ハーマイオニー・グレンジャーと緋色の予見者   作:スウィフト

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三十五話∶本当の父親

 

 

 

 

 

 

 

 

 六月の初めの夜だった。

 

 空には、まん丸な月が昇っていた。

 

 寮の窓辺で、サミュエルは、見張りのページから伝わってくるぼやけた景色に目を凝らしていた。暴れ柳の上空。日が落ちて間もない頃。

 

 黒い犬が、現れた。

 

 今夜は、一匹ではなかった。犬の口に、何かがくわえられていた。じたばたともがく、赤毛の――

 

「……ロン?」

 

 犬は、ロンの片足をくわえたまま、暴れ柳の根元の隙間へ引きずりこもうとしていた。ロンの手の中で、灰色の小さなものが暴れている。スキャバーズだった。

 

 サミュエルは、窓枠を蹴った。

 

 扇を抜き、宙に浮かせていた銀色のページを、全部ローブの内側に呼び戻す。盾の呪文が十二枚。見張りが三枚。

 

 寮の窓から、真っ暗な校庭へ。浮遊の呪文で、落ちる速さを殺す。着地した芝生は、夜露で冷たかった。

 

 暴れ柳まで走る。犬とロンの姿は、もう根元の隙間に消えていた。枝が、近づくものを叩き潰そうと、狂ったように振り回されている。

 

 サミュエルは、扇を開いて、木の根元に向けた。

 

「イモビラス」

 

 暴れ狂う枝が、宙で凍りついたように止まった。その下をくぐり抜け、根元の隙間に体を滑りこませる。

 

 振り返ると、ハグリッドの小屋のほうから、二つの影が走ってくるのが見えた。ハリーとハーマイオニーだった。

 

 待てば、二人に止められる。何をしに来たのか、聞かれる。

 

 サミュエルは、振り返らずに、暗いトンネルの奥へ走り出した。

 

 トンネルは、低く、長かった。腰をかがめたまま、土の匂いのする暗闇を、杖灯りだけを頼りに進む。頭の中で、去年の春に描き起こした図面の点線を、一本ずつたどっていった。

 

 やがて、トンネルが上り坂になり、その先に、かすかな明かりが見えた。

 

*

 

 屋敷の中は、埃と、腐った木の匂いがした。

 

 床板が、一歩ごとにきしむ。家具は、ことごとく壊されていた。椅子の脚が折れ、テーブルがひっくり返り、壁紙が爪で引き裂かれたように剥がれている。

 

 二階から、物音がした。

 

 誰かのうめき声。ロンだった。それから、別の声。低く、かすれた男の声。

 

 サミュエルは、扇を開いた。

 

 階段を、音を立てずに上る。二階の寝室の扉が、半分開いていた。

 

 四本柱のベッドの上に、ロンが倒れていた。片足が、おかしな方向に曲がっている。その胸の上で、スキャバーズが震えていた。

 

 ベッドの脇に、男が一人、立っていた。

 

 月明かりが、破れたカーテンの隙間から差しこんでいた。その光の中に、男の顔が浮かび上がる。

 

 げっそりと痩せこけた頬。肩まで伸びた、もつれた黒い髪。蝋のように黄ばんだ肌。落ちくぼんだ目。

 

 灰色の目だった。

 

 去年の夏、新聞の一面で見た顔だった。去年の秋、図書室で何十時間も見つめた顔だった。

 

 シリウス・ブラック。

 

 男が、こちらを振り向いた。

 

 灰色の目が、サミュエルの顔を捉えた。

 

 何かを言おうとして、男の唇が開いた。

 

 サミュエルは、それを待たなかった。

 

 扇を、振り抜いた。

 

*

 

 最初の呪文は、武装解除だった。

 

 男は、ロンから奪っていたらしい杖を、とっさに構えた。紅の閃光が杖をかすめ、男の体が、ベッドの柱に叩きつけられる。

 

 話をするには、まず、相手を動けなくしなければならない。

 

 頭の中は、驚くほど冷たかった。

 

 二発目。失神呪文。男は床を転がって避けた。三発目。足縛りの呪い。男の杖が、それを弾いた。弾かれた光が、壁の鏡を粉々に砕いた。

 

「待て――待ってくれ、君は――」

 

 男が、何か叫んでいた。

 

 サミュエルは、聞かなかった。

 

 右目の奥で、景色がずれる。男の影が、左へ跳ぶ。その先に、呪文を置く。影が、右へ転がる。その先に、また。

 

 扇が動くたびに、桃と梅の香りが、埃っぽい部屋の中に満ちていった。

 

 男は、防戦一方だった。十二年もアズカバンにいた体だった。動きのどこかに、錆びついた鈍さがあった。それでも、杖の扱いには、かつて一流の魔法使いだった名残が、確かにあった。

 

 男の杖の先が、ふいにこちらを向いた。

 

 右目に、影が映った。赤い閃光。自分の胸へ。

 

 避けられない。体が、追いつかない。

 

 その瞬間、ローブの内側から、銀色の紙が一枚、ひとりでに飛び出した。

 

 紙は、サミュエルの胸の前で、ぱっと広がった。薄い光の膜が張る。赤い閃光が、膜にぶつかって、花火のように弾けて消えた。

 

 一枚、また一枚。

 

 ローブの内側から、銀色のページが次々と飛び出して、サミュエルの周りに浮かんだ。まるで、一冊の本が、ページを開いたまま宙に浮いているように。男の呪文が飛んでくるたびに、ページが自分で動いて、自分で盾を張った。

 

 サミュエルは、ほんの一瞬だけ、目を見開いた。

 

 ――動いた。

 

 自分が杖を振るより先に。

 

 男の杖が、手から弾き飛ばされた。男は、壁際に追い詰められていた。息を荒げ、両手を上げる。

 

 サミュエルは、扇を、男の喉元に向けた。

 

「――エクスペリアームス!」

 

 背後から、声がした。

 

 扇が、手から跳ね上がった。くるくると宙を舞って、背後の誰かの手に、吸いこまれるように収まる。

 

 振り向くと、扉のところに、くたびれたローブの男が立っていた。白髪まじりの髪。片手の杖をこちらに向け、もう片方の手に、サミュエルの扇を握っている。

 

 ルーピン先生だった。

 

*

 

「やめなさい、サミュエル」

 

 ルーピン先生は、肩で息をしていた。走ってきたのだろう。手に、古びた羊皮紙の地図のようなものを握りしめている。

 

「先生……どうして」

 

「地図に、君の名前が見えた。ここに向かう、シリウスと、ロンと、ハリーとハーマイオニーと――ピーター・ペティグリューの名前と一緒に」

 

 ルーピン先生は、壁際の男のほうへ、ゆっくりと歩み寄った。

 

 それから、信じられないことをした。

 

 扇を壊れた机の上に置き、杖を下ろして、男の手を取り、助け起こしたのだ。

 

「シリウス」

 

「リーマス……」

 

 二人は、兄弟のように抱き合った。

 

 サミュエルは、扇のない手を、宙に浮かせたまま立ち尽くしていた。

 

 ルーピン先生が、男の耳元で、低い声で何か言った。男の灰色の目が、ゆっくりとこちらに向いた。

 

「……アメリアの、息子?」

 

 男の声は、かすれていた。

 

「アメリア・ヴェスゲレートの? じゃあ、ロビンソン・バークの――」

 

「おそらく、違う」

 

 ルーピン先生が、静かに言った。

 

「おそらく、君の息子だ、シリウス」

 

*

 

 男の顔から、血の気が引いていった。

 

 灰色の目が、大きく見開かれる。サミュエルの顔を、上から下まで、何度も見た。黒い髪。深紅の右目。それから、灰色の左目。

 

「そんな……そんな、はずは」

 

 男が、一歩、よろめいた。

 

「アメリアは、そんなこと、一言も……私は、何も……」

 

「心当たりは、あるんでしょう」

 

 自分の声が、ひどく遠くで聞こえた。

 

 男は、何も言わなかった。

 

 否定しなかった。

 

 それが、答えだった。

 

「母が、あなたの子を身ごもっていたことは、知っていたんですか」

 

「……知らなかった」

 

 男は、首を振った。

 

「本当に、知らなかった。あの夏の夜のあと、アメリアは、すぐにロビンソン・バークと婚約した。何も言わずに。私は、てっきり――」

 

 言葉が、途切れた。

 

 時間がない、と思った。

 

 階段の下から、足音が近づいてくる。ハリーとハーマイオニーだ。それから、もっと重い足音も。

 

 聞きたいことは、山ほどあった。けれど、一つずつ聞いている時間は、どこにもなかった。

 

 扇は、ルーピン先生が置いた机の上にある。取りに行く間はない。

 

 ローブの内側で、銀色のページが一枚、かさりと動いた。

 

 ページは床の上を滑るように飛び、壁際に転がっていた杖――男がロンから奪い、さっき弾き飛ばされた杖――に、くるりと巻きついた。そのまま浮き上がり、サミュエルの手の中へ、杖を運んでくる。

 

 他人の杖は、手の中で、ひやりと重かった。

 

 サミュエルは、その杖の先を男に向け、灰色の目を、まっすぐに見た。

 

「――レジリメンス」

 

*

 

 世界が、ぐらりと傾いた。

 

 男の目の奥へ、落ちていく。

 

 ホグワーツの廊下。若い頃の男が、仲間たちと笑いながら走っている。その行く手に、青いローブの女子生徒が立ちはだかった。胸に、監督生の徽章。冷たいほどに整った顔。深紅の両目。

 

 ――グリフィンドール、十点減点。廊下を走らない。

 

 ――ヴェスゲレート、お前、今年だけで俺を何回減点したと思ってるんだ。

 

 ――二十二回。今ので二十三回。

 

 母だった。

 

 景色が、流れていく。

 

 レイブンクローの首席の徽章。誰とも群れず、一人で図書室の奥に座っている母。誰かが、陰で囁いている。あの子の母親は、ひどく厳しい人らしい。一つの失敗も許さない、と。

 

 景色が、また流れる。

 

 戦争の夜。燃える屋敷。杖を構えた母の前に、年老いた魔女が倒れている。母と、よく似た顔の魔女。死喰い人の銀の面が、その手から転がり落ちていた。

 

 母は、その魔女を、まばたき一つせずに見下ろしていた。

 

 ――あの人が、自分の母親を。

 

 ――英雄だってさ。死喰い人を、もう二十人以上。

 

 ――あの目は、未来が見えるらしい。

 

 それから、夏の夜。

 

 月明かりの、どこかの屋根の上。若い男の隣に、母が座っていた。いつもの冷たい顔ではなかった。少しだけ、泣きそうな顔をしていた。

 

 ――ねえ、シリウス。もし、私が全部捨てたら。英雄も、家も、何もかも。

 

 ――捨てればいいさ。俺だって、とっくに家は捨ててる。

 

 ――……そうね。

 

 母は、夜空を見上げて、何かを見ているような目をした。遠い、ずっと遠い先の何かを。

 

 それから、ひどく悲しそうに笑った。

 

 ――でも、あなたは駄目なのよ。

 

*

 

 景色が、ばらばらに砕けた。

 

 その砕けた欠片の中に、別の記憶が、ふいに浮かび上がってきた。

 

 自分の記憶だった。九歳の冬、父の目を覗いたときに見た、あの断片。若い母が、バーク家の食堂の椅子に座っている。

 

 ――あなたは、威厳が欲しいでしょう?

 

 九歳の自分には、そこまでしか聞き取れなかった。そう、思っていた。

 

 違った。

 

 あのとき、全部見ていたのだ。意味が分からなかったから、最初の一言しか、覚えていなかっただけだった。

 

 今は、続きが聞こえた。

 

 ――それに、このままでは、あなたの家は陣営もろとも共倒れになる。英雄と結婚すれば、どちらの陣営も、バーク家に手出しはできなくなるわ。

 

 ――……あなたは、何が欲しい。

 

 ――家族が欲しいの。

 

 母の声は、冷たかった。けれど、その奥で、何かが震えていた。

 

 ――あの最低な母親とは違う、本当の家族が。

 

 ――ブラックの息子がいるだろう。噂になっている。

 

 ――シリウスは駄目。

 

 母は、父のぎょろりとした目を、まっすぐに見返した。

 

 ――あの人は、近いうちに、アズカバンへ送られるから。

 

*

 

 サミュエルは、床に膝をついていた。借りた杖が、指の間から転がり落ちた。

 

 男の目から、弾き出されていた。息が、荒かった。額に、冷たい汗が浮かんでいた。

 

 母は、見ていたのだ。

 

 未来を。

 

 シリウス・ブラックが、アズカバンへ送られる未来を。だから、選ばなかった。代わりに、威厳が欲しい男を選んだ。家族が欲しかったから。本当の家族が。

 

 父は、母の名声が欲しかった。

 

 母は、家族という形が欲しかった。

 

 二人とも、欲しいものを手に入れるために、手を結んだ。

 

 その上に、自分は生まれた。

 

 どこまでも、打算の上に。

 

 ――ああ。

 

 サミュエルは、床板の木目を見つめていた。

 

 出生の真実は、分かった。この男が、自分の父親だ。もう、疑いようがない。

 

 それなのに。

 

 何も、湧いてこなかった。

 

 怒りも、悲しみも、喜びも。嘘ではない何か。血の事実の前でなら、きっと動くと思っていた何か。

 

 代わりに押し寄せてきたのは、ただ、重すぎる事実の奔流だけだった。母の冷たい目。燃える屋敷。打算の会話。それが、胸の中に、どさどさと積み上がっていく。処理しきれないまま、どこにも行き場がないまま。

 

*

 

 扉が、乱暴に開いた。

 

 ハリーとハーマイオニーが、飛びこんできた。

 

「ロン!」

 

 ハーマイオニーが、ベッドに駆け寄る。ハリーが、杖をシリウスに向ける。それから、床に膝をついているサミュエルに気づいて、二人とも、凍りついた。

 

「……サミュエル?」

 

 ハーマイオニーの声が、震えていた。

 

 サミュエルは、答えなかった。答えられなかった。

 

 そこから先のことは、霧の向こうの出来事のようだった。

 

 ハリーが、シリウスに飛びかかった。ルーピン先生が、それを止めた。透明マントの下から、スネイプが現れた。ハリーとロンとハーマイオニーが、同時に武装解除の呪文を放ち、スネイプが壁に叩きつけられた。

 

 ルーピン先生とシリウスが、ロンのスキャバーズに、杖を向けた。

 

 青白い光。

 

 鼠が、身をよじり、膨らみ、人の形になった。禿げかけた、小柄な男。ピーター・ペティグリュー。十二年前に、指一本を残して死んだはずの男。

 

 シリウスは、無実だった。

 

 ポッター夫妻を裏切ったのは、この小男のほうだった。

 

 部屋の隅で、サミュエルは、それを見ていた。聞いていた。全部、頭の中に入ってきた。

 

 それでも、何も感じなかった。

 

 ハーマイオニーが、何度もこちらを振り返っていた。何か言いたそうに。けれど、その度に、事態が次から次へと押し寄せてきて、彼女の言葉を押し流していった。

 

 一行は、ペティグリューを縛り上げて、トンネルへ向かった。気を失ったスネイプを、宙に浮かせて。足を引きずるロンに、ハリーが肩を貸して。

 

 シリウスが、扉のところで、一度だけ振り返った。

 

 灰色の目が、部屋の隅のサミュエルを見た。

 

 何か言おうとして、唇が開いた。

 

 サミュエルは、その目を見なかった。

 

 足音が、階段を降りていく。トンネルの入口のほうへ、遠ざかっていく。

 

*

 

 しばらくして、遠くの空から、獣の遠吠えが聞こえた。

 

 狼の声だった。満月の夜の。

 

 それから、吸魂鬼の放つ、あの身を切るような冷気が、屋敷の壁越しにも伝わってきた。何十、何百という数の。湖のほうだった。

 

 サミュエルは、まだ、叫びの屋敷の二階にいた。

 

 割れた鏡の破片が、床に散らばっていた。その一つに、自分の顔が映っていた。黒い髪。深紅の右目。灰色の左目。

 

 この灰色が、どこから来たのか。今は、もう分かっている。

 

 分かったところで、何も変わらなかった。

 

 宙に浮かんでいた銀色のページが、一枚ずつ、力を失ったように床に落ちていった。

 

 壊れた机の上に、扇が残されていた。サミュエルは、それを取って、握りしめた。

 

 これ以上、ここにはいられなかった。

 

 どこへ行けばいいのかも、分からなかった。

 

 彼は、その場で、くるりと身を翻した。

 

 ばちん、と乾いた音がして、叫びの屋敷の二階から、少年の姿が消えた。

 

 あとには、埃と、割れた鏡と、かすかな桃と梅の香りだけが残っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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