ハーマイオニー・グレンジャーと緋色の予見者   作:スウィフト

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二十七話∶たくさんのこと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 八月の最後の夜、父は、久しぶりに夕食の席に着いた。

 

 ダームストラングの件で口論になって以来、父と同じテーブルで食事をするのは初めてだった。食堂の白いテーブルクロスには、あの夜のワインの染みが、まだうっすらと残っていた。

 

「明日から、通常どおりホグワーツへ行け」

 

 父は、羊肉を切りながら言った。

 

「デラクールの娘の件が、思った以上に効いている。ノクターン横丁でも、ブラックの名前とお前の名前を一緒に口にする者は、ずいぶん減った。ブラックそのものの話は、相変わらず新聞に載っているがな」

 

「はい」

 

「ただし、二つ守れ」

 

 父は、ナイフを置いた。

 

「ブラックのことを聞かれたら、無関係だと答えろ。会ったこともない、何も知らない、と。それ以上は、一言も付け加えるな」

 

「はい」

 

「デラクールの娘のことを聞かれたら、否定するな。肯定もするな。笑って、はぐらかせ。噂というのは、本人が濁せば濁すほど、長持ちする」

 

「……はい、父上」

 

 父は満足そうに頷いて、また羊肉を切り始めた。

 

「ホグズミード村の外出許可証は」

 

「机の上に置いておきました」

 

「署名しておく。顔を出せる場所には、顔を出しておけ。隠れているように見えるのが、一番よくない」

 

 それ以上、会話はなかった。

 

 翌朝、キングズ・クロス駅の九と四分の三番線で、ピッピーがトランクを列車に積みこんだ。いつもならすぐに姿を消すのに、その朝は、ホームの柱の陰で、列車が動き出すまでずっとこちらを見ていた。

 

*

 

 ホグワーツ特急は、途中で一度、真っ暗なまま停まった。

 

 窓の外は、冷たい雨だった。客車の灯りが一斉に消え、どこか前のほうの車両で、誰かの悲鳴が聞こえた。サミュエルのコンパートメントは最後尾で、しばらくすると灯りが戻り、列車はまた動き出した。

 

 何があったのかは、ホグワーツに着いてから知った。

 

 吸魂鬼が、ブラックを探して列車の中を見回っていたらしい。ハリーが、それに当てられて気を失ったという。

 

 大広間の新学期の宴会で、ダンブルドアが立ち上がった。

 

「アズカバンの看守である吸魂鬼たちが、魔法省の要請で、学校の入口という入口を固めておる。シリウス・ブラックが捕まるまでの間じゃ。彼らは、言い訳もごまかしも通じん相手じゃ。決して、彼らに手出しする口実を与えぬように」

 

 大広間が、しんと静まり返った。

 

 何百という目が、ちらちらとグリフィンドールのテーブルの一点を盗み見ているのを、サミュエルは背中で感じていた。

 

 ダンブルドアは、続けて新しい先生を紹介した。

 

「闇の魔術に対する防衛術の、ルーピン先生じゃ」

 

 つぎはぎだらけのローブを着た、白髪まじりの若い魔法使いが立ち上がった。くたびれた顔をしていたが、目は穏やかだった。

 

 宴会のあと、談話室へ戻る階段の途中で、ハーマイオニーが隣に並んだ。

 

 夏休みのあいだに日焼けしたのか、頬が少しだけ色づいている。けれど、表情は硬かった。

 

「新聞、フランスで読んだわ」

 

「……そう」

 

「お母様のこと。本当に、残念だったわね」

 

「ありがとう」

 

「……図書室で、目覚めさせなきゃいけないって、言ってたのに」

 

 小さな声だった。学年末の図書室で、母のことを話したのは、彼女にだけだった。

 

「うん。……言ってた」

 

 それ以上、何と言えばいいのか、分からなかった。

 

 ハーマイオニーは、階段の手すりに目を落とした。

 

「手紙を、書こうと思ったの。何度も。でも、何て書けばいいのか、分からなくて。書いては破って、また書いて……結局、一通も出せなかった」

 

「……来なかったのは、そういうことか」

 

「え?」

 

「何でもない」

 

 サミュエルは、少しだけ笑った。毎朝、ふくろうの羽音がするたびに窓を見ていたことは、言わなかった。

 

「気にしなくていい。来てくれたら、たぶん、返事に困ってた」

 

 ハーマイオニーは、何か言いたそうに口を開いた。けれど、そのとき後ろからロンが追いついてきて、言葉はそのまま消えた。

 

*

 

 次の日の朝から、サミュエルは、どこへ行っても同じことを聞かれた。

 

「ねえ、フラー・デラクールと付き合ってるって、本当?」

 

 朝食の席で、ラベンダーが身を乗り出してきた。隣で、パーバティが目を輝かせている。

 

「新聞の写真、見たわよ! 氷の薔薇! 二輪も!」

 

「さあ、どうだろうね」

 

 サミュエルは、トーストにマーマレードを塗りながら、にやりと笑った。

 

「えーっ、教えてよ!」

 

「秘密」

 

「秘密ってことは、本当なのね!」

 

「そうは言ってないよ」

 

 ラベンダーとパーバティが、顔を見合わせて、きゃあっと声を上げた。

 

 否定はしなかった。肯定もしなかった。父の言ったとおりに。

 

 昼休みの廊下では、ハッフルパフの女の子たちに囲まれた。

 

「ボーバトンって、どんなところ? デラクールさんって、本当にあんなにきれいなの?」

 

「きれいだよ。でも、それより呪文の腕がすごい」

 

「わあ……」

 

 呪文学の教室の前では、レイブンクローの上級生に。

 

「あの記事、どこまで本当なの?」

 

 サミュエルは、意味ありげに黙って、肩をすくめた。それだけで、上級生は「やっぱり」と満足げに頷いて去っていった。

 

 思わせぶりな笑み。意味深な沈黙。話題をそらす一言。

 

 一つ一つは、小さな仕草だった。けれど、それが積み重なるたびに、噂は形を持っていった。一週間もしないうちに、グリフィンドールの談話室では、サミュエルとフラーの関係は「誰もが知っている事実」になっていた。

 

 ブラックのことを聞いてくる生徒も、いた。

 

「本当に、シリウス・ブラックの息子なの?」

 

 スリザリンの、あまり話したことのない上級生だった。

 

「無関係だよ。会ったこともない」

 

 サミュエルは、それだけ答えた。笑顔のまま、一言も付け加えなかった。

 

*

 

 九月の二週目には、別の騒ぎもあった。

 

 ハグリッドの初めての魔法生物飼育学の授業で、ドラコがヒッポグリフに腕を引っかかれたのだ。ドラコは、その日から三角巾で腕を吊り、事あるごとに大げさに顔をしかめてみせた。

 

「これは、一生残る傷かもしれないんだぞ。父上が、黙っていないからな」

 

 地下牢の前の廊下で、ドラコがクラッブとゴイルに言っているのが聞こえた。

 

「ドラコ。その三角巾、右と左が逆じゃない? 怪我したのは、たしか右腕だろう」

 

 サミュエルが通りすがりに言うと、ドラコは慌てて自分の腕を見下ろし、それから真っ赤になった。

 

「う、うるさい! 両方痛いんだ!」

 

 クラッブとゴイルが、こらえきれずに噴き出した。

 

*

 

 最初の闇の魔術に対する防衛術の授業は、まね妖怪だった。

 

 古い洋服だんすから出てきたまね妖怪は、ネビルの前でスネイプになり、ロンの前で大蜘蛛になり、パーバティの前でミイラになった。「リディクラス!」の声と、笑い声が、教室じゅうに響いた。

 

 サミュエルの番が来た。

 

 まね妖怪は、サミュエルの前で、ぐにゃりと形を崩した。何かになろうとして、何にもなれないまま、ふっと消えた。

 

 一瞬、教室が静まり返った。それから、歓声が上がった。

 

「さすがサミュエル!」

 

「怖いもの、ないのかよ!」

 

 サミュエルは、いつもの笑顔で、肩をすくめてみせた。

 

 授業のあと、ルーピン先生に呼び止められた。

 

「ミスター・ヴェスゲレート。少しいいかな」

 

 教室には、もう誰も残っていなかった。ルーピン先生は、教卓に軽く腰をもたせかけて、穏やかな目でこちらを見た。

 

「君は、お母さんによく似ているね」

 

 サミュエルは、わずかに目を細めた。

 

「母を、ご存じなんですか」

 

「同じ時期に、ホグワーツにいたんだ。寮は違ったけれどね。……とても優秀な人だった。誰よりも」

 

 ルーピン先生は、言葉を探すように間を置いた。

 

「お悔やみを言わせてほしい。それから、さっきのまね妖怪のことだけれど。……怖いものがないのと、怖いものが形にならないのとは、違う。もし、何か話したくなったら、私の部屋はいつでも開いている。それだけ、言っておきたかった」

 

「ありがとうございます」

 

 サミュエルは、いつもの笑顔で一礼した。

 

 教室を出るとき、背中に、ルーピン先生の視線を感じた。何かを確かめようとするような、少しだけ痛ましそうな視線だった。

 

*

 

「で、本当なのか?」

 

 夜の談話室で、ロンがチェス盤を挟んで、声をひそめた。

 

「フラー・デラクール。ラベンダーたちが、もう婚約したとか言ってるぞ」

 

「ロンにも、秘密」

 

「なんだよ、それ!」

 

 ロンが盤の上の駒を倒しそうになった。隣の椅子で、ハリーが小さく笑った。

 

 ハリーの顔色は、新学期が始まってからずっと悪かった。吸魂鬼の件で、スリザリンの生徒たちに散々からかわれているらしい。それに、シリウス・ブラックがハリーの命を狙っている、という噂も、どこからか流れていた。

 

「サミュエルは」

 

 ハリーが、ためらいがちに言った。

 

「ブラックのこと、どう思ってるの?」

 

 サミュエルは、駒を一つ動かした。

 

「会ったこともない人だよ」

 

 ハリーは、それ以上は聞かなかった。聞かないでいてくれることが、分かっていた。

 

 ハリーの向こうでは、ハーマイオニーの新しい猫が、ロンの鞄の上に乗っていた。オレンジ色の、潰れたような顔の大きな猫だった。クルックシャンクスという名前らしい。猫は、ロンの胸ポケットから顔を出しているスキャバーズを、じっと見つめていた。

 

「おい、その猫をどけろよ! スキャバーズを狙ってるだろ!」

 

「狙ってないわ。猫は、鼠を見るのが好きなだけよ」

 

「それを狙ってるって言うんだ!」

 

「まあまあ」

 

 サミュエルは、クルックシャンクスの喉を指で軽く撫でた。猫は、ごろごろと喉を鳴らして、ロンの鞄からサミュエルの膝へと移った。

 

「ほら、こっちのほうが座り心地がいいって」

 

「……あいつ、サミュエルには懐くんだよな」

 

 ロンが、面白くなさそうに言った。

 

 暖炉の向こうの机で、ハーマイオニーが本の山に埋もれていた。

 

 今年、彼女は信じられないほど多くの授業を取っていた。数占い、古代ルーン文字、マグル学、占い学。時間割を見せてもらったとき、同じ時刻に三つの授業が重なっているのに気づいた。

 

「どうやって、全部出るの?」

 

「何とかなるのよ」

 

 それだけ言って、彼女は時間割をしまった。目の下に、薄い隈ができていた。

 

 ラベンダーが、ハーマイオニーの机の横を通り過ぎながら、わざと聞こえるように言った。

 

「ねえ、サミュエルとデラクールさん、クリスマスに会うのかしら。素敵よねえ」

 

 ハーマイオニーの羽根ペンが、ほんの一瞬だけ止まった。

 

 それから、また動き出した。

 

 サミュエルは、その一瞬を見ていた。

 

*

 

 それから数日、ハーマイオニーの様子が、少しだけ変わった。

 

 話しかければ、答える。からかえば、言い返す。いつもと同じだった。

 

 けれど、言い返す声が、ほんの少しだけ短かった。目が合うと、彼女のほうが先にそらすようになった。廊下ですれ違うとき、以前なら何か一言言ってきた場面で、黙って通り過ぎるようになった。

 

 学年末の図書室で、銀色の鶴を見せてくれた人とは、別の人のようだった。

 

 ある夜、談話室の階段の前で、すれ違いざまに、ハーマイオニーが言った。

 

「……おめでとう、って言うべきかしら」

 

「何を?」

 

 ハーマイオニーは、振り返らなかった。

 

「……なんでもないわ。おやすみ」

 

 女子寮の階段を上っていく足音は、一度も止まらなかった。

 

 サミュエルは、階段の下に立ったまま、その足音を聞いていた。

 

 否定すれば、よかったのかもしれない。フラーとは、そういう関係ではない、と。たった一言で済んだはずだった。

 

 けれど、それは父の指示に背くことだった。

 

 そして、何より――否定したところで、では本当は何なのかと聞かれたら、自分は何と答えるのか。それが、分からなかった。

 

 学年末の図書室で、「私は、あなたにとってなに?」と聞かれたときと、同じだった。

 

 サミュエルは、階段の手すりを握りしめた。

 

 暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。その音が、いつもより遠く聞こえた。

 

*

 

 次の日曜日の午後、気がつくと、湖のほとりを歩いていた。

 

 城から一番遠い、向こう岸の小さな入り江。誰も来ない場所だった。去年の秋にも、何度か一人で来たことがある。なぜここに足が向くのか、自分でもよく分からなかった。

 

 岸辺の平たい石に腰を下ろして、日が傾くまで、黙って水面を眺めていた。

 

 水面に、夕焼けの雲が映っていた。風が吹くたびに、雲は崩れて、またゆっくりと元の形に戻っていく。

 

 誰かと一緒に来たら、何を話すだろう。

 

 そんなことを、ふと思った。誰と、という顔だけが、なぜかはっきりと浮かんで、サミュエルは慌てて目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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