ハーマイオニー・グレンジャーと緋色の予見者   作:ネギタリアン

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三話∶穢れた血

 

 

 

 

 

 九番線と十番線のあいだの柵に、サミュエルはカートごとまっすぐ突っこんだ。

 

 ぶつかる直前、レンガの壁がふっと柔らかくなる。次の瞬間、目の前に紅色の蒸気機関車が停まっていた。

 

〈ホグワーツ特急 十一時発〉

 

 見送りはない。父は朝食の席で「行ってこい」と言っただけだ。ピッピーがトランクを積みこみ、深々と頭を下げて、ぱちんと消えた。

 

 空いたコンパートメントを探して通路を歩いていると、ひとつの扉の向こうから話し声が聞こえた。

 

「――本当に? 本当に、あの傷があるの?」

 

 赤毛にそばかすの少年。その向かいに、くしゃくしゃの黒髪に丸眼鏡の少年が座っている。前髪の隙間から、稲妻の形の傷がのぞいていた。

 

 ハリー・ポッター。魔法界で、この名前を知らない子供はいない。

 

「ここ、空いてる?」

 

 扉を開けると、二人がびくりと振り向いた。

 

「あ、うん。どうぞ」

 

「ありがとう。サミュエルだ。サミュエル・ヴェスゲレート」

 

「ロン・ウィーズリー」

 

「ハリー。ハリー・ポッター」

 

 ウィーズリー。

 

 ひと月前、父の前で「二十八に数えること自体が間違いだ」と言い切った家の名前だった。

 

 サミュエルは、にっこり笑って手を差し出した。

 

「よろしく、ロン。ハリーも」

 

 昼を過ぎた頃、通路から車輪の音が近づいてきた。

 

「車内販売よ。何かいかが?」

 

 ワゴンには、百味ビーンズ、蛙チョコレート、かぼちゃパイ。ハリーが目を輝かせて、全部を少しずつ買った。

 

「マッシュルーム味のビーンズなら当たりだ。芽キャベツ味は――」

 

 ロンの講釈の途中で、サミュエルは一粒つまんで口に放りこみ、ぴたりと固まった。

 

「……耳くそだ」

 

 ロンが腹を抱えて笑い、ハリーもつられて吹き出した。

 

 蛙チョコレートのおまけのカードを眺めながら、ロンがため息をつく。

 

「アグリッパだけ、どうしても出ないんだよな」

 

「アグリッパなら持ってる。トランクに、たぶん二枚」

 

「本当に!?」

 

「着いたらあげるよ。代わりに、ハリーの持ってるダンブルドアを一回見せて」

 

「いいよ、何回でも」

 

 気がつけば、三人で一つのかぼちゃパイを分け合っていた。

 

 扉が、また開いた。

 

「サミュエル! こんなところにいたのか」

 

 ドラコだった。後ろに、図体の大きな少年を二人従えている。

 

「こっちに来いよ。席を取ってあるんだ」

 

 ドラコの視線が、コンパートメントの中をさっと撫でた。くたびれたお下がりのローブ。膝の上の太った鼠。そばかすだらけの赤毛。

 

「――ふうん。ウィーズリーだな」

 

 ロンの耳が、さっと赤くなった。

 

 隣の眼鏡の少年には、ドラコは一瞥もくれなかった。ハリーはカードを覗きこんでいて、前髪が額の傷を隠している。ウィーズリーの連れの、冴えない眼鏡。ドラコの目には、それ以上のものには映っていないらしい。

 

 ――気づいていない。

 

 ここで一言教えてやれば、ドラコは瞬時に態度を変えるだろう。真っ先に、ハリーを取り込みにかかるはずだ。

 

 サミュエルは、教えなかった。この居心地のいい場所を、今は壊したくなかった。

 

「ドラコ、着いたら大広間で隣に座ろう。今はハリーのダンブルドアのカードを見せてもらう約束なんだ」

 

 サミュエルは、何でもないことのように笑った。

 

「……カードなんか、いくらでもうちにあるのに」

 

「君の家のは、僕はまだ見せてもらってないからね。今度、見せてくれる?」

 

「――まあ、いいけど。じゃあ、あとでな」

 

 ドラコは鼻を鳴らして、二人を連れて出ていった。

 

「……あいつと知り合いなの?」

 

「杖の店で会っただけさ。悪いやつじゃないよ。たぶんね」

 

 ロンはまだ少し不満そうだったが、サミュエルがアグリッパのカードの話を蒸し返すと、すぐに機嫌を直した。

 

 ロンが、膝の上の太った鼠に杖を向けたのは、そのあとだった。

 

「兄貴たちに教わった呪文なんだ。見てて。――お陽さま、雛菊、とろけたバター。鼠を黄色に変えよ!」

 

 何も起きなかった。鼠のスキャバーズは、灰色のまま眠りこけている。

 

「……あれ?」

 

 開いた扉のところに、ふさふさした栗色の髪の女の子が立っていた。もうローブに着替えていて、少し前歯が大きい。

 

「それ、呪文のつもり? それで本当に、何かが変わると思ってるの?」

 

 ロンの口が、ぱくんと閉じた。

 

「ネビルって子のヒキガエルを探してるの。見なかった? ……あら、あなた、眼鏡が壊れてるわ」

 

 女の子がハリーの眼鏡に杖を向けると、鼻の部分が、ぴたりとくっついた。

 

「私、ハーマイオニー・グレンジャー。教科書は全部暗記したわ。――あなたたち、もうローブに着替えたほうがいいわよ」

 

 ロンの耳が、首まで真っ赤になっていた。しおれた鼠を抱えたまま、一言も言い返せずにいる。ハリーも、何と言えばいいのか分からない顔をしていた。

 

 兄たちに教わった呪文を、ただ試しただけなのに。

 

 サミュエルは、ふっと笑った。

 

「ふーん、グレンジャーねぇ」

 

 座席に転がっていた蛙チョコレートを一つ手に取る。腰の箱から細長いものを抜き、軽く振った。

 

 チョコレートの茶色が、ぬめりのある緑に変わった。

 

 本物のカエルが、ハーマイオニーの足元に、ぺたりと跳ねた。

 

「きゃっ!」

 

 彼女は飛びのいて、それから顔を真っ赤にした。

 

 一拍おいて、ロンが吹き出した。ハリーも、こらえきれずに腹を抱えた。

 

「見た? 今の顔!」

 

「あはははは!」

 

「……からかってるのね。いいわ、勝手にすれば!」

 

 扉が、ぴしゃりと閉まった。

 

 カエルが一声、げこ、と鳴いた。

 

 笑い声が、しぼむように消えていく。

 

 先に口を開いたのは、ハリーだった。

 

「……笑っちゃったけど、あれ、悪いことしたよな」

 

 膝の上のカードを、そっと置く。

 

「さっき、眼鏡を直してもらったのに、お礼も言えなかった。僕、謝ってくる」

 

 立ち上がりかけた肩を、サミュエルが押さえた。

 

「待って」

 

「でも」

 

「やったのは僕だ。君たちは笑っただけ。謝るなら、僕が行く」

 

 ハリーは、まじまじとサミュエルを見た。

 

「……いいの?」

 

「いいよ。ロン、そのカエル、窓から逃がしといて」

 

「え、俺が?」

 

 サミュエルは肩をすくめて、扉を開けた。

 

*

 

 最後尾の車両の、窓際の通路に彼女はいた。

 

 隣では、丸顔の男の子が半べそで座席の下をのぞきこんでいる。

 

「トレバー……トレバー、どこ……」

 

「探し物は、これ?」

 

 サミュエルが手首をひと振りすると、網棚の奥から太ったヒキガエルがふわりと浮いて、男の子の手の中に収まった。

 

「わあ! あ、ありがとう!」

 

 男の子――ネビルは何度も頭を下げて、自分のコンパートメントへ駆けていった。

 

 通路に、二人だけが残った。

 

「さっきは、悪かった。驚かせるつもりはなかったんだ」

 

 ハーマイオニーは窓の外を見たまま、返事をしない。

 

 謝るつもりで来た。それなのに、口が勝手に、続きを探していた。父の食卓で何百回も聞いてきた言い回しを。

 

「……まあ、カエル一匹であそこまで騒ぐとは思わなかったけど。マグルの家じゃ、跳ねるチョコなんて見たこともないだろうし」

 

 彼女が、ゆっくりと振り向いた。

 

「……今、なんて?」

 

「マグル生まれだろう、君。グレンジャーなんて名前は、魔法族のどの家系図にも載っていない。教科書を丸暗記するのは立派だよ。でも、生まれ持ったものの差は、暗記じゃ埋まらない」

 

「生まれ持ったもの?」

 

「血だよ。――『穢れた血』って言葉、聞いたことない?」

 

「知ってるわ。『近代魔法史』の脚注に載ってた。純血主義者がマグル生まれに使う、いちばん下品な侮辱語でしょう。使う人の程度が知れる言葉だって、書いてあったわ。本当に口にする人がいるとは思わなかったけど」

 

 ハーマイオニーは、一歩も引かなかった。

 

「さっきの『悪かった』は何だったの? 結局、それが本音なのね。最低」

 

「本音も何も、事実を言っただけだ」

 

「事実? 血で魔法の力が決まるなら、どうしてマグル生まれの魔女が魔法を使えるの? 『ホグワーツの歴史』に書いてあったわ。歴史に名前を残した魔法使いにだって、マグル生まれは大勢いるって」

 

「力の量の話じゃない。継承の話だ。純血の家は何百年もかけて、知識と技を受け継いできた。本に書いてあることなんて、そのほんの一部だ」

 

「だったら、それは血じゃなくて教育の話でしょう? うちの両親は歯医者だけど、歯の治し方は大学で学んだのよ」

 

「歯医者なら知ってる。マグルの医者だろう。……資格で継ぐ仕事で、血で継ぐものじゃないと言いたいわけだ」

 

「分かってるのに、まだ血の話をするの? 魔法界の中しか見てないお坊ちゃまは、本当に世間知らずね」

 

「……世間知らず? 僕が?」

 

 笑顔が、頬から剥がれ落ちていくのが分かった。

 

 屋敷の隠し部屋には、マグルの機械が山ほどある。世間なら、彼女が思うよりずっと知っている。そして、それを言うわけにはいかないのだ。

 

「君こそ何だ。教科書を丸暗記しただけで、何でも知ってるような顔をして。ロンの呪文を笑う前に、自分には何ができる? 眼鏡を直すのが、関の山だろう!」

 

「何ですって? あなたこそ、カエルを出して人を驚かせただけじゃない! 子供のいたずらよ!」

 

「子供はそっちだ! 言い返せなくなると、すぐ人の――」

 

「言い返せないのは、あなたのほうでしょう! さっきから一回も、まともに反論できてないじゃない!」

 

「僕が、君なんかに――」

 

 声が、通路に響き渡った。

 

 隣のコンパートメントの扉が開いて、上級生が顔をのぞかせた。目が合うと、肩をすくめて引っこんでいく。

 

 サミュエルは、自分の拳が握りしめられていることに気づいた。

 

 こんなふうに声を荒げたのは、生まれて初めてだった。ホロウェイにも、父にも、廊下の肖像画の誰にも。

 

「……声、大きいわよ」

 

 ハーマイオニーが、静かに言った。

 

「でも、さっきまでの笑顔よりずっといいわ。今のほうが、よっぽど人間に見える」

 

 返す言葉が、見つからなかった。

 

「それに、本に書いてないことのほうが多いなら、書けばいいじゃない。そうしたら、誰でも学べるわ」

 

 彼女の目は、怒ってはいた。でも、それだけではなかった。本当に知りたがっている目だった。言い負かしたいのではなく、答えが欲しいのだ。

 

 家庭教師は誰も、こんな目で彼を見なかった。

 

「……継承される知識には、言葉にできないものもある。たとえば無言呪文の感覚とか」

 

「それよ。さっきのカエル、呪文を唱えなかったわよね。教科書には、無言呪文は五年生以上じゃないと難しいって――」

 

 彼女の言葉が、途中で止まった。

 

「……待って。さっきの杖、見せて。あれ、杖の形じゃなかったわ」

 

 サミュエルは少し迷ってから、漆塗りの箱を開けた。

 

 中から取り出したのは、一本の扇子だった。閉じたままでも、漆黒の親骨が鈍く光を吸いこんでいる。

 

「それ……杖?」

 

「長さは二十七センチでしなやか。扇面は九尾の狐の毛を織った布。親骨は、その狐が死に際に変わった石――殺生石。中骨は仙木っていう、百年以上実をつけ続けてる桃の古木。それから、扇の要には龍の宝珠」

 

「待って、待って。九尾の狐って、何? そんな生き物、聞いたことないわ」

 

「だろうね。日本の魔法生物だ。魔法省の危険度分類でXXXX。専門家でも命がけで、イギリスの図鑑にはほとんど載ってない」

 

「XXXX……ドラゴンの一つ下じゃない! そんなものの毛を、杖に?」

 

「殺生石は死の気、仙木と宝珠は生の気。陰と陽が釣り合ってるから、どんな魔法にも――」

 

「釣り合ってるから、偏りがない。だから、どんな呪文にも向くってこと?」

 

「……そう。そういうこと」

 

 誰かにこの杖の話をしたのは、初めてだった。

 

 ハーマイオニーは、扇子から目を上げた。

 

「ねえ。さっきの血の理屈だけど」

 

「うん」

 

「その理屈、本当に自分で考えたの? それとも、誰かに教え込まれただけ?」

 

「……俺が――」

 

 口から出た一人称に、サミュエル自身が驚いた。

 

「……僕が、自分で考えたに決まってるだろう」

 

「そう。なら、いつか聞かせて。あなたが自分で考えた理屈を」

 

 ハーマイオニーはそれだけ言うと、くるりと背を向けた。

 

「そろそろ着くわよ。早く着替えたら?」

 

*

 

「イッチ年生! イッチ年生はこっち!」

 

 真っ暗なホグズミード駅のホームで、見上げるほど大きな男がランプを振っていた。ハグリッドと名乗ったその男に連れられて、一年生たちは湖を渡る。

 

 サミュエルはハリーとロン、それにヒキガエルを抱えたネビルと同じボートに乗った。

 

 岬を回ったとき、誰もが息をのんだ。崖の上に、無数の窓に灯をともした城が建っていた。

 

「わあ……」

 

 ネビルが、トレバーを落としそうになりながら声を漏らした。

 

 大広間の天井は、本物の夜空と同じだった。何千本もの蝋燭が宙に浮かび、四つの長テーブルの上で揺れている。つぎはぎだらけの帽子が歌い終えると、マクゴナガル先生が羊皮紙を広げた。

 

「名前を呼ばれたら、前に出て帽子をかぶりなさい」

 

「グレンジャー、ハーマイオニー!」

 

 帽子はしばらく考えてから、「グリフィンドール!」と叫んだ。

 

「マルフォイ、ドラコ!」

 

 帽子が頭に触れるか触れないかのうちに、「スリザリン!」。ドラコは満足げに、緑のテーブルへ歩いていった。

 

「ポッター、ハリー!」

 

 大広間じゅうがざわめいた。緑のテーブルでは、ドラコが目を見開いて固まっている。列車で一瞥もくれなかった眼鏡の少年が誰だったのかを、今ようやく知ったらしい。長い沈黙のあと、「グリフィンドール!」の叫びに、割れるような歓声が上がった。

 

「ヴェスゲレート、サミュエル!」

 

 さっきとは違う種類のざわめきが広がった。

 

「ヴェスゲレートって、あの……?」

 

「戦争の英雄の息子だろ」

 

 帽子が、目の上まで落ちてくる。耳元で、小さな声がした。

 

「ほう……これはまた、面白い頭だ。スリザリンなら、君は欲しいものを何でも手に入れるだろう。だが――」

 

 どこでもいい、とサミュエルは思った。どこへ行っても、やることは同じだ。

 

「……君がいちばん欲しいものは、そこにはなさそうだ」

 

 帽子が、大きく息を吸った。

 

「グリフィンドール!」

 

 赤と金のテーブルが、どっと沸いた。

 

「ヴェスゲレートを取ったぞ!」

 

 双子らしい赤毛の上級生が、テーブルを叩いて叫んでいる。緑のテーブルの端で、ドラコがぽかんと口を開けていた。

 

 サミュエルは、歓声の中を笑顔で歩いた。差し出される手を一つずつ握り、名前を一つずつ覚えていく。

 

 ロンが帽子の下で「グリフィンドール!」を勝ち取り、ハリーの隣に転がりこむ頃には、彼の周りにはもう人だかりができていた。

 

 組分けが終わると、目の前の金の皿が、いっせいにご馳走で埋まった。ロンが歓声を上げて、骨つき肉に手を伸ばす。

 

「なあ、サミュエル。帽子に何て言われたの? すごく長かったけど」

 

「悩んでたみたいだよ。どこに入れても目立ちすぎるって」

 

 周りがどっと笑った。

 

 テーブルの少し先で、ハーマイオニーがこちらを見ていた。

 

 目が合うと、彼女はつんと顔をそむけ、目の前のローストビーフを切り始めた。

 

 

 

 

 

 

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