医務室の窓の外は、まだ真っ暗だった。
夜明けまで、あと数時間。秘密の部屋から戻って、まだ一晩も経っていない。マダム・ポンフリーが、大きな銀の盆に、湯気の立つ小さなゴブレットをいくつも並べていた。
マンドレイクの回復薬だった。土のような、けれどどこか甘い、不思議な匂いがする。
「……今夜は、追い出しませんよ」
扉の脇の椅子に座ったサミュエルを見て、マダム・ポンフリーは小さく息をついた。
「ただし、そこから一歩も動かないこと。いいですね」
「はい」
マダム・ポンフリーは、カーテンを一枚ずつ開けていった。
ミセス・ノリス。コリン。ジャスティン。ペネロピー。
それから、一番奥のベッド。
栗色の髪が、白い枕の上に広がっていた。見開いた目は、二か月前と同じ天井の一点を見つめたまま、動かない。片手は、まだ何かを握りしめた拳の形をしていた。
マダム・ポンフリーが、ゴブレットを一つずつ、石になった唇に傾けていく。
サミュエルは、椅子の肘掛けを握りしめた。
最初に動いたのは、コリンだった。カメラを構えていた腕が、ゆっくりと下りる。それから、瞬きを一つ。「……あれ?」と、間の抜けた声が漏れた。
ジャスティンが、跳ね起きた。ペネロピーが、小さく悲鳴を上げた。
一番奥のベッドで、栗色の髪が、わずかに揺れた。
握りしめていた拳が、ゆっくりとほどけていく。その中に入っていた紙切れは、もうない。ハリーとロンが見舞いに来たとき、石の指の隙間から、苦労して抜き取っていったのだ。
見開いていた目が、瞬いた。
一度。二度。
「……ここ、どこ……?」
かすれた声だった。
二か月ぶりに聞く、声だった。
サミュエルは、椅子から立ち上がりかけて、そのまま動けなくなった。
喉の奥が、熱くなった。何か言おうとして、言葉が一つも出てこなかった。
そのとき、医務室の扉が勢いよく開いた。
「ハーマイオニー!」
ハリーとロンが、転がりこんできた。ダンブルドアの部屋から、そのまま駆けてきたのだろう。二人とも、まだ泥と埃にまみれていた。
ハーマイオニーが、ベッドの上で体を起こした。二人の顔を見た瞬間、その目にみるみる涙が溜まった。
「ハリー……ロン……!」
ハーマイオニーは、ベッドから飛び降りて、二人に抱きついた。ロンが真っ赤になり、ハリーが笑いながら彼女の背中を叩いた。
「バジリスクだったのよ! 私、分かったの、パイプを通って――」
「知ってる。君のおかげだ。君の手の中の紙で、全部分かったんだ」
「本当に? 本当に……!」
三人の笑い声と、泣き声が、医務室じゅうに響いていた。
サミュエルは、いつの間にか立ち上がっていた。扉の脇から、それを見ていた。
駆け寄ることは、しなかった。声をかけることも。
ただ、彼女が笑っている。動いている。生きている。それだけを、目に焼きつけた。
それで、十分だった。
サミュエルは、誰にも気づかれないように、そっと扉を開けて、廊下へ出た。
*
その夜の宴会は、夜明けまで続いた。
パジャマ姿の生徒たちが大広間に詰めかけ、テーブルの上には、厨房が総出で作ったご馳走が次々と並んだ。
途中で、ハグリッドが戻ってきた。午前三時だった。大広間の扉を開けた瞬間、ハリーとロンに飛びついて、二人を骨が折れそうなほど抱きしめた。
「お前さんたちのおかげだ! おかげで俺は、またここに……!」
ハグリッドは、サミュエルのことも同じように抱きしめた。肋骨が、みしりと鳴った。
マクゴナガル先生が立ち上がって、学校からのお祝いとして、期末試験を中止すると発表した。大広間じゅうが歓声に包まれる中、ハーマイオニーだけが「えーっ!」と悲鳴を上げた。
それから、ダンブルドアが、ハリーとロンに、それぞれ二百点を与えた。
「――そして、ミスター・サミュエル・ヴェスゲレートにも、二百点」
ダンブルドアの青い目が、サミュエルを見た。
「秘密の部屋で、友の背中を守り抜いたことに対して」
グリフィンドールのテーブルが、天井を揺るがすほど沸いた。二年連続の、寮杯だった。
サミュエルは、いつもの笑顔で、周りの手を一つずつ握り返した。
「二百点だよ、二百点! 最高だ!」
ロンが、ローストチキンの脚を振り回しながら叫んだ。
「僕たち三人で六百点だ。スリザリンが一年かけて稼いだ点を、一晩で抜いたんだぞ!」
スリザリンのテーブルで、ドラコが不機嫌そうに皿をつついていた。一度だけ、こちらを見た。サミュエルが軽くゴブレットを掲げると、ドラコは顔をしかめ、それでも、ほんの少しだけ、自分のゴブレットを持ち上げてみせた。
その夜のうちに、ハリーは、マルフォイ家の屋敷しもべ妖精を、ルシウス・マルフォイの手から解放してやったらしい。古い靴下を、片方だけ使って。ロックハートは、自分の呪文で記憶をすべてなくし、二度とホグワーツには戻らないことになった。
いろいろなことが、一晩のうちに片づいていった。
東の窓が、白みはじめていた。
ただ一つだけ、片づいていないものがあった。
ハーマイオニーは、グリフィンドールのテーブルで、ハリーとロンのあいだに座っていた。マダム・ポンフリーの許しをもらって、パジャマの上にローブを羽織っている。二か月ぶりに、ロンの皿からプディングを取り上げて、ロンに抗議されていた。
笑っていた。
サミュエルは、その横顔を、ゴブレットの縁越しに見ていた。
あの日、二月十四日の廊下には、十人以上の生徒がいた。シェーマスとディーン。ラベンダーとパーバティ。ドラコとパンジー。
皆、今も覚えているはずだった。バーク家の跡取りが、マグル生まれの女の子の差し出した箱を、鼻で笑ったことを。
図書室で、二人きりで謝ることもできる。それで、彼女の気持ちは少し軽くなるかもしれない。けれど、廊下にいた皆の記憶は、変わらない。彼女は、これからもずっと、「マグルのチョコを笑われた子」のままだ。
謝るなら、皆の前でなければ意味がなかった。
その代わりに、失うものもある。明日には、全部の寮に広まるだろう。バーク家の跡取りが、大広間で、穢れた血に頭を下げた、と。父の耳にも、ルシウス・マルフォイの耳にも、届く。
それでも、言うことは、ずっと前から決めてあった。どこで区切り、どの言葉を選び、どの角度で頭を下げるか。いつものように、何度も頭の中でなぞってきた。
サミュエルは、ゴブレットを置いた。
*
ロンから取り上げたプディングを、ハーマイオニーがひと匙すくったときだった。
テーブルの向かいで、椅子を引く音がした。
顔を上げると、サミュエルが立っていた。
いつもなら、彼は立ち上がる前に、まず笑う。それから、さりげなく周りを見る。誰がこちらを見ていて、誰が見ていないか。二年近く、すぐそばで、何度も見てきた癖だった。
今日は、どちらもしなかった。
サミュエルは、テーブルの端を回って、こちらへ歩いてきた。ハリーが、ゴブレットを口に運びかけたまま止まった。ロンが、スプーンをくわえたまま振り向いた。
ハーマイオニーの横で、サミュエルは足を止めた。
「……グレンジャー」
大きな声ではなかった。
それでも、近くの何人かが、話すのをやめた。やめた人の隣の人が、何事かと振り向いた。そうやって、静けさが、テーブルの端から端へ、少しずつ広がっていった。ハッフルパフのテーブルでも、誰かが首を伸ばしていた。
サミュエルは、口を開いて、閉じた。
もう一度、開いた。
「二月十四日に」
そこで、止まった。
ハーマイオニーは、彼が言葉に詰まるのを、初めて見た。授業で当てられても、先生に睨まれても、ドラコに絡まれても、この人は、いつも、次に言うことを知っていた。
「……君が、チョコレートをくれようとしたのに。僕は、『マグルのチョコか』って、言った」
声が、少しかすれていた。
遠くで、誰かが息をのんだ。
「ずっと、謝ろうと思ってた。……違う」
サミュエルは、小さく首を振った。
「謝らなきゃいけなかったのに、謝らなかった。君が、石になる前に」
その目は、まっすぐ、こちらだけを見ていた。スリザリンのテーブルも、教職員のテーブルも、見なかった。
「ごめん。……本当に、ごめん」
彼は、頭を下げた。
バーク家の跡取りとして、大人たちに見せる、あのきれいなお辞儀ではなかった。背中の丸まった、ぎこちない礼だった。そして、なかなか、顔を上げなかった。
大広間が、静まり返っていた。
ハーマイオニーは、自分の顔が熱くなっていくのを感じた。耳まで。首まで。
学校じゅうが、見ている。ラベンダーも、パーバティも。スリザリンのテーブルの、ドラコも。明日の朝には、全部の寮が知っている。マルフォイの家にも、きっと届く。
この人が、それを分かっていないはずがなかった。
誰に、どう見えるか。いつだって、それを一番に考えている人だった。
その人が、いま、誰の顔色も見ていなかった。
「……もう、いいから」
やっと、それだけ言えた。声が、震えた。
「分かったから。顔、上げて」
サミュエルが、ゆっくり顔を上げた。
笑っていなかった。誰にでも向ける、いつもの笑顔を、作ろうとさえしていなかった。
彼は、小さく頷いた。それだけだった。何か付け足すことも、周りに向かって取り繕うこともなく、自分の席へ戻っていった。
腰を下ろすとき、肘がゴブレットに当たって、かぼちゃジュースが少しこぼれた。彼は、それを拭こうともしなかった。
ひと呼吸おいて、ざわめきが戻ってきた。さっきまでの笑い声ではなかった。潜めた声。視線。ラベンダーの「え、うそ」。シェーマスの「あいつ、本気か」。
スリザリンのテーブルで、ドラコが、信じられないものを見るような目で、こちらを見ていた。パンジーが何か耳打ちしても、ドラコは答えなかった。
「……あいつ、今、何て」
「ロン」
ハリーが、小声で止めた。それから、そっと、ハーマイオニーの背中に手を置いた。
ハーマイオニーは、スプーンを握ったまま、テーブルの木目を見ていた。
皆に向けた言葉は、一つもなかった。
最初から最後まで、あの人は、自分にだけ話していた。
*
学年末の、最後の日の午後だった。
饗宴の準備で、城じゅうが慌ただしかった。屋敷しもべ妖精たちが大広間を飾りつけ、生徒たちはトランクに荷物を詰めこみ、廊下には笑い声が溢れていた。
図書室だけが、静かだった。
試験が中止になった今、図書室に来る生徒はほとんどいない。マダム・ピンスさえ、カウンターの奥で居眠りをしていた。
窓から差しこむ夕暮れの光が、書架の間を橙色に染めている。
その一番奥の、窓際の席に、サミュエルは一人で座っていた。
去年の五月、閉館前に、二人で並んで座った席だった。
本を開いてはいた。けれど、さっきから一行も進んでいなかった。
足音がした。
書架の陰から、ハーマイオニーが現れた。本を一冊、胸に抱えていた。
目が合った。今度は、どちらも逸らさなかった。
「……座っても、いい?」
「どうぞ」
ハーマイオニーは、彼の隣の椅子を引いた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。夕暮れの光の中で、埃がゆっくりと舞っていた。
先に口を開いたのは、ハーマイオニーだった。
「今朝の、大広間のことだけど」
「……うん」
「正直、私も、場所を考えるべきだったと思うの。あんなに人の多い廊下で、渡そうとしたんだもの」
彼女は、抱えた本の表紙に目を落とした。
「今朝、皆の前で謝られて、よく分かったわ。人前で何かされるのって、すごく恥ずかしいのね」
耳の先が、まだ少し赤かった。
「……恥ずかしかったよね。ごめん」
「謝りすぎよ」
ハーマイオニーは、ぴしゃりと言った。
「今朝ので、もう十分。……その代わり、一つだけ、聞いてくれる?」
「うん」
「あのとき、本当に落ちこんだのよ」
飾らない声だった。
「医務室のベッドから、わざわざ両親に手紙を書いて、送ってもらって。何て言って渡そうか、何回も考えて。それなのに、あんなふうに言われて。あの箱、結局、自分で全部食べたの。……なんだか、しょっぱかった」
「……うん」
サミュエルは、膝の上で手を組んだ。
謝りすぎだと、言われたばかりだった。それでも、その一言に返せる言葉は、どこにもなかった。
「お返しは、期待しといて」
いつもの軽い調子を装った。けれど、それが約束だということは、言った本人が一番よく分かっていた。
ハーマイオニーは、小さく首を振った。
「気にしないで」
彼女は、ローブの内ポケットに手を入れた。
「あなたからは、もう沢山貰ってるから」
そう言って、机の上に、そっと何かを置いた。
銀色の、小さな鶴だった。
翼の端が、少し擦り切れていた。夕暮れの光を受けて、ほんの一瞬だけ、きらりと光った。
サミュエルは、息を止めた。
一年生の、ハロウィンの夜。トランクの工房で、二枚目の紙に書いた二行。窓から放った、最初の一羽。
何も言えなかった。言わなくても、彼女はもう知っていた。
ハーマイオニーは、鶴を指先でそっと撫でた。
「ありがとう。……全部、ちゃんと届いてたわ」
全部。その一言で、一羽ではないのだと分かった。
十一月の談話室で、自分が言ったのと、同じ言葉だった。
ハーマイオニーは、鶴から指を離した。
「だから、分からないの」
声の調子が、変わった。
「こんなに鶴をくれる人が、どうして、あんなことを言ったのか」
まっすぐな目だった。
「あなた、謝ってはくれるのよ。十一月も、今朝も。でも、どうしてああ言ったのかは、一度も言ってくれない」
「……」
「理由が分からないままじゃ、私、納得できないの。知ってるでしょう」
「知ってる」
「『寝不足だった』は、なしよ。それ、十一月にも聞いたから」
逃げ道を、一つずつ塞がれていく感覚だった。
サミュエルは、しばらく窓の外を見ていた。それから、開いたままだった本を、閉じた。
「……僕の母は、植物状態なんだ」
ハーマイオニーが、息をのんだ。
「七歳のときから。今も、聖マンゴで眠ってる」
声は、自分でも驚くほど平らだった。
「……治らないの?」
「治せるかもしれない魔道具が、バークの本家にある。でも、本家に口を利けるのは、父だけなんだ」
「お父さまに、頼めば……」
「父は、商売人だからね。ただでは動かない」
ハーマイオニーの眉が、かすかに寄った。
「……条件が、あるのね」
「僕が結果を出して、長老会に認められたら。正式にバークを名乗れるようになったら、本家に口を利いてやる、って」
ハーマイオニーは、何も言わなかった。
「だから、僕は、しがらみだらけなんだ。何を言っても、何をしても、誰かが見てる。ドラコの前で言ったことは、その日のうちにマルフォイ家に届く。マルフォイ家に届けば、父に届く」
二月の廊下で、ドラコが足を止めて、こちらを見ていた。
「だから、あのとき……」
そこで、言葉が切れた。その先は、言い訳にしか聞こえない気がした。
サミュエルは、一度、息を吸った。
「……ここだけの話だけど」
声を、落とした。
「俺は、純血とか、混血とか、マグル生まれとか。そういうの、どうでもいいんだ」
ハーマイオニーの目が、わずかに見開かれた。
「でも、僕は、母を目覚めさせなければいけない」
ハーマイオニーの眉が、ほんの少しだけ動いた。唇が、何か言いかけて、閉じた。
何を言いかけたのかは、分からなかった。
しばらくして、彼女は、別のことを口にした。
「……そんな事情があるのに、どうして」
言葉を探すように、少し間があった。
「どうして、今朝、皆の前で謝ったの? お父さまに、伝わるんでしょう」
サミュエルは、すぐには答えなかった。
「……君が、ずっと『マグルのチョコを笑われた子』のままなのは、嫌だった」
嘘ではなかった。けれど、半分だった。
ロックハートに褒められて、頬を染めていた横顔。それを見たとき、腹の底がざらついたこと。それは、言わなかった。自分でも、まだ名前のつけられないものだったから。
長い沈黙のあと、ハーマイオニーが、小さく言った。
「……お母さまのこと、知らなかった」
「誰にも、言ってない」
「ハリーにも、ロンにも?」
「うん」
ハーマイオニーは、机の上の鶴に目を落とした。それから、もう一度、こちらを見た。
「……今日、分かった気がするの」
「何が?」
「ずっと、不思議だったのよ。あなた、いつも笑ってて、小さなことは気にしないって顔してるでしょう。なのに、シェーマスのことも、ハンナのことも、ネビルのことも、誰より先に気づいてる」
彼女は、窓の外の夕焼けに目をやった。
「あなた、本当は、すごく繊細で、優しくて、思慮深い人なのよ。お母さまのことも、お父さまのことも、全部一人で抱えて。だから、周りに心配をかけないように、平気なふりをしてる。……違う?」
サミュエルは、何も言わなかった。
ただ、黙って、その言葉を聞いていた。
よく見ている、と思った。
本当に、よく見ている。彼女が並べてみせたのは、紛れもなく自分自身のことだった。シェーマスのことも、ハンナのことも、ネビルのことも。誰にも気づかれていないと思っていたことを、全部。
それなのに、素直に頷くことができなかった。
繊細で、優しくて、思慮深い。だから、平気なふりをしている。
――違う。
そう言いかけて、口を閉じた。
優しいから、笑っていたのではない。笑っていなければ、立っていられなかった。周りの誰かを、少しだけ下に見ていなければ、足もとが崩れそうだった。
それを、どう説明すればいいのか分からなかった。説明したら、目の前のこの人が、どんな顔をするのかも分からなかった。
沈黙が、長く続いた。
やがて、ハーマイオニーが、こちらを向いた。
「ねえ」
少しだけ、声が震えていた。
「私は、あなたにとって、なに?」
夕暮れの光が、彼女の頬を橙色に染めていた。
サミュエルは、また少しだけ、間を置いた。
言いたいことは、いくらでもあった気がした。けれど、どれも言葉にした瞬間に、別の何かに変わってしまいそうだった。
「君は……そのまま生きろ」
それだけを、言った。
答えなのか、答えから逃げたのか、自分でも分からない言葉だった。
言い終えた瞬間、気づいた。
膝の上で、扇を握る手が、かすかに震えていた。いつの間にか、腰の箱から抜いていたらしい。
止めようとした。止まらなかった。
スネイプの呪文を受け止めたときも、バジリスクの前に立ったときも、震えなかった手が。
サミュエルは、扇を箱に押しこむようにしまった。
立ち上がる。
「……戻る」
それだけ言い残して、彼女の返事を待たずに、背を向けた。
書架の間を、足早に歩いていく。一度も、振り返らなかった。振り返ったら、今度こそ、何か取り返しのつかないことを言ってしまいそうだった。
*
残されたハーマイオニーは、窓際の席に座ったまま、遠ざかっていく背中を見送っていた。
純血とか、混血とか、マグル生まれとか。そういうの、どうでもいい、と、あの人は言った。
一年生の列車の通路で、穢れた血、と言った人が。
今日の言葉のほうを、信じたいと思った。
それから、あの手。
膝の上で、扇を握っていた指が、震えていた。あの人は、隠そうとしていた。でも、見えてしまった。
もう一つ、引っかかっていることがあった。
母を目覚めさせなければいけない、と、あの人は言った。
目覚めてほしい、ではなかった。会いたい、でもなかった。まるで、宿題の締め切りを口にするような言い方だった。
あのとき、聞き返しそうになった。けれど、七歳のときから眠り続けている母親の話を、そんなふうに問いただすことは、できなかった。
君は、そのまま生きろ。
どういう意味なのだろう。
答えなのか。それとも、答えないための言葉なのか。
ハーマイオニーは、机の上の銀色の鶴を、両手でそっと包んだ。
分からなかった。まだ、何も分からなかった。
でも、一つだけ確かなことがあった。
あの震えていた手を、自分はたぶん、ずっと忘れない。
窓の外で、夕日がゆっくりと湖の向こうへ沈んでいく。大広間のほうから、饗宴の始まりを告げる鐘の音が、遠く聞こえてきた。
ハーマイオニーは、鶴をローブの内ポケットに戻して、立ち上がった。
まだ、何も終わっていなかった。
ご感想ありがとうございます。
アンケートの結果を考慮し、毎日投稿継続いたします。
週1〜2投稿希望の皆様、ご希望に添えず大変申し訳ございません。
可能な範囲で展開や行動に違和感がないか確認はする予定です。
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