは、窓の外を見たまま、何も答えなかった。
それから、ほんの少しだけ。
本当に、ほんのわずかだけ、口の端がゆるんだ。
「……ありがとうございます、先生」
小さな声だった。けれど、さっきまでの真っ白な顔に、ほんの少しだけ色が戻っていた。
ロックハートが、満足そうに頷いて、小人を連れて去っていく。ハーマイオニーはまだ窓辺に立ったまま、手の中の金色の箱を見下ろしていた。
サミュエルは、廊下の角に立ったまま、それを見ていた。
分かっていた。ロックハートの言葉には、何の中身もない。どの本の、どのページから引っぱってきたのかも分からない、空っぽの慰めだ。明日には、本人も覚えていないだろう。
それでも、彼女は、少しだけ笑った。
あの空っぽの言葉で、少しだけ。
自分は、その笑顔を奪ったほうだった。
胸の奥に、これまで感じたことのない痛みが走った。鋭くて、熱くて、どこが痛いのか、自分でも分からない痛みだった。
声をかけようとした。足を一歩、踏み出そうとした。
足は、動かなかった。
何を言えばいいのか、まだ分からなかった。分からないまま声をかけたら、また、口が勝手に動いてしまう気がした。
サミュエルは、廊下の角から一歩下がった。
それから、背を向けて、来た道を戻っていった。
階段の踊り場で、ドラコとすれ違った。
「やるじゃないか、ヴェスゲレート」
ドラコは、愉快そうに口の端を上げていた。
「マグルのチョコ、だってさ。パンジーが笑い転げてたぞ。去年からおかしいと思ってたけど、ようやく目が覚めたってわけか」
サミュエルは、足を止めなかった。
返事もしなかった。ドラコの横を、何も聞こえなかったように通り過ぎた。
「……おい?」
背中で、ドラコの戸惑った声がした。振り返らなかった。
*
夕食のあと、談話室の隅で、ロンがサミュエルの腕をつかんだ。
「おい。あれは、ないだろ」
ロンの耳が、真っ赤になっていた。怒っているときの色だった。
「ハーマイオニー、夕食にも来なかったんだぞ。あいつ、あのチョコ、ずっと前から用意してたんだ。医務室から、わざわざ家に手紙書いて――」
「……分かってる」
ロンが、言葉に詰まった。言い返されると思っていたのだろう。
「分かってるなら、なんで」
「分からない」
サミュエルは、ロンの手をそっと外した。
「分からないんだ、ロン。自分でも」
ロンは、ぽかんと口を開けていた。隣で、ハリーが静かに言った。
「……謝りなよ、サミュエル」
「うん」
サミュエルは、それだけ答えて、男子寮の階段を上っていった。
*
その夜、トランクの工房で、サミュエルは今日もらった贈り物の山の前に座っていた。
四十を超える箱。一つずつ、贈り主の名前と中身を書いた札がついている。いつもなら、ここで礼状を書き始めるところだった。
羽根ペンを取った。
一枚目のカードの前で、手が止まった。
頭の中で、同じ光景が、何度も何度も繰り返されていた。差し出された金色の箱。震えていた声。色の抜けていく頬。それから、窓辺で、ほんの少しだけゆるんだ口元。
あの箱の中身を、自分は一粒も知らない。
サミュエルは、羽根ペンを置いた。
その夜、礼状は、一枚も書けなかった。
次の朝、ハーマイオニーは、グリフィンドールのテーブルの一番端に座っていた。サミュエルの席から、一番遠い場所だった。
目は、一度も合わなかった。