叫びの屋敷の夜から、二週間が経っていた。
あの夜のことを、ホグワーツの生徒たちは、それぞれ違う形で知っていた。
シリウス・ブラックが、城の中で捕まった。吸魂鬼のキスを受ける直前に、西塔の窓から、ヒッポグリフに乗って逃げた。どうやって逃げたのかは、誰にも分からない。ハグリッドの小屋から、処刑されるはずだったバックビークも、同じ夜に姿を消していた。
ルーピン先生は、狼人間だった。スネイプが、朝食の席でうっかり口を滑らせたのだ。ルーピン先生は、その日のうちに辞表を出して、城を去った。
ルーピン先生が城を去った日の夕方、サミュエルの枕元に、一通の手紙が置かれていた。くたびれた羊皮紙に、少し右に傾いた細い字だった。
〈ミスター・ヴェスゲレート。
あの夜、君がどれだけのものを見たのか、私には分からない。けれど、一つだけ伝えておきたい。
シリウスは、君のことを何も知らなかった。それだけは、本当だ。知っていたら、あいつは十二年前、何をおいても君のところへ行っただろう。そういう男だ。
それから――君の守りの本は、見事だった。 R・J・ルーピン〉
サミュエルは、その手紙を一度だけ読んで、ローブのポケットに入れた。引き出しにしまうことも、もう一度読み返すこともできなかった。
学期末の試験は何事もなかったように行われ、何事もなかったように終わった。
サミュエルは全部の試験を受けた。全部、満点に近い点を取った。
何を書いたのか、ほとんど覚えていなかった。
*
あの夜、叫びの屋敷から姿を消したあと、サミュエルは村の外れの丘の上にいた。
夜が明けるまで、そこに座っていた。湖のほうで吸魂鬼の冷気が膨れ上がり、それから銀色の光が一つ走って、冷気が嘘のように消えていくのを、遠くから見ていた。
夜明けに、ホグズミードの門から歩いて城へ戻った。門番の吸魂鬼は、もういなかった。
次の日、ハリーが、談話室の隅でサミュエルを呼び止めた。
「シリウスは、無実だったんだ」
ハリーの目は、赤く腫れていた。眠っていないようだった。
「ピーター・ペティグリューが、僕の両親を裏切った。シリウスは、十二年間、身代わりにアズカバンにいた」
ハリーは、そこで一度、唇を噛んだ。
「ペティグリューは、逃げちゃったけど……シリウスは、生きてる。逃げられたんだ」
「……そう」
「サミュエル。あの夜、あそこで、何があったの? シリウスが、君のこと――」
「何でもないよ」
サミュエルは、いつもの笑顔を作ろうとした。
うまく、作れなかった。
ハリーは、それ以上、何も聞かなかった。
*
それから二週間、サミュエルは、誰ともまともに話さなかった。
授業には出た。食事も、少しはとった。寮の生徒に話しかけられれば、答えた。けれど、その声には、もう何も入っていなかった。笑顔を作る気力さえ、どこかへ消えていた。
グリモワールの銀色のページは、トランクの工房の床に散らばったまま、拾われていなかった。
ハーマイオニーが、何度も話しかけようとしてきた。廊下で。談話室で。図書室の前で。
「サミュエル、少しだけ、話を――」
「ごめん。今、ちょっと」
「……じゃあ、あとで」
「うん、あとで」
あとで、は、一度も来なかった。来ないようにしていたのは、自分のほうだった。
そのたびに、サミュエルは何でもない一言を返して、その場を離れた。
彼女の顔を、見られなかった。
見たら、何かが崩れてしまう気がした。
*
学年末の、最後の週の夕方だった。
日が傾き、湖面は、橙色に染まっていた。
城から一番遠い、向こう岸の小さな入り江。誰も来ない場所。岸辺に、平たい石が二つ並んでいる。
サミュエルは、いつものように左の石に腰掛けて、ただ水面を眺めていた。右の石には、秋から一度も、誰も座ったことがなかった。
足音が、近づいてきた。
草を踏む、小さな足音。走ってきたのか、息が少し上がっていた。
「……やっと、見つけた」
ハーマイオニーの声だった。
「ネビルに聞いたの。日曜日になると、あなたが一人で向こう岸へ行くって」
サミュエルは、何も答えなかった。振り向きもしなかった。
ハーマイオニーは、しばらく、その背中を見ていた。それから、何も言わずに、空いていたほうの石に腰を下ろした。
湖面を、風が渡っていった。さざ波が、夕日をきらきらと砕いた。
長い沈黙のあと、サミュエルが、ようやく口を開いた。
「……ここ、母さんが好きだった場所なんだ」
いつもの快活さは、どこにもない声だった。
ハーマイオニーは、膝の上で両手を組んだまま、何も言わなかった。
「新聞に書いてあったことは、全部本当だったよ」
淡々とした口調だった。まるで、他人の話をしているような。
「書いてなかったのは、そこに愛がなかったってことだけだ」
組んだハーマイオニーの指に、小さく力がこもった。
「母さんは未来を見て、シリウスを選ばなかった。父上は英雄の名前が欲しくて、母さんは家族という形が欲しかった」
サミュエルは、短く笑った。笑いにはなっていない声だった。
「……ただの取引だよ。俺は、そのおまけだ」
母もまた、一つのミスも許さない母親に育てられた人だった。その母親を自らの手で殺して、英雄になった人だった。自分は、その人の子供だった。
湖面に、小さな魚が跳ねた。
「誰かに望まれて生まれたわけじゃない。……それが分かっただけの一年だった」
ローブのポケットの中で、指先が、くたびれた羊皮紙の角に触れた。知っていたら、あいつは何をおいても君のところへ行っただろう。
手紙は、取り出さなかった。
「母さんのために生きて、次は父上のために生きた。上手く立ち回っているつもりだったよ」
足元の小石を一つ拾って、指の中で転がした。湖へは、投げなかった。
「蓋を開けてみたら、中身は空っぽだった」
夕日が、山の端に、少しずつ沈んでいく。
「こんな空っぽの人生に、意味なんてあるのかな」
最後の一言は、独り言のように小さく、湖に溶けて消えていくようだった。
*
ハーマイオニーは、何も返さなかった。
ただ、石の上で座り直して、少しだけ彼との距離を詰めた。
しばらくの沈黙のあと、今度は、ハーマイオニーが口を開いた。
「図書室では、うまく言えなかったから。――ありがとう」
サミュエルが、顔を上げた。
ハーマイオニーは、ローブの内ポケットから、銀色の小さな鶴を取り出した。翼の折り目が、何度も開いては畳み直したように、白く擦り切れていた。
鶴を手のひらに載せて、湖を見つめたまま、静かに続けた。
「一年生のとき、トイレで一人で泣いてたら、これが届いたの」
鶴の翼を、指先でそっと撫でた。
「名前は、書いてなかったけど」
サミュエルは、何も答えなかった。擦り切れた折り目から、目が離せなかった。
ハーマイオニーは、ようやく、彼のほうへ視線を向けた。
「ねえ。どうして、わたしだけ、みんなと違うの?」
サミュエルは、しばらく黙っていた。
「前に、君は僕を……俺を、優しいと言ったね」
湖面を見つめたまま、乾いた声で続けた。
「違うよ。俺はずっと、全員を見下してた」
一度口にしてしまうと、言葉は、思ったより簡単に出てきた。
「理想の人間を演じながら、大人が子供をあやすような気分でね」
対岸の城の尖塔が、夕日を受けて赤く光っていた。
「悪意はなかった。でも、それは結局、格下の扱いだ」
膝の上で組んだ自分の指に、目を落とした。
「……今でも、誰にも心を許せていない」
風が、二人の間を吹き抜けていった。
「母さんを救うって目標も、同じだ。あれさえあれば、自分をいい息子だと思っていられた」
湖の向こうで、水鳥が一羽、低く飛んでいった。
「人を騙すより先に、俺は自分を騙してたんだ」
サミュエルは、一度、言葉を切った。
「そういう人間を、世間じゃ何て呼ぶか、知ってるか」
自嘲するような、掠れた声だった。
「詐欺師だ」
ハーマイオニーは、目をそらさなかった。
否定もしなかった。慰めもしなかった。ただ、まっすぐに聞いていた。
「でも、君にだけは、違った」
サミュエルの声が、ほんの少しだけ、揺れた。
「君の前では、どういうわけか、仮面をかぶり損ねた」
口の端が、ほんの少しだけ持ち上がった。
「喧嘩ばかりだったけど……あれは全部、楽しかった」
夕日の最後の一筋が、湖面を横切っていった。
「今年、何もかも崩れて、ようやく振り返った」
ハーマイオニーの手のひらの鶴に、もう一度、目をやった。
「瓦礫の中に残っていた宝物は、君との記憶だけだった」
サミュエルは、ようやく、ハーマイオニーのほうを向いた。
夕暮れの光の中で、彼女の目が、まっすぐにこちらを見ていた。列車の通路で、初めて言い返してきたときと、同じ目だった。
「だから、君は――」
声が、少しだけかすれた。
「俺にとって、大切な存在だ」
ハーマイオニーの唇が、かすかに震えた。
「君さえよければ、手伝ってほしい」
サミュエルは、膝の上で、手を握りしめた。
「俺が、生きていくのを」
*
ハーマイオニーは、しばらく黙っていた。
湖面が、夕闇の中で、少しずつ色を失っていく。対岸の城に、一つ、また一つと窓の明かりが灯り始めていた。
やがて、彼女は、小さく頷いた。
「……分かった。手伝うわ」
短いやり取りだった。
それだけだった。抱きしめることも、手を取ることもしなかった。二人は、二つの石に並んで座ったまま、暗くなっていく湖を見ていた。
けれど、サミュエルの中で、何かが変わっていた。
正解ではなかった。許しでもなかった。
空っぽだと思っていた自分を、空っぽのまま、詐欺師のまま、それでも大切だと言える誰かがいる。そして、その誰かが、手伝うと言ってくれた。条件も、理由も、何もつけずに。
生まれて初めて、自分の口で、生きたいと言った。
誰かに言われたからではなかった。誰かのために演じたのでもなかった。
自分で、そう言った。
大切な存在。生きるのを、手伝ってほしい。
その言葉が友情なのか、それ以上の何かなのか、サミュエル自身にも分かっていなかった。分からないまま、選んだ言葉だった。その曖昧さが、やがてハーマイオニーを長く悩ませることになるのを、まだ二人とも知らなかった。
湖の向こうで、城の明かりが、水面に長い光の帯を落としていた。
ハーマイオニーの手のひらで、銀色の鶴が、その光を小さく映していた。
夜風が吹いて、鶴の翼がほんの少しだけ揺れた。ハーマイオニーは、それを両手で包んで、ローブの内ポケットにしまった。
二人は、立ち上がった。
並んで、湖のほとりの小道を、城のほうへ歩き出した。
小道に出たところで、サミュエルは、ふと足を止めた。
「……五つ目」
「え?」
「五つ目の理由。いつか教えてくれるって」
ハーマイオニーは、目を丸くした。それから、ぱっと顔をそらした。
「……今、聞くの?」
「今だから、聞きたい」
さっき、自分で詐欺師だと言ったばかりだった。そんな人間を、あの日、彼女は大勢の前で庇ったのだ。四つの理屈のあとに、何を言うつもりだったのか。
ハーマイオニーは、しばらく、足元の小石を見つめていた。
「……理屈じゃないから、言わなかったの」
「うん」
「笑わない?」
「笑わない」
ハーマイオニーは、ローブの裾を、ぎゅっと握った。夕闇の中でも分かるくらい、耳が赤かった。
「第五に。……彼を、信じてるから」
小さな声だった。
「それだけ。理由になってないでしょう」
サミュエルは、何も言えなかった。
理由になっていない、と思った。だから、いちばん強い理由だと思った。
「……ありがとう」
「お礼を言われるようなことじゃないわ。……ほら、門限」
ハーマイオニーは、先に歩き出した。
一拍遅れて、その背中を追った。
一度だけ、入り江を振り返った。
岸辺に、平たい石が二つ、並んでいた。