ハーマイオニー・グレンジャーと緋色の予見者   作:スウィフト

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三十六話∶生きる理由

 

 

 

 

 

 

 

 叫びの屋敷の夜から、二週間が経っていた。

 

 あの夜のことを、ホグワーツの生徒たちは、それぞれ違う形で知っていた。

 

 シリウス・ブラックが、城の中で捕まった。吸魂鬼のキスを受ける直前に、西塔の窓から、ヒッポグリフに乗って逃げた。どうやって逃げたのかは、誰にも分からない。ハグリッドの小屋から、処刑されるはずだったバックビークも、同じ夜に姿を消していた。

 

 ルーピン先生は、狼人間だった。スネイプが、朝食の席でうっかり口を滑らせたのだ。ルーピン先生は、その日のうちに辞表を出して、城を去った。

 

 ルーピン先生が城を去った日の夕方、サミュエルの枕元に、一通の手紙が置かれていた。くたびれた羊皮紙に、少し右に傾いた細い字だった。

 

〈ミスター・ヴェスゲレート。

 あの夜、君がどれだけのものを見たのか、私には分からない。けれど、一つだけ伝えておきたい。

 シリウスは、君のことを何も知らなかった。それだけは、本当だ。知っていたら、あいつは十二年前、何をおいても君のところへ行っただろう。そういう男だ。

 それから――君の守りの本は、見事だった。 R・J・ルーピン〉

 

 サミュエルは、その手紙を一度だけ読んで、ローブのポケットに入れた。引き出しにしまうことも、もう一度読み返すこともできなかった。

 

 学期末の試験は何事もなかったように行われ、何事もなかったように終わった。

 

 サミュエルは全部の試験を受けた。全部、満点に近い点を取った。

 

 何を書いたのか、ほとんど覚えていなかった。

 

*

 

 あの夜、叫びの屋敷から姿を消したあと、サミュエルは村の外れの丘の上にいた。

 

 夜が明けるまで、そこに座っていた。湖のほうで吸魂鬼の冷気が膨れ上がり、それから銀色の光が一つ走って、冷気が嘘のように消えていくのを、遠くから見ていた。

 

 夜明けに、ホグズミードの門から歩いて城へ戻った。門番の吸魂鬼は、もういなかった。

 

 次の日、ハリーが、談話室の隅でサミュエルを呼び止めた。

 

「シリウスは、無実だったんだ」

 

 ハリーの目は、赤く腫れていた。眠っていないようだった。

 

「ピーター・ペティグリューが、僕の両親を裏切った。シリウスは、十二年間、身代わりにアズカバンにいた」

 

 ハリーは、そこで一度、唇を噛んだ。

 

「ペティグリューは、逃げちゃったけど……シリウスは、生きてる。逃げられたんだ」

 

「……そう」

 

「サミュエル。あの夜、あそこで、何があったの? シリウスが、君のこと――」

 

「何でもないよ」

 

 サミュエルは、いつもの笑顔を作ろうとした。

 

 うまく、作れなかった。

 

 ハリーは、それ以上、何も聞かなかった。

 

*

 

 それから二週間、サミュエルは、誰ともまともに話さなかった。

 

 授業には出た。食事も、少しはとった。寮の生徒に話しかけられれば、答えた。けれど、その声には、もう何も入っていなかった。笑顔を作る気力さえ、どこかへ消えていた。

 

 グリモワールの銀色のページは、トランクの工房の床に散らばったまま、拾われていなかった。

 

 ハーマイオニーが、何度も話しかけようとしてきた。廊下で。談話室で。図書室の前で。

 

「サミュエル、少しだけ、話を――」

 

「ごめん。今、ちょっと」

 

「……じゃあ、あとで」

 

「うん、あとで」

 

 あとで、は、一度も来なかった。来ないようにしていたのは、自分のほうだった。

 

 そのたびに、サミュエルは何でもない一言を返して、その場を離れた。

 

 彼女の顔を、見られなかった。

 

 見たら、何かが崩れてしまう気がした。

 

*

 

 学年末の、最後の週の夕方だった。

 

 日が傾き、湖面は、橙色に染まっていた。

 

 城から一番遠い、向こう岸の小さな入り江。誰も来ない場所。岸辺に、平たい石が二つ並んでいる。

 

 サミュエルは、いつものように左の石に腰掛けて、ただ水面を眺めていた。右の石には、秋から一度も、誰も座ったことがなかった。

 

 足音が、近づいてきた。

 

 草を踏む、小さな足音。走ってきたのか、息が少し上がっていた。

 

「……やっと、見つけた」

 

 ハーマイオニーの声だった。

 

「ネビルに聞いたの。日曜日になると、あなたが一人で向こう岸へ行くって」

 

 サミュエルは、何も答えなかった。振り向きもしなかった。

 

 ハーマイオニーは、しばらく、その背中を見ていた。それから、何も言わずに、空いていたほうの石に腰を下ろした。

 

 湖面を、風が渡っていった。さざ波が、夕日をきらきらと砕いた。

 

 長い沈黙のあと、サミュエルが、ようやく口を開いた。

 

「……ここ、母さんが好きだった場所なんだ」

 

 いつもの快活さは、どこにもない声だった。

 

 ハーマイオニーは、膝の上で両手を組んだまま、何も言わなかった。

 

「新聞に書いてあったことは、全部本当だったよ」

 

 淡々とした口調だった。まるで、他人の話をしているような。

 

「書いてなかったのは、そこに愛がなかったってことだけだ」

 

 組んだハーマイオニーの指に、小さく力がこもった。

 

「母さんは未来を見て、シリウスを選ばなかった。父上は英雄の名前が欲しくて、母さんは家族という形が欲しかった」

 

 サミュエルは、短く笑った。笑いにはなっていない声だった。

 

「……ただの取引だよ。俺は、そのおまけだ」

 

 母もまた、一つのミスも許さない母親に育てられた人だった。その母親を自らの手で殺して、英雄になった人だった。自分は、その人の子供だった。

 

 湖面に、小さな魚が跳ねた。

 

「誰かに望まれて生まれたわけじゃない。……それが分かっただけの一年だった」

 

 ローブのポケットの中で、指先が、くたびれた羊皮紙の角に触れた。知っていたら、あいつは何をおいても君のところへ行っただろう。

 

 手紙は、取り出さなかった。

 

「母さんのために生きて、次は父上のために生きた。上手く立ち回っているつもりだったよ」

 

 足元の小石を一つ拾って、指の中で転がした。湖へは、投げなかった。

 

「蓋を開けてみたら、中身は空っぽだった」

 

 夕日が、山の端に、少しずつ沈んでいく。

 

「こんな空っぽの人生に、意味なんてあるのかな」

 

 最後の一言は、独り言のように小さく、湖に溶けて消えていくようだった。

 

*

 

 ハーマイオニーは、何も返さなかった。

 

 ただ、石の上で座り直して、少しだけ彼との距離を詰めた。

 

 しばらくの沈黙のあと、今度は、ハーマイオニーが口を開いた。

 

「図書室では、うまく言えなかったから。――ありがとう」

 

 サミュエルが、顔を上げた。

 

 ハーマイオニーは、ローブの内ポケットから、銀色の小さな鶴を取り出した。翼の折り目が、何度も開いては畳み直したように、白く擦り切れていた。

 

 鶴を手のひらに載せて、湖を見つめたまま、静かに続けた。

 

「一年生のとき、トイレで一人で泣いてたら、これが届いたの」

 

 鶴の翼を、指先でそっと撫でた。

 

「名前は、書いてなかったけど」

 

 サミュエルは、何も答えなかった。擦り切れた折り目から、目が離せなかった。

 

 ハーマイオニーは、ようやく、彼のほうへ視線を向けた。

 

「ねえ。どうして、わたしだけ、みんなと違うの?」

 

 サミュエルは、しばらく黙っていた。

 

「前に、君は僕を……俺を、優しいと言ったね」

 

 湖面を見つめたまま、乾いた声で続けた。

 

「違うよ。俺はずっと、全員を見下してた」

 

 一度口にしてしまうと、言葉は、思ったより簡単に出てきた。

 

「理想の人間を演じながら、大人が子供をあやすような気分でね」

 

 対岸の城の尖塔が、夕日を受けて赤く光っていた。

 

「悪意はなかった。でも、それは結局、格下の扱いだ」

 

 膝の上で組んだ自分の指に、目を落とした。

 

「……今でも、誰にも心を許せていない」

 

 風が、二人の間を吹き抜けていった。

 

「母さんを救うって目標も、同じだ。あれさえあれば、自分をいい息子だと思っていられた」

 

 湖の向こうで、水鳥が一羽、低く飛んでいった。

 

「人を騙すより先に、俺は自分を騙してたんだ」

 

 サミュエルは、一度、言葉を切った。

 

「そういう人間を、世間じゃ何て呼ぶか、知ってるか」

 

 自嘲するような、掠れた声だった。

 

「詐欺師だ」

 

 ハーマイオニーは、目をそらさなかった。

 

 否定もしなかった。慰めもしなかった。ただ、まっすぐに聞いていた。

 

「でも、君にだけは、違った」

 

 サミュエルの声が、ほんの少しだけ、揺れた。

 

「君の前では、どういうわけか、仮面をかぶり損ねた」

 

 口の端が、ほんの少しだけ持ち上がった。

 

「喧嘩ばかりだったけど……あれは全部、楽しかった」

 

 夕日の最後の一筋が、湖面を横切っていった。

 

「今年、何もかも崩れて、ようやく振り返った」

 

 ハーマイオニーの手のひらの鶴に、もう一度、目をやった。

 

「瓦礫の中に残っていた宝物は、君との記憶だけだった」

 

 サミュエルは、ようやく、ハーマイオニーのほうを向いた。

 

 夕暮れの光の中で、彼女の目が、まっすぐにこちらを見ていた。列車の通路で、初めて言い返してきたときと、同じ目だった。

 

「だから、君は――」

 

 声が、少しだけかすれた。

 

 

 

「俺にとって、大切な存在だ」

 

 

 

 ハーマイオニーの唇が、かすかに震えた。

 

「君さえよければ、手伝ってほしい」

 

 サミュエルは、膝の上で、手を握りしめた。

 

「俺が、生きていくのを」

 

*

 

 ハーマイオニーは、しばらく黙っていた。

 

 湖面が、夕闇の中で、少しずつ色を失っていく。対岸の城に、一つ、また一つと窓の明かりが灯り始めていた。

 

 やがて、彼女は、小さく頷いた。

 

「……分かった。手伝うわ」

 

 短いやり取りだった。

 

 それだけだった。抱きしめることも、手を取ることもしなかった。二人は、二つの石に並んで座ったまま、暗くなっていく湖を見ていた。

 

 けれど、サミュエルの中で、何かが変わっていた。

 

 正解ではなかった。許しでもなかった。

 

 空っぽだと思っていた自分を、空っぽのまま、詐欺師のまま、それでも大切だと言える誰かがいる。そして、その誰かが、手伝うと言ってくれた。条件も、理由も、何もつけずに。

 

 生まれて初めて、自分の口で、生きたいと言った。

 

 誰かに言われたからではなかった。誰かのために演じたのでもなかった。

 

 自分で、そう言った。

 

 大切な存在。生きるのを、手伝ってほしい。

 

 その言葉が友情なのか、それ以上の何かなのか、サミュエル自身にも分かっていなかった。分からないまま、選んだ言葉だった。その曖昧さが、やがてハーマイオニーを長く悩ませることになるのを、まだ二人とも知らなかった。

 

 湖の向こうで、城の明かりが、水面に長い光の帯を落としていた。

 

 ハーマイオニーの手のひらで、銀色の鶴が、その光を小さく映していた。

 

 夜風が吹いて、鶴の翼がほんの少しだけ揺れた。ハーマイオニーは、それを両手で包んで、ローブの内ポケットにしまった。

 

 二人は、立ち上がった。

 

 並んで、湖のほとりの小道を、城のほうへ歩き出した。

 

 小道に出たところで、サミュエルは、ふと足を止めた。

 

「……五つ目」

 

「え?」

 

「五つ目の理由。いつか教えてくれるって」

 

 ハーマイオニーは、目を丸くした。それから、ぱっと顔をそらした。

 

「……今、聞くの?」

 

「今だから、聞きたい」

 

 さっき、自分で詐欺師だと言ったばかりだった。そんな人間を、あの日、彼女は大勢の前で庇ったのだ。四つの理屈のあとに、何を言うつもりだったのか。

 

 ハーマイオニーは、しばらく、足元の小石を見つめていた。

 

「……理屈じゃないから、言わなかったの」

 

「うん」

 

「笑わない?」

 

「笑わない」

 

 ハーマイオニーは、ローブの裾を、ぎゅっと握った。夕闇の中でも分かるくらい、耳が赤かった。

 

「第五に。……彼を、信じてるから」

 

 小さな声だった。

 

「それだけ。理由になってないでしょう」

 

 サミュエルは、何も言えなかった。

 

 理由になっていない、と思った。だから、いちばん強い理由だと思った。

 

「……ありがとう」

 

「お礼を言われるようなことじゃないわ。……ほら、門限」

 

 ハーマイオニーは、先に歩き出した。

 

 一拍遅れて、その背中を追った。

 

 一度だけ、入り江を振り返った。

 

 岸辺に、平たい石が二つ、並んでいた。

 

 

 

 

 

 

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