四月の図書室には、柔らかな光が差しこんでいた。
窓の外では、校庭の木々が一斉に芽吹き始め、湖の水面が春の陽射しにきらきらと光っている。けれど、図書室の中に、その明るさを楽しむ生徒はほとんどいなかった。
継承者の恐怖は、春になっても少しも和らがなかった。
生徒たちは、いつも誰かと一緒に行動するようになった。授業の移動には、先生が付き添う。夕方六時を過ぎたら、寮から一歩も出てはいけない。廊下の曲がり角では、誰もが一度足を止めて、向こう側をうかがってから進んだ。
ハーマイオニーは、図書室の一番奥の席で、本の山に埋もれていた。
机の上には、羊皮紙が何枚も広げてある。その一枚一枚に、細かい字で書きこみがしてあった。
――ミセス・ノリス。床が水浸しだった。
――コリン。カメラを構えていた。カメラの中のフィルムは、溶けていたらしい。
――ジャスティン。ほとんど首無しニックと一緒だった。ニックは、ゴーストなのに石になった。
――ハリーにだけ、壁の中から声が聞こえる。蛇語を話せる、ハリーにだけ。
――ハグリッドの雄鶏が、次々に殺されている。
――蜘蛛が、逃げていく。
ハーマイオニーは、羽根ペンの羽根で、自分の頬を軽く叩いた。
ばらばらの点だった。でも、どこかで、全部が一本の線でつながっている気がした。
石にする怪物。蛇語でしか聞こえない声。蜘蛛が逃げ出す。雄鶏が殺される。
彼女は、立ち上がった。書架の間を歩き、魔法生物の棚の一番下から、埃をかぶった古い本を引き抜いた。『世界の怪物大全・古代篇』。
ページをめくる指が、だんだん速くなっていく。
そして、ある一ページで、止まった。
〈我らが世界を徘徊する多くの怪獣、怪物の中でも、最も珍しく、最も破壊的であるという点で、バジリスク、別名「毒蛇の王」に勝るものはない〉
ハーマイオニーは、息を詰めて読み進めた。
蛇の王。巨大な毒蛇。その牙の毒は、致命的。そして、その目でまっすぐに見つめられた者は、即死する。
蜘蛛はバジリスクを恐れて逃げ出す。そしてバジリスクにとって致命的なのは、雄鶏の鳴き声だけ。
――だから、雄鶏が殺されていた。
でも、誰も死んでいない。みんな、石になっただけだ。
それは、なぜ。
ハーマイオニーは、羊皮紙の書きこみを、もう一度上から読んだ。
床の水。カメラ。ゴースト。
誰も、バジリスクの目を、直接は見ていないのだ。
ミセス・ノリスは、床の水たまりに映った目を見た。コリンは、カメラのレンズ越しに見た。ジャスティンは、ゴーストのニックの体を透かして見た。ニックは、もう死んでいるから、二度は死ねない。
だから、石になった。
それから、ハリーにだけ聞こえる声。壁の中から。
壁の中を、巨大な蛇が動き回れる場所。
「……パイプ」
声が、小さく漏れた。
城じゅうに張り巡らされた、水道管。
ハーマイオニーは、本のそのページを、震える手で丁寧に破り取った。マダム・ピンスに見つかったら、一生図書室に出入り禁止になるだろう。でも、今はそれどころではなかった。
破り取ったページの余白に、一言だけ書きつける。
〈パイプ〉
それを、小さく折りたたんで、握りしめた。
明日の朝、一番にハリーとロンに見せなければ。それから、マクゴナガル先生にも。
でも、その前に、もう一つだけ確かめたいことがあった。この本の続きの巻に、バジリスクの巣の作り方が載っているはずだ。明日の朝、試合の前に図書室へ行こう。
一人で廊下を歩くのは危ない。レイブンクローの監督生のペネロピー・クリアウォーターに、一緒に来てもらえないか頼んでみよう。それから、念のため、手鏡を持っていく。曲がり角では、まず鏡で向こう側を確かめてから進めばいい。
直接、目を見なければいいのだから。
*
その夜、女子寮の部屋で、ハーマイオニーは眠れなかった。
ラベンダーとパーバティは、もう寝息を立てている。窓の外で、春の夜風が、塔の壁を撫でていく音がした。
ハーマイオニーは、ベッドの上で体を起こした。
ローブの内ポケットから、小さなものを取り出す。
銀色の鶴。
一年生のハロウィン。女子トイレの個室で、膝の上に落ちてきた最初の一羽だった。もう一年半も、ずっとここに入れて持ち歩いている。翼の端が、少しだけ擦り切れていた。
枕元の小さな引き出しを開けると、同じ鶴が、あと三羽入っていた。一年生のクリスマス休暇に、実家の窓から飛びこんできた一羽。去年の秋、〈夜に、一人で図書室へは行かないこと〉と書いてあった一羽。それから、この冬、医務室の枕元に置かれていた一羽。
四羽を、ベッドの上に並べた。
窓から差しこむ月明かりが、紙を照らした。角度を変えると、ふっと見えなくなりそうになる。光の当たり方で、銀色にきらめく。
――三月の、談話室。
暖炉の前で、あの人の指の間で折られていた紙。火を受けて、一瞬だけ銀色にきらめいた、あの光。
同じだった。
ハーマイオニーは、最初の一羽を、そっと開いた。
〈君の発音は正しかった。
間違っているのは、笑ったほうだ。〉
少し右上がりの、整った細い字。
ハロウィンの昼、談話室で「マグルの生まれじゃ、浮いてしまうのも仕方ないさ」と言った、同じ日の夜だった。
あのとき、どうしてあの人の一言が、ロンの悪口よりも痛かったのか。どうして、この鶴の言葉が、あんなにもまっすぐ胸に届いたのか。
――同じ人だったから。
二羽目の鶴の中の、休暇中の練習に、という言葉。縮められた本の、余白の細かい書きこみ。あの字も、同じだった。どうして今まで、気づかなかったのだろう。閉館前の図書室で、隣の席で、あの人がノートに書く字を、何度も見ていたのに。
三羽目。〈夜に、一人で図書室へは行かないこと。必ず、誰かと一緒に。〉 あの忠告を受け取ったから、ペネロピーに付き添いを頼むことにしたのだ。
四羽目。〈早く、よくなりますように。〉
マダム・ポンフリーの声が、耳の奥で蘇った。あの子、毎日来たのよ。四日目には、扉の前で追い返しても、また来たの。
ハーマイオニーは、四羽の鶴を、両手で包むように持った。
胸の奥から、温かいものが込み上げてきた。
ずっと、見ていてくれたのだ。
表では、穢れた血だと言って、からかって、笑っていた。その同じ手で、誰にも気づかれないように、ずっと。
九月の廊下で聞いた、「マグルにはお似合いかもな」という言葉のことを、思った。バレンタインの、マグルのチョコか、と言った、あの冷たい声のことも。
どちらも、確かに痛かった。一年生の頃の軽口とは違って、今年の言葉は、いつも少しだけ深いところに刺さった。
それから、十一月の談話室で、全部、と謝ったときの声のことも思った。暖炉の火を見たまま、ポケットの中で、赤くなった手を握っていた。
でも、ジニーに言われたことが、頭を離れなかった。棘が出るのは、人前か、私が誰かに笑いかけた直後。ロックハート先生に褒められて喜んでいた、あの日の。
――それ、嫉妬じゃない?
まさか、と笑い飛ばしたあの言葉が、四羽の鶴を前にすると、笑い飛ばせなくなっていた。
分からない。でも、もう一度、聞いてみたいと思った。今度は、逃げずに。
ロンが言っていた。あの人は、自分でも分からないんだ、と言っていたと。迷子みたいな顔をしていた、と。
あの冷たい声の下にも、もしかしたら、この四羽の鶴を折ったのと同じ手があったのかもしれない。
ハーマイオニーは、鶴を胸に抱いたまま、小さく呟いた。
「……この事件が片付いたら」
ちゃんと、お礼を言おう。四羽分、全部。
それから、もしかしたら。
本当の気持ちも、聞いてみよう。
窓の外で、春の星が瞬いていた。ハーマイオニーは、最初の一羽だけをローブの内ポケットに戻し、残りの三羽を引き出しにしまって、ようやく目を閉じた。
口元が、自分でも気づかないうちに、少しだけほころんでいた。
*
次の日は、クィディッチの試合の日だった。
グリフィンドール対ハッフルパフ。朝食の大広間は、試合前の興奮でざわついていた。
サミュエルは、テーブルの一番端に目をやった。
ハーマイオニーの姿が、なかった。
「グレンジャーは?」
「図書室に行くって、さっき出ていったよ。何か、確かめたいことがあるって」
ロンが、ソーセージを頬張りながら答えた。ハリーは試合前の緊張で、トーストに手もつけていない。
「一人で?」
「レイブンクローの監督生と一緒に行くって言ってたけど……」
サミュエルは、ナイフとフォークを置いた。
あれから、まだ一度も謝れていない。でも、今朝のハーマイオニーは、朝食の席に来る前、談話室で一度だけこちらを見た。何か言いたそうな顔をして、それから、少しだけ笑ったような気がした。
気のせいかもしれない。それでも。
「ちょっと、行ってくる」
「え? 試合は――」
「すぐ戻るよ」
サミュエルは、大広間を出た。
玄関ホールの大階段を上る。二階、三階。図書室へ向かう廊下は、試合の朝のせいで人けがなかった。
廊下の角を、曲がった。
足が、止まった。
図書室の扉の少し手前の床に、二人の女子生徒が倒れていた。
一人は、長い巻き毛のレイブンクローの上級生。
もう一人は、栗色の、ふさふさした髪だった。
二人とも、目を見開いたまま、ぴくりとも動かなかった。手も、足も、指の一本まで、石のように固まっていた。
ハーマイオニーの片手には、小さな丸い手鏡が握られていた。
もう片方の手は、何かを握りしめたまま、拳の形で固まっていた。
サミュエルは、その場に立ち尽くした。
声が、出なかった。
息が、できなかった。
膝から、力が抜けた。冷たい石の床に、膝をついた。手を伸ばす。彼女の頬に、指先が触れた。
冷たかった。
石の冷たさだった。
見開いた目は、天井の一点を見つめたまま、瞬きもしない。その瞳の奥に、何かが映っていた。何が映っていたのか、もう二度と、彼女の口から聞くことはできないのかもしれなかった。
――事件が片付いたら、謝ろうと思っていた。
――いつか、ちゃんと。
いつか。そんなものが、いつまでもあると思っていた。
胸の奥で、何かが砕ける音がした。
悲しいのか。怒っているのか。自分でも分からなかった。ただ、腹の底から、熱くて黒いものが噴き上がってくる。それが喉を焼き、目の奥を焼いた。
廊下の窓ガラスに、ぴしり、とひびが走った。
一枚。二枚。三枚。誰も杖を振っていないのに、窓という窓に、蜘蛛の巣のような亀裂が広がっていく。廊下に、甘い桃と梅の香りが、焦げたような匂いと混じって立ちこめた。
「――ミスター・ヴェスゲレート!」
フリットウィック先生の甲高い声が、遠くで響いた。
駆けてくる足音。誰かが、肩に手をかけた。
サミュエルは、振り向かなかった。
ハーマイオニーの石になった手を、両手で包んでいた。握りしめた拳は、どれだけ温めても、ほどけなかった。
頬を、何かが伝っていった。
それが涙だと気づいたのは、石の床に、ぽつりと一粒落ちたときだった。
誰の目もはばからなかった。
見られていることも、何もかも、どうでもよかった。
割れた窓から、春の風が吹きこんでくる。遠くのクィディッチ競技場から、試合の中止を告げるマクゴナガル先生の声が、魔法で拡声されて響いていた。
サミュエルは、石になった彼女の手を、いつまでも離さなかった。
*
医務室のベッドに運ばれた二人の周りに、白いカーテンが引かれた。
サミュエルは、カーテンの外の椅子に座っていた。誰も、出ていけとは言わなかった。マダム・ポンフリーでさえ、一度こちらを見て、何も言わずに薬棚のほうへ戻っていった。
しばらくして、マクゴナガル先生に連れられて、ハリーとロンが駆けこんできた。
「ハーマイオニー!」
ロンがカーテンの中に飛びこみ、ハリーが続いた。
サミュエルは、椅子から立ち上がった。
ハリーが、カーテンの隙間からこちらを振り向いた。何か言おうとして、言葉を失ったように口を閉じた。
サミュエルの目は、真っ赤だった。
彼は、何も言わなかった。ハリーとロンの横を通り過ぎ、医務室の扉を開けて、廊下へ出ていった。
ローブの袖が、割れた窓ガラスの破片で、何か所も裂けていた。
20話にいただいた一部感想について、正直ちょっとヘコんでます笑
もちろん、どれも貴重なご意見ですので、すべて読ませていただいています。
作者としては、あの一言が出ても不自然ではないよう、これまで少しずつ土台を積み重ねてきたつもりでした。
・ハーマイオニーに対してだけ、感情が揺れてしまうこと
・幼い頃から、純血思想を家庭で教え込まれてきたこと
・誰にでも良い顔をしてしまう、八方美人な気質
・大人びて見えても、まだ十二歳の子供であること
・その後のロンとの会話で、わざと言ったわけではないと分かる描写
大勢の目がある中で、そうしたものが一度に重なり、咄嗟に口をついて出てしまった。
本人にも止められなかったし、なぜあんなことを言ってしまったのか、自分でも理解できていない。
20話は、そういう場面として書いたつもりです。
ただ、作者の中で筋が通っていることと、読者の皆様に納得していただけることは、必ずしも同じではないとも思っています。
そのため、もし「こういう描写があれば、もっと納得できた」という点がありましたら、ぜひ教えていただけると嬉しいです。
今後の執筆の参考にさせていただきます。
ちなみに、私自身はこの作品をとても気に入っていますし、楽しみにしてくださっている方もいらっしゃるので、完結まで投稿を続けるつもりです。
ただ、3年次以降のエピソードについては、展開や人物描写に不自然な部分がないか、改めてじっくり確認したいと考えています。
そのため、24話を一区切りとして毎日投稿を一旦終了し、その後は週1〜2話程度の更新に変更する予定です。
※タグは24話投稿後変更いたします。
更新頻度は落ちてしまいますが、その分、一話一話をもっと丁寧に仕上げていければと思っています。(このままでいいという人もいるかもしれないので、一応アンケートとります)
今後ともお付き合いいただけると嬉しいです。
投稿頻度
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