今年の強化合宿の当番は、ダームストラングだった。
移動キーで降り立った先は、北の国の深い山の中だった。八月だというのに、空気がひやりと冷たい。黒い湖のほとりに、石造りの城が一つ、四角い塔をいくつも突き出して建っていた。窓は小さく、壁は厚い。ホグワーツよりもずっと、要塞に近い城だった。
「ようこそ、ようこそ」
玄関の大扉の前で、銀色の毛皮のマントを羽織った背の高い魔法使いが、両手を広げて待っていた。山羊のような、細い顎髭。
「ダームストラング校長のカルカロフだ。君が、バーク家の跡取りだね」
カルカロフは、サミュエルの手を両手で握った。その指は、驚くほど冷たかった。
「お父上から、話は聞いているよ。うちはいつでも歓迎だ。君のような才能ある若者を、つまらない噂で潰すような学校ではないからね」
「ありがとうございます。でも、九月からもホグワーツに通います」
「……ほう」
カルカロフの笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。
「まあ、気が変わったら、いつでも言いたまえ」
城の中は、外よりもさらに冷えていた。廊下の暖炉には一日じゅう火が焚かれ、食堂には、燻製の鱒と黒いライ麦パン、赤いビーツのスープが並んだ。ボーバトンの生徒たちは、淡い青の絹の制服の上に毛皮を何枚も重ねて、震えながらスープをすすっていた。
*
合宿の初日から、サミュエルはいつも通りに振る舞った。
各国の生徒と気さくに挨拶を交わし、教授たちの質問に的確に答え、食堂では隣の席の誰とでも話を合わせた。二年前の合宿と、何も変わらない。誰が見ても、そう見えたはずだった。
ただ、耳だけが、いつもと違っていた。
廊下の角を曲がるとき。食堂の列に並ぶとき。中庭を横切るとき。背後で交わされる囁き声に、自分の名前が混じっていないか、気がつくと耳をそばだてていた。
「――あれが、ヴェスゲレート?」
「新聞の、あの……」
「ブラックの息子だって本当?」
囁きは、振り返ると止んだ。ほとんど誰も、面と向かっては何も言わなかった。
一人だけ、例外がいた。
「おい、ブラックの息子」
二日目の昼食の列で、ダームストラングの上級生が、わざと大きな声で言った。肩幅の広い、赤ら顔の男だった。
「親父の居場所、知ってるんじゃないのか。魔法省が、血眼になって探してるぞ」
食堂じゅうが、しんとなった。
サミュエルは、ゆっくりと振り向いて、にっこりと笑った。
「知ってたら、とっくに懸賞金で城を一つ買ってるよ。君の学校より、少し暖かいやつをね」
一瞬の間があって、食堂のあちこちから笑い声が上がった。ボーバトンの生徒たちが、くすくすと肩を震わせている。赤ら顔の上級生は、顔をさらに赤くして、列から離れていった。
うまくやれた。少なくとも、表向きは。
それでも、囁きは聞こえていた。聞こえないふりをして、笑顔で通り過ぎただけだった。
その夜、サミュエルは、明け方まで眠れなかった。
割り当てられた寝室のベッドに横になると、昼間の囁き声が、一つ一つ頭の中で繰り返された。あの子は、何と言っていたか。あの教授の目は、どこを見ていたか。
柄にもない、と自分でも思った。
どう見られるかは、ずっと気にしてきた。けれど、それは、自分の手で形を整えられる見られ方だった。自分の知らないところで、勝手に決められていく見られ方を、気にしたことは、一度もなかった。
*
三日目の夜、サミュエルは、城壁の上の見張り通路で湖を眺めていた。
北の夏の夜は、なかなか暗くならない。十時を過ぎても、空の端はまだ薄い青色を残していた。
「――今日も一日、ずっと耳をそばだてていたわね」
振り返ると、銀色がかったブロンドの髪が、夜風に揺れていた。
フラーだった。ボーバトンの淡い青の制服の上に、ダームストラングで借りたらしい分厚い毛皮のショールを羽織っている。二年前より背が伸びて、顔立ちから子供っぽさが抜けていた。
「……そんなに、分かりやすかった?」
「私以外には、分からないと思うわ」
フラーは、サミュエルの隣に並んで、石の手すりに肘をついた。
「私も、ずっとそうだったから。廊下で誰かが囁くたびに、私の顔の話をしているのか、それとも、私のおばあさまの血の話をしているのか、確かめずにいられなかった」
フラーの祖母は、ヴィーラだと聞いていた。
「……新聞のこと、読んだ?」
「ええ。フランスでも、少しだけ載ったわ」
フラーは、湖を見たまま言った。
「くだらない記事。亡くなった人の日記を勝手に読んで、子供の生まれを詮索するなんて」
サミュエルは、しばらく黙っていた。
「……嫌われるのが、怖いんだと思う」
口に出してから、自分で驚いた。
誰にも言ったことのない言葉だった。言おうと思ったことすらなかった。
「今まで、誰からも嫌われたことがなかった。それが当たり前だと思ってた。でも、本当は、そうなるように、ずっと気をつけてただけなんだ。それが、自分の知らないところで、勝手に崩れていく。それが……」
言葉が、続かなかった。
フラーは、何も言わなかった。ただ、手すりの上の、サミュエルの手の隣に、自分の手をそっと置いた。触れてはいない。ただ、隣に。
「サミュエル」
「うん」
「あなたは、私の顔を見ても、何も思わないって言ったわね。一年生のとき」
「きれいだとは思う、って言ったよ」
「ええ。でも、それよりも、私が自分で見つけた杖の返し方のほうに興味があるって」
フラーは、ようやくこちらを向いた。
「私は、あのときのあなたを知ってる。噂の中のあなたじゃなくて。だから、私は、あなたを嫌ったりしない」
夜風が、二人の間を吹き抜けていった。
合宿で顔を合わせるのは、二年ぶりだった。それなのに、話しはじめると、間はすぐに埋まった。年も、学校も、国も違う。けれど、一年生の合宿で杖の返し方を見せ合ったときから、この人の前では、上手に笑う必要がなかった。うまい呪文はうまいと言われ、雑な呪文は雑だと言われた。
良い友人だった。
だから、さっきの言葉も、口から出たのだと思った。
サミュエルは、ローブのポケットから、小さな氷の欠片を二つ取り出した。食堂の水差しから、こっそりもらってきたものだった。
手すりの上に並べて、扇を軽く振る。
氷の欠片から、透き通った芽がのびた。枝分かれし、花弁を一枚ずつ開いていく。北の夜の薄明かりの中で、二輪の氷の薔薇が、手すりの上に咲いた。
「……約束、遅くなった」
フラーは、二輪の薔薇を見つめて、しばらく何も言わなかった。
それから、ふっと笑った。一年生の玄関ホールで「生意気な子」と言ったときと、同じ笑い方だった。
「二年も待たせるなんて。本当に、生意気な子」
フラーは、薔薇の一輪をそっと指先でつついた。冷たさに、小さく肩をすくめる。
「一輪は、ガブリエルにあげてもいい? 妹なの。まだ小さいの。氷の薔薇の話をしたら、ずっと見たいって言ってたの」
「溶けないように、冷却呪文をかけておくよ。一年くらいはもつ」
「一年?」
「来年の合宿で、また咲かせればいい」
フラーは、少しだけ驚いたような顔をして、それから、またふっと笑った。
*
合宿の五日目、大広間で表彰式が開かれた。
各校の最優秀生徒が一人ずつ選ばれ、魔法省の役人から記念の盾を受け取る。今年のボーバトンの最優秀生徒は、フラー・デラクールだった。
式のあと、大広間の隅で、新聞記者たちがフラーを囲んだ。羽根ペンが、メモ帳の上で勝手に走り回っている。
「デラクールさん、受賞おめでとうございます。今のお気持ちは?」
「光栄だわ。ボーバトンの名に恥じないよう、これからも努力します」
「この合宿には、ホグワーツのヴェスゲレート君も参加していますね。例の記事については、どうお考えですか?」
大広間の空気が、わずかに張り詰めた。
少し離れた柱の陰で、サミュエルは足を止めた。
フラーは、記者の顔をまっすぐに見た。
「人の家族の不幸を見出しにして売るような新聞は、ボーバトンでは誰も読まないわ」
羽根ペンが、ぴたりと止まった。
「サミュエル・ヴェスゲレートは、私が知っている中で、一番誠実な魔法使いよ。彼のことを書きたいなら、彼の魔法のことを書いたらどう? 少なくとも、そのほうがずっと読む価値があるもの」
フラーは、それだけ言うと、記者たちに背を向けた。
壁際では、ダームストラングの生徒が一人、腕を組んでその様子を見ていた。クラムだった。サミュエルと目が合うと、彼は小さく顎を引いた。
「新聞、読まない」
すれ違いざま、クラムがぼそりと言った。
「あれは、嘘ばかり。……あの女、いいこと言った」
*
三日後、合宿の最終日の朝。
朝食の席に届いた日刊予言者新聞を広げた瞬間、食堂のあちこちで、ひそひそ声が上がった。
六面の、半分ほどを使った記事だった。
〈ボーバトンの才媛とホグワーツの俊英、秘めた熱愛――北の古城で咲いた「氷の薔薇」〉
写真が、一枚。
城の外壁の見張り通路。並んで手すりに肘をつく二人。手すりの上に、二輪の氷の薔薇。夜の薄明かりの中で、写真の二人は、何度も顔を見合わせては、また湖のほうへ向き直っていた。
〈表彰式でデラクール嬢が見せた、ヴェスゲレート少年への熱烈な擁護。その裏には、合宿の夜に交わされた、ひそやかな約束があった――〉
サミュエルは、新聞を握りしめた。
誰が撮ったのか、分からなかった。あの夜、見張り通路には、二人のほかに誰もいないと思っていた。
フラーは、自分を庇ってくれただけだった。彼女なりの誠実さで、まっすぐに。
それが、こういう形で返ってきた。
ボーバトンのテーブルを見ると、フラーが新聞を手に、真っ白な顔で固まっていた。目が合った。彼女の唇が、声を出さずに動いた。
――ごめんなさい。
サミュエルは、首を横に振った。
謝るのは、彼女ではなかった。
帰りの移動キーを待つ玄関ホールで、カルカロフが近づいてきた。毛皮のマントの襟を、指で撫でている。
「新聞を読んだよ。若いというのは、いいものだね」
カルカロフは、薄く笑った。
「だが、ホグワーツは、ますます居心地が悪くなるだろう。脱獄囚の息子で、ボーバトンの娘の恋人。噂好きの連中には、たまらない取り合わせだ。――気が変わったら、いつでも」
「お気遣い、ありがとうございます」
サミュエルは、完璧な笑顔で一礼した。
「でも、居心地のいい場所で学べることは、たぶん、もう全部学んでしまったので」
カルカロフの細い顎髭が、ぴくりと動いた。
*
屋敷に戻ると、書斎の机の上に、父からの短い手紙が置いてあった。直接話すつもりは、ないらしかった。
羊皮紙には、いつもの角ばった字で、数行だけが書かれていた。
〈新聞は読んだ。ちょうどいい。
人というのは、結局のところ、犯罪よりも色恋沙汰を好む生き物だ。ブラックの件よりも、デラクールの娘との話のほうが、ずっと長く噂の種になる。
この話を、否定するな。肯定もするな。曖昧にしておけ。ブラックの一件を覆い隠す、ちょうどいい隠れ蓑になる。
ダームストラングの件は、保留とする。〉
サミュエルは、手紙を二度読んだ。
怒りは、湧いてこなかった。
ただ、胸の奥のどこかが、また一つ、音もなく冷えていくのが分かった。
父が守りたいものは、噂でも、血筋でもなかった。次の当主の座を、自分の家に残すことだった。
肖像画の当主たちが、何度も話して聞かせた。バーク家は、闇の魔道具を商う、商人の一族だ。聖28一族に数えられてはいるが、名簿に載った家でも、本当に純血のまま残っているところは、ほとんどない。どこも、都合の悪い枝を家系図から消して、体裁を繕っているだけだ。
商人は、体裁と商いを分けて考える。名簿は客に見せる顔で、家を回すのに要るのは、血と実績だった。
当主を選ぶのは、長老会だ。若い頃の父は、兄と弟に挟まれた三人の候補の一人だった。その争いに、父は、英雄を妻にすることで勝った。母の名声が、父の実績に数えられた。
だから、今のサミュエルは、当主の子として、本家筋の跡取り候補に数えられている。名は、まだ許されていない。半純血の子に名を与えないのが、名簿の体裁だからだ。それを曲げられるのは、長老会が正式な跡取りと認めたときだけだった。
叔父たちの子供も、候補の末席には並んでいる。けれど、誰一人、前に出てこない。サミュエルが、あまりに優秀すぎるからだった。
その席を危うくするものが、ただ一つだけある。サミュエルがシリウス・ブラックの子だと、事実として認められることだ。バークの血を引かない者を、長老会が跡取りに置いておく理由は、どこにもない。次の当主の座は、父がかつて負かした、兄と弟の家へ戻っていく。
父は、血筋のことなど、気にしていなかった。当主になるために、母を妻にした人だ。恐れているのは、噂が事実になることだけだった。だから、フラーの名前を使う。
フラーが、あの夜、手すりの上に置いてくれた手。触れずに、ただ隣に。二年越しの約束の、二輪の氷の薔薇。
父にとっては、全部、隠れ蓑だった。
熱愛でも、秘めた約束でもない。ただの、良い友人だった。その友人の名前を、これから、自分の口で濁し続けなければならない。
その晩、フランスから、白い上等な紙の手紙が届いた。
〈ごめんなさい。あなたを守りたかっただけなのに、もっと面倒なことにしてしまった。
新聞社には、ボーバトンから正式に抗議をしてもらうわ。それで記事が消えるとは思わないけれど。
氷の薔薇は、ガブリエルが毎朝眺めています。――F〉
サミュエルは、すぐに返事を書いた。
〈謝ることは何もない。君は、正しいことを言っただけだ。
抗議はしなくていい。たぶん、記事がもっと長くなるだけだから。〉
父の指示のことは、書かなかった。
サミュエルは、父の手紙を丁寧に畳んで、机の上に戻した。
破りも、燃やしもしなかった。そうする理由すら、今は見つからなかった。