四月になっても、城の空気は張り詰めたままだった。
ホグズミード村で、シリウス・ブラックを見たという噂が、また流れた。三本の箒の裏手の路地で、黒い大きな人影を見た、と。魔法省は吸魂鬼の数を増やし、夕暮れになると、校門の外に黒い影が何十も並ぶようになった。
生徒たちは、日が沈む前に必ず城の中へ戻った。窓の外を、吸魂鬼の影が滑っていくたびに、談話室の暖炉の火が、ふっと小さくなった。
サミュエルは、毎日、授業に出た。
朝起きて、顔を洗い、大広間で朝食をとる。授業で手を挙げ、先生の質問に答える。廊下ですれ違う生徒に笑いかけ、談話室で下級生の宿題を見てやる。
全部、いつも通りだった。
誰も、何も気づかなかった。
ただ、自分の中だけが、空っぽだった。笑いかけるたびに、その笑顔の裏側に、何もないのが分かった。詐欺師が、詐欺師の仕事をしている。それだけのことだった。
ハグリッドのヒッポグリフ、バックビークの裁判は、負けた。ドラコの腕の件で、危険生物処理委員会が処分を決めたのだ。ハグリッドは控訴すると言って、小屋で泣いていた。ハーマイオニーは、控訴のための判例を探して、図書室の閉館まで本の山に埋もれていた。
ハリーは、ルーピン先生との練習のあと、いつも青い顔をして戻ってきた。吸魂鬼に近づくと、母親の最期の声が聞こえるのだと、ロンにだけ話しているのを、サミュエルは聞いていた。
誰もが、それぞれの重さを抱えていた。サミュエルは、その誰の重さにも、いつも通り、軽い言葉を差し出した。
*
四月十一日の朝、サミュエルの皿の横に、小さな包みが一つ落ちてきた。
ふくろうではなかった。どこからともなく、ぽん、と現れたのだ。屋敷しもべ妖精の魔法だった。
包みを開けると、親指ほどの大きさのカップケーキが一つ入っていた。白い砂糖衣の上に、銀色の粒が一つだけ載っている。
添えられた小さな紙切れに、震えるような字で、こう書いてあった。
〈さとうごろもは、はんぶんにいたしました。 ピッピー〉
サミュエルは、そのカップケーキを、しばらく見つめていた。
十四歳の誕生日だった。
屋敷の誰も、それを口にしない。父は、もちろん。寮の誰にも、話したことはなかった。
カップケーキを、一口で食べた。砂糖衣は、ちょうどいい甘さだった。
胸の奥で、何かがかすかに動いた。けれど、それが何なのかを確かめる前に、また空っぽの中に沈んでいった。
*
その日の、闇の魔術に対する防衛術の授業のあと、ルーピン先生が、教室に残るようにと言った。
三度目だった。
先生の部屋は、教室の奥の階段を上ったところにあった。窓際の水槽の中で、緑色の水魔が、細長い指で、ガラスを叩いている。
「ティーバッグで悪いね。茶葉は、切らしてしまって」
湯気の立つカップが、机の上に置かれた。
「今日、誕生日だろう」
サミュエルは、カップに伸ばしかけた手を止めた。
「……どうして」
「生徒の名簿に、書いてある。教師の、ささやかな特権だ」
ルーピン先生は、引き出しから、板チョコを一枚取り出して、机の上に置いた。
「おめでとう。プレゼントが、これしかなくて悪いね」
「……ありがとうございます」
いつもの笑顔で、そう言った。
ルーピン先生は、しばらく、その顔を見ていた。
「笑い方が、上手くなったね。秋より、ずっと」
「上手くやれてますから」
「上手くやれている人の顔は、もう少し、疲れていないものだよ」
サミュエルは、返事をしなかった。
水槽の水魔が、ガラスを、こつ、と叩いた。
「何も、言わなくていい。言葉にならないなら、ならないままで構わない。……ただ、お茶が冷めるまでは、ここにいなさい」
ルーピン先生は、それきり、自分の書類に目を落とした。羽根ペンが、羊皮紙の上を、静かに走る音だけがした。
紅茶を、一口飲んだ。ティーバッグの、薄い味がした。
二口目を飲んだところで、言葉が、勝手に出てきた。
「守護霊の呪文を、試しました」
羽根ペンが、止まった。
「ハリーが習ってるって聞いて、本で読んで。……出ました。狐でした」
「最初から形になったのか。たいしたものだ」
「振り向くたびに、顔が変わるんです。見る人が、一番見たい顔に。……人を化かす狐です。僕に、ぴったりだと思いました」
声は、いつも通り、軽かった。軽くしか、出せなかった。
「僕、空っぽなんです。笑うのは上手くなったけど、中に、何もない。母のためって言ってたのも、全部、自分に言い聞かせてただけで」
言ってしまってから、サミュエルは、カップの中を見た。
ルーピン先生は、羽根ペンを置いた。
「どんな記憶で、出たんだい」
「……友達の。特急の通路で、僕の話を、最後まで聞いてくれた」
「そうか」
ルーピン先生は、誰の、とは聞かなかった。
「守護霊はね、偽物の幸せでは、出てこない。どれだけ上手く自分を騙しても、靄にしかならないんだ。君がその記憶を、本物だと知っていなければ、狐は出てこなかった」
サミュエルは、顔を上げた。
「それに、空っぽの人間は、自分が空っぽだと、怖がったりしないものだよ。怖いと思うなら、そこには、まだ何かある」
「……先生に、何が分かるんですか」
口にしてから、しまった、と思った。いつもの自分なら、絶対に言わない言葉だった。
ルーピン先生は、怒らなかった。少しだけ、笑った。
「人に言えないものを抱えていると、笑い方ばかり上手くなる。私も、学生の頃は、そうだった。誰にも気づかれないように、毎日、上手に笑っていた」
窓の外を見た。
「気づいてくれたのは、友人たちだった。言えなかったものごと、全部知ったうえで、それでも、隣にいてくれた。……それがなければ、私は、とっくに、どこかで一人になっていたと思う」
窓の外は、薄い夕暮れだった。
「その記憶の友達を、大切にしなさい。君が、空っぽのふりをしていても、その人は、たぶん、もう気づいている」
サミュエルは、何も言えなかった。
紅茶は、とっくに冷めていた。
「……ごちそうさまでした」
「チョコレートを、忘れないように」
扉を出るとき、振り返ると、ルーピン先生は、もう書類に戻っていた。気づかないふりを、してくれているのだと分かった。
廊下を歩きながら、ポケットの中のチョコレートを、一欠片だけ齧った。
胸の奥で、何かが、もう一度、かすかに動いた。
今度は、すぐには、沈まなかった。
*
夜になると、サミュエルはトランクの工房にこもった。
グリモワールの設計は、三月のあの夜から、ほとんど進んでいなかった。綴じ紐の試作も、インクの配合も、手をつける気になれなかった。作業台の上の設計図は、うっすらと埃をかぶっていた。
代わりに、一つのことだけを、取り憑かれたように続けていた。
シリウス・ブラックの、行方を追うことだった。
なぜ、と自分に聞いても、うまく答えられなかった。
ただ、一つだけ、分かっていることがあった。
自分の中にあるものは、何もかもが嘘かもしれない。母への愛も、他人への優しさも、全部、自分を気持ちよくさせるための物語だった。
けれど、血だけは違う。
誰の血を引いているかは、演技ではどうにもならない。選びようも、偽りようもない。もし、あの男が本当に自分の父親なら、その事実の前に立ったとき、自分の中で何かが――嘘ではない何かが、動くかもしれない。
怒りでも、恐怖でも、何でもよかった。
自分がまだ空っぽではないという証拠が、欲しかった。
それに、もう一つ。
この一年の混乱は、全部、あの男から始まった。母の日記も、新聞の記事も、父の手紙も、陰口も。あの男がアズカバンから逃げ出さなければ、何も起きなかった。
行き場のない怒りの矛先が、そこにしかなかった。
*
作業台の上に、去年の春に描き起こした、ホグワーツの古い見取り図を広げた。
城の壁の中を走る水道管を、青い線で描きこんだ図面だった。二年生の春、バジリスクの通り道を探すために、古文書館で書き写してきた何百年も前の設計図をもとに作ったものだ。
あのときは、水道管しか見ていなかった。
今度は、別のものを探した。
城の外へ通じる、隠し通路。
ブラックは、ハロウィンの夜、城の中にいた。吸魂鬼が校門という校門を固めているのに、どうやって入ったのか。正面から入れないなら、正面ではないところから入ったのだ。
図面の上に、細い点線が何本も引いてあった。古い設計図では「封鎖」と書かれた通路がほとんどだった。ハニーデュークスの地下室へ続く通路。四階の鏡の裏の通路。それから――
校庭の、一本の木の根元から、まっすぐ南へ伸びる、長い点線。
点線の先は、ホグズミード村の外れの、一軒の空き家につながっていた。
古い設計図の余白に、走り書きのような注釈があった。〈一九七一年、植樹により封鎖〉。
一九七一年に植えられた木。
サミュエルは、窓のない工房の天井を見上げた。
暴れ柳。
次の朝、サミュエルはブルームズベリー古文書館の管理人の魔女に、ふくろう便で手紙を出した。魔法省の動物もどき登録簿の、写しを見せてもらえないか、と。
三日後に返事が来た。
〈今世紀の登録者は七名。ブラックの名前はないよ。あんたが何を調べているのか知らないけど、夜更かしはほどほどにおし。〉
七名の名前の中に、マクゴナガル先生の名前があった。ブラックの名前は、どこにもなかった。
登録されていない、ということは、化けられないということではない。化けられることを、誰にも知られていないということだ。
校庭の端に立つ、近づくものすべてを枝で叩きのめす、あの木。二年生の新学期、ハリーとロンの空飛ぶ車を叩き潰した木。
点線の先の空き家は、叫びの屋敷と呼ばれていた。村で一番の幽霊屋敷だ。
*
作業台の上で、一枚の銀色のページが、ふわりと浮かび上がった。
グリモワールのために作った、試作のページの一枚だった。盾の呪文ではなく、見張りの呪文を書きこんだもの。式神のように、紙が自分で飛んで、見たものを持ち主に伝える。
ほとんど使い物にならない試作品だった。それでも、夜の校庭を見張るくらいはできた。
サミュエルは、寮の窓からページを放った。銀色の紙は、角度を変えるたびにふっと見えなくなりながら、暗い校庭の上を滑っていった。
三晩、何も起きなかった。
四晩目の、真夜中だった。
ページから伝わってくる、ぼやけた景色の中に、二つの影が映った。
一つは、オレンジ色の、潰れた顔の猫。クルックシャンクスだった。
もう一つは、熊のように大きな、真っ黒な犬だった。
二匹は、並んで校庭を横切っていく。暴れ柳の近くで、黒い犬だけ前に出た。暴れ狂う枝の下をすり抜け、木の根元のこぶを、前足で押す。
暴れ柳の枝が、ぴたりと止まった。
黒い犬が、根元の隙間に、するりと消えていった。
サミュエルは、寮の窓辺で、息を止めていた。
「……犬」
ハリーが、この一年ずっと見かけると言っていた、黒い犬だった。占い学の先生が、死の予兆だと言った、あの犬。
ただの犬が、暴れ柳の止め方を知っているはずがない。
*
その週末、ホグズミード行きの日に、サミュエルは一人で村の外れの丘へ登った。
丘の上から、叫びの屋敷が見下ろせた。窓という窓に板が打ちつけられ、庭は伸び放題の草に埋もれている。屋根の一部が崩れかけていた。村の子供たちは、夜になるとあの屋敷から悲鳴が聞こえると言って、誰も近づかない。
屋敷の周りには、柵があった。柵の向こうの草が、一か所だけ、獣が何度も通ったように踏み倒されていた。
丘を吹き上げる風が、急に冷たくなった。
振り向くと、村の境の向こうを、黒いフードの影が三つ、滑るように横切っていくところだった。吸魂鬼の見回りだった。
息が白くなる。耳の奥で、また、あの遠い声が鳴りかけた。
サミュエルは、扇の箱を握りしめて、影が見えなくなるまで、じっと動かなかった。
*
「坊」
工房に戻ると、作業台の上で、オリエンスが丸くなっていた。
「三晩も四晩も、窓辺で何をしておる」
「探し物」
「見つかったか」
「たぶん」
サミュエルは、羊皮紙に、今夜見たものを書きつけた。黒い犬。猫。暴れ柳。叫びの屋敷。
「オリエンス。人が動物に化ける術があるだろう」
「動物もどきか」
「登録されていない動物もどきが、いたとしたら」
オリエンスは、片目を開けた。
「……坊は、何を追っておるのじゃ」
「シリウス・ブラック」
「追いついて、どうする」
サミュエルは、羽根ペンを止めた。
「分からない。会って、話を聞くのか。捕まえて、魔法省に突き出すのか。それとも――」
それとも、何なのだろう。
「……ただ、確かめたいんだ。自分の中に、まだ何か残ってるかどうか」
「ふむ」
オリエンスは、しばらく黙っていた。
「坊。一つだけ、言うておく」
「何?」
「血は、答えをくれるとは限らんぞ。血がくれるのは、たいてい、新しい問いだけじゃ」
サミュエルは、何も答えなかった。
オリエンスは、それ以上は何も言わなかった。けれど、尻尾が一度だけ、ゆっくりと作業台の上を叩いた。
サミュエルは、羊皮紙を見下ろした。
シリウスを追うことに、夢中になっていた。この四晩、自分が空っぽだということを、ほとんど考えずに済んでいた。
それが、新しい逃げ場所になっていることは、うっすらと分かっていた。
グリモワールの設計に逃げこんだ一月と、同じだった。
分かっていても、止まらなかった。
*
次の日の朝、談話室の階段の下で、ハーマイオニーとすれ違った。
彼女は、ハグリッドのヒッポグリフの控訴のための本を、山のように抱えていた。目の下の隈は、もう隠しようがないほど濃かった。
「おはよう、グレンジャー」
いつもの声で言った。いつもの笑顔で。
ハーマイオニーは、足を止めた。
じっと、こちらの顔を見た。
「……ねえ、大丈夫?」
「何が?」
「最近、なんだか――」
ハーマイオニーは、言葉を探すように口ごもった。
「なんだか、遠いわ。笑ってるのに、どこにもいないみたい」
サミュエルは、笑顔のまま、一瞬だけ言葉に詰まった。
誰も、気づかなかったのに。
「大丈夫だよ。寝不足なだけ」
「……そう」
ハーマイオニーは、それ以上は聞かなかった。けれど、本を抱えて階段を降りていく途中で、一度だけ振り返った。
サミュエルは、もう、そちらを見ていなかった。
頭の中には、暴れ柳の根元に消えていった、黒い犬の影だけがあった。
その夜から、サミュエルは、見張りのページを毎晩、暴れ柳の上に飛ばすようになった。
黒い犬は、三日に一度ほど、姿を見せた。いつも真夜中で、いつもクルックシャンクスが一緒だった。犬は、城の明かりの灯った窓を、長いこと見上げていることがあった。グリフィンドール塔の窓を。
次に犬が根元へ消えたら、後を追おう。
サミュエルは、銀色のページを一枚ずつ数え直しながら、そう決めた。盾の呪文のページが、十二枚。見張りのページが、三枚。まだ一冊の本にはなっていない、ばらばらの紙の束。
それでも、今の自分の手持ちは、それで全部だった。