三月の廊下は、まだ冬の冷たさを引きずっていた。
窓の外では、校庭の雪がところどころ溶けて、黒い土がのぞき始めている。それでも、城の石壁は一日じゅう冷たく、廊下を歩く生徒たちはみんな、ローブの襟を立てて足早に通り過ぎていった。
バレンタインから、三週間が経っていた。
あれから、ハーマイオニーとは一度も話していない。朝食の席は、いつも一番遠い端。廊下で姿を見かけても、彼女は角を曲がって別の道へ消えていく。
一度だけ、図書室の入口で待ってみたことがあった。謝るつもりだった。何と言えばいいのか、言葉はまだ決まっていなかったけれど、顔を見れば何か出てくるだろうと思っていた。
閉館の鐘が鳴るまで待っても、彼女は来なかった。あとでロンに聞くと、その日は談話室の隅で勉強していたらしい。
夜明け前の腕立て伏せの回数が、二百回から三百回に増えていた。体を動かしているあいだだけは、何も考えずに済んだ。
「ヴェスゲレート」
地下牢から上がる階段の途中で、呼び止められた。
ドラコだった。また、クラッブもゴイルも連れていない。一人のときのドラコは、いつもより少しだけ背が低く見えた。
「何?」
「……ちょっと、来い」
ドラコは、人けのない廊下の窪みにサミュエルを引っぱりこんだ。鎧の置物の陰で、腕を組む。
「最近、様子がおかしいだろう」
「僕が?」
「とぼけるな」
ドラコは、苛立たしげに眉を寄せた。
「去年の秋から、ずっとだ。土からライオンを出して、スリザリンのチームを囲んだ。決闘クラブで、スネイプ先生と本気でやり合った。バレンタインの日には、僕の顔を見ても返事もしなかった。それに、成績だって。スネイプ先生が言ってたぞ。ヴェスゲレートが、魔法薬で減点されたって」
「たまには、そういうこともあるよ」
「お前に、『たまには』なんてことはない」
ドラコの声が、少しだけ大きくなった。
「父上が言ってた。バーク家とマルフォイ家は、ずっと持ちつ持たれつでやってきたって。だから、お前に何かあったら、うちだって困るんだ。それに――」
ドラコは、そこで言葉を切った。気まずそうに、鎧の置物の籠手を指でいじる。
「……それに、お前がおかしいと、こっちの調子まで狂うんだよ」
サミュエルは、ドラコの顔を見た。
青白い頬が、少しだけ赤くなっていた。照れているのを隠そうとして、余計に顎を上げている。
この男は、本当に心配しているのだ。
家のためでも、父親に言われたからでもない。ほんの少しだけ、そういう理由も混じっているかもしれない。けれど、それだけではなかった。
サミュエルは、いつもの笑顔を作った。
「ありがとう、ドラコ。でも、本当に何でもないんだ。冬のあいだ、ちょっと寝不足が続いてただけさ。春になったら、元に戻る」
「……本当か?」
「本当だよ」
ドラコは、しばらく疑わしそうにこちらを見ていた。それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「なら、いい。――次の魔法薬の試験で、スネイプ先生に減点なんかされるなよ。僕が一番になっても、お前が二番じゃつまらないからな」
「気をつける」
ドラコは、くるりと背を向けて、地下牢への階段を降りていった。
サミュエルは、鎧の置物の陰に一人で立っていた。
本当のことを、言えるはずがなかった。ドラコにも。ハリーにも、ロンにも。誰にも。
何が本当なのか、自分でもまだ分からないのだから。
*
ハーマイオニーは、図書室のいつもの席で、羊皮紙に線を引いていた。
宿題ではなかった。誰にも見せるつもりのない、自分のためだけの覚え書きだった。
一行目には、こう書いてある。
――表向きは、筋金入りの純血主義者。
それは、間違いない。一年生の列車の中で、本人の口から聞いた。血だよ、と。穢れた血、という言葉も。一年生のハロウィンの談話室では、ロンの悪口に「マグルの生まれじゃ、浮いてしまうのも仕方ないさ」と付け足して、みんなを笑わせていた。
今年の九月の廊下では、マルフォイと一緒になって、「マグルにはお似合いかもな」と言った。バレンタインの日には、「マグルのチョコか?」と。
どれも、確かに私に向けられた言葉だった。なかったことにはできない。
九月の廊下のことは、一度、謝られた。罰則の夜の談話室で。悪かったね、あんなこと言って、と。どれのこと、と聞いたら、全部、と言った。
その三ヶ月後に、マグルのチョコか、と言った。
全部、と言ったときの、少しだけ笑った声と、あの冷たい声が、同じ人のものだとは思えなかった。
二行目。
――でも、裏では、混血やマグル生まれの生徒を助けている。
これに気づいたのは、一年生の冬だった。ハッフルパフのハンナ・アボットが、魔法史のレポートで泣きそうになっていたとき、あの人は「たまたま」その年代の資料を持っていて、「たまたま」ハンナの席の隣で読み始めた。シェーマスが、母親がマグルだと上級生にからかわれていたとき、あの人は「たまたま」その上級生に、クィディッチの話を振った。
それから、ジニーに聞いた。スリザリンの混血やマグル生まれの子へのいじめが、去年の二月ごろから、ぴたりと止まったこと。あの人が、マルフォイにそれとなく話したからだということ。
一つ一つは、偶然に見える。でも、偶然が多すぎた。
三行目。
――寮に関係なく、慕われている。
グリフィンドールだけではない。レイブンクローのパドマも、ハッフルパフの女の子たちも。犬猿の仲のはずのスリザリンの生徒でさえ、あの人には一目置いている。マルフォイは、あの人の前でだけ、ほんの少しだけ素直になる。
それに、スネイプ先生。
グリフィンドールの生徒を、誰でも色眼鏡で見るあの先生が、あの人のことだけは、まっすぐに見ている。決闘クラブのあの夜、「目を閉じても同じことができるようになったら」と言ったあの声は、皮肉の形をしていたけれど、皮肉ではなかった。
四行目を書こうとして、ハーマイオニーの羽根ペンが止まった。
――そんな人が、ほとんど唯一、馬鹿にする相手。
それが、私だった。
最初は、本当に嫌われているのだと思っていた。マグル生まれだから。純血の家の跡取りにとって、私は見下す対象でしかないのだと。
一年生のときの「からかい」は、人格を否定するものではなかった。私が言い返すのを、待っていた。言い返したら、また言い返してくる。点を減らされた夜の「どっちが先に成功させるか賭けない?」も、閉館前の図書室での「名前はいらないよ」も。あの「穢れた血は、からかいがいがあるからね」でさえ。
あれは、じゃれているのだ。ほかの誰にも、あの人はあんなふうにしない。
でも、二年生になってからの言葉は、違った。じゃれ合いにしては、深く刺さる。そして、刺さるのは、決まって同じときだった。
五行目。
――棘が出るのは、人前か、私が誰かに笑いかけた直後。
九月の廊下は、ロックハート先生に褒められて、私が喜んだ日だった。バレンタインの日は、マルフォイとパンジーが、すぐそこで見ていた。
ジニーの言葉が、頭をよぎった。ロックハート先生に、嫉妬しているのかもしれない、と。
まさか。そんなはずはない。そう打ち消して、打ち消しきれないまま、次の行を書いた。
六行目。
――マルフォイが私を「穢れた血」と呼んだとき、あの人は、怒った。
聡明な魔法使いであれば、わざわざ穢れた血なんて言葉は使わない。穢れた血が好きなのかと聞かれて、何も答えずに、土からライオンを三頭も出して、囲んだ。
みんなは、「機嫌が悪かっただけ」だと言う。あの人自身も、そう言っている。
でも、私は知っている。あの人は、機嫌が悪いくらいで、杖を抜く人ではない。
ハーマイオニーは、六つの行を、上から順に読み返した。
これを全部つなげれば、答えは一つしかなかった。
私は、あの人にとって、少しだけ特別なのだ。
自意識過剰だろうか。何度も、そう自分に問いかけた。でも、どれだけ考えても、ほかの答えは出てこなかった。
だから、バレンタインの日。
あの金色の箱を渡すとき、いろんなことを期待していた。喜んでくれるだろうか。少しは、驚いてくれるだろうか。もしかしたら、ほんの少しだけ、本当の気持ちが聞けるかもしれない、とさえ。
返ってきたのは、あの一言だった。
――マグルのチョコか?
いつもより、ずっと冷たい声だった。
ハーマイオニーは、羽根ペンを置いた。
あれ以来、あの人のことが分からなくなった。六つの行で導いた答えが、全部間違っていたのかもしれない。特別だなんて、私の思い上がりだったのかもしれない。
あの金色の箱は、結局、自分で一粒ずつ食べた。子供の頃から一番好きだったはずのチョコレートは、なぜか少しだけ、しょっぱかった。
それで、話しかけられなくなった。うまく話せる自信が、なくなった。朝食の席を一番遠くに選んで、廊下で見かけたら、別の道を通るようになった。
あの人も、話しかけてこない。
一度だけ、ロンが言いにくそうに教えてくれた。
「あのさ。バレンタインの夜、僕、サミュエルに文句言ったんだ。あれはないだろって」
「……それで?」
「そしたら、あいつ、『分かってる』って。で、『なんで』って聞いたら、『分からない』って。『自分でも分からないんだ』って」
ロンは、困ったように頭をかいた。
「あんな顔のサミュエル、初めて見たよ。……なんか、迷子みたいな顔してた」
ハーマイオニーは、何も言えなかった。
分からない。あの人自身にも。それなら、私に分かるはずがない。
ハーマイオニーは、羊皮紙を小さく折りたたんで、ローブの内ポケットにしまった。
ポケットの中で、指先が、かさりと別の紙に触れた。
一年以上前から、ずっとそこに入れている、銀色の鶴だった。
*
その夜の談話室は、静かだった。
ハリーは、窓際の机で、黒い表紙の古い日記帳をじっと見つめていた。嘆きのマートルのトイレで拾ってきたものだ。ロンは、その横で居眠りをしていた。
夕方、ハリーが青い顔で言っていた。日記の中に吸いこまれて、五十年前のホグワーツを見た、と。そこで、若い頃のハグリッドが、秘密の部屋を開けた犯人として捕まるところを見た、と。
そんなはずはない。ハグリッドが、そんなことをするはずがない。三人とも、そう思っている。でも、それなら誰が。何が。
考えることが多すぎて、本の文字が頭に入ってこなかった。
ハーマイオニーは、暖炉から少し離れた椅子で、本を読んでいた。読んでいる、ふりをしていた。
暖炉の前の、一番いい椅子に、あの人が座っていた。
周りに、誰もいなかった。いつもなら、一年生か、フレッドとジョージか、誰かしらが必ずそばにいるのに。今夜は、一人だった。
あの人は、ぼんやりと暖炉の火を見つめていた。
膝の上で、手が動いていた。
何かを、折っている。
ハーマイオニーは、本から目を上げた。
あの人の指の間で、小さな紙が、三角に折られ、開かれ、また折られていく。首が細く引き出される。翼が、広げられていく。
暖炉の火を受けて、紙が一瞬だけ、銀色にきらめいた。
ハーマイオニーの心臓が、どくんと鳴った。
一年生のハロウィン。女子トイレの個室で、膝の上に落ちてきた小さな重み。一年生のクリスマス休暇、実家の窓から飛びこんできた、ふっくらとした鶴。秋、夜の図書室を戒める一行を、女子寮の窓辺へ運んできた一羽。医務室の枕元に、いつの間にか置かれていた一羽。
全部、同じ光り方をしていた。
あの形。あの光り方。
ローブの内ポケットの上から、無意識に手を当てていた。指先の下で、かさりと、同じ形のものが鳴った。
――まさか。
立ち上がろうとした。確かめなければ。もっと近くで、あの紙を――
「ハーマイオニー?」
すぐ後ろで、声がした。
振り返ると、ハリーが立っていた。黒い日記帳を、胸に抱えている。
「この日記、ちょっと見てほしいんだ。何も書いてないんだけど、なんだか変で――」
「ハリー、今ちょっと――」
ハリーは、ハーマイオニーの返事を待たずに、暖炉のほうへ目をやった。
「あれ、サミュエル。まだ起きてたんだ。何してるの?」
ハーマイオニーは、慌てて向き直った。
暖炉の前の椅子で、あの人がこちらを見ていた。
膝の上には、何もなかった。
さっきまで指の間にあったはずの紙は、どこにもなかった。ローブのポケットにしまったのか。それとも、光の加減で見えなくなっただけなのか。
「いや、色々と考えてただけだ」
あの人は、いつもの調子で立ち上がった。
「じゃあ、おやすみ」
それだけ言って、男子寮の階段を上っていった。
一度も、こちらを見なかった。
「……ハーマイオニー? どうしたの?」
ハリーが、不思議そうに首をかしげた。
「……何でもないわ」
ハーマイオニーは、ローブの内ポケットを、上からそっと押さえた。
指先の下で、銀色の鶴が、かさりと小さく鳴った。
あと少しだった。
本当に、あと少しで、届くところだった。
皆様、ご感想ありがとうございます!
前話で腹立たれた方、困惑された方、申し訳ございません。私のキャラの魅せ方が下手な事が原因だと認識しております。
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