三十七話∶届かない距離
クィディッチ・ワールドカップの競技場は、山を一つくり抜いたような大きさだった。
金色の観客席が、すり鉢状に何段も何段も空へ向かって積み上がっている。十万人の観客。緑と赤のアイルランドの旗と、赤と黒のブルガリアの旗が、そこかしこで揺れていた。夕暮れの空気に、焼き栗と、花火の火薬の匂いが混じっている。
貴賓席は、その一番上にあった。
「ロビンソン、来てくれたか。いや、この夏は何かと大変だったろう」
ずんぐりした体に、ライムグリーンの山高帽をかぶった魔法使いが、父の手を両手で握った。魔法大臣のコーネリウス・ファッジだった。
「お招きいただき、光栄です、大臣」
父は、如才なく頭を下げた。この一年で、また少し頬の肉が落ちていた。けれど、笑顔の作り方は少しも衰えていなかった。
「こちらが、ご子息だね。魔道具の工夫に熱心だという噂は聞いているよ。いや、末恐ろしい」
「恐れ入ります」
サミュエルも、父の隣で微笑んで一礼した。
貴賓席のクッションつきの椅子に座ると、給仕の屋敷しもべ妖精が、冷たいかぼちゃジュースと、小さなサンドイッチを銀の盆で運んできた。少し離れた席には、ルシウス・マルフォイと、その妻と、ドラコがいた。ドラコは、こちらを見て小さく顎を上げた。
試合前、ドラコがさりげなく隣の席に移ってきた。
「よう。ブルガリアに賭けたか?」
「賭けてない。でも、勝つのはアイルランドだと思う。チェイサーの連携が違う」
「クラムがいるのにか?」
「クラムがいても、だよ。シーカー一人でできることには、限りがある」
ドラコは鼻を鳴らしたが、反論はしなかった。
「……父上が言ってた。今年は、ホグワーツで何か大きなことがあるって。お前のところにも、何か聞こえてるか」
「何も。ドラコのほうが詳しいんじゃないか」
「教えてやらないよ」
ドラコは得意げに顎を上げた。何も知らないのは、たぶんドラコも同じだった。
ブルガリアの魔法大臣。各国の要人。魔法ゲーム・スポーツ部の部長。貴賓席は、顔をつなぐための場所だった。誰が誰の隣に座り、誰と誰が握手をしたか。父にとっては、試合そのものより、そちらのほうがずっと大事だった。
サミュエルは、いつものように愛想よく振る舞った。各国の大臣に挨拶し、ファッジの冗談に笑い、ルシウスの探るような質問を、穏やかにかわした。
見慣れた光景だった。
*
試合前の余興が始まる前、サミュエルはふと、貴賓席の手すりから下を見下ろした。
はるか下。すり鉢の底に近い、安い席のあたり。米粒のような観客たちの中に、ひときわ目立つ赤毛の一団がいた。
ウィーズリー一家だった。双子が、アイルランドの緑の帽子をかぶって跳ね回っている。その隣にハリーとロン。
それから、ふさふさした栗色の髪。
ハーマイオニーだった。
オペラグラスを両手で持って、きょろきょろと競技場を見回している。何か、隣のジニーに話しかけていた。笑っている。声は、聞こえない。
届くはずもなかった。この高さから叫んでも、十万人の歓声に、一瞬でかき消される。
サミュエルは、手すりに肘をついて、その小さな姿を見下ろしていた。
あの湖のほとりから、二か月が経っていた。
俺にとって、大切な存在だ。生きていくのを、手伝ってほしい。
あの夜、そう言った。彼女は、手伝う、と言った。
それから、何かが変わったのか。それとも、何も変わっていないのか。
夏休みの間、手紙は何度かやり取りした。宿題のこと、ロンとハリーのこと、ハーマイオニーの両親の歯科医院に来た変な患者のこと。どれも、他愛のない話ばかりだった。湖の夜のことには、どちらも一行も触れなかった。
ただ、一通だけ、最後にこう書き添えてある手紙があった。
〈ちゃんと、ご飯を食べてる? 食べてなかったら、九月に分かるわよ。〉
サミュエルは、その一行を何度か読み返して、それから、朝食をいつもより一皿多く食べた。
あの言葉が、友情だったのか。それとも、もっと別の何かだったのか。言った本人にも、まだ分からなかった。
たぶん、彼女にも。
「――サミュエル。座りなさい。始まるぞ」
父の声で、サミュエルは手すりから身を起こした。
遠い客席の栗色の髪は、もう、他の観客に紛れて見えなくなっていた。
*
試合の前に、両チームのマスコットが披露された。
ブルガリアのマスコットは、ヴィーラだった。月の光のような白金の髪をなびかせた、百人の美女。彼女たちがピッチの上で踊り始めた瞬間、貴賓席の男たちの目の色が変わった。ファッジが、ぽかんと口を開けて手すりに身を乗り出した。ドラコの耳が、真っ赤になっていた。
サミュエルは、サンドイッチを一切れつまみながら、それを眺めていた。
きれいだとは思った。けれど、それだけだった。
フラーの祖母も、ヴィーラだと聞いている。三年前の合宿で、彼女が髪をかき上げるたびに周りの男子生徒が振り向いていたのを思い出した。あのときも、自分だけは、彼女の呪文の手首の返し方のほうが気になっていた。
アイルランドのマスコットは、金色の光を撒き散らす、小さな妖精の大群だった。レプラコーン。彼らが空から金貨の雨を降らせると、安い席のあたりで、歓声と奪い合いが起きた。
*
試合は、圧倒的だった。
アイルランドのチェイサーたちは、三人で一つの生き物のように空を駆け、次々とブルガリアのゴールにクアッフルを叩きこんだ。点差は、あっという間に開いていった。
それでも、競技場じゅうの目が、一人の選手を追っていた。
ビクトール・クラム。
ブルガリアのシーカー。痩せて、猫背で、地上では鴨のようにぎこちなく歩くあの男が、空の上では、まるで別の生き物だった。
クラムが、急降下した。
まっすぐ、地面へ向かって。アイルランドのシーカーが、慌ててその後を追う。
地面すれすれで、クラムは箒を引き起こした。アイルランドのシーカーは、そのまま地面に激突した。
「ウロンスキー・フェイントだ!」
貴賓席で、誰かが叫んだ。ファッジが、帽子を握りしめて身を乗り出していた。
試合は、そこから一時間続いた。
点差は、百六十点まで開いていた。ブルガリアがスニッチを取っても、十点差で負ける。誰の目にも、勝負はもうついていた。
それでも、クラムはスニッチを追い続けた。
鼻から血を流しながら。ブラッジャーに顔を打たれて、腫れ上がった目のまま。
そして、取った。
金色の小さな玉を、拳の中に握りしめて。
ブルガリアの負けが、決まった。
競技場が、アイルランドの勝利の歓声で揺れた。その中で、クラムは、スニッチを握ったまま、ゆっくりとピッチに降りていった。勝ったチームの誰よりも、静かな顔をしていた。
*
試合のあと、貴賓席に、ブルガリアの選手たちが挨拶に上がってきた。
ブルガリアの魔法大臣が、選手一人ひとりと握手をしていく。最後に、クラムが来た。鼻の下に、拭き取りきれない血の跡が残っていた。
クラムは、サミュエルに気づいて、足を止めた。
「……ホグワーツ」
「久しぶり、クラム。すごかったよ」
クラムは、何も言わなかった。いつものように、顎を小さく引いただけだった。
サミュエルは、気がつくと聞いていた。
「勝てないって、分かってたんだろう。百六十点差だった。スニッチを取っても、負けるって」
「……ああ」
「それでも、取りに行ったのか」
クラムは、しばらく黙っていた。
それから、腫れた目で、まっすぐにこちらを見た。
「あそこで諦めたら、自分に嘘をつくことになる」
短い言葉だった。
クラムはそれだけ言うと、ぎこちない足取りで、貴賓席を出ていった。
サミュエルは、その背中を見送っていた。
自分に、嘘をつく。
この三月、トランクの工房で、自分にどんな名前をつけたか。詐欺師。他人を欺き、何より自分自身を欺いてきた人間。
クラムは、たった一言で、その傷のど真ん中に触れていった。本人は、何も知らないまま。
「……どうした」
父が、怪訝そうにこちらを見ていた。
「何でもありません」
サミュエルは、いつもの笑顔を作った。
作れていたかどうかは、分からなかった。
*
その夜、事件が起きた。
バーク家は、競技場の近くの丘の上に、魔法省が貴賓のために用意した天幕に泊まっていた。周りには、魔法省の警備の魔法使いが何人も立っている。
真夜中を過ぎた頃、遠くで、悲鳴が上がった。
天幕の外に出ると、はるか下の野営地で、火の手が上がっていた。
松明の明かりが、一か所に固まって、ゆっくりと移動している。その真ん中に、黒いフードと、白い面をつけた魔法使いたちの一団がいた。彼らの杖の先の上空に、何かが浮かんでいた。人の形をした、何か。
野営地を管理していたマグルの一家だった。空中で、操り人形のように、逆さまに吊るされていた。
「死喰い人だ……」
警備の魔法使いの一人が、青ざめた声で言った。
野営地じゅうが、逃げ惑う人々の悲鳴で埋め尽くされていった。テントが燃え、子供が泣き叫び、誰かが誰かの名前を呼んでいる。
サミュエルは、丘の上の手すりを握りしめていた。
あの野営地のどこかに、ウィーズリー一家のテントがある。
ハーマイオニーがいる。
マグル生まれの、ハーマイオニーが。
面をつけた魔法使いたちが、マグルを逆さまに吊るし上げて、笑いながら行進している。その行進の進む先に、もし彼女がいたら。
「下がっていなさい、ご子息。ここは安全です」
警備の魔法使いが、サミュエルの肩を押さえた。
「でも、下には――」
「下には、魔法省の者が向かっています。あなたが行っても、どうにもなりません」
正論だった。バーク家の跡取りが、真夜中に野営地へ駆け降りていく理由を、誰にも説明できない。行く手段も、口実もない。
――そんなことは、どうでもよかった。
右目の奥で、景色がずれる。肩を押さえた警備の、半透明の影。その影の左手が、ローブの内側の杖へ伸びていく。止めるための、失神呪文。
サミュエルは、半歩だけ、体を引いた。
警備の手が、空を掴んだ。
「な――」
舞うように肩を滑らせて、押さえる手の下をくぐる。傷つける気はなかった。ただ、通り抜けるだけだ。
「サミュエル」
背後から、父の声がした。天幕の入口で、腕を組んだまま、こちらを見ていた。
「戻れ。バークの跡取りが、持ち場を離れて騒ぎに首を突っこむなど、許さん」
「待ちなさい、サミュエル君。あの野営地は、今は危険だ」
隣の天幕の入口から、ルシウス・マルフォイの落ち着いた声が重なった。その後ろで、ドラコが目を丸くして、こちらを見ていた。
「サミュエル! どこへ行くんだ!」
サミュエルは、足を止めなかった。
あそこで諦めたら、自分に嘘をつくことになる。
昼間に聞いた言葉が、耳の奥で鳴っていた。ここで戻れば、また一つ、嘘が増える。大切な存在だと言った口で、安全な高台から眺めているだけの人間になる。
振り返って、一礼した。
「すみません、父上。叱るのは、あとにしてください」
手すりを越えた。
*
丘の斜面を、一気に駆け降りた。
足元は暗く、霜のように冷たい夜露で滑りやすかった。右目に映る数秒先の影が、道を教えてくれた。逃げ惑う魔法使いの群れ、倒れた天幕の支柱、燃える布が落ちてくる軌道。半歩ずつ、体をずらす。止まらない。
野営地は、地獄だった。
天幕が、あちこちで燃えていた。子供が泣き叫び、誰かが誰かの名前を呼びながら走っていく。人波に押されて、何度も肩をぶつけた。その間を、縫うようにすり抜けていく。
ウィーズリー一家のテントは、すぐに見つかった。
崩れた支柱の下に、折れた旗が落ちている。人の姿は、なかった。
「サミュエル!?」
煙の中から、赤毛の双子が転がり出てきた。フレッドとジョージだった。二人の後ろに、ジニーが、泥だらけの顔でしがみついていた。
「なんで、お前がここに! 貴賓席にいたんじゃ――」
「ハーマイオニーは」
声が、思っていたより低く出た。
「ハーマイオニーは、どこだ」
「ハリーとロンと一緒に、森のほうに……はぐれたんだ、人混みで。パパが、探しに行った」
ジニーが、森の方角を指さした。
サミュエルは、返事も待たずに走り出していた。
*
森の入口は、魔法省の魔法使いたちの人垣で塞がれていた。
杖を構えた役人たちが、森の奥へ向けて、一列に並んでいる。
「通してください!」
「下がれ! 闇の印を打ち上げた者が、この森の中にいる! 子供は入るな!」
腕をつかまれた。役人の手は、強かった。
ここで強引に押し通れば、役人たちを傷つける。
サミュエルは、人垣の隙間から、森の奥を見た。
そのとき、頭上の闇が、緑に光った。
森の上空に、巨大な形が打ち上がっていた。髑髏。その口から、蛇が、舌のように這い出している。
闇の印。
野営地の悲鳴が、一瞬、止んだ。それから、さっきよりもずっと大きな悲鳴が、夜空を埋め尽くした。
役人たちが、いっせいに杖を構えた。
「失神呪文だ! 一斉に撃て!」
赤い閃光が、森の奥へ飛んでいった。
サミュエルは、杖を持つ役人たちの手元に、何もできずに立ちすくんでいた。
あの光の先に、彼女がいるかもしれない。
息が、止まった。
「やめろ! 撃つな! 子供たちがいる! 私の――」
森の奥から、聞き覚えのある声が響いた。ウィーズリー氏だった。
閃光が、ぱたりと止んだ。
しばらくして、木々の間から、ウィーズリー氏が現れた。腕に、ぐったりとしたものを抱えている。その後ろに、見覚えのある三人の姿があった。
ハリー。ロン。
それから、ふさふさした栗色の髪。
ハーマイオニーだった。
泥だらけの顔で、真っ青になって、それでも自分の足で歩いていた。怪我は、なさそうだった。
サミュエルは、腕をつかむ役人の手を、振りほどくのをやめた。
膝から、力が抜けそうになった。
無事だった。
彼女は、サミュエルに気づかなかった。ハリーとロンの間で、ウィーズリー氏に肩を抱かれて、森のほうを何度も振り返りながら歩いていった。
それでいい、と思った。
声をかけるには、まだ、言葉を持っていなかった。
*
「ご子息。ここまでです」
役人の一人が、サミュエルの肩に手を置いた。
さっきの、貴賓席の警備だった。肩で息をしながら、追いついてきたらしい。怒っているのか、呆れているのか、分からない顔をしていた。
「お父上が、お呼びです。……あまり、こういうことはなさらないように」
「すみません」
サミュエルは、素直に頭を下げた。後悔は、なかった。
丘の上の天幕へ戻ると、父が、入口で待っていた。
ロビンソンは、何も言わなかった。ぎょろりとした目が、しばらくサミュエルを見ていた。泥だらけのローブ。焦げた袖。夜露で濡れた靴。
「……穢れた血の娘は、無事だったのか」
サミュエルは、顔を上げた。
「はい」
「そうか」
父は、天幕の中へ入りかけて、足を止めた。
「大勢の前で、持ち場を離れた。ルシウスにも、見られていたろう。……家の名に傷がつくほどではないが、噂にはなる」
「承知しています」
「承知の上でやったのか」
「はい」
父は、それ以上、何も言わなかった。怒っているのかどうかも、分からなかった。
ただ、天幕の入口に垂れた幕が、いつもより少しだけ乱暴に、ばさりと閉じられた。
*
夜が明けるまで、サミュエルは一睡もしなかった。
朝になって、魔法省の役人たちが、ようやく野営地の様子を伝え始めた。死者は出ていない。マグルの一家は、記憶を修正されて家に帰された。闇の印を打ち上げた者は、まだ見つかっていない。
ウィーズリー家の者たちは、全員無事に、移動キーで家に帰ったらしい。
息を、長く吐いた。
手すりを握っていた指は、とうに緩んでいた。かわりに、掌に、擦り傷ができていた。手すりを越えたときの傷だった。
走れば、届いた。
それが、こんなにも救いになることを、知らなかった。
けれど、同時に、別のことも知った。
闇の印が上がったとき、自分の前には、杖を構えた役人の列があった。あの光の先に彼女がいたのに、自分にできることは、何もなかった。
走る足があっても、届かない場所は、ある。
それから、もう一つ。
彼女は、最後まで気づかなかった。気づかれなくてよかったと思った自分と、気づいてほしかった自分が、同じ胸の中にいた。
走って届くのは、こちらの足だけだ。伸ばした手が握り返されるかどうかは、どれだけ走っても、分からない。
朝の光の中で、森の上空の闇の印は、もう跡形もなく消えていた。サミュエルは、丘の手すりにもたれたまま、その空っぽの空を、長いこと見上げていた。