ハーマイオニー・グレンジャーと緋色の予見者 作:ネギタリアン
九番線と十番線のあいだの柵に、サミュエルはカートごとまっすぐ突っこんだ。
ぶつかる直前、レンガの壁がふっと柔らかくなる。次の瞬間、目の前に紅色の蒸気機関車が停まっていた。
〈ホグワーツ特急 十一時発〉
見送りはない。父は朝食の席で「行ってこい」と言っただけだ。ピッピーがトランクを積みこみ、深々と頭を下げて、ぱちんと消えた。
空いたコンパートメントを探して通路を歩いていると、ひとつの扉の向こうから話し声が聞こえた。
「――本当に? 本当に、あの傷があるの?」
赤毛にそばかすの少年。その向かいに、くしゃくしゃの黒髪に丸眼鏡の少年が座っている。前髪の隙間から、稲妻の形の傷がのぞいていた。
ハリー・ポッター。魔法界で、この名前を知らない子供はいない。
「ここ、空いてる?」
扉を開けると、二人がびくりと振り向いた。
「あ、うん。どうぞ」
「ありがとう。サミュエルだ。サミュエル・ヴェスゲレート」
「ロン・ウィーズリー」
「ハリー。ハリー・ポッター」
ウィーズリー。
ひと月前、父の前で「二十八に数えること自体が間違いだ」と言い切った家の名前だった。
サミュエルは、にっこり笑って手を差し出した。
「よろしく、ロン。ハリーも」
昼を過ぎた頃、通路から車輪の音が近づいてきた。
「車内販売よ。何かいかが?」
ワゴンには、百味ビーンズ、蛙チョコレート、かぼちゃパイ。ハリーが目を輝かせて、全部を少しずつ買った。
「マッシュルーム味のビーンズなら当たりだ。芽キャベツ味は――」
ロンの講釈の途中で、サミュエルは一粒つまんで口に放りこみ、ぴたりと固まった。
「……耳くそだ」
ロンが腹を抱えて笑い、ハリーもつられて吹き出した。
蛙チョコレートのおまけのカードを眺めながら、ロンがため息をつく。
「アグリッパだけ、どうしても出ないんだよな」
「アグリッパなら持ってる。トランクに、たぶん二枚」
「本当に!?」
「着いたらあげるよ。代わりに、ハリーの持ってるダンブルドアを一回見せて」
「いいよ、何回でも」
気がつけば、三人で一つのかぼちゃパイを分け合っていた。
扉が、また開いた。
「サミュエル! こんなところにいたのか」
ドラコだった。後ろに、図体の大きな少年を二人従えている。
「こっちに来いよ。席を取ってあるんだ」
ドラコの視線が、コンパートメントの中をさっと撫でた。くたびれたお下がりのローブ。膝の上の太った鼠。そばかすだらけの赤毛。
「――ふうん。ウィーズリーだな」
ロンの耳が、さっと赤くなった。
隣の眼鏡の少年には、ドラコは一瞥もくれなかった。ハリーはカードを覗きこんでいて、前髪が額の傷を隠している。ウィーズリーの連れの、冴えない眼鏡。ドラコの目には、それ以上のものには映っていないらしい。
――気づいていない。
ここで一言教えてやれば、ドラコは瞬時に態度を変えるだろう。真っ先に、ハリーを取り込みにかかるはずだ。
サミュエルは、教えなかった。この居心地のいい場所を、今は壊したくなかった。
「ドラコ、着いたら大広間で隣に座ろう。今はハリーのダンブルドアのカードを見せてもらう約束なんだ」
サミュエルは、何でもないことのように笑った。
「……カードなんか、いくらでもうちにあるのに」
「君の家のは、僕はまだ見せてもらってないからね。今度、見せてくれる?」
「――まあ、いいけど。じゃあ、あとでな」
ドラコは鼻を鳴らして、二人を連れて出ていった。
「……あいつと知り合いなの?」
「杖の店で会っただけさ。悪いやつじゃないよ。たぶんね」
ロンはまだ少し不満そうだったが、サミュエルがアグリッパのカードの話を蒸し返すと、すぐに機嫌を直した。
ロンが、膝の上の太った鼠に杖を向けたのは、そのあとだった。
「兄貴たちに教わった呪文なんだ。見てて。――お陽さま、雛菊、とろけたバター。鼠を黄色に変えよ!」
何も起きなかった。鼠のスキャバーズは、灰色のまま眠りこけている。
「……あれ?」
開いた扉のところに、ふさふさした栗色の髪の女の子が立っていた。もうローブに着替えていて、少し前歯が大きい。
「それ、呪文のつもり? それで本当に、何かが変わると思ってるの?」
ロンの口が、ぱくんと閉じた。
「ネビルって子のヒキガエルを探してるの。見なかった? ……あら、あなた、眼鏡が壊れてるわ」
女の子がハリーの眼鏡に杖を向けると、鼻の部分が、ぴたりとくっついた。
「私、ハーマイオニー・グレンジャー。教科書は全部暗記したわ。――あなたたち、もうローブに着替えたほうがいいわよ」
ロンの耳が、首まで真っ赤になっていた。しおれた鼠を抱えたまま、一言も言い返せずにいる。ハリーも、何と言えばいいのか分からない顔をしていた。
兄たちに教わった呪文を、ただ試しただけなのに。
サミュエルは、ふっと笑った。
「ふーん、グレンジャーねぇ」
座席に転がっていた蛙チョコレートを一つ手に取る。腰の箱から細長いものを抜き、軽く振った。
チョコレートの茶色が、ぬめりのある緑に変わった。
本物のカエルが、ハーマイオニーの足元に、ぺたりと跳ねた。
「きゃっ!」
彼女は飛びのいて、それから顔を真っ赤にした。
一拍おいて、ロンが吹き出した。ハリーも、こらえきれずに腹を抱えた。
「見た? 今の顔!」
「あはははは!」
「……からかってるのね。いいわ、勝手にすれば!」
扉が、ぴしゃりと閉まった。
カエルが一声、げこ、と鳴いた。
笑い声が、しぼむように消えていく。
先に口を開いたのは、ハリーだった。
「……笑っちゃったけど、あれ、悪いことしたよな」
膝の上のカードを、そっと置く。
「さっき、眼鏡を直してもらったのに、お礼も言えなかった。僕、謝ってくる」
立ち上がりかけた肩を、サミュエルが押さえた。
「待って」
「でも」
「やったのは僕だ。君たちは笑っただけ。謝るなら、僕が行く」
ハリーは、まじまじとサミュエルを見た。
「……いいの?」
「いいよ。ロン、そのカエル、窓から逃がしといて」
「え、俺が?」
サミュエルは肩をすくめて、扉を開けた。
*
最後尾の車両の、窓際の通路に彼女はいた。
隣では、丸顔の男の子が半べそで座席の下をのぞきこんでいる。
「トレバー……トレバー、どこ……」
「探し物は、これ?」
サミュエルが手首をひと振りすると、網棚の奥から太ったヒキガエルがふわりと浮いて、男の子の手の中に収まった。
「わあ! あ、ありがとう!」
男の子――ネビルは何度も頭を下げて、自分のコンパートメントへ駆けていった。
通路に、二人だけが残った。
「さっきは、悪かった。驚かせるつもりはなかったんだ」
ハーマイオニーは窓の外を見たまま、返事をしない。
謝るつもりで来た。それなのに、口が勝手に、続きを探していた。父の食卓で何百回も聞いてきた言い回しを。
「……まあ、カエル一匹であそこまで騒ぐとは思わなかったけど。マグルの家じゃ、跳ねるチョコなんて見たこともないだろうし」
彼女が、ゆっくりと振り向いた。
「……今、なんて?」
「マグル生まれだろう、君。グレンジャーなんて名前は、魔法族のどの家系図にも載っていない。教科書を丸暗記するのは立派だよ。でも、生まれ持ったものの差は、暗記じゃ埋まらない」
「生まれ持ったもの?」
「血だよ。――『穢れた血』って言葉、聞いたことない?」
「知ってるわ。『近代魔法史』の脚注に載ってた。純血主義者がマグル生まれに使う、いちばん下品な侮辱語でしょう。使う人の程度が知れる言葉だって、書いてあったわ。本当に口にする人がいるとは思わなかったけど」
ハーマイオニーは、一歩も引かなかった。
「さっきの『悪かった』は何だったの? 結局、それが本音なのね。最低」
「本音も何も、事実を言っただけだ」
「事実? 血で魔法の力が決まるなら、どうしてマグル生まれの魔女が魔法を使えるの? 『ホグワーツの歴史』に書いてあったわ。歴史に名前を残した魔法使いにだって、マグル生まれは大勢いるって」
「力の量の話じゃない。継承の話だ。純血の家は何百年もかけて、知識と技を受け継いできた。本に書いてあることなんて、そのほんの一部だ」
「だったら、それは血じゃなくて教育の話でしょう? うちの両親は歯医者だけど、歯の治し方は大学で学んだのよ」
「歯医者なら知ってる。マグルの医者だろう。……資格で継ぐ仕事で、血で継ぐものじゃないと言いたいわけだ」
「分かってるのに、まだ血の話をするの? 魔法界の中しか見てないお坊ちゃまは、本当に世間知らずね」
「……世間知らず? 僕が?」
笑顔が、頬から剥がれ落ちていくのが分かった。
屋敷の隠し部屋には、マグルの機械が山ほどある。世間なら、彼女が思うよりずっと知っている。そして、それを言うわけにはいかないのだ。
「君こそ何だ。教科書を丸暗記しただけで、何でも知ってるような顔をして。ロンの呪文を笑う前に、自分には何ができる? 眼鏡を直すのが、関の山だろう!」
「何ですって? あなたこそ、カエルを出して人を驚かせただけじゃない! 子供のいたずらよ!」
「子供はそっちだ! 言い返せなくなると、すぐ人の――」
「言い返せないのは、あなたのほうでしょう! さっきから一回も、まともに反論できてないじゃない!」
「僕が、君なんかに――」
声が、通路に響き渡った。
隣のコンパートメントの扉が開いて、上級生が顔をのぞかせた。目が合うと、肩をすくめて引っこんでいく。
サミュエルは、自分の拳が握りしめられていることに気づいた。
こんなふうに声を荒げたのは、生まれて初めてだった。ホロウェイにも、父にも、廊下の肖像画の誰にも。
「……声、大きいわよ」
ハーマイオニーが、静かに言った。
「でも、さっきまでの笑顔よりずっといいわ。今のほうが、よっぽど人間に見える」
返す言葉が、見つからなかった。
「それに、本に書いてないことのほうが多いなら、書けばいいじゃない。そうしたら、誰でも学べるわ」
彼女の目は、怒ってはいた。でも、それだけではなかった。本当に知りたがっている目だった。言い負かしたいのではなく、答えが欲しいのだ。
家庭教師は誰も、こんな目で彼を見なかった。
「……継承される知識には、言葉にできないものもある。たとえば無言呪文の感覚とか」
「それよ。さっきのカエル、呪文を唱えなかったわよね。教科書には、無言呪文は五年生以上じゃないと難しいって――」
彼女の言葉が、途中で止まった。
「……待って。さっきの杖、見せて。あれ、杖の形じゃなかったわ」
サミュエルは少し迷ってから、漆塗りの箱を開けた。
中から取り出したのは、一本の扇子だった。閉じたままでも、漆黒の親骨が鈍く光を吸いこんでいる。
「それ……杖?」
「長さは二十七センチでしなやか。扇面は九尾の狐の毛を織った布。親骨は、その狐が死に際に変わった石――殺生石。中骨は仙木っていう、百年以上実をつけ続けてる桃の古木。それから、扇の要には龍の宝珠」
「待って、待って。九尾の狐って、何? そんな生き物、聞いたことないわ」
「だろうね。日本の魔法生物だ。魔法省の危険度分類でXXXX。専門家でも命がけで、イギリスの図鑑にはほとんど載ってない」
「XXXX……ドラゴンの一つ下じゃない! そんなものの毛を、杖に?」
「殺生石は死の気、仙木と宝珠は生の気。陰と陽が釣り合ってるから、どんな魔法にも――」
「釣り合ってるから、偏りがない。だから、どんな呪文にも向くってこと?」
「……そう。そういうこと」
誰かにこの杖の話をしたのは、初めてだった。
ハーマイオニーは、扇子から目を上げた。
「ねえ。さっきの血の理屈だけど」
「うん」
「その理屈、本当に自分で考えたの? それとも、誰かに教え込まれただけ?」
「……俺が――」
口から出た一人称に、サミュエル自身が驚いた。
「……僕が、自分で考えたに決まってるだろう」
「そう。なら、いつか聞かせて。あなたが自分で考えた理屈を」
ハーマイオニーはそれだけ言うと、くるりと背を向けた。
「そろそろ着くわよ。早く着替えたら?」
*
「イッチ年生! イッチ年生はこっち!」
真っ暗なホグズミード駅のホームで、見上げるほど大きな男がランプを振っていた。ハグリッドと名乗ったその男に連れられて、一年生たちは湖を渡る。
サミュエルはハリーとロン、それにヒキガエルを抱えたネビルと同じボートに乗った。
岬を回ったとき、誰もが息をのんだ。崖の上に、無数の窓に灯をともした城が建っていた。
「わあ……」
ネビルが、トレバーを落としそうになりながら声を漏らした。
大広間の天井は、本物の夜空と同じだった。何千本もの蝋燭が宙に浮かび、四つの長テーブルの上で揺れている。つぎはぎだらけの帽子が歌い終えると、マクゴナガル先生が羊皮紙を広げた。
「名前を呼ばれたら、前に出て帽子をかぶりなさい」
「グレンジャー、ハーマイオニー!」
帽子はしばらく考えてから、「グリフィンドール!」と叫んだ。
「マルフォイ、ドラコ!」
帽子が頭に触れるか触れないかのうちに、「スリザリン!」。ドラコは満足げに、緑のテーブルへ歩いていった。
「ポッター、ハリー!」
大広間じゅうがざわめいた。緑のテーブルでは、ドラコが目を見開いて固まっている。列車で一瞥もくれなかった眼鏡の少年が誰だったのかを、今ようやく知ったらしい。長い沈黙のあと、「グリフィンドール!」の叫びに、割れるような歓声が上がった。
「ヴェスゲレート、サミュエル!」
さっきとは違う種類のざわめきが広がった。
「ヴェスゲレートって、あの……?」
「戦争の英雄の息子だろ」
帽子が、目の上まで落ちてくる。耳元で、小さな声がした。
「ほう……これはまた、面白い頭だ。スリザリンなら、君は欲しいものを何でも手に入れるだろう。だが――」
どこでもいい、とサミュエルは思った。どこへ行っても、やることは同じだ。
「……君がいちばん欲しいものは、そこにはなさそうだ」
帽子が、大きく息を吸った。
「グリフィンドール!」
赤と金のテーブルが、どっと沸いた。
「ヴェスゲレートを取ったぞ!」
双子らしい赤毛の上級生が、テーブルを叩いて叫んでいる。緑のテーブルの端で、ドラコがぽかんと口を開けていた。
サミュエルは、歓声の中を笑顔で歩いた。差し出される手を一つずつ握り、名前を一つずつ覚えていく。
ロンが帽子の下で「グリフィンドール!」を勝ち取り、ハリーの隣に転がりこむ頃には、彼の周りにはもう人だかりができていた。
組分けが終わると、目の前の金の皿が、いっせいにご馳走で埋まった。ロンが歓声を上げて、骨つき肉に手を伸ばす。
「なあ、サミュエル。帽子に何て言われたの? すごく長かったけど」
「悩んでたみたいだよ。どこに入れても目立ちすぎるって」
周りがどっと笑った。
テーブルの少し先で、ハーマイオニーがこちらを見ていた。
目が合うと、彼女はつんと顔をそむけ、目の前のローストビーフを切り始めた。