ハロウィンの朝、城の玄関ホールは、浮き足立った三年生でいっぱいだった。
今年初めての、ホグズミード村への外出日だった。フィルチが、許可証の名簿と生徒の顔を一人ずつ見比べている。マフラーを二重に巻いたロンが、ハニーデュークスで何を買うかを指折り数え、ハーマイオニーが、叫びの屋敷を外から見てみたいと言っていた。
「サミュエル、行かないのか?」
玄関の扉の前で、ロンが振り返った。
「調べ物があってね。ゾンコの店で、何か面白いものがあったら教えて」
「調べ物って、ホグズミードより大事なのかよ……」
ロンは信じられないという顔で首を振って、ハーマイオニーと一緒に、霜の降りた校庭へ出ていった。
玄関ホールの隅には、ハリーが一人で立っていた。
許可証に、署名がもらえなかったのだ。ハリーを預かっている親戚が、サインを拒んだらしい。マクゴナガル先生にも、例外は認められなかった。
「ハリーも、居残り?」
「うん。……サミュエルは、どうして?」
「本当に、調べ物」
ハリーは、少しだけ羨ましそうな顔をした。
「僕も、何か調べ物でもしようかな。そうしたら、居残りでもかっこつくし」
「ルーピン先生のところに行ったら? ハリーのこと、気にかけてたよ。たぶん、お茶くらい出してくれる」
「……そうしてみる」
ハリーは、少しだけ明るい顔になって、階段を上っていった。
その朝届いた父からの手紙は、三行だけだった。
〈ホグズミードには顔を出しておけ。デラクールの娘の話を振られたら、例の通りに。
ルシウスの息子とは、人目のある場所で一度は話しておくこと。
成績表の写しを、学期末までに送れ。〉
どの行にも、サミュエル自身のことは一言も書かれていなかった。体の具合も、母のことも。
去年までなら、気にも留めなかった。父の手紙とは、そういうものだった。
今年は、読み終えるたびに、指先がわずかに冷たくなった。息子として扱われていないことを、父は、もう隠そうとすらしていない。
サミュエルは手紙を畳んで、ローブのポケットに押しこんだ。ホグズミードには、行かなかった。
*
図書室には、ほとんど誰もいなかった。
マダム・ピンスが、カウンターの奥で、傷んだ本の背を糊で修繕している。窓の外では、ホグズミードへ向かう生徒たちの最後の列が、校門の向こうへ消えていくところだった。
サミュエルは、図書室の一番奥の、普段は誰も近づかない棚の前に立った。
古い日刊予言者新聞を、一年分ずつ綴じた分厚い束が、何十冊も並んでいる。
一九八一年。十一月。
束を三冊抜き出して、閲覧机の上に広げた。黄ばんだ紙から、古いインクと埃の匂いが立ちのぼった。
〈ブラック、逮捕さる――十三人殺害、魔法界を震撼〉
一面の写真の中で、若い男が笑っていた。
今年の夏の新聞の、げっそりと痩せこけた顔ではなかった。整った顔立ち。肩まで伸びた、つややかな黒い髪。灰色の目。魔法省の役人に両腕をつかまれながら、男は、狂ったように笑い続けていた。
記事を読む。
シリウス・ブラック。名門ブラック家の長男。ホグワーツではグリフィンドール。闇の帝王の側近として、ポッター夫妻の居場所を密告したとされる。逮捕の直前、友人だったピーター・ペティグリューを、十二人のマグルもろとも、通りごと吹き飛ばした。ペティグリューの遺体で見つかったのは、指一本だけだった。
サミュエルは、写真の男の顔を、長いこと見ていた。
ブラック。
七歳の冬から毎晩、父の前で唱え続けた二十八の家名の、三番目だった。アボット、エイブリー、ブラック。一度も詰まらずに唱えられるようになるまで、九回やり直した。
その家の長男が、写真の中で笑っている。父の話では、ブラック家はこの男を家系図から焼き消したという。
この男が、自分の父親かもしれない。
そう思っても、何も感じなかった。怒りも、悲しみも、嫌悪も。ただ、知らない誰かの写真を見ているだけだった。
次の束を開く。もっと古い年。
ホグワーツの卒業生名簿の写し。ブラックの名前の近くに、もう一つの名前を探した。
アメリア・ヴェスゲレート。レイブンクロー。監督生。首席。
名簿の余白に、当時の誰かが鉛筆で走り書きをしていた。〈ヴェスゲレートに減点された回数 十七回〉。その下に、別の筆跡で〈俺は二十三回〉。
サミュエルは、思わず小さく笑いそうになって、やめた。
さらに古い年の束からは、母の名前が何度も出てきた。
〈若き英雄ヴェスゲレート、死喰い人五名を単独で拘束〉〈「未来が見える魔女」、またも襲撃を阻止〉
写真の中の母は、どれも笑っていなかった。杖を構えたまま、冷たい目でカメラの向こうを見据えている。
その年の秋の、社交欄の片隅に、小さな記事が一つだけあった。
〈英雄アメリア・ヴェスゲレート嬢、バーク家当主ロビンソン氏と婚約〉
日付は、ブラックとの「一夜」があったと手記に書かれていた夏から、わずか二か月後だった。
サミュエルは、その小さな記事を、しばらく指でなぞっていた。
*
なぜ、こんなことを調べているのか。
理由は、単純だった。自分の生まれに関わることだからだ。父が誰なのか。母が何を考えていたのか。新聞に書かれたことを、新聞に書かれたまま受け取るのは、性に合わなかった。
けれど、ページをめくりながら、頭の片隅では、別のことを考えていた。
七歳の冬。母が倒れて、バーク家に引き取られた最初の夜のことだ。
知らない屋敷の、知らない部屋で、サミュエルは泣くこともできずに、ベッドの端に座っていた。父が、扉の前に立っていた。
――いい子にしていれば、あの女を目覚めさせる手立てを探してやる。
父は、そう言った。
――本家の伝手で、植物状態の人間を治す魔道具を借りられるかもしれん。お前が、私の期待に応えればの話だが。
それから四年間、サミュエルは、父の期待に応え続けた。家庭教師が青ざめるほどの変身術を覚え、二十八の家名を一度も詰まらずに唱え、言われた言葉を、言われたとおりに口にした。
いつか、母が目を覚ます日のために。
その母は、今年の夏、「死んだ」。
ダームストラングへの転校を命じられたとき、断ったのは、ハーマイオニーの顔が浮かんだからだった。けれど、そのもっと奥のほうで、冷たい声が、一つだけ自分に問いかけていた。
――言うことを聞く理由が、もうあるのか?
*
閲覧机の上で、サミュエルは手を止めた。
母と暮らしていた頃のことを、思い出していた。
四歳の春、母は、サミュエルを連れてこの屋敷を出た。父は、止めなかった。英雄の夫という肩書きさえ残れば、それで充分だったのだろう。
中国の、川の近くの家だった。五歳の夏。川で、近所の子供たちが泳いでいるのを、窓から見ていた。
「お母さん、僕も行っていい?」
「もちろんよ。サミュエルのやりたいことを、やっていいのよ」
母は、いつもそう言った。
「でもね、川は危ないわ。流れが速いところもあるし、深いところもある。もしサミュエルに何かあったら、お母さん、とても悲しいわ」
母は、サミュエルの髪を撫でた。
「それより、お母さんと一緒に、新しい呪文の練習をしましょう。サミュエルは、きっと偉大な魔法使いになれるわ」
「……じゃあ、川には、お母さんと一緒に行ける?」
「お母さんは、お仕事があるの。また今度ね」
また今度、は、一度も来なかった。
サミュエルは、川へは行かなかった。
その次の日も。その次の夏も。
やりたいことをやっていい、と母は言った。けれど、母が「いい」と言うことしか、やらせてもらえなかった。何をするにも、一緒だった。母の目の届かないところへは、一歩も行かせてもらえなかった。
母の悲しむ顔を見たくなくて、サミュエルは、いつも母が望むほうを選んだ。
父は、期待に応えれば、望みを叶えてやると言った。
母は、悲しませなければ、愛してあげると言った。
言い方が、違うだけだった。
どちらも、サミュエルが自分で何かを選ぶことを、本当は望んでいなかった。
だから、母が「死んで」、父との約束が消えても、生活は何も変わらなかった。朝、目が覚めて、授業に出て、寮生たちに笑いかけて、夜、眠る。目標が一つ消えたところで、その手触りは、去年とまったく同じだった。
――なんだ。
サミュエルは、閲覧机に頬杖をついた。
――何も、変わらないのか。
醒めた実感だけが、胸の底に、静かに沈んでいった。
*
窓の外が、暗くなり始めていた。
遠くから、大広間のざわめきが聞こえてくる。ホグズミードから戻った生徒たちと、ハロウィンの宴会の始まりを告げる鐘の音。かぼちゃの焼ける甘い匂いが、廊下の向こうから、かすかに漂ってきた。
サミュエルは、図書室に残っていた。
閲覧机の上には、古い新聞の束と、卒業生名簿の写しと、自分の書き写した羊皮紙が、何枚も積み上がっていた。
ブラックの逮捕。ペティグリューの指。ポッター夫妻の死。母の首席の徽章。名簿の余白の、減点の走り書き。
まだ、何も分からなかった。
分かったのは、一つだけだった。
これは、誰に言われたことでもない。
父の期待に応えるためでも、母を悲しませないためでも、寮生たちに好かれるためでもない。誰も、サミュエルにこれを調べろとは言わなかった。調べたところで、誰も褒めてはくれない。むしろ、父が知れば、激怒するだろう。
それでも、調べたいと思った。
自分で、そう思った。
生まれて初めて、誰のためでもなく、自分のためだけに、何かをしている。
その事実が、思っていたよりもずっと、胸の奥に深く沈んでいった。重たくて、少しだけ、温かかった。
閲覧机の上に、ことり、と何かが置かれた。
顔を上げると、ハーマイオニーが立っていた。ホグズミード帰りの、頬の赤い顔。マフラーに、雪のかけらがついている。
机の上には、ハニーデュークスの小さな紙袋があった。
「ロンから。ゾンコの店で何か面白いものがあったら教えてって言ってたでしょう。面白いものはなかったから、代わりにお菓子だって」
「……ありがとう。ロンに伝えておいて」
ハーマイオニーの目が、閲覧机の上の新聞の束に落ちた。
〈ブラック、逮捕さる〉
彼女の表情が、ほんの少しだけ動いた。
「……それ、ブラックの?」
「暇つぶしさ」
「暇つぶしで、十二年前の新聞を三冊も?」
サミュエルは、何も答えずに、いつもの笑みを浮かべた。
ハーマイオニーは、しばらく黙ってこちらを見ていた。何か言いかけて、唇を引き結ぶ。夏の終わりから、二人の間ではそういうことが増えていた。
「……宴会、始まるわよ」
「もう少ししたら行く」
「そう」
彼女は、それだけ言って図書室を出ていった。扉が閉まる直前、一度だけ振り返った気がした。
「――閉館ですよ、ミスター・ヴェスゲレート。宴会には行かないのですか」
マダム・ピンスが、カウンターの奥から声をかけてきた。
「もう少しだけ、だめですか」
マダム・ピンスは、閲覧机の上の新聞の束を見て、眉をひそめた。それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「……あと三十分だけですよ。新聞の束は、ちゃんと元の棚に戻すこと」
「ありがとうございます」
サミュエルは、次の束を開いた。
大広間のざわめきが、遠く、遠くに聞こえていた。
*
三十分は、あっという間に過ぎた。
新聞の束を棚に戻し、グリフィンドール塔へ続く階段を上っていく。宴会は、もう終わったらしかった。上の階から、大勢の足音とざわめきが降りてくる。
七階の廊下の角を曲がったとき、足が止まった。
廊下が、グリフィンドール生で埋まっていた。宴会から戻ってきた寮生たちが、塔の入口の前で、誰も先へ進めずに立ち止まっている。サミュエルは、人の肩越しに、廊下の奥をのぞいた。
肖像画が、なかった。
正確には、額縁は、そこにあった。けれど、その中のキャンバスが、ずたずたに切り裂かれていた。太った婦人の姿はどこにもない。切り裂かれた布の切れ端が、床の上に散らばっていた。
鋭い刃物で、何度も、何度も。怒りに任せたような切り口だった。
人垣の一番前に、ハリーとロンとハーマイオニーがいた。
「……なんだ、これ」
ロンが、呆然と呟いた。
廊下の向こうから、ポルターガイストのピーブズが、宙返りしながら飛んできた。満面の笑みを浮かべている。
「ご婦人は、恥ずかしくて隠れちゃったよう! ひどい顔だったねえ! あいつに、ずたずたにされちゃったんだから!」
「誰に?」
ハリーが、低い声で聞いた。
ピーブズは、くるりと宙で一回転して、楽しそうに叫んだ。
「シリウス・ブラック! 合言葉を知らないからって、えらく怒ってたよう!」
*
その夜、全校生徒が、大広間に集められた。
ダンブルドアが杖を一振りすると、長テーブルが壁際に寄せられ、床一面に、ふかふかの紫色の寝袋が何十も現れた。先生たちは、城じゅうを捜索に出ていった。
「全員、寝袋に入るように。監督生は、交代で見張りを」
大広間の天井は、夜空を映していた。秋の終わりの星が、凍りついたように瞬いている。
サミュエルは、寝袋の中で、仰向けになって天井を見上げていた。
周りから、ひそひそ声が聞こえてくる。
「ブラックが、城の中にいたんだって……」
「どうやって入ったんだろう」
「グリフィンドール塔を狙ってたってことは……」
何人かの目が、ハリーの寝袋のほうを向いた。それから、何人かの目が、こちらを向いた。
サミュエルは、天井の星を見ていた。
シリウス・ブラック。
ついさっきまで、図書室の古い新聞の中にしかいなかった男。写真の中で、狂ったように笑い続けていた男。灰色の目の男。
その男が、ついさっきまで、この城の中にいた。
自分が毎日通る廊下を歩いて、自分が毎晩くぐる肖像画の前に立って、ナイフを振り上げた。
文献の中の名前が、急に、手の届く場所に実在していた。
怖いのか、と自分に聞いてみた。分からなかった。
会いたいのか、と自分に聞いてみた。それも、分からなかった。
ただ、胸の奥が、ざわざわと落ち着かなかった。寝袋の中で、何度も寝返りを打った。
真夜中を過ぎた頃、大広間の扉が静かに開いて、ダンブルドアとスネイプが入ってきた。二人は、扉のそばで低い声で話し始めた。サミュエルは、目を閉じたまま耳を澄ませた。
「城の中は、くまなく捜しました。どこにもいません」
スネイプの声だった。
「校長。ブラックがどうやって城に入ったのか、お考えになりましたか。……内部に、手引きした者がいると考えるべきでは」
「この城の中の誰かが、ブラックを手引きしたとは思わん、セブルス」
ダンブルドアの声は、穏やかだった。けれど、それ以上の反論を許さない響きがあった。
スネイプは、しばらく黙っていた。それから、足音が遠ざかっていった。
内部の誰か。
スネイプが誰のことを思い浮かべていたのか、サミュエルには分からなかった。ただ、明日の朝、何人がその言葉と自分の名前を結びつけるかは、手に取るように分かった。
少し離れた寝袋で、ハーマイオニーも眠っていなかった。天井を見上げたまま、時々、こちらのほうへ目を向けているのが分かった。
目が合いそうになるたびに、どちらからともなく、天井へ目を戻した。