ハーマイオニー・グレンジャーと緋色の予見者   作:スウィフト

26 / 27
二十六話∶ゴシップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今年の強化合宿の当番は、ダームストラングだった。

 

 移動キーで降り立った先は、北の国の深い山の中だった。八月だというのに、空気がひやりと冷たい。黒い湖のほとりに、石造りの城が一つ、四角い塔をいくつも突き出して建っていた。窓は小さく、壁は厚い。ホグワーツよりもずっと、要塞に近い城だった。

 

「ようこそ、ようこそ」

 

 玄関の大扉の前で、銀色の毛皮のマントを羽織った背の高い魔法使いが、両手を広げて待っていた。山羊のような、細い顎髭。

 

「ダームストラング校長のカルカロフだ。君が、バーク家の跡取りだね」

 

 カルカロフは、サミュエルの手を両手で握った。その指は、驚くほど冷たかった。

 

「お父上から、話は聞いているよ。うちはいつでも歓迎だ。君のような才能ある若者を、つまらない噂で潰すような学校ではないからね」

 

「ありがとうございます。でも、九月からもホグワーツに通います」

 

「……ほう」

 

 カルカロフの笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。

 

「まあ、気が変わったら、いつでも言いたまえ」

 

 城の中は、外よりもさらに冷えていた。廊下の暖炉には一日じゅう火が焚かれ、食堂には、燻製の鱒と黒いライ麦パン、赤いビーツのスープが並んだ。ボーバトンの生徒たちは、淡い青の絹の制服の上に毛皮を何枚も重ねて、震えながらスープをすすっていた。

 

*

 

 合宿の初日から、サミュエルはいつも通りに振る舞った。

 

 各国の生徒と気さくに挨拶を交わし、教授たちの質問に的確に答え、食堂では隣の席の誰とでも話を合わせた。二年前の合宿と、何も変わらない。誰が見ても、そう見えたはずだった。

 

 ただ、耳だけが、いつもと違っていた。

 

 廊下の角を曲がるとき。食堂の列に並ぶとき。中庭を横切るとき。背後で交わされる囁き声に、自分の名前が混じっていないか、気がつくと耳をそばだてていた。

 

「――あれが、ヴェスゲレート?」

 

「新聞の、あの……」

 

「ブラックの息子だって本当?」

 

 囁きは、振り返ると止んだ。ほとんど誰も、面と向かっては何も言わなかった。

 

 一人だけ、例外がいた。

 

「おい、ブラックの息子」

 

 二日目の昼食の列で、ダームストラングの上級生が、わざと大きな声で言った。肩幅の広い、赤ら顔の男だった。

 

「親父の居場所、知ってるんじゃないのか。魔法省が、血眼になって探してるぞ」

 

 食堂じゅうが、しんとなった。

 

 サミュエルは、ゆっくりと振り向いて、にっこりと笑った。

 

「知ってたら、とっくに懸賞金で城を一つ買ってるよ。君の学校より、少し暖かいやつをね」

 

 一瞬の間があって、食堂のあちこちから笑い声が上がった。ボーバトンの生徒たちが、くすくすと肩を震わせている。赤ら顔の上級生は、顔をさらに赤くして、列から離れていった。

 

 うまくやれた。少なくとも、表向きは。

 

 それでも、囁きは聞こえていた。聞こえないふりをして、笑顔で通り過ぎただけだった。

 

 その夜、サミュエルは、明け方まで眠れなかった。

 

 割り当てられた寝室のベッドに横になると、昼間の囁き声が、一つ一つ頭の中で繰り返された。あの子は、何と言っていたか。あの教授の目は、どこを見ていたか。

 

 柄にもない、と自分でも思った。

 

 どう見られるかは、ずっと気にしてきた。けれど、それは、自分の手で形を整えられる見られ方だった。自分の知らないところで、勝手に決められていく見られ方を、気にしたことは、一度もなかった。

 

*

 

 三日目の夜、サミュエルは、城壁の上の見張り通路で湖を眺めていた。

 

 北の夏の夜は、なかなか暗くならない。十時を過ぎても、空の端はまだ薄い青色を残していた。

 

「――今日も一日、ずっと耳をそばだてていたわね」

 

 振り返ると、銀色がかったブロンドの髪が、夜風に揺れていた。

 

 フラーだった。ボーバトンの淡い青の制服の上に、ダームストラングで借りたらしい分厚い毛皮のショールを羽織っている。二年前より背が伸びて、顔立ちから子供っぽさが抜けていた。

 

「……そんなに、分かりやすかった?」

 

「私以外には、分からないと思うわ」

 

 フラーは、サミュエルの隣に並んで、石の手すりに肘をついた。

 

「私も、ずっとそうだったから。廊下で誰かが囁くたびに、私の顔の話をしているのか、それとも、私のおばあさまの血の話をしているのか、確かめずにいられなかった」

 

 フラーの祖母は、ヴィーラだと聞いていた。

 

「……新聞のこと、読んだ?」

 

「ええ。フランスでも、少しだけ載ったわ」

 

 フラーは、湖を見たまま言った。

 

「くだらない記事。亡くなった人の日記を勝手に読んで、子供の生まれを詮索するなんて」

 

 サミュエルは、しばらく黙っていた。

 

「……嫌われるのが、怖いんだと思う」

 

 口に出してから、自分で驚いた。

 

 誰にも言ったことのない言葉だった。言おうと思ったことすらなかった。

 

「今まで、誰からも嫌われたことがなかった。それが当たり前だと思ってた。でも、本当は、そうなるように、ずっと気をつけてただけなんだ。それが、自分の知らないところで、勝手に崩れていく。それが……」

 

 言葉が、続かなかった。

 

 フラーは、何も言わなかった。ただ、手すりの上の、サミュエルの手の隣に、自分の手をそっと置いた。触れてはいない。ただ、隣に。

 

「サミュエル」

 

「うん」

 

「あなたは、私の顔を見ても、何も思わないって言ったわね。一年生のとき」

 

「きれいだとは思う、って言ったよ」

 

「ええ。でも、それよりも、私が自分で見つけた杖の返し方のほうに興味があるって」

 

 フラーは、ようやくこちらを向いた。

 

「私は、あのときのあなたを知ってる。噂の中のあなたじゃなくて。だから、私は、あなたを嫌ったりしない」

 

 夜風が、二人の間を吹き抜けていった。

 

 合宿で顔を合わせるのは、二年ぶりだった。それなのに、話しはじめると、間はすぐに埋まった。年も、学校も、国も違う。けれど、一年生の合宿で杖の返し方を見せ合ったときから、この人の前では、上手に笑う必要がなかった。うまい呪文はうまいと言われ、雑な呪文は雑だと言われた。

 

 良い友人だった。

 

 だから、さっきの言葉も、口から出たのだと思った。

 

 サミュエルは、ローブのポケットから、小さな氷の欠片を二つ取り出した。食堂の水差しから、こっそりもらってきたものだった。

 

 手すりの上に並べて、扇を軽く振る。

 

 氷の欠片から、透き通った芽がのびた。枝分かれし、花弁を一枚ずつ開いていく。北の夜の薄明かりの中で、二輪の氷の薔薇が、手すりの上に咲いた。

 

「……約束、遅くなった」

 

 フラーは、二輪の薔薇を見つめて、しばらく何も言わなかった。

 

 それから、ふっと笑った。一年生の玄関ホールで「生意気な子」と言ったときと、同じ笑い方だった。

 

「二年も待たせるなんて。本当に、生意気な子」

 

 フラーは、薔薇の一輪をそっと指先でつついた。冷たさに、小さく肩をすくめる。

 

「一輪は、ガブリエルにあげてもいい? 妹なの。まだ小さいの。氷の薔薇の話をしたら、ずっと見たいって言ってたの」

 

「溶けないように、冷却呪文をかけておくよ。一年くらいはもつ」

 

「一年?」

 

「来年の合宿で、また咲かせればいい」

 

 フラーは、少しだけ驚いたような顔をして、それから、またふっと笑った。

 

*

 

 合宿の五日目、大広間で表彰式が開かれた。

 

 各校の最優秀生徒が一人ずつ選ばれ、魔法省の役人から記念の盾を受け取る。今年のボーバトンの最優秀生徒は、フラー・デラクールだった。

 

 式のあと、大広間の隅で、新聞記者たちがフラーを囲んだ。羽根ペンが、メモ帳の上で勝手に走り回っている。

 

「デラクールさん、受賞おめでとうございます。今のお気持ちは?」

 

「光栄だわ。ボーバトンの名に恥じないよう、これからも努力します」

 

「この合宿には、ホグワーツのヴェスゲレート君も参加していますね。例の記事については、どうお考えですか?」

 

 大広間の空気が、わずかに張り詰めた。

 

 少し離れた柱の陰で、サミュエルは足を止めた。

 

 フラーは、記者の顔をまっすぐに見た。

 

「人の家族の不幸を見出しにして売るような新聞は、ボーバトンでは誰も読まないわ」

 

 羽根ペンが、ぴたりと止まった。

 

「サミュエル・ヴェスゲレートは、私が知っている中で、一番誠実な魔法使いよ。彼のことを書きたいなら、彼の魔法のことを書いたらどう? 少なくとも、そのほうがずっと読む価値があるもの」

 

 フラーは、それだけ言うと、記者たちに背を向けた。

 

 壁際では、ダームストラングの生徒が一人、腕を組んでその様子を見ていた。クラムだった。サミュエルと目が合うと、彼は小さく顎を引いた。

 

「新聞、読まない」

 

 すれ違いざま、クラムがぼそりと言った。

 

「あれは、嘘ばかり。……あの女、いいこと言った」

 

*

 

 三日後、合宿の最終日の朝。

 

 朝食の席に届いた日刊予言者新聞を広げた瞬間、食堂のあちこちで、ひそひそ声が上がった。

 

 六面の、半分ほどを使った記事だった。

 

〈ボーバトンの才媛とホグワーツの俊英、秘めた熱愛――北の古城で咲いた「氷の薔薇」〉

 

 写真が、一枚。

 

 城の外壁の見張り通路。並んで手すりに肘をつく二人。手すりの上に、二輪の氷の薔薇。夜の薄明かりの中で、写真の二人は、何度も顔を見合わせては、また湖のほうへ向き直っていた。

 

〈表彰式でデラクール嬢が見せた、ヴェスゲレート少年への熱烈な擁護。その裏には、合宿の夜に交わされた、ひそやかな約束があった――〉

 

 サミュエルは、新聞を握りしめた。

 

 誰が撮ったのか、分からなかった。あの夜、見張り通路には、二人のほかに誰もいないと思っていた。

 

 フラーは、自分を庇ってくれただけだった。彼女なりの誠実さで、まっすぐに。

 

 それが、こういう形で返ってきた。

 

 ボーバトンのテーブルを見ると、フラーが新聞を手に、真っ白な顔で固まっていた。目が合った。彼女の唇が、声を出さずに動いた。

 

 ――ごめんなさい。

 

 サミュエルは、首を横に振った。

 

 謝るのは、彼女ではなかった。

 

 帰りの移動キーを待つ玄関ホールで、カルカロフが近づいてきた。毛皮のマントの襟を、指で撫でている。

 

「新聞を読んだよ。若いというのは、いいものだね」

 

 カルカロフは、薄く笑った。

 

「だが、ホグワーツは、ますます居心地が悪くなるだろう。脱獄囚の息子で、ボーバトンの娘の恋人。噂好きの連中には、たまらない取り合わせだ。――気が変わったら、いつでも」

 

「お気遣い、ありがとうございます」

 

 サミュエルは、完璧な笑顔で一礼した。

 

「でも、居心地のいい場所で学べることは、たぶん、もう全部学んでしまったので」

 

 カルカロフの細い顎髭が、ぴくりと動いた。

 

*

 

 屋敷に戻ると、書斎の机の上に、父からの短い手紙が置いてあった。直接話すつもりは、ないらしかった。

 

 羊皮紙には、いつもの角ばった字で、数行だけが書かれていた。

 

〈新聞は読んだ。ちょうどいい。

 人というのは、結局のところ、犯罪よりも色恋沙汰を好む生き物だ。ブラックの件よりも、デラクールの娘との話のほうが、ずっと長く噂の種になる。

 この話を、否定するな。肯定もするな。曖昧にしておけ。ブラックの一件を覆い隠す、ちょうどいい隠れ蓑になる。

 ダームストラングの件は、保留とする。〉

 

 サミュエルは、手紙を二度読んだ。

 

 怒りは、湧いてこなかった。

 

 ただ、胸の奥のどこかが、また一つ、音もなく冷えていくのが分かった。

 

 父が守りたいものは、噂でも、血筋でもなかった。次の当主の座を、自分の家に残すことだった。

 

 肖像画の当主たちが、何度も話して聞かせた。バーク家は、闇の魔道具を商う、商人の一族だ。聖28一族に数えられてはいるが、名簿に載った家でも、本当に純血のまま残っているところは、ほとんどない。どこも、都合の悪い枝を家系図から消して、体裁を繕っているだけだ。

 

 商人は、体裁と商いを分けて考える。名簿は客に見せる顔で、家を回すのに要るのは、血と実績だった。

 

 当主を選ぶのは、長老会だ。若い頃の父は、兄と弟に挟まれた三人の候補の一人だった。その争いに、父は、英雄を妻にすることで勝った。母の名声が、父の実績に数えられた。

 

 だから、今のサミュエルは、当主の子として、本家筋の跡取り候補に数えられている。名は、まだ許されていない。半純血の子に名を与えないのが、名簿の体裁だからだ。それを曲げられるのは、長老会が正式な跡取りと認めたときだけだった。

 

 叔父たちの子供も、候補の末席には並んでいる。けれど、誰一人、前に出てこない。サミュエルが、あまりに優秀すぎるからだった。

 

 その席を危うくするものが、ただ一つだけある。サミュエルがシリウス・ブラックの子だと、事実として認められることだ。バークの血を引かない者を、長老会が跡取りに置いておく理由は、どこにもない。次の当主の座は、父がかつて負かした、兄と弟の家へ戻っていく。

 

 父は、血筋のことなど、気にしていなかった。当主になるために、母を妻にした人だ。恐れているのは、噂が事実になることだけだった。だから、フラーの名前を使う。

 

 フラーが、あの夜、手すりの上に置いてくれた手。触れずに、ただ隣に。二年越しの約束の、二輪の氷の薔薇。

 

 父にとっては、全部、隠れ蓑だった。

 

 熱愛でも、秘めた約束でもない。ただの、良い友人だった。その友人の名前を、これから、自分の口で濁し続けなければならない。

 

 その晩、フランスから、白い上等な紙の手紙が届いた。

 

〈ごめんなさい。あなたを守りたかっただけなのに、もっと面倒なことにしてしまった。

 新聞社には、ボーバトンから正式に抗議をしてもらうわ。それで記事が消えるとは思わないけれど。

 氷の薔薇は、ガブリエルが毎朝眺めています。――F〉

 

 サミュエルは、すぐに返事を書いた。

 

〈謝ることは何もない。君は、正しいことを言っただけだ。

 抗議はしなくていい。たぶん、記事がもっと長くなるだけだから。〉

 

 父の指示のことは、書かなかった。

 

 サミュエルは、父の手紙を丁寧に畳んで、机の上に戻した。

 

 破りも、燃やしもしなかった。そうする理由すら、今は見つからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 












  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。