六月の初めの夜だった。
空には、まん丸な月が昇っていた。
寮の窓辺で、サミュエルは、見張りのページから伝わってくるぼやけた景色に目を凝らしていた。暴れ柳の上空。日が落ちて間もない頃。
黒い犬が、現れた。
今夜は、一匹ではなかった。犬の口に、何かがくわえられていた。じたばたともがく、赤毛の――
「……ロン?」
犬は、ロンの片足をくわえたまま、暴れ柳の根元の隙間へ引きずりこもうとしていた。ロンの手の中で、灰色の小さなものが暴れている。スキャバーズだった。
サミュエルは、窓枠を蹴った。
扇を抜き、宙に浮かせていた銀色のページを、全部ローブの内側に呼び戻す。盾の呪文が十二枚。見張りが三枚。
寮の窓から、真っ暗な校庭へ。浮遊の呪文で、落ちる速さを殺す。着地した芝生は、夜露で冷たかった。
暴れ柳まで走る。犬とロンの姿は、もう根元の隙間に消えていた。枝が、近づくものを叩き潰そうと、狂ったように振り回されている。
サミュエルは、扇を開いて、木の根元に向けた。
「イモビラス」
暴れ狂う枝が、宙で凍りついたように止まった。その下をくぐり抜け、根元の隙間に体を滑りこませる。
振り返ると、ハグリッドの小屋のほうから、二つの影が走ってくるのが見えた。ハリーとハーマイオニーだった。
待てば、二人に止められる。何をしに来たのか、聞かれる。
サミュエルは、振り返らずに、暗いトンネルの奥へ走り出した。
トンネルは、低く、長かった。腰をかがめたまま、土の匂いのする暗闇を、杖灯りだけを頼りに進む。頭の中で、去年の春に描き起こした図面の点線を、一本ずつたどっていった。
やがて、トンネルが上り坂になり、その先に、かすかな明かりが見えた。
*
屋敷の中は、埃と、腐った木の匂いがした。
床板が、一歩ごとにきしむ。家具は、ことごとく壊されていた。椅子の脚が折れ、テーブルがひっくり返り、壁紙が爪で引き裂かれたように剥がれている。
二階から、物音がした。
誰かのうめき声。ロンだった。それから、別の声。低く、かすれた男の声。
サミュエルは、扇を開いた。
階段を、音を立てずに上る。二階の寝室の扉が、半分開いていた。
四本柱のベッドの上に、ロンが倒れていた。片足が、おかしな方向に曲がっている。その胸の上で、スキャバーズが震えていた。
ベッドの脇に、男が一人、立っていた。
月明かりが、破れたカーテンの隙間から差しこんでいた。その光の中に、男の顔が浮かび上がる。
げっそりと痩せこけた頬。肩まで伸びた、もつれた黒い髪。蝋のように黄ばんだ肌。落ちくぼんだ目。
灰色の目だった。
去年の夏、新聞の一面で見た顔だった。去年の秋、図書室で何十時間も見つめた顔だった。
シリウス・ブラック。
男が、こちらを振り向いた。
灰色の目が、サミュエルの顔を捉えた。
何かを言おうとして、男の唇が開いた。
サミュエルは、それを待たなかった。
扇を、振り抜いた。
*
最初の呪文は、武装解除だった。
男は、ロンから奪っていたらしい杖を、とっさに構えた。紅の閃光が杖をかすめ、男の体が、ベッドの柱に叩きつけられる。
話をするには、まず、相手を動けなくしなければならない。
頭の中は、驚くほど冷たかった。
二発目。失神呪文。男は床を転がって避けた。三発目。足縛りの呪い。男の杖が、それを弾いた。弾かれた光が、壁の鏡を粉々に砕いた。
「待て――待ってくれ、君は――」
男が、何か叫んでいた。
サミュエルは、聞かなかった。
右目の奥で、景色がずれる。男の影が、左へ跳ぶ。その先に、呪文を置く。影が、右へ転がる。その先に、また。
扇が動くたびに、桃と梅の香りが、埃っぽい部屋の中に満ちていった。
男は、防戦一方だった。十二年もアズカバンにいた体だった。動きのどこかに、錆びついた鈍さがあった。それでも、杖の扱いには、かつて一流の魔法使いだった名残が、確かにあった。
男の杖の先が、ふいにこちらを向いた。
右目に、影が映った。赤い閃光。自分の胸へ。
避けられない。体が、追いつかない。
その瞬間、ローブの内側から、銀色の紙が一枚、ひとりでに飛び出した。
紙は、サミュエルの胸の前で、ぱっと広がった。薄い光の膜が張る。赤い閃光が、膜にぶつかって、花火のように弾けて消えた。
一枚、また一枚。
ローブの内側から、銀色のページが次々と飛び出して、サミュエルの周りに浮かんだ。まるで、一冊の本が、ページを開いたまま宙に浮いているように。男の呪文が飛んでくるたびに、ページが自分で動いて、自分で盾を張った。
サミュエルは、ほんの一瞬だけ、目を見開いた。
――動いた。
自分が杖を振るより先に。
男の杖が、手から弾き飛ばされた。男は、壁際に追い詰められていた。息を荒げ、両手を上げる。
サミュエルは、扇を、男の喉元に向けた。
「――エクスペリアームス!」
背後から、声がした。
扇が、手から跳ね上がった。くるくると宙を舞って、背後の誰かの手に、吸いこまれるように収まる。
振り向くと、扉のところに、くたびれたローブの男が立っていた。白髪まじりの髪。片手の杖をこちらに向け、もう片方の手に、サミュエルの扇を握っている。
ルーピン先生だった。
*
「やめなさい、サミュエル」
ルーピン先生は、肩で息をしていた。走ってきたのだろう。手に、古びた羊皮紙の地図のようなものを握りしめている。
「先生……どうして」
「地図に、君の名前が見えた。ここに向かう、シリウスと、ロンと、ハリーとハーマイオニーと――ピーター・ペティグリューの名前と一緒に」
ルーピン先生は、壁際の男のほうへ、ゆっくりと歩み寄った。
それから、信じられないことをした。
扇を壊れた机の上に置き、杖を下ろして、男の手を取り、助け起こしたのだ。
「シリウス」
「リーマス……」
二人は、兄弟のように抱き合った。
サミュエルは、扇のない手を、宙に浮かせたまま立ち尽くしていた。
ルーピン先生が、男の耳元で、低い声で何か言った。男の灰色の目が、ゆっくりとこちらに向いた。
「……アメリアの、息子?」
男の声は、かすれていた。
「アメリア・ヴェスゲレートの? じゃあ、ロビンソン・バークの――」
「おそらく、違う」
ルーピン先生が、静かに言った。
「おそらく、君の息子だ、シリウス」
*
男の顔から、血の気が引いていった。
灰色の目が、大きく見開かれる。サミュエルの顔を、上から下まで、何度も見た。黒い髪。深紅の右目。それから、灰色の左目。
「そんな……そんな、はずは」
男が、一歩、よろめいた。
「アメリアは、そんなこと、一言も……私は、何も……」
「心当たりは、あるんでしょう」
自分の声が、ひどく遠くで聞こえた。
男は、何も言わなかった。
否定しなかった。
それが、答えだった。
「母が、あなたの子を身ごもっていたことは、知っていたんですか」
「……知らなかった」
男は、首を振った。
「本当に、知らなかった。あの夏の夜のあと、アメリアは、すぐにロビンソン・バークと婚約した。何も言わずに。私は、てっきり――」
言葉が、途切れた。
時間がない、と思った。
階段の下から、足音が近づいてくる。ハリーとハーマイオニーだ。それから、もっと重い足音も。
聞きたいことは、山ほどあった。けれど、一つずつ聞いている時間は、どこにもなかった。
扇は、ルーピン先生が置いた机の上にある。取りに行く間はない。
ローブの内側で、銀色のページが一枚、かさりと動いた。
ページは床の上を滑るように飛び、壁際に転がっていた杖――男がロンから奪い、さっき弾き飛ばされた杖――に、くるりと巻きついた。そのまま浮き上がり、サミュエルの手の中へ、杖を運んでくる。
他人の杖は、手の中で、ひやりと重かった。
サミュエルは、その杖の先を男に向け、灰色の目を、まっすぐに見た。
「――レジリメンス」
*
世界が、ぐらりと傾いた。
男の目の奥へ、落ちていく。
ホグワーツの廊下。若い頃の男が、仲間たちと笑いながら走っている。その行く手に、青いローブの女子生徒が立ちはだかった。胸に、監督生の徽章。冷たいほどに整った顔。深紅の両目。
――グリフィンドール、十点減点。廊下を走らない。
――ヴェスゲレート、お前、今年だけで俺を何回減点したと思ってるんだ。
――二十二回。今ので二十三回。
母だった。
景色が、流れていく。
レイブンクローの首席の徽章。誰とも群れず、一人で図書室の奥に座っている母。誰かが、陰で囁いている。あの子の母親は、ひどく厳しい人らしい。一つの失敗も許さない、と。
景色が、また流れる。
戦争の夜。燃える屋敷。杖を構えた母の前に、年老いた魔女が倒れている。母と、よく似た顔の魔女。死喰い人の銀の面が、その手から転がり落ちていた。
母は、その魔女を、まばたき一つせずに見下ろしていた。
――あの人が、自分の母親を。
――英雄だってさ。死喰い人を、もう二十人以上。
――あの目は、未来が見えるらしい。
それから、夏の夜。
月明かりの、どこかの屋根の上。若い男の隣に、母が座っていた。いつもの冷たい顔ではなかった。少しだけ、泣きそうな顔をしていた。
――ねえ、シリウス。もし、私が全部捨てたら。英雄も、家も、何もかも。
――捨てればいいさ。俺だって、とっくに家は捨ててる。
――……そうね。
母は、夜空を見上げて、何かを見ているような目をした。遠い、ずっと遠い先の何かを。
それから、ひどく悲しそうに笑った。
――でも、あなたは駄目なのよ。
*
景色が、ばらばらに砕けた。
その砕けた欠片の中に、別の記憶が、ふいに浮かび上がってきた。
自分の記憶だった。九歳の冬、父の目を覗いたときに見た、あの断片。若い母が、バーク家の食堂の椅子に座っている。
――あなたは、威厳が欲しいでしょう?
九歳の自分には、そこまでしか聞き取れなかった。そう、思っていた。
違った。
あのとき、全部見ていたのだ。意味が分からなかったから、最初の一言しか、覚えていなかっただけだった。
今は、続きが聞こえた。
――それに、このままでは、あなたの家は陣営もろとも共倒れになる。英雄と結婚すれば、どちらの陣営も、バーク家に手出しはできなくなるわ。
――……あなたは、何が欲しい。
――家族が欲しいの。
母の声は、冷たかった。けれど、その奥で、何かが震えていた。
――あの最低な母親とは違う、本当の家族が。
――ブラックの息子がいるだろう。噂になっている。
――シリウスは駄目。
母は、父のぎょろりとした目を、まっすぐに見返した。
――あの人は、近いうちに、アズカバンへ送られるから。
*
サミュエルは、床に膝をついていた。借りた杖が、指の間から転がり落ちた。
男の目から、弾き出されていた。息が、荒かった。額に、冷たい汗が浮かんでいた。
母は、見ていたのだ。
未来を。
シリウス・ブラックが、アズカバンへ送られる未来を。だから、選ばなかった。代わりに、威厳が欲しい男を選んだ。家族が欲しかったから。本当の家族が。
父は、母の名声が欲しかった。
母は、家族という形が欲しかった。
二人とも、欲しいものを手に入れるために、手を結んだ。
その上に、自分は生まれた。
どこまでも、打算の上に。
――ああ。
サミュエルは、床板の木目を見つめていた。
出生の真実は、分かった。この男が、自分の父親だ。もう、疑いようがない。
それなのに。
何も、湧いてこなかった。
怒りも、悲しみも、喜びも。嘘ではない何か。血の事実の前でなら、きっと動くと思っていた何か。
代わりに押し寄せてきたのは、ただ、重すぎる事実の奔流だけだった。母の冷たい目。燃える屋敷。打算の会話。それが、胸の中に、どさどさと積み上がっていく。処理しきれないまま、どこにも行き場がないまま。
*
扉が、乱暴に開いた。
ハリーとハーマイオニーが、飛びこんできた。
「ロン!」
ハーマイオニーが、ベッドに駆け寄る。ハリーが、杖をシリウスに向ける。それから、床に膝をついているサミュエルに気づいて、二人とも、凍りついた。
「……サミュエル?」
ハーマイオニーの声が、震えていた。
サミュエルは、答えなかった。答えられなかった。
そこから先のことは、霧の向こうの出来事のようだった。
ハリーが、シリウスに飛びかかった。ルーピン先生が、それを止めた。透明マントの下から、スネイプが現れた。ハリーとロンとハーマイオニーが、同時に武装解除の呪文を放ち、スネイプが壁に叩きつけられた。
ルーピン先生とシリウスが、ロンのスキャバーズに、杖を向けた。
青白い光。
鼠が、身をよじり、膨らみ、人の形になった。禿げかけた、小柄な男。ピーター・ペティグリュー。十二年前に、指一本を残して死んだはずの男。
シリウスは、無実だった。
ポッター夫妻を裏切ったのは、この小男のほうだった。
部屋の隅で、サミュエルは、それを見ていた。聞いていた。全部、頭の中に入ってきた。
それでも、何も感じなかった。
ハーマイオニーが、何度もこちらを振り返っていた。何か言いたそうに。けれど、その度に、事態が次から次へと押し寄せてきて、彼女の言葉を押し流していった。
一行は、ペティグリューを縛り上げて、トンネルへ向かった。気を失ったスネイプを、宙に浮かせて。足を引きずるロンに、ハリーが肩を貸して。
シリウスが、扉のところで、一度だけ振り返った。
灰色の目が、部屋の隅のサミュエルを見た。
何か言おうとして、唇が開いた。
サミュエルは、その目を見なかった。
足音が、階段を降りていく。トンネルの入口のほうへ、遠ざかっていく。
*
しばらくして、遠くの空から、獣の遠吠えが聞こえた。
狼の声だった。満月の夜の。
それから、吸魂鬼の放つ、あの身を切るような冷気が、屋敷の壁越しにも伝わってきた。何十、何百という数の。湖のほうだった。
サミュエルは、まだ、叫びの屋敷の二階にいた。
割れた鏡の破片が、床に散らばっていた。その一つに、自分の顔が映っていた。黒い髪。深紅の右目。灰色の左目。
この灰色が、どこから来たのか。今は、もう分かっている。
分かったところで、何も変わらなかった。
宙に浮かんでいた銀色のページが、一枚ずつ、力を失ったように床に落ちていった。
壊れた机の上に、扇が残されていた。サミュエルは、それを取って、握りしめた。
これ以上、ここにはいられなかった。
どこへ行けばいいのかも、分からなかった。
彼は、その場で、くるりと身を翻した。
ばちん、と乾いた音がして、叫びの屋敷の二階から、少年の姿が消えた。
あとには、埃と、割れた鏡と、かすかな桃と梅の香りだけが残っていた。