ハーマイオニー・グレンジャーと緋色の予見者   作:スウィフト

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二十四話∶そのまま生きろ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 医務室の窓の外は、まだ真っ暗だった。

 

 夜明けまで、あと数時間。秘密の部屋から戻って、まだ一晩も経っていない。マダム・ポンフリーが、大きな銀の盆に、湯気の立つ小さなゴブレットをいくつも並べていた。

 

 マンドレイクの回復薬だった。土のような、けれどどこか甘い、不思議な匂いがする。

 

「……今夜は、追い出しませんよ」

 

 扉の脇の椅子に座ったサミュエルを見て、マダム・ポンフリーは小さく息をついた。

 

「ただし、そこから一歩も動かないこと。いいですね」

 

「はい」

 

 マダム・ポンフリーは、カーテンを一枚ずつ開けていった。

 

 ミセス・ノリス。コリン。ジャスティン。ペネロピー。

 

 それから、一番奥のベッド。

 

 栗色の髪が、白い枕の上に広がっていた。見開いた目は、二か月前と同じ天井の一点を見つめたまま、動かない。片手は、まだ何かを握りしめた拳の形をしていた。

 

 マダム・ポンフリーが、ゴブレットを一つずつ、石になった唇に傾けていく。

 

 サミュエルは、椅子の肘掛けを握りしめた。

 

 最初に動いたのは、コリンだった。カメラを構えていた腕が、ゆっくりと下りる。それから、瞬きを一つ。「……あれ?」と、間の抜けた声が漏れた。

 

 ジャスティンが、跳ね起きた。ペネロピーが、小さく悲鳴を上げた。

 

 一番奥のベッドで、栗色の髪が、わずかに揺れた。

 

 握りしめていた拳が、ゆっくりとほどけていく。その中に入っていた紙切れは、もうない。ハリーとロンが見舞いに来たとき、石の指の隙間から、苦労して抜き取っていったのだ。

 

 見開いていた目が、瞬いた。

 

 一度。二度。

 

「……ここ、どこ……?」

 

 かすれた声だった。

 

 二か月ぶりに聞く、声だった。

 

 サミュエルは、椅子から立ち上がりかけて、そのまま動けなくなった。

 

 喉の奥が、熱くなった。何か言おうとして、言葉が一つも出てこなかった。

 

 そのとき、医務室の扉が勢いよく開いた。

 

「ハーマイオニー!」

 

 ハリーとロンが、転がりこんできた。ダンブルドアの部屋から、そのまま駆けてきたのだろう。二人とも、まだ泥と埃にまみれていた。

 

 ハーマイオニーが、ベッドの上で体を起こした。二人の顔を見た瞬間、その目にみるみる涙が溜まった。

 

「ハリー……ロン……!」

 

 ハーマイオニーは、ベッドから飛び降りて、二人に抱きついた。ロンが真っ赤になり、ハリーが笑いながら彼女の背中を叩いた。

 

「バジリスクだったのよ! 私、分かったの、パイプを通って――」

 

「知ってる。君のおかげだ。君の手の中の紙で、全部分かったんだ」

 

「本当に? 本当に……!」

 

 三人の笑い声と、泣き声が、医務室じゅうに響いていた。

 

 サミュエルは、いつの間にか立ち上がっていた。扉の脇から、それを見ていた。

 

 駆け寄ることは、しなかった。声をかけることも。

 

 ただ、彼女が笑っている。動いている。生きている。それだけを、目に焼きつけた。

 

 それで、十分だった。

 

 サミュエルは、誰にも気づかれないように、そっと扉を開けて、廊下へ出た。

 

*

 

 その夜の宴会は、夜明けまで続いた。

 

 パジャマ姿の生徒たちが大広間に詰めかけ、テーブルの上には、厨房が総出で作ったご馳走が次々と並んだ。

 

 途中で、ハグリッドが戻ってきた。午前三時だった。大広間の扉を開けた瞬間、ハリーとロンに飛びついて、二人を骨が折れそうなほど抱きしめた。

 

「お前さんたちのおかげだ! おかげで俺は、またここに……!」

 

 ハグリッドは、サミュエルのことも同じように抱きしめた。肋骨が、みしりと鳴った。

 

 マクゴナガル先生が立ち上がって、学校からのお祝いとして、期末試験を中止すると発表した。大広間じゅうが歓声に包まれる中、ハーマイオニーだけが「えーっ!」と悲鳴を上げた。

 

 それから、ダンブルドアが、ハリーとロンに、それぞれ二百点を与えた。

 

「――そして、ミスター・サミュエル・ヴェスゲレートにも、二百点」

 

 ダンブルドアの青い目が、サミュエルを見た。

 

「秘密の部屋で、友の背中を守り抜いたことに対して」

 

 グリフィンドールのテーブルが、天井を揺るがすほど沸いた。二年連続の、寮杯だった。

 

 サミュエルは、いつもの笑顔で、周りの手を一つずつ握り返した。

 

「二百点だよ、二百点! 最高だ!」

 

 ロンが、ローストチキンの脚を振り回しながら叫んだ。

 

「僕たち三人で六百点だ。スリザリンが一年かけて稼いだ点を、一晩で抜いたんだぞ!」

 

 スリザリンのテーブルで、ドラコが不機嫌そうに皿をつついていた。一度だけ、こちらを見た。サミュエルが軽くゴブレットを掲げると、ドラコは顔をしかめ、それでも、ほんの少しだけ、自分のゴブレットを持ち上げてみせた。

 

 その夜のうちに、ハリーは、マルフォイ家の屋敷しもべ妖精を、ルシウス・マルフォイの手から解放してやったらしい。古い靴下を、片方だけ使って。ロックハートは、自分の呪文で記憶をすべてなくし、二度とホグワーツには戻らないことになった。

 

 いろいろなことが、一晩のうちに片づいていった。

 

 東の窓が、白みはじめていた。

 

 ただ一つだけ、片づいていないものがあった。

 

 ハーマイオニーは、グリフィンドールのテーブルで、ハリーとロンのあいだに座っていた。マダム・ポンフリーの許しをもらって、パジャマの上にローブを羽織っている。二か月ぶりに、ロンの皿からプディングを取り上げて、ロンに抗議されていた。

 

 笑っていた。

 

 サミュエルは、その横顔を、ゴブレットの縁越しに見ていた。

 

 あの日、二月十四日の廊下には、十人以上の生徒がいた。シェーマスとディーン。ラベンダーとパーバティ。ドラコとパンジー。

 

 皆、今も覚えているはずだった。バーク家の跡取りが、マグル生まれの女の子の差し出した箱を、鼻で笑ったことを。

 

 図書室で、二人きりで謝ることもできる。それで、彼女の気持ちは少し軽くなるかもしれない。けれど、廊下にいた皆の記憶は、変わらない。彼女は、これからもずっと、「マグルのチョコを笑われた子」のままだ。

 

 謝るなら、皆の前でなければ意味がなかった。

 

 その代わりに、失うものもある。明日には、全部の寮に広まるだろう。バーク家の跡取りが、大広間で、穢れた血に頭を下げた、と。父の耳にも、ルシウス・マルフォイの耳にも、届く。

 

 それでも、言うことは、ずっと前から決めてあった。どこで区切り、どの言葉を選び、どの角度で頭を下げるか。いつものように、何度も頭の中でなぞってきた。

 

 サミュエルは、ゴブレットを置いた。

 

*

 

 ロンから取り上げたプディングを、ハーマイオニーがひと匙すくったときだった。

 

 テーブルの向かいで、椅子を引く音がした。

 

 顔を上げると、サミュエルが立っていた。

 

 いつもなら、彼は立ち上がる前に、まず笑う。それから、さりげなく周りを見る。誰がこちらを見ていて、誰が見ていないか。二年近く、すぐそばで、何度も見てきた癖だった。

 

 今日は、どちらもしなかった。

 

 サミュエルは、テーブルの端を回って、こちらへ歩いてきた。ハリーが、ゴブレットを口に運びかけたまま止まった。ロンが、スプーンをくわえたまま振り向いた。

 

 ハーマイオニーの横で、サミュエルは足を止めた。

 

「……グレンジャー」

 

 大きな声ではなかった。

 

 それでも、近くの何人かが、話すのをやめた。やめた人の隣の人が、何事かと振り向いた。そうやって、静けさが、テーブルの端から端へ、少しずつ広がっていった。ハッフルパフのテーブルでも、誰かが首を伸ばしていた。

 

 サミュエルは、口を開いて、閉じた。

 

 もう一度、開いた。

 

「二月十四日に」

 

 そこで、止まった。

 

 ハーマイオニーは、彼が言葉に詰まるのを、初めて見た。授業で当てられても、先生に睨まれても、ドラコに絡まれても、この人は、いつも、次に言うことを知っていた。

 

「……君が、チョコレートをくれようとしたのに。僕は、『マグルのチョコか』って、言った」

 

 声が、少しかすれていた。

 

 遠くで、誰かが息をのんだ。

 

「ずっと、謝ろうと思ってた。……違う」

 

 サミュエルは、小さく首を振った。

 

「謝らなきゃいけなかったのに、謝らなかった。君が、石になる前に」

 

 その目は、まっすぐ、こちらだけを見ていた。スリザリンのテーブルも、教職員のテーブルも、見なかった。

 

「ごめん。……本当に、ごめん」

 

 彼は、頭を下げた。

 

 バーク家の跡取りとして、大人たちに見せる、あのきれいなお辞儀ではなかった。背中の丸まった、ぎこちない礼だった。そして、なかなか、顔を上げなかった。

 

 大広間が、静まり返っていた。

 

 ハーマイオニーは、自分の顔が熱くなっていくのを感じた。耳まで。首まで。

 

 学校じゅうが、見ている。ラベンダーも、パーバティも。スリザリンのテーブルの、ドラコも。明日の朝には、全部の寮が知っている。マルフォイの家にも、きっと届く。

 

 この人が、それを分かっていないはずがなかった。

 

 誰に、どう見えるか。いつだって、それを一番に考えている人だった。

 

 その人が、いま、誰の顔色も見ていなかった。

 

「……もう、いいから」

 

 やっと、それだけ言えた。声が、震えた。

 

「分かったから。顔、上げて」

 

 サミュエルが、ゆっくり顔を上げた。

 

 笑っていなかった。誰にでも向ける、いつもの笑顔を、作ろうとさえしていなかった。

 

 彼は、小さく頷いた。それだけだった。何か付け足すことも、周りに向かって取り繕うこともなく、自分の席へ戻っていった。

 

 腰を下ろすとき、肘がゴブレットに当たって、かぼちゃジュースが少しこぼれた。彼は、それを拭こうともしなかった。

 

 ひと呼吸おいて、ざわめきが戻ってきた。さっきまでの笑い声ではなかった。潜めた声。視線。ラベンダーの「え、うそ」。シェーマスの「あいつ、本気か」。

 

 スリザリンのテーブルで、ドラコが、信じられないものを見るような目で、こちらを見ていた。パンジーが何か耳打ちしても、ドラコは答えなかった。

 

「……あいつ、今、何て」

 

「ロン」

 

 ハリーが、小声で止めた。それから、そっと、ハーマイオニーの背中に手を置いた。

 

 ハーマイオニーは、スプーンを握ったまま、テーブルの木目を見ていた。

 

 皆に向けた言葉は、一つもなかった。

 

 最初から最後まで、あの人は、自分にだけ話していた。

 

*

 

 学年末の、最後の日の午後だった。

 

 饗宴の準備で、城じゅうが慌ただしかった。屋敷しもべ妖精たちが大広間を飾りつけ、生徒たちはトランクに荷物を詰めこみ、廊下には笑い声が溢れていた。

 

 図書室だけが、静かだった。

 

 試験が中止になった今、図書室に来る生徒はほとんどいない。マダム・ピンスさえ、カウンターの奥で居眠りをしていた。

 

 窓から差しこむ夕暮れの光が、書架の間を橙色に染めている。

 

 その一番奥の、窓際の席に、サミュエルは一人で座っていた。

 

 去年の五月、閉館前に、二人で並んで座った席だった。

 

 本を開いてはいた。けれど、さっきから一行も進んでいなかった。

 

 足音がした。

 

 書架の陰から、ハーマイオニーが現れた。本を一冊、胸に抱えていた。

 

 目が合った。今度は、どちらも逸らさなかった。

 

「……座っても、いい?」

 

「どうぞ」

 

 ハーマイオニーは、彼の隣の椅子を引いた。

 

 しばらく、どちらも何も言わなかった。夕暮れの光の中で、埃がゆっくりと舞っていた。

 

 先に口を開いたのは、ハーマイオニーだった。

 

「今朝の、大広間のことだけど」

 

「……うん」

 

「正直、私も、場所を考えるべきだったと思うの。あんなに人の多い廊下で、渡そうとしたんだもの」

 

 彼女は、抱えた本の表紙に目を落とした。

 

「今朝、皆の前で謝られて、よく分かったわ。人前で何かされるのって、すごく恥ずかしいのね」

 

 耳の先が、まだ少し赤かった。

 

「……恥ずかしかったよね。ごめん」

 

「謝りすぎよ」

 

 ハーマイオニーは、ぴしゃりと言った。

 

「今朝ので、もう十分。……その代わり、一つだけ、聞いてくれる?」

 

「うん」

 

「あのとき、本当に落ちこんだのよ」

 

 飾らない声だった。

 

「医務室のベッドから、わざわざ両親に手紙を書いて、送ってもらって。何て言って渡そうか、何回も考えて。それなのに、あんなふうに言われて。あの箱、結局、自分で全部食べたの。……なんだか、しょっぱかった」

 

「……うん」

 

 サミュエルは、膝の上で手を組んだ。

 

 謝りすぎだと、言われたばかりだった。それでも、その一言に返せる言葉は、どこにもなかった。

 

「お返しは、期待しといて」

 

 いつもの軽い調子を装った。けれど、それが約束だということは、言った本人が一番よく分かっていた。

 

 ハーマイオニーは、小さく首を振った。

 

「気にしないで」

 

 彼女は、ローブの内ポケットに手を入れた。

 

「あなたからは、もう沢山貰ってるから」

 

 そう言って、机の上に、そっと何かを置いた。

 

 銀色の、小さな鶴だった。

 

 翼の端が、少し擦り切れていた。夕暮れの光を受けて、ほんの一瞬だけ、きらりと光った。

 

 サミュエルは、息を止めた。

 

 一年生の、ハロウィンの夜。トランクの工房で、二枚目の紙に書いた二行。窓から放った、最初の一羽。

 

 何も言えなかった。言わなくても、彼女はもう知っていた。

 

 ハーマイオニーは、鶴を指先でそっと撫でた。

 

「ありがとう。……全部、ちゃんと届いてたわ」

 

 全部。その一言で、一羽ではないのだと分かった。

 

 十一月の談話室で、自分が言ったのと、同じ言葉だった。

 

 ハーマイオニーは、鶴から指を離した。

 

「だから、分からないの」

 

 声の調子が、変わった。

 

「こんなに鶴をくれる人が、どうして、あんなことを言ったのか」

 

 まっすぐな目だった。

 

「あなた、謝ってはくれるのよ。十一月も、今朝も。でも、どうしてああ言ったのかは、一度も言ってくれない」

 

「……」

 

「理由が分からないままじゃ、私、納得できないの。知ってるでしょう」

 

「知ってる」

 

「『寝不足だった』は、なしよ。それ、十一月にも聞いたから」

 

 逃げ道を、一つずつ塞がれていく感覚だった。

 

 サミュエルは、しばらく窓の外を見ていた。それから、開いたままだった本を、閉じた。

 

「……僕の母は、植物状態なんだ」

 

 ハーマイオニーが、息をのんだ。

 

「七歳のときから。今も、聖マンゴで眠ってる」

 

 声は、自分でも驚くほど平らだった。

 

「……治らないの?」

 

「治せるかもしれない魔道具が、バークの本家にある。でも、本家に口を利けるのは、父だけなんだ」

 

「お父さまに、頼めば……」

 

「父は、商売人だからね。ただでは動かない」

 

 ハーマイオニーの眉が、かすかに寄った。

 

「……条件が、あるのね」

 

「僕が結果を出して、長老会に認められたら。正式にバークを名乗れるようになったら、本家に口を利いてやる、って」

 

 ハーマイオニーは、何も言わなかった。

 

「だから、僕は、しがらみだらけなんだ。何を言っても、何をしても、誰かが見てる。ドラコの前で言ったことは、その日のうちにマルフォイ家に届く。マルフォイ家に届けば、父に届く」

 

 二月の廊下で、ドラコが足を止めて、こちらを見ていた。

 

「だから、あのとき……」

 

 そこで、言葉が切れた。その先は、言い訳にしか聞こえない気がした。

 

 サミュエルは、一度、息を吸った。

 

「……ここだけの話だけど」

 

 声を、落とした。

 

「俺は、純血とか、混血とか、マグル生まれとか。そういうの、どうでもいいんだ」

 

 ハーマイオニーの目が、わずかに見開かれた。

 

「でも、僕は、母を目覚めさせなければいけない」

 

 ハーマイオニーの眉が、ほんの少しだけ動いた。唇が、何か言いかけて、閉じた。

 

 何を言いかけたのかは、分からなかった。

 

 しばらくして、彼女は、別のことを口にした。

 

「……そんな事情があるのに、どうして」

 

 言葉を探すように、少し間があった。

 

「どうして、今朝、皆の前で謝ったの? お父さまに、伝わるんでしょう」

 

 サミュエルは、すぐには答えなかった。

 

「……君が、ずっと『マグルのチョコを笑われた子』のままなのは、嫌だった」

 

 嘘ではなかった。けれど、半分だった。

 

 ロックハートに褒められて、頬を染めていた横顔。それを見たとき、腹の底がざらついたこと。それは、言わなかった。自分でも、まだ名前のつけられないものだったから。

 

 長い沈黙のあと、ハーマイオニーが、小さく言った。

 

「……お母さまのこと、知らなかった」

 

「誰にも、言ってない」

 

「ハリーにも、ロンにも?」

 

「うん」

 

 ハーマイオニーは、机の上の鶴に目を落とした。それから、もう一度、こちらを見た。

 

「……今日、分かった気がするの」

 

「何が?」

 

「ずっと、不思議だったのよ。あなた、いつも笑ってて、小さなことは気にしないって顔してるでしょう。なのに、シェーマスのことも、ハンナのことも、ネビルのことも、誰より先に気づいてる」

 

 彼女は、窓の外の夕焼けに目をやった。

 

「あなた、本当は、すごく繊細で、優しくて、思慮深い人なのよ。お母さまのことも、お父さまのことも、全部一人で抱えて。だから、周りに心配をかけないように、平気なふりをしてる。……違う?」

 

 サミュエルは、何も言わなかった。

 

 ただ、黙って、その言葉を聞いていた。

 

 よく見ている、と思った。

 

 本当に、よく見ている。彼女が並べてみせたのは、紛れもなく自分自身のことだった。シェーマスのことも、ハンナのことも、ネビルのことも。誰にも気づかれていないと思っていたことを、全部。

 

 それなのに、素直に頷くことができなかった。

 

 繊細で、優しくて、思慮深い。だから、平気なふりをしている。

 

 

――違う。

 

 

 そう言いかけて、口を閉じた。

 

 優しいから、笑っていたのではない。笑っていなければ、立っていられなかった。周りの誰かを、少しだけ下に見ていなければ、足もとが崩れそうだった。

 

 それを、どう説明すればいいのか分からなかった。説明したら、目の前のこの人が、どんな顔をするのかも分からなかった。

 

 沈黙が、長く続いた。

 

 やがて、ハーマイオニーが、こちらを向いた。

 

「ねえ」

 

 少しだけ、声が震えていた。

 

「私は、あなたにとって、なに?」

 

 夕暮れの光が、彼女の頬を橙色に染めていた。

 

 サミュエルは、また少しだけ、間を置いた。

 

 言いたいことは、いくらでもあった気がした。けれど、どれも言葉にした瞬間に、別の何かに変わってしまいそうだった。

 

 

 

「君は……そのまま生きろ」

 

 

 

 それだけを、言った。

 

 答えなのか、答えから逃げたのか、自分でも分からない言葉だった。

 

 言い終えた瞬間、気づいた。

 

 膝の上で、扇を握る手が、かすかに震えていた。いつの間にか、腰の箱から抜いていたらしい。

 

 止めようとした。止まらなかった。

 

 スネイプの呪文を受け止めたときも、バジリスクの前に立ったときも、震えなかった手が。

 

 サミュエルは、扇を箱に押しこむようにしまった。

 

 立ち上がる。

 

「……戻る」

 

 それだけ言い残して、彼女の返事を待たずに、背を向けた。

 

 書架の間を、足早に歩いていく。一度も、振り返らなかった。振り返ったら、今度こそ、何か取り返しのつかないことを言ってしまいそうだった。

 

*

 

 残されたハーマイオニーは、窓際の席に座ったまま、遠ざかっていく背中を見送っていた。

 

 純血とか、混血とか、マグル生まれとか。そういうの、どうでもいい、と、あの人は言った。

 

 一年生の列車の通路で、穢れた血、と言った人が。

 

 今日の言葉のほうを、信じたいと思った。

 

 それから、あの手。

 

 膝の上で、扇を握っていた指が、震えていた。あの人は、隠そうとしていた。でも、見えてしまった。

 

 もう一つ、引っかかっていることがあった。

 

 母を目覚めさせなければいけない、と、あの人は言った。

 

 目覚めてほしい、ではなかった。会いたい、でもなかった。まるで、宿題の締め切りを口にするような言い方だった。

 

 あのとき、聞き返しそうになった。けれど、七歳のときから眠り続けている母親の話を、そんなふうに問いただすことは、できなかった。

 

 君は、そのまま生きろ。

 

 どういう意味なのだろう。

 

 答えなのか。それとも、答えないための言葉なのか。

 

 ハーマイオニーは、机の上の銀色の鶴を、両手でそっと包んだ。

 

 分からなかった。まだ、何も分からなかった。

 

 でも、一つだけ確かなことがあった。

 

 あの震えていた手を、自分はたぶん、ずっと忘れない。

 

 窓の外で、夕日がゆっくりと湖の向こうへ沈んでいく。大広間のほうから、饗宴の始まりを告げる鐘の音が、遠く聞こえてきた。

 

 ハーマイオニーは、鶴をローブの内ポケットに戻して、立ち上がった。

 

 まだ、何も終わっていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 








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アンケートの結果を考慮し、毎日投稿継続いたします。
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可能な範囲で展開や行動に違和感がないか確認はする予定です。




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