三月のグリフィンドール塔の談話室は、その夜、ひっくり返るような騒ぎだった。
レイブンクローとの試合に、グリフィンドールが勝ったのだ。マクゴナガル先生の検査から戻ってきたファイアボルトに乗ったハリーが、レイブンクローのシーカーの鼻先で、スニッチをつかみ取った。
フレッドとジョージが、どこからかバタービールの瓶を何ケースも運びこみ、ハニーデュークスの袋をテーブルの上にぶちまけた。暖炉の前では、リー・ジョーダンが試合の実況を最初からやり直していた。
「サミュエル! 乾杯の音頭!」
誰かが叫んだ。いくつもの手が、サミュエルの背中を押した。
サミュエルは、テーブルの上に飛び乗って、バタービールの瓶を高く掲げた。
「ファイアボルトに! それから、ファイアボルトより速かったハリーの手に!」
「ハリーに!」
談話室が、歓声で揺れた。キャプテンのウッドは、ソファの上で、ファイアボルトを抱きしめたまま泣いていた。今年こそ優勝杯を取れるかもしれない、と、しゃくり上げながら何度も繰り返していた。
テーブルから降りると、すぐに一年生の男の子が袖を引いた。
「サミュエル先輩、あの、ハリーさんのサイン、もらえると思いますか?」
「もらえるよ。でも、ハリーは照れ屋だから、『試合、すごかった』って先に言ってからにするといい。そうしたら、断れない」
「ありがとうございます!」
男の子が駆けていく。入れ替わりに、ネビルが近づいてきた。手に、薬草学のレポートを握っている。
「サ、サミュエル。この、マンドレイクの……」
「ネビル、それは君のほうが詳しいだろ。むしろ、この前の吠えるチューリップの件、教えてほしいくらいだよ。スプラウト先生が、ネビルの鉢だけ花が咲いたって言ってた」
ネビルの顔が、ぱっと赤くなった。
「ほ、本当? 先生が、そう言ってた?」
「言ってた。みんなの前で」
本当は、スプラウト先生は「ロングボトムの鉢は、まあまあね」としか言っていなかった。けれど、ネビルの顔を見れば、それでよかった。
部屋の隅では、ロンとハーマイオニーが、相変わらず互いに背を向けて座っていた。スキャバーズの件から、もう一か月以上、口をきいていない。
サミュエルは、バタービールを二本持って、ロンの隣に腰を下ろした。
「ロン。一本、ハーマイオニーに持っていってあげなよ」
「なんで僕が」
「今日は、ハリーが勝った日だろう。ハリーの一番の友だち二人が、いつまでも背中合わせじゃ、ハリーが落ち着いて勝利を喜べない」
ロンは、ぐっと言葉に詰まった。それから、しぶしぶ瓶を受け取って、ハーマイオニーのほうへ歩いていった。何か言った。ハーマイオニーが顔を上げた。瓶を受け取った。
仲直り、というほどではなかった。けれど、二人の背中の間の距離が、ほんの少しだけ縮まった。
ハリーが、遠くから、ありがとう、と口の動きだけで言った。
サミュエルは、軽く手を上げて応えた。
ハーマイオニーも、こちらを見ていた。バタービールの瓶を両手で持ったまま、何かを確かめるような目で。ロンを動かしたのが誰なのか、彼女には分かっているようだった。
サミュエルは、その目から、さりげなく視線を外した。
うまく、やれていた。
誰がどこで何を求めているのか、手に取るように分かった。何を言えば、誰が笑うのか。何を差し出せば、誰の顔が明るくなるのか。考えるより先に、口が動いた。
談話室じゅうが、彼を中心に回っていた。
*
真夜中を過ぎて、談話室が静かになってから、サミュエルはトランクの工房に降りた。
作業台の上には、グリモワールの設計図が、山のように積み上がっていた。一月から、ほとんど毎晩、ここで過ごしてきた。綴じ紐の試作が三本。インクの小瓶が七つ。宙に浮かべて試すための、銀色のページが十二枚。
椅子に座って、羽根ペンを取った。
手が、動かなかった。
さっきの談話室の光景が、頭の中で、ゆっくりと巻き戻されていた。
一年生の男の子。「ハリーは照れ屋だから」。ネビル。「スプラウト先生が、言ってた」。ロン。「ハリーが落ち着いて勝利を喜べない」。
うまく、やれていた。
――あなた、本当は、すごく繊細で、優しくて、思慮深い人なのよ。
二年生の学年末、夕暮れの図書室で、ハーマイオニーが言った言葉が、ふいに蘇った。
――だから、周りに心配をかけないように、平気なふりをしてる。……違う?
あのとき、違う、と言いかけて、言えなかった。
何が違うのか、説明できなかったからだ。
今なら、説明できる気がした。
サミュエルは、羽根ペンを置いた。
ネビルに言ったことは、嘘だった。スプラウト先生は、ネビルの鉢のことなど、ほとんど褒めていなかった。けれど、ネビルが喜ぶと分かっていたから、言った。
ロンに言ったことも、半分は嘘だった。ハリーのためではなかった。談話室の隅に、気まずい空気が澱んでいるのが、ただ目障りだっただけだ。空気が悪ければ、自分の場所も居心地が悪くなる。
一年生にかけた言葉も。乾杯の音頭も。
どれも、優しさではなかった。
相手が欲しがっている言葉を、相手が欲しがっている形で、差し出しただけだ。それが一番、物事が滑らかに進むから。みんなが自分を好きでいてくれるから。
ハリーにも、ロンにも、ほかの寮の生徒にも、ずっとそうしてきた。
うまく、やってきた。
ずっと、うまく。
*
サミュエルは、作業台の引き出しを開けた。
緑の封蝋の束。聖マンゴからの手紙。七歳の年から、毎月一通ずつ。〈前回のご報告時からの変化はございません〉。一番上の一通だけが、黒い縁取りの封筒だった。
母を目覚めさせる。
七歳の冬から、それだけを目標にしてきた。父の期待に応え続けたのも、家庭教師が青ざめるほどの変身術を覚えたのも、すべてはいつか、母が目を覚ます日のためだった。
――あなたは、きっと偉大な魔法使いになれるわ。
母の口癖だった。中国の川辺の家で。日本の宿の縁側で。何度も、何度も。
偉大な魔法使いになれば、母は喜ぶ。母が喜べば、自分は愛される。愛されるためには、偉大でなければならない。失敗は、許されない。
サミュエルには、いつも正解が見えていた。呪文の正しい手首の返し方も、相手が欲しがっている言葉も。だから、失敗するということは、見えていた正解を選ばなかったということだった。それは不運ではなく、自分の中の何かが醜いということだった。
母の復活を望まない自分。
そんな自分は、あってはならなかった。
だから、信じた。自分は母を愛している。母の目覚めを、心から願っている。母のために生きている。その目標を掲げている限り、自分は、ちゃんと母を愛する、いい息子でいられた。
今年の夏、母は「死んだ」。
緑の封蝋の束に、最後の一通を重ねたとき、涙は出なかった。
あのとき、どこかで何かが外れた気がした。それが何だったのか、今になって分かった。
目標が、消えたのではなかった。
最初から、なかったのだ。
母のために生きているという物語を、自分に言い聞かせていただけだった。それを信じていれば、自分は醜くないと思えたから。自分自身を、気持ちよくさせていただけだった。
ハリーにも、ロンにも、寮の生徒たちにも、相手が欲しがっている言葉を差し出してきた。
その相手の中に、自分自身も入っていた。
自分が一番欲しがっている言葉――お前は母を愛するいい息子だ、お前は優しい人間だ――を、自分に差し出し続けてきた。
ずっと、自分を偽ってきた。
他人を偽り、自分を偽り、それでうまくやっていると思っていた。
世間では、そういう人間を、何と呼ぶか。
サミュエルは、声に出さずに、その言葉を唇の上でなぞった。
――詐欺師だ。
*
ふと思い立って、扇を抜いた。
ハリーが、ルーピン先生のところで習っているという呪文があった。守護霊の呪文。一番幸せな記憶を思い浮かべて、唱える。吸魂鬼を追い払う、銀色の守り手を呼び出す呪文。
本で読んで、呪文の形は知っていた。一度も、試したことはなかった。
幸せな記憶。
母の膝の上で眠った、日本の宿の縁側。母が「偉大な魔法使いになれるわ」と髪を撫でてくれた夜。
「エクスペクト・パトローナム」
扇の先から、銀色の靄が、ふわりと漏れた。
それだけだった。靄は形を成さずに、すぐに消えた。
サミュエルは、しばらく黙っていた。
それから、もう一度、扇を構えた。今度は、何も選ばなかった。頭に浮かぶにまかせた。
浮かんできたのは、なぜか、ホグワーツ特急の通路だった。窓の外が暗くなりかけていた。扇の話を、最後まで聞いてくれた顔。
「エクスペクト・パトローナム」
銀色の光が、工房いっぱいに溢れた。
光は、作業台の上で、一匹の獣の形を取った。
狐だった。しなやかな体。とがった耳。そして、その背後に、扇のように広がる、九本の尾。
九尾の狐。
銀色の狐は、作業台の上をゆっくりと歩いた。サミュエルのほうを振り向く。その顔は、優しげに微笑んでいるように見えた。
次の瞬間、狐の顔が、ふっと変わった。
今度は、凛々しく、頼もしげな顔。もう一度振り向くと、今度は、悪戯っぽく笑う顔。振り向くたびに、狐は違う顔を見せた。見る者が、一番見たいと思う顔を。
サミュエルは、それを、声もなく見つめていた。
九尾の狐。古い国々を、美しい女に化けて渡り歩き、王を惑わせ、国を傾けたという妖狐。人を化かす狐。
――これが、俺か。
銀色の狐は、九本の尾を揺らして、ふっと消えた。
工房に、ランプの灯りだけが残った。
*
サミュエルは、椅子の上で、動けなかった。
自分が、何を望んでいるのか、分からなかった。
どう生きたいのか。何のために、明日、目を覚ますのか。母のためではない。父のためでもない。寮の生徒たちのためでもない。それは全部、自分を気持ちよくさせるための、物語だった。
なら、物語を剥がしたあとには、何が残るのか。
何も、残らない気がした。
聖人だの、優しいだの、頼りになるだの。この二年半で、何百回と言われてきた。ハンナも、シェーマスも、ネビルも、自分を庇ってくれた。
彼らが庇ったのは、誰だったのか。
今なら分かる。詐欺師が作り上げた、偽物の誰かだ。
自分には、本当の優しさなど、どこにもなかった。
作業台の上の設計図が、ランプの灯りの中で、ぼんやりと揺れていた。綴じ紐の試作。インクの小瓶。宙に浮かべるはずだった、銀色のページ。
どれも、急に、意味のないものに見えた。
工房の棚の一番上で、白くて丸いものが、じっとこちらを見ていた。
オリエンスは、何も言わなかった。いつものように、とぼけた冗談も言わなかった。答えを教えることも、問いを投げることもしなかった。
ただ、静かに、そこにいた。
サミュエルは、椅子の背にもたれて、目を閉じた。
底が、どこにあるのか分からなかった。
ただ、ゆっくりと、沈んでいく感覚だけがあった。