八月の最後の夜、父は、久しぶりに夕食の席に着いた。
ダームストラングの件で口論になって以来、父と同じテーブルで食事をするのは初めてだった。食堂の白いテーブルクロスには、あの夜のワインの染みが、まだうっすらと残っていた。
「明日から、通常どおりホグワーツへ行け」
父は、羊肉を切りながら言った。
「デラクールの娘の件が、思った以上に効いている。ノクターン横丁でも、ブラックの名前とお前の名前を一緒に口にする者は、ずいぶん減った。ブラックそのものの話は、相変わらず新聞に載っているがな」
「はい」
「ただし、二つ守れ」
父は、ナイフを置いた。
「ブラックのことを聞かれたら、無関係だと答えろ。会ったこともない、何も知らない、と。それ以上は、一言も付け加えるな」
「はい」
「デラクールの娘のことを聞かれたら、否定するな。肯定もするな。笑って、はぐらかせ。噂というのは、本人が濁せば濁すほど、長持ちする」
「……はい、父上」
父は満足そうに頷いて、また羊肉を切り始めた。
「ホグズミード村の外出許可証は」
「机の上に置いておきました」
「署名しておく。顔を出せる場所には、顔を出しておけ。隠れているように見えるのが、一番よくない」
それ以上、会話はなかった。
翌朝、キングズ・クロス駅の九と四分の三番線で、ピッピーがトランクを列車に積みこんだ。いつもならすぐに姿を消すのに、その朝は、ホームの柱の陰で、列車が動き出すまでずっとこちらを見ていた。
*
ホグワーツ特急は、途中で一度、真っ暗なまま停まった。
窓の外は、冷たい雨だった。客車の灯りが一斉に消え、どこか前のほうの車両で、誰かの悲鳴が聞こえた。サミュエルのコンパートメントは最後尾で、しばらくすると灯りが戻り、列車はまた動き出した。
何があったのかは、ホグワーツに着いてから知った。
吸魂鬼が、ブラックを探して列車の中を見回っていたらしい。ハリーが、それに当てられて気を失ったという。
大広間の新学期の宴会で、ダンブルドアが立ち上がった。
「アズカバンの看守である吸魂鬼たちが、魔法省の要請で、学校の入口という入口を固めておる。シリウス・ブラックが捕まるまでの間じゃ。彼らは、言い訳もごまかしも通じん相手じゃ。決して、彼らに手出しする口実を与えぬように」
大広間が、しんと静まり返った。
何百という目が、ちらちらとグリフィンドールのテーブルの一点を盗み見ているのを、サミュエルは背中で感じていた。
ダンブルドアは、続けて新しい先生を紹介した。
「闇の魔術に対する防衛術の、ルーピン先生じゃ」
つぎはぎだらけのローブを着た、白髪まじりの若い魔法使いが立ち上がった。くたびれた顔をしていたが、目は穏やかだった。
宴会のあと、談話室へ戻る階段の途中で、ハーマイオニーが隣に並んだ。
夏休みのあいだに日焼けしたのか、頬が少しだけ色づいている。けれど、表情は硬かった。
「新聞、フランスで読んだわ」
「……そう」
「お母様のこと。本当に、残念だったわね」
「ありがとう」
「……図書室で、目覚めさせなきゃいけないって、言ってたのに」
小さな声だった。学年末の図書室で、母のことを話したのは、彼女にだけだった。
「うん。……言ってた」
それ以上、何と言えばいいのか、分からなかった。
ハーマイオニーは、階段の手すりに目を落とした。
「手紙を、書こうと思ったの。何度も。でも、何て書けばいいのか、分からなくて。書いては破って、また書いて……結局、一通も出せなかった」
「……来なかったのは、そういうことか」
「え?」
「何でもない」
サミュエルは、少しだけ笑った。毎朝、ふくろうの羽音がするたびに窓を見ていたことは、言わなかった。
「気にしなくていい。来てくれたら、たぶん、返事に困ってた」
ハーマイオニーは、何か言いたそうに口を開いた。けれど、そのとき後ろからロンが追いついてきて、言葉はそのまま消えた。
*
次の日の朝から、サミュエルは、どこへ行っても同じことを聞かれた。
「ねえ、フラー・デラクールと付き合ってるって、本当?」
朝食の席で、ラベンダーが身を乗り出してきた。隣で、パーバティが目を輝かせている。
「新聞の写真、見たわよ! 氷の薔薇! 二輪も!」
「さあ、どうだろうね」
サミュエルは、トーストにマーマレードを塗りながら、にやりと笑った。
「えーっ、教えてよ!」
「秘密」
「秘密ってことは、本当なのね!」
「そうは言ってないよ」
ラベンダーとパーバティが、顔を見合わせて、きゃあっと声を上げた。
否定はしなかった。肯定もしなかった。父の言ったとおりに。
昼休みの廊下では、ハッフルパフの女の子たちに囲まれた。
「ボーバトンって、どんなところ? デラクールさんって、本当にあんなにきれいなの?」
「きれいだよ。でも、それより呪文の腕がすごい」
「わあ……」
呪文学の教室の前では、レイブンクローの上級生に。
「あの記事、どこまで本当なの?」
サミュエルは、意味ありげに黙って、肩をすくめた。それだけで、上級生は「やっぱり」と満足げに頷いて去っていった。
思わせぶりな笑み。意味深な沈黙。話題をそらす一言。
一つ一つは、小さな仕草だった。けれど、それが積み重なるたびに、噂は形を持っていった。一週間もしないうちに、グリフィンドールの談話室では、サミュエルとフラーの関係は「誰もが知っている事実」になっていた。
ブラックのことを聞いてくる生徒も、いた。
「本当に、シリウス・ブラックの息子なの?」
スリザリンの、あまり話したことのない上級生だった。
「無関係だよ。会ったこともない」
サミュエルは、それだけ答えた。笑顔のまま、一言も付け加えなかった。
*
九月の二週目には、別の騒ぎもあった。
ハグリッドの初めての魔法生物飼育学の授業で、ドラコがヒッポグリフに腕を引っかかれたのだ。ドラコは、その日から三角巾で腕を吊り、事あるごとに大げさに顔をしかめてみせた。
「これは、一生残る傷かもしれないんだぞ。父上が、黙っていないからな」
地下牢の前の廊下で、ドラコがクラッブとゴイルに言っているのが聞こえた。
「ドラコ。その三角巾、右と左が逆じゃない? 怪我したのは、たしか右腕だろう」
サミュエルが通りすがりに言うと、ドラコは慌てて自分の腕を見下ろし、それから真っ赤になった。
「う、うるさい! 両方痛いんだ!」
クラッブとゴイルが、こらえきれずに噴き出した。
*
最初の闇の魔術に対する防衛術の授業は、まね妖怪だった。
古い洋服だんすから出てきたまね妖怪は、ネビルの前でスネイプになり、ロンの前で大蜘蛛になり、パーバティの前でミイラになった。「リディクラス!」の声と、笑い声が、教室じゅうに響いた。
サミュエルの番が来た。
まね妖怪は、サミュエルの前で、ぐにゃりと形を崩した。何かになろうとして、何にもなれないまま、ふっと消えた。
一瞬、教室が静まり返った。それから、歓声が上がった。
「さすがサミュエル!」
「怖いもの、ないのかよ!」
サミュエルは、いつもの笑顔で、肩をすくめてみせた。
授業のあと、ルーピン先生に呼び止められた。
「ミスター・ヴェスゲレート。少しいいかな」
教室には、もう誰も残っていなかった。ルーピン先生は、教卓に軽く腰をもたせかけて、穏やかな目でこちらを見た。
「君は、お母さんによく似ているね」
サミュエルは、わずかに目を細めた。
「母を、ご存じなんですか」
「同じ時期に、ホグワーツにいたんだ。寮は違ったけれどね。……とても優秀な人だった。誰よりも」
ルーピン先生は、言葉を探すように間を置いた。
「お悔やみを言わせてほしい。それから、さっきのまね妖怪のことだけれど。……怖いものがないのと、怖いものが形にならないのとは、違う。もし、何か話したくなったら、私の部屋はいつでも開いている。それだけ、言っておきたかった」
「ありがとうございます」
サミュエルは、いつもの笑顔で一礼した。
教室を出るとき、背中に、ルーピン先生の視線を感じた。何かを確かめようとするような、少しだけ痛ましそうな視線だった。
*
「で、本当なのか?」
夜の談話室で、ロンがチェス盤を挟んで、声をひそめた。
「フラー・デラクール。ラベンダーたちが、もう婚約したとか言ってるぞ」
「ロンにも、秘密」
「なんだよ、それ!」
ロンが盤の上の駒を倒しそうになった。隣の椅子で、ハリーが小さく笑った。
ハリーの顔色は、新学期が始まってからずっと悪かった。吸魂鬼の件で、スリザリンの生徒たちに散々からかわれているらしい。それに、シリウス・ブラックがハリーの命を狙っている、という噂も、どこからか流れていた。
「サミュエルは」
ハリーが、ためらいがちに言った。
「ブラックのこと、どう思ってるの?」
サミュエルは、駒を一つ動かした。
「会ったこともない人だよ」
ハリーは、それ以上は聞かなかった。聞かないでいてくれることが、分かっていた。
ハリーの向こうでは、ハーマイオニーの新しい猫が、ロンの鞄の上に乗っていた。オレンジ色の、潰れたような顔の大きな猫だった。クルックシャンクスという名前らしい。猫は、ロンの胸ポケットから顔を出しているスキャバーズを、じっと見つめていた。
「おい、その猫をどけろよ! スキャバーズを狙ってるだろ!」
「狙ってないわ。猫は、鼠を見るのが好きなだけよ」
「それを狙ってるって言うんだ!」
「まあまあ」
サミュエルは、クルックシャンクスの喉を指で軽く撫でた。猫は、ごろごろと喉を鳴らして、ロンの鞄からサミュエルの膝へと移った。
「ほら、こっちのほうが座り心地がいいって」
「……あいつ、サミュエルには懐くんだよな」
ロンが、面白くなさそうに言った。
暖炉の向こうの机で、ハーマイオニーが本の山に埋もれていた。
今年、彼女は信じられないほど多くの授業を取っていた。数占い、古代ルーン文字、マグル学、占い学。時間割を見せてもらったとき、同じ時刻に三つの授業が重なっているのに気づいた。
「どうやって、全部出るの?」
「何とかなるのよ」
それだけ言って、彼女は時間割をしまった。目の下に、薄い隈ができていた。
ラベンダーが、ハーマイオニーの机の横を通り過ぎながら、わざと聞こえるように言った。
「ねえ、サミュエルとデラクールさん、クリスマスに会うのかしら。素敵よねえ」
ハーマイオニーの羽根ペンが、ほんの一瞬だけ止まった。
それから、また動き出した。
サミュエルは、その一瞬を見ていた。
*
それから数日、ハーマイオニーの様子が、少しだけ変わった。
話しかければ、答える。からかえば、言い返す。いつもと同じだった。
けれど、言い返す声が、ほんの少しだけ短かった。目が合うと、彼女のほうが先にそらすようになった。廊下ですれ違うとき、以前なら何か一言言ってきた場面で、黙って通り過ぎるようになった。
学年末の図書室で、銀色の鶴を見せてくれた人とは、別の人のようだった。
ある夜、談話室の階段の前で、すれ違いざまに、ハーマイオニーが言った。
「……おめでとう、って言うべきかしら」
「何を?」
ハーマイオニーは、振り返らなかった。
「……なんでもないわ。おやすみ」
女子寮の階段を上っていく足音は、一度も止まらなかった。
サミュエルは、階段の下に立ったまま、その足音を聞いていた。
否定すれば、よかったのかもしれない。フラーとは、そういう関係ではない、と。たった一言で済んだはずだった。
けれど、それは父の指示に背くことだった。
そして、何より――否定したところで、では本当は何なのかと聞かれたら、自分は何と答えるのか。それが、分からなかった。
学年末の図書室で、「私は、あなたにとってなに?」と聞かれたときと、同じだった。
サミュエルは、階段の手すりを握りしめた。
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。その音が、いつもより遠く聞こえた。
*
次の日曜日の午後、気がつくと、湖のほとりを歩いていた。
城から一番遠い、向こう岸の小さな入り江。誰も来ない場所だった。去年の秋にも、何度か一人で来たことがある。なぜここに足が向くのか、自分でもよく分からなかった。
岸辺の平たい石に腰を下ろして、日が傾くまで、黙って水面を眺めていた。
水面に、夕焼けの雲が映っていた。風が吹くたびに、雲は崩れて、またゆっくりと元の形に戻っていく。
誰かと一緒に来たら、何を話すだろう。
そんなことを、ふと思った。誰と、という顔だけが、なぜかはっきりと浮かんで、サミュエルは慌てて目を閉じた。