二十五話∶シリウスとプロキオン
七月の朝、バーク家の食堂に、新聞が届かなかった。
いつもなら朝食の皿の横に、ふくろうが日刊予言者新聞を落としていく。その朝、ふくろうは来た。けれど、新聞は父の手に渡る前に、執事役の年老いた屋敷しもべ妖精が、銀の盆ごと抱えて厨房へ下がろうとした。
「待て」
ロビンソンの声が、食堂に響いた。
「それを、こちらへ」
年老いた妖精は、盆を抱えたまま、ぶるぶると震えていた。
「だ、旦那さま。今朝の新聞は、その、お目汚しになるかと……」
「こちらへ、と言った」
盆が、テーブルの上に置かれた。
ロビンソンは新聞を広げた。広げたまま、動かなくなった。
サミュエルの位置からは、一面の見出しが逆さまに見えた。
〈シリウス・ブラック、アズカバンより脱獄〉
その下に、もう一つ。
〈英雄の手記が明かす秘密――アメリア・ヴェスゲレートの「一夜の過ち」〉
写真が、二枚並んでいた。
一枚は、げっそりと痩せこけた男の顔。もつれた黒い髪が肩まで伸び、落ちくぼんだ目だけが、ぎらぎらと光っている。写真の中で、男は声のない叫びを上げ続けていた。
もう一枚は、若い頃の母だった。
レイブンクローのローブ。胸に光る、首席の徽章。まっすぐにこちらを見つめる、冷たいほどに整った顔。
ロビンソンが、新聞をテーブルに叩きつけた。
銀の燭台が揺れ、紅茶のカップが受け皿の上で跳ねた。厨房の扉の陰で、ピッピーが小さな悲鳴を上げた。
父は何も言わなかった。言わないまま、椅子を蹴るように立ち上がり、食堂を出ていった。
扉が、壁が震えるほどの音を立てて閉まった。
*
サミュエルは、テーブルの上の新聞を引き寄せた。
記事は、三面にわたっていた。
日記は、聖マンゴの病室で見つかったのだという。
母が六年間眠り続けている、五階の奥の個室。先月、病棟の改装で寝台を動かしたとき、壁際の床板の下から、小さな革張りの箱が出てきた。見つけたのは、見習いの癒者だった。箱には封印の呪文がかけられていたが、長い年月で綻びかけていた。中に入っていたのが、母の日記だった。
箱は、病院の金庫に収められるはずだった。それが、いつの間にか外へ持ち出されて、日刊予言者新聞の手に渡った。
〈当紙が独自に入手した〉と、記事は誇らしげに書いていた。手に入れたのは半月も前のことらしい。それを今朝まで寝かせておいて、脱獄の記事と並べたのだ。
サミュエルは、復活祭の休暇に訪ねた病室を思い出した。白いベッド。窓辺の花瓶。消毒液の匂い。
あの部屋の、どこに。
眠り続ける母に、床板の下へ何かを隠せるはずがない。倒れたその夜に運びこまれて、それきり一度も目を覚ましていないのだから。
なら、誰が。いつ。
答えの出ない問いを、サミュエルはひとまず脇へ押しやった。今は、書かれていることのほうが先だった。
日記に記されていたという、十四年前の夏の一夜のこと。相手は、シリウス・ブラック。当時、闇の帝王の右腕と噂され、十二人のマグルと一人の魔法使いを殺した罪でアズカバンに送られた男。その男が、まさに昨夜、脱獄した。
〈英雄ヴェスゲレートは、ブラックの子を身ごもったまま、直後にバーク家当主ロビンソン氏と結婚した――手記はそう記している。では、バーク家の跡取りとして育てられた少年の、本当の父親は誰なのか?〉
記者の署名は、なかった。
サミュエルは、記事を最後まで読んだ。
一度読んで、もう一度、最初から読んだ。
それから、新聞を畳んで、テーブルの端に置いた。紅茶を一口飲んだ。冷めていた。
厨房の扉の陰から、いくつもの大きな目が、こちらをのぞいていた。屋敷しもべ妖精たちだった。サミュエルが顔を上げると、目はいっせいに引っこんだ。
ピッピーだけが、扉の陰に残っていた。
「ぼ、坊ちゃま……」
「紅茶が冷めた。替えろ」
声は、いつも通りだった。
ピッピーは、しばらく動かなかった。それから、何も言わずにポットを持って、厨房へ消えていった。
その日の午後、サミュエルは自室の姿見の前に立った。
黒い髪。白い肌。深紅の右目。それから、灰色の左目。
新聞の写真の男の目も、灰色だった。痩せこけて、落ちくぼんでいても、それだけははっきりと分かった。
父のぎょろりとした目は、灰色ではない。母の目は、左右とも深い紅だった。
この灰色が、どこから来たのか。今まで一度も、考えたことがなかった。
サミュエルは、鏡から目をそらした。
*
バーク家が、なぜこれほど揺れるのか。
闇の陣営に、はっきりと与している家なら、こうはならなかっただろう。シリウス・ブラックは、表向きは闇の帝王の側近だった男だ。その血を引く跡取りがいたところで、そういう家なら、むしろ箔がつくくらいのものだ。
けれど、バーク家は違った。
闇の魔道具を仕入れて、売る。客は、闇の陣営の人間が多い。けれど、魔法省の役人にも、純血の名家にも、それなりに顔が利く。どちらの陣営とも、はっきりとは手を結ばない。どちらとも、決して敵対しない。
その曖昧さこそが、この家の商売の生命線だった。
今朝の新聞は、その曖昧さを、力ずくで一方へ引きずり寄せようとしていた。脱獄した死喰い人の息子。その噂一つで、得意先の半分が、明日から店の扉を叩かなくなるかもしれない。
父が新聞を叩きつけた理由を、サミュエルは正確に理解していた。
怒っていたのは、妻の裏切りにではない。家の帳簿に、だった。
けれど、揺れているのは帳簿だけではないことも、サミュエルは知っていた。
母の名前は、闇の側では、今も特別な重さを持っている。
前の戦争のとき、母は不死鳥の騎士団にいた。ダンブルドアが集めた、闇の帝王に抗う魔法使いたちの集まりだ。その中で最も強い魔女だったと、肖像画の当主たちは、苦々しげに口を揃える。
深紅の目で、死喰い人の動きを数手先まで読む。読んだ先に、ためらいなく呪いを置く。新聞は「拘束」と書いたが、母と向き合って、生きて捕まった死喰い人は多くなかったという。
闇の陣営は、ダンブルドアよりも母を恐れた。ダンブルドアは、殺さないからだ。
戦争が終わって十年以上が経った今も、闇の側には、母に身内を奪われた家がいくつもある。肖像画たちが「あの女」と呼ぶときの、あの冷たい声も、たぶんそこから来ていた。
七歳の冬、母が倒れたのも、そのせいだった。闇の側の誰かに襲われて、母はそれきり目を覚まさなくなった。誰が母を襲ったのか。魔法省は、とうとう突き止められなかった。
*
三日後、聖マンゴから、緑の封蝋の手紙が届いた。
いつもの月一回の報告書ではなかった。封筒の縁が、黒く縁取られていた。
〈アメリア・ヴェスゲレート様は、去る七月某日未明、当院の病室において、何者かによる「業火の呪い」の襲撃を受け、ご逝去されました。病室は全焼し、ご遺体は残っておりません。魔法省は、死喰い人による報復と見て捜査を進めております。〉
サミュエルは、その一枚を、作業台の上に置いた。
引き出しを開ける。緑の封蝋の束。七歳の年から、毎月一通ずつ。〈前回のご報告時からの変化はございません。〉
一番上に、今日の一通を重ねた。
それで、束は終わりだった。もう、次の一通は来ない。
涙は出なかった。
どこかで、何かが音もなく外れた気がした。けれど、それが何なのか、確かめる気にはなれなかった。
日刊予言者新聞は、その日から、母についての記事を一行も載せなくなった。亡くなった英雄の私生活を暴き立てるのは不謹慎だ、という投書が殺到したらしい。
聖マンゴは、日記を持ち出した見習いの癒者を解雇したと発表した。それで終わりだった。日記そのものが病院に戻ってきたという話は、どこからも聞こえてこなかった。
記事は消えた。
噂は、消えなかった。
ノクターン横丁の店先で。ダイアゴン横丁の喫茶店で。魔法省の廊下で。ふくろう便で届く、差出人のない手紙の中で。噂は尾ひれをつけて、あることないことを囁き続けた。
葬儀は、行われなかった。埋めるべきものが、何もなかったから。
その週のうちに、ふくろうが何羽か、サミュエル宛ての手紙を運んできた。
一通は、ドラコからだった。
〈父上から聞いた。新聞のことも、お母上のことも。……本当なのか? 返事はいらない。ただ、九月にダームストラングの話が出ても、僕は反対だからな。お前がいないと、魔法薬の試験でつまらない。 D・M〉
ドラコらしい手紙だった。本当なのか、と聞いておきながら、返事はいらない、と書いてくる。
ダームストラングの話など、まだ誰からも聞いていなかった。
この数日、書斎の窓から、何羽ものふくろうが出入りしていた。そのうちの一羽が、マルフォイ家へ飛んでいったのだろう。自分の行き先が、自分の知らないところで、もう話し合われていた。
それから、エジプトの消印がついた手紙を、手に取った。
〈新聞見た。気にすんなよ。あんなの、どうせでたらめだって。それより聞いてくれ、うちの家族、宝くじが当たってエジプトに来てるんだ! ピラミッドの中は呪いだらけで、ビルが毎日解呪してる。フレッドとジョージがパーシーをミイラにしようとして、ママに殺されかけた。九月に会おう。 ロン〉
サミュエルは、ロンの手紙を二度読んだ。二度目に、少しだけ口元がゆるんだ。
フランスから、手紙は来なかった。
ハーマイオニーは、夏休みを両親とフランスで過ごしていると、学年末に聞いていた。新聞は読んでいるだろうか。読んでいたら、何を思っただろうか。
毎朝、ふくろうの羽音がするたびに、窓のほうを見た。来るのは、知らない差出人の、知らない誰かの悪意ばかりだった。
ほとんどは、開けずに暖炉へくべた。一通だけ、宛名が目に留まって、封を切った。
〈バーク家の跡取り様〉
跡取り様、の横に、わざわざ二重線が引いてあった。中の羊皮紙には、一行だけ。
〈バークを名乗ることも許されていないくせに。その理由が、これでよく分かった〉
丸みの残る、子供の字だった。ホグワーツの誰かだろう。それ以上は、考えなかった。
理由なら、知っていた。七歳の冬、この屋敷に引き取られた最初の夜に、父の書斎で聞かされている。半純血の子に、バークの姓は与えない。母が家系図から消されずに済んだ代わりに、長老会が付けた条件だった、と。ブラックの名前など、どこにも出てこなかった。
この家では、折に触れて言われてきたことだった。長老会の老人たちは、跡取りと呼んだすぐあとで「ただし、名はヴェスゲレートだがね」と付け足した。肖像画の当主たちは、あの子は半分だ、と、本人の前で平気で囁いた。父でさえ、機嫌の悪い夜には、「お前に名を与えなかったのは長老会だ」と言った。
けれど、ホグワーツでは、誰もそれを言わなかった。
言えなかったのだ。グリフィンドールの中心にいて、スリザリンの上級生さえ一目置き、教師たちに気に入られている生徒の姓を、わざわざ口にして、損をしたがる者はいない。皆が、彼の隣に立ちたがっていた。知っていても、知らないふりをしていた。
それが、一晩で、変わった。
値の落ちたものには、遠慮がいらない。誰もが知っていて、誰も口にしなかったことが、今は、ふくろうに乗って届く。新聞が、ありもしない理由まで添えてくれたおかげで。
サミュエルは、羊皮紙を四つに折った。
机の引き出しの奥に、ホグワーツからの手紙の束がある。入学許可証。新学期の持ち物表。毎年の通知。宛名は、どれも同じだった。
〈サミュエル・P・ヴェスゲレート様〉
バークの名は、どこにもなかった。母の姓だった。
四つに折った一行を、その束の上に重ねて、引き出しを閉めた。
*
「ダームストラングへ移れ」
一週間後の夕食の席で、ロビンソンが言った。
久しぶりに、父が食堂で口を開いた。この一週間、父は書斎にこもりきりで、ルシウス・マルフォイや、ノット家や、エイブリー家と、ふくろう便を何十通もやり取りしていた。
「カルカロフ校長には、もう話を通してある。あそこは、ホグワーツよりずっと物分かりがいい。ブラックの名前が出たところで、誰も眉一つ動かさん」
「……ダームストラング、ですか」
「ホグワーツでのお前の評判は、もう地に落ちている。ルシウスの息子から聞いた。夏休みのうちに、ふくろう便で噂が回っているそうだ。脱獄囚の息子、と」
ロビンソンは、ワインを一口含んだ。
「新聞の件も、ルシウスから聞いた。日記を流したのは、闇の側の連中だ」
サミュエルは、顔を上げた。
「あの女に身内を殺された家が、いくつかある。十年以上経っても、あの女の名に泥を塗る機会を待っていたらしい。誰の仕業かまでは、ルシウスも言わなかったがな。言えば、自分の首が絞まる」
「……聖マンゴの床板の下から見つかった、と書いてありました」
「作り話だ」
父は、鼻を鳴らした。
「日記がどこから出てきたかなど、誰も気にしない。気にするのは中身だけだ。おおかた、あの女を襲った連中が、そのとき持ち出したのだろう。それを六年も寝かせておいて、ブラックの脱獄に合わせて出してきた。見習いの癒者とやらも、金を握らされて口裏を合わせただけだ」
眠り続ける母には、隠せるはずのない場所。
答えは、最初から作り話だったのだ。母を貶めるために、母を憎む誰かが用意した、もっともらしい作り話。
「九月からは、ダームストラングだ。荷物は、合宿から戻ったらまとめ直せ」
いつもなら、ここで「はい、父上」と答えた。
七歳の冬から、一度も例外なく、そう答えてきた。
サミュエルは、ナイフとフォークを置いた。
頭のどこかに、一つの顔が浮かんでいた。
栗色の、ふさふさした髪。学年末の図書室で、夕暮れの光に染まっていた横顔。机の上に置かれた、銀色の鶴。
――君は、そのまま生きろ。
ダームストラングへ行けば、もう二度と、あの図書室の窓際の席には座れない。
「お断りします」
声が、出ていた。
食堂が、静まり返った。
ロビンソンの手の中で、ワイングラスが止まった。
「……何と言った」
「お断りします、と言いました。ダームストラングで学ぶことなど、何もありません」
父の顔が、ゆっくりと赤くなっていった。ぎょろりとした大きな目が、見開かれていく。
「――頭でもおかしくなったか!」
ワイングラスが、テーブルの上で砕けた。深い赤が、白いテーブルクロスにじわじわと染みていく。
サミュエルは、父の目を見返した。
その目を見た瞬間、ずっと昔の記憶が、ふいに蘇った。
九歳の冬だった。家庭教師のホロウェイが、開心術の基礎だけを教えてくれた日。人の目を見て、その心の表面をそっとなぞる術。試してみたくて、夕食の席で、父の目をのぞいた。
見えたのは、一瞬の断片だけだった。
若い母が、この食堂の椅子に座っている。父に向かって、冷たい声で言っていた。
――あなたは、威厳が欲しいでしょう?
それだけだった。すぐに父が目をそらし、断片は消えた。九歳の自分には、何のことだか分からなかった。
今も、まだ分からない。
けれど、あの声の冷たさだけは、なぜかずっと覚えていた。
「……失礼します」
サミュエルは、椅子から立ち上がった。
父は、何も言わなかった。砕けたグラスの破片を見下ろしたまま、肩で息をしていた。
*
その夜、サミュエルは、自室で荷造りをしていた。
三日後から、今年の強化合宿が始まる。トランクの梯子を降り、着替えと本と、作業途中の道具を棚に放りこんでいく。
いつもなら、きちんと畳んでしまうシャツを、丸めたまま押しこんだ。本の背表紙が、棚の中で斜めに傾いた。直さなかった。
工房の一番奥の引き出しに、紫の袱紗の包みがある。卑弥呼の鏡。母が、息子のために遠い国に預けていった鏡。
サミュエルは、引き出しを開けかけて、閉めた。
自分が、何に動揺しているのか分からなかった。
母が死んだこと。父がシリウス・ブラックかもしれないこと。生まれて初めて、父に逆らったこと。家の名前が、自分の知らないところで地に落ちていくこと。
どれも、本当のことのはずなのに、どれも、どこか遠かった。
ただ、手だけが、いつもより少しだけ乱暴だった。
トランクの蓋を閉めると、留め金が、がちんと大きな音を立てた。
扉を、小さく叩く音がした。
「ぼ、坊ちゃま……お、お茶を、お持ちいたしました」
ピッピーが、湯気の立つカップを盆に載せて、震えながら立っていた。
「頼んでいない」
「は、はい。存じております。でも……」
ピッピーは、大きな目をきゅっとつぶった。
「ピッピーは、奥さまのことは、存じ上げません。でも、坊ちゃまのお母上でございます。ですから……ですから、ピッピーは、あの新聞は、き、嫌いでございます!」
言い終わると、ピッピーは自分の言葉に驚いたように、両手で口を押さえた。屋敷しもべ妖精が、主人の家に届いたものを嫌いだと言う。それだけで、自分の耳を引っぱって罰を受けるほどのことだった。
サミュエルは、しばらく黙っていた。
「……カップを置いて、下がれ」
「は、はいっ!」
「それから、ピッピー」
ピッピーが、扉の前でびくりと振り返った。
「耳は、引っぱらなくていい」
ピッピーは、ぽかんと口を開けた。それから、深々と頭を下げて、ぱたぱたと去っていった。
机の上の紅茶は、ちょうどいい温度だった。