三度目の強化合宿の会場は、湖水地方の山あいにある、魔法省の古い館だった。
灰色の石造りの館の前に、細長い湖が鏡のように広がっている。八月の終わりの風は、もう少しだけ秋の匂いを含んでいた。館の食堂には、ボーバトンの淡い青と、ダームストラングの血のような赤と、ホグワーツの黒いローブが入り混じって、いつもより少しだけ騒がしかった。
今年は、空気が違った。
「九月から、ホグワーツで三大魔法学校対抗試合が開かれるらしいぞ」
「百年以上やってなかったやつだろ。死人が出て、中止になったっていう」
「代表選手は、十七歳以上だけだってさ」
どのテーブルでも、その話で持ちきりだった。合宿の参加者の何人かは、この秋、そのまま代表選手の候補として、ホグワーツへ乗りこんでくることになる。
「――サミュエル!」
食堂の入口で、銀色がかったブロンドの髪が揺れた。
フラーだった。十七歳になった彼女は、もう少女というより、一人の大人の女性に見えた。ボーバトンの淡い青の制服が、まるで夜会のドレスのように見える。彼女が食堂に入ってきた瞬間、男子生徒たちの会話が一斉に途切れた。
フラーは、その視線を気にも留めずに、まっすぐこちらへ歩いてきた。
「一年ぶりね。背、伸びた?」
「少しだけ」
「顔つきも変わったわ。……ずいぶん、お母さまに似てきたって言われない?」
「言われる」
フラーは、くすりと笑って、サミュエルの隣の席に当たり前のように腰を下ろした。
「九月から、ホグワーツに行くわ。代表選手に名前を入れるつもり。選ばれたら、毎日あなたの学校の大広間でごはんを食べることになるわね」
「歓迎するよ。ホグワーツの糖蜜タルトは、たぶんボーバトンのより甘い」
「それは楽しみ」
食堂の向こうの端で、クラムが一人、黙々と黒パンをかじっていた。ワールドカップから、まだ二週間しか経っていない。目の周りの腫れは、もうほとんど引いていた。
サミュエルが軽く手を上げると、クラムも、パンを持ったまま小さく顎を引いた。それだけだった。いつもの距離だった。
*
サミュエルは、今年の合宿に、一冊の本を持ちこんでいた。
黒い革の表紙。背に、何の文字も入っていない。開けば、中のページはすべて、角度によってふっと見えなくなる、銀色の紙でできている。
グリモワール。
この六月、叫びの屋敷の夜には、まだばらばらのページの束だった。この夏休みの間、トランクの工房でそれを一冊に綴じ上げた。綴じ紐には、デミガイズの毛を撚り合わせた糸を使った。ページは四十二枚。一枚ごとに、盾、武装解除、失神、見張り、浮遊、それから、まだ名前のない呪文がいくつか。
持ち歩くつもりは、なかった。ただ、トランクの中に置いておくより、そばにあるほうが落ち着いた。
合宿の三日目、館の中庭で、決闘の実技の時間があった。
二人ずつ組になって、教官の監督のもとで呪文を打ち合う。サミュエルは、中庭の隅のベンチで、自分の番を待っていた。グリモワールは、膝の上に置いてあった。
隣の組で、ダームストラングの上級生が、ボーバトンの一年生の女の子と組まされていた。上級生は、明らかに手加減を知らなかった。
「――コンフリンゴ!」
爆発の呪文だった。授業で使っていい呪文ではない。女の子が、真っ青になって立ちすくんだ。教官が、慌てて杖を上げる。
間に合わない。
そのとき、サミュエルの膝の上で、グリモワールが、ひとりでに開いた。
ページが三枚、ばらりと宙に飛び出した。銀色の紙が、女の子の前で横一列に並び、ぱっと光の膜を張る。
爆発の呪文が、膜にぶつかった。
轟音。中庭の芝生がえぐれ、土煙が上がった。
土煙が晴れたとき、女の子は、その場に尻もちをついていた。傷一つなかった。彼女の前に、三枚の銀色のページが、ゆらゆらと浮かんでいた。
ページは、しばらく宙をさまよってから、ひとりでにサミュエルの膝の上の本へ戻っていった。ぱたん、と表紙が閉じた。
中庭が、静まり返っていた。
サミュエルは、杖を――扇を、抜いてすらいなかった。
教官が、ダームストラングの上級生の杖を取り上げて、真っ赤な顔で怒鳴りつけていた。上級生は、何が起きたのか分からないという顔で、サミュエルの膝の上の黒い本を見つめていた。
ボーバトンの女の子が、震える足で立ち上がって、こちらへ駆けてきた。
「あ、あの……メルシー。ありがとう。今の、あなたの……?」
「僕の本だよ。怪我はない?」
「な、ないわ。……本が、守ってくれたの?」
「本が、勝手にね」
女の子は、黒い表紙をおそるおそる見つめてから、もう一度「メルシー」と小さく言って、友だちのところへ走っていった。
*
その日の夕方、館の図書室で、一人の魔法使いに呼び止められた。
白髪まじりの、ひょろりと背の高い男だった。眼鏡の奥の目が、妙にぎらぎらと光っている。ローブの胸に、魔法省の実験呪文委員会の記章をつけていた。
「君が、ヴェスゲレート君だね。グレイだ。アーチボルド・グレイ。魔道具の研究をしている」
グレイは、サミュエルの手にある黒い本を、穴が開くほど見つめていた。
「さっきの中庭のあれを、見ていた。……その本を、少しだけ見せてもらえないか。触らなくていい。開いて、見せてくれるだけで」
サミュエルは、少し迷ってから、グリモワールを開いた。
グレイは、身を乗り出して、ページを一枚ずつ覗きこんだ。紙の素材。インクの色。呪文の書き方。綴じ紐の撚り方。長いこと、何も言わなかった。
「……杖を、使っていないんだね」
「ページの一枚一枚が、自分で呪文を出します。日本の式神の技術を応用しました。紙に命令を書くと、紙がその命令のとおりに動く」
「持ち主の危険を、どうやって感じ取る?」
「綴じ紐です。持ち主の魔力の流れを、糸が拾っています。その流れが乱れたら、ページが開く」
「さっきは、持ち主ではない子を守ったね」
「……近くにいる人の魔力の乱れも、少しだけ拾うようにしました。まだ、範囲は狭いですが」
グレイは、眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「君、いくつだ」
「十四です」
「……十四歳か」
グレイは、深いため息をついた。
「ヴェスゲレート君。私は三十年、魔道具を研究してきた。毎年、山のように新しい発明品を見る。便利な羽根ペン。自動で皿を洗う布巾。どれも、思いつきだ。面白い思いつきだが、思いつき以上のものではない」
グレイは、グリモワールの表紙を、触れない距離で指さした。
「これは、思いつきの発明品ではない。体系だ」
「……体系」
「杖という形に頼らずに、魔法を持ち主の外に置く。紙と糸とインクで、呪文そのものを道具にする。この考え方の上に、これから何十、何百の魔道具が生まれうる。そういう、土台になるものだ」
グレイは、眼鏡をかけ直して、まっすぐにサミュエルを見た。
「論文にしなさい。きちんとした形で、魔法省の学術誌に。私が、審査に回す。……君が嫌でなければ、だが」
サミュエルは、すぐには答えられなかった。
誰かに褒められることには、慣れていた。家庭教師にも、先生にも、寮の生徒たちにも。けれど、それはいつも、相手が欲しがっている答えを差し出した結果だった。笑顔と、軽口と、相手が喜ぶ言葉。
この人は、そのどれも見ていなかった。
サミュエルの顔も、家の名前も、噂も見ていなかった。ただ、本を見ていた。紙と、糸と、インクを。
「……書きます」
声が、少しだけかすれた。
「書かせてください」
グレイは、満足そうに頷いた。
図書室を出るとき、手の中のグリモワールが、少しだけ温かい気がした。
*
「さっきの、何? ボーバトンの子たちが、あなたのこと、命の恩人だって騒いでるわよ」
夕食の席で、フラーが面白そうに身を乗り出してきた。
「本が、勝手に開いただけだよ」
「勝手に開く本を作ったのは、誰?」
「……僕だけど」
「なら、あなたが助けたのよ」
フラーは、当たり前のことのように言った。
「一年生のときから、あなたはそうだったわ。人のことは見えすぎるくらい見えてるのに、自分のことになると、とたんに目が悪くなる」
サミュエルは、何も言い返せなかった。
食堂の向こうで、クラムがこちらを見ていた。目が合うと、彼は黒パンを持った手を少しだけ上げた。それから、珍しく、ぼそりと口を開いた。
「……いい盾。あれは、嘘じゃない」
*
合宿から屋敷に戻った翌朝、食堂で、父が一通の手紙を広げていた。魔法省の実験呪文委員会の封蝋が押されていた。
「グレイという男から手紙が来た。お前の論文の審査を、委員会で引き受けると」
ロビンソンは、手紙から目を上げずに言った。
「魔法省の学術誌に、バーク家の跡取りの名前で論文が載る。悪くない。ブラックの件で傷ついた家名の、ちょうどいい埋め合わせになる」
「……はい」
「仕上げは急げ。新学期が始まる前に、下書きくらいは送っておけ」
父の興味は、いつも通り、家名のほうにしかなかった。
それでも、サミュエルは、それほど気にならなかった。グレイが見ていたのは、家名ではなかった。それを、自分は知っている。それで十分だった。
その夜、自室の窓辺に、白くて丸いものが乗っていた。
「坊。顔が、ゆるんでおるぞ」
「……ゆるんでない」
「ゆるんでおる。去年の今頃の、死人のような顔とは大違いじゃ」
オリエンスは、窓枠から机の上へ、どすんと飛び降りた。
サミュエルは、合宿であったことを、ひとつずつ話した。中庭のこと。グレイのこと。体系、という言葉のこと。論文のこと。
話しているうちに、少しずつ早口になっていくのが、自分でも分かった。二年前の夏、古文書館から帰る道で、同じように早口になっていたことを思い出した。
オリエンスは、黙って聞いていた。尻尾が、ゆっくりと机の上を叩いていた。
「坊」
「何」
「その男は、坊の何を見て、体系だと言うた」
「……本」
「坊の顔ではなく」
「うん」
「坊の家でも、噂でもなく」
「うん」
「ふむ」
オリエンスは、満足そうに目を細めた。
「なら、それは、誰も欺いておらん。坊自身もな」
サミュエルは、しばらく黙っていた。
この三月、この工房で、自分に詐欺師という名前をつけた。他人を欺き、自分自身を欺いてきた人間だと。
今日、グレイが見たものの中には、欺いたものが何もなかった。
紙と、糸と、インク。それから、夜を徹して書き直した何百枚もの設計図。そこには、誰かに好かれるための笑顔も、相手が欲しがる言葉も、入りこむ余地がなかった。
「……書くよ、論文」
「うむ」
サミュエルは、机の引き出しから、新しい羊皮紙の束を取り出した。
一行目に、題名を書く。何度か書き直して、最後に、こう決めた。
〈式神理論に基づく自律型魔導書の設計と実証――杖に依らない魔法媒体の試み〉
窓の外で、八月の最後の夜が更けていった。
この論文が、やがてどこへ届き、彼の名前の前に何をつけることになるのか。それを、まだ誰も知らなかった。