九月一日のホグワーツ特急は、土砂降りの雨の中を走っていた。
コンパートメントの窓ガラスを、雨粒が斜めに流れていく。向かいの席で、ハーマイオニーが『基本呪文集・四学年用』を膝に広げていた。ハリーとロンは、通路の向こうのコンパートメントで、ワールドカップの話をネビルに聞かせている。
「……ハーマイオニー」
サミュエルが呼ぶと、ハーマイオニーは、本から顔を上げた。
それから、ぴたりと動きを止めた。
「……今、名前で呼んだ?」
「嫌なら、戻す」
「……別に、嫌じゃないけど」
ハーマイオニーは、本に目を落とした。耳の先が、少しだけ赤かった。
「急に、どうしたの」
「グレンジャー、って呼ぶたびに、一年生のときの自分の顔が浮かぶから」
ハーマイオニーは、何も言わなかった。けれど、ページをめくる指が、少しだけゆっくりになった。
「それで、何?」
「……何でもない。呼んでみたかっただけ」
「変な人」
ハーマイオニーは、本から目を上げないまま、小さく言った。口の端が、ほんの少しだけ上がっていた。
サミュエルは、立ち上がった。
「車内販売、見てくる。何か要る?」
「かぼちゃパイ。二つ」
「二つ?」
「一つは、ロンの分。どうせ、お金を持ってくるのを忘れてるから」
サミュエルは、笑って、コンパートメントの扉を閉めた。
*
扉が閉まって、三分も経たないうちだった。
もう一度、扉が開いた。
ハーマイオニーは、サミュエルが戻ってきたのだと思って、顔を上げた。
違った。
銀に近い金髪が、まず見えた。その後ろに、図体の大きな二人が、扉の枠を塞ぐように立っている。
ドラコ・マルフォイだった。クラッブとゴイルを、左右に従えて。
「おい、穢れた血」
ドラコは、後ろ手に扉を閉めた。顔が、青白く強張っていた。
「サミュエルに、何をした」
ハーマイオニーは、本を閉じた。
「何の話?」
「とぼけるな」
ドラコの声が、低く震えていた。怒っているというより、何かを堪えているような声だった。
「ワールドカップの夜だ。野営地が襲われた、あの夜。あいつは、貴賓席の警備に止められて、僕の父上にも止められて、ロビンソン氏にまで戻れと言われたのに、全部振り切って、野営地まで降りていったんだ」
ハーマイオニーの指が、本の表紙の上で止まった。
「あの、ロビンソン氏に逆らったんだぞ。バーク家の跡取りが、人前で。誰を探しにいったと思う」
ドラコは、一歩、前に出た。
「お前だ。父上の天幕の前で、ウィーズリーのテントの方角を睨んでたのを、僕は見たんだ」
「……私を?」
「お前以外に、誰がいる!」
ドラコの声が、コンパートメントに響いた。
「答えろ。お前、あいつの何か弱みでも握ってるのか。あいつは、あんなやつじゃなかった。何でも器用に、家の都合を最優先にする男だった。それが、お前みたいな……お前みたいな、穢れた血のために――」
ドラコは、そこで言葉を切った。喉が、ごくりと動いた。
「僕は、あいつを、友人だと思ってる。ホグワーツで、まともに話の通じるやつなんて、あいつくらいだ。そのあいつが、何かのために、無理をしてるなら――」
ハーマイオニーは、何も言えなかった。
ワールドカップの夜。野営地。森の中で、闇の印を見上げていたとき、自分は、誰が何をしていたのかを知らなかった。
あの人が、駆け降りてきていたなんて。
胸の奥が、きゅっと音を立てて縮んだ。
「……私は、何もしていないわ」
声が、思っていたよりも小さく出た。
「何も知らなかった。彼が来ていたことも」
「嘘をつくな!」
「嘘じゃない。本当に、知らなかったの」
ハーマイオニーは、まっすぐにドラコの目を見返した。
「彼が私に何かを強いたことも、私が彼に何かを強いたことも、一度もない。ただ――」
その先を、言葉にできなかった。
ドラコは、しばらく、ハーマイオニーの顔を睨んでいた。それから、舌打ちをした。
「……ふん」
クラッブとゴイルに顎で合図をして、扉を開けた。
「あいつを傷つけたら、許さないからな」
捨て台詞のように言い残して、ドラコは通路へ出ていった。
ちょうど、反対側から、サミュエルが戻ってくるところだった。かぼちゃパイの包みを、両手に抱えている。
「ドラコ。今、そこで――」
「何でもない」
ドラコは、サミュエルの顔を見ずに、早足で通り過ぎていった。
サミュエルは、首をかしげながら、コンパートメントに戻ってきた。
「何かあった?」
ハーマイオニーは、本のページを見つめたまま、首を横に振った。
「……ううん。何でもない」
「ドラコ、何か言ってた?」
「いつもの、悪口よ」
嘘ではなかった。たぶん、半分は。
サミュエルは、かぼちゃパイを一つ、ハーマイオニーの膝の上に置いた。
「もう一つは、ロンの分。通路の向こうに届けてくる」
彼が出ていくのを待って、ハーマイオニーは、パイの包みを両手で包みこんだ。
まだ、少しだけ温かかった。
「……ありがとう」
誰もいなくなった扉の向こうに、小さく言った。
野営地の夜に、自分の知らないところで、あの人は走っていた。
それを、本人の口からではなく、よりによって、ドラコの口から聞いた。
ハーマイオニーは、パイの包みを抱えたまま、窓の外の雨を、長いこと見ていた。
*
九月の二週目には、玄関ホールで小さな事件があった。
新しく来た闇の魔術に対する防衛術の先生――「マッド-アイ」ムーディが、背中を向けたハリーに呪いをかけようとしたドラコを、白いケナガイタチに変えてしまったのだ。イタチは、ムーディの杖の動きに合わせて、玄関ホールの天井近くまで跳ね上げられては、床に叩きつけられていた。
「ムーディ先生!」
駆けつけたマクゴナガル先生が、悲鳴のような声を上げた。
「本校では、罰として変身術を使うことは、決してありません!」
マクゴナガル先生が杖を振ると、イタチはドラコに戻った。顔を真っ赤にして、髪をぐしゃぐしゃにしたまま、床に這いつくばっていた。
サミュエルは、人垣の後ろでそれを見ていた。
二年前、クィディッチ競技場で、土塊から獅子を三頭作って、スリザリンのチームを囲んだことを思い出した。あのとき、マクゴナガル先生は「あなたらしくありませんね」と言った。
人垣の中で、ハーマイオニーがちらりとこちらを見た。同じことを思い出しているような目だった。サミュエルは、肩をすくめて、目をそらした。
*
十月三十日の夕方、ボーバトンとダームストラングがやって来た。
城の正面の芝生に、生徒たちが寮ごとに並んで待っていた。ひんやりとした夕暮れの空気に、吐く息が白く混じる。
「あそこだ!」
誰かが、禁じられた森の上空を指さした。
巨大な、淡い青の馬車だった。家一軒ほどもある馬車を、象ほどもある金色の天馬が十二頭がかりで引いて、空から舞い降りてくる。車輪が芝生にめりこみ、地面が揺れた。
馬車の扉から、見上げるほど大きな女性が降りてきた。ボーバトンの校長、マダム・マクシームだった。その後ろから、淡い青の絹の制服を着た生徒たちが、寒そうに身を寄せ合いながら降りてくる。
その中に、銀色がかったブロンドの髪が見えた。
今度は、湖のほうから、異様な音がした。
湖面の真ん中が、渦を巻いてへこんでいく。その渦の中心から、帆柱が一本、ゆっくりと浮かび上がってきた。それから、骸骨のような帆船が、水を滴らせながら、まるごと姿を現した。
ダームストラングの船だった。
毛皮のマントの一団の先頭に、カルカロフの山羊髭が見えた。そのすぐ後ろに、猫背の、浅黒い顔の青年。
「クラムだ!」
ロンが、ほとんど悲鳴のような声を上げた。
城の玄関へ向かうダームストラングの一団が、グリフィンドールの列の前を通り過ぎるとき、クラムがふと足を止めた。
「……ホグワーツ」
「ようこそ、クラム」
クラムは小さく顎を引いて、また歩いていった。
ロンが、口をぱくぱくさせながら、サミュエルの袖をつかんだ。
「い、今、クラムがサミュエルに話しかけたよな? 知り合いなのか? なんで今まで黙ってたんだよ!」
「合宿で、毎朝隣で黒パンを食べてただけだよ」
「それを、知り合いって言うんだ!」
*
大広間の歓迎の宴は、いつもより三倍は騒がしかった。
ボーバトンの生徒たちはレイブンクローのテーブルに、ダームストラングの生徒たちはスリザリンのテーブルに座った。テーブルの上には、見慣れたイギリス料理に混じって、ブイヤベースや、ブルガリアのシチューが並んでいる。
サミュエルは、合宿で顔を合わせていた何人かに、テーブル越しに手を振った。ボーバトンの、中庭で守った一年生の女の子。ダームストラングの、ワールドカップの夜の警備の話をしてくれた上級生。
気がつくと、両校の生徒たちが、ちらちらとこちらを見ていた。特に、女子生徒が。
「……なんか、すごい見られてないか、サミュエル」
隣のロンが、気味悪そうに言った。
「去年より、ひどくなってる」
向かいの席のパーバティが、ため息まじりに言った。
「この一年で、また顔が変わったもの。前は『整ってる』だったけど、今は……何て言うのかしら」
「色っぽい」
ラベンダーが、声をひそめて言った。
「お母さまにそっくりなのよ。日刊予言者新聞の昔の写真、見た? 魔法界の美女百選に入ったんですって」
サミュエルは、聞こえないふりをしてかぼちゃジュースを飲んだ。
レイブンクローのテーブルから、フラーが立ち上がった。ブイヤベースの皿を、優雅な手つきで持っている。
大広間じゅうの男子生徒の目が、彼女を追った。フラーは、そのどれにも目もくれずに、まっすぐグリフィンドールのテーブルへ歩いてきた。
「サミュエル。このブイヤベース、食べる? ボーバトンの厨房の人が、わざわざ持ってきたの」
「ありがとう。もらうよ」
フラーは、当たり前のようにサミュエルの隣に腰を下ろした。グリフィンドールのテーブルが、ざわめいた。
「ねえ、あの新聞の記事、まだ否定してないんでしょう?」
フラーが、楽しそうに小声で言った。
「……否定も、肯定もしてない」
「ふふ。わたしに、気を遣ってくれてるの?」
フラーは、それを気にする様子もなかった。むしろ、楽しんでいるように見えた。
テーブルの少し先で、ハーマイオニーが、ブイヤベースの皿をじっと見ていた。
目が合った。彼女は、すぐにロンのほうへ向き直った。
*
十月三十一日の夜、炎のゴブレットが、代表選手の名前を吐き出した。
大広間の明かりが落とされ、教職員席の前に置かれた古い木の杯だけが、青白い炎を揺らめかせていた。
炎が、赤く変わった。焦げた羊皮紙が、一枚、ひらりと舞い上がる。
「ダームストラングの代表選手は――ビクトール・クラム!」
スリザリンのテーブルが、どっと沸いた。
「ボーバトンの代表選手は――フラー・デラクール!」
フラーが、優雅に立ち上がった。大広間を横切る途中で、一度だけグリフィンドールのテーブルを振り返り、サミュエルに向かって小さく片目をつぶってみせた。
「ホグワーツの代表選手は――セドリック・ディゴリー!」
ハッフルパフのテーブルが、天井を揺るがすほど沸いた。
ダンブルドアが、満足そうに頷いた。
「結構、結構! これで、三人の代表選手が――」
その言葉が、途中で止まった。
ゴブレットの炎が、また、赤く変わった。
四枚目の羊皮紙が、宙に舞い上がった。
ダンブルドアは、長いこと、その羊皮紙を見つめていた。
「……ハリー・ポッター」
*
大広間が、凍りついた。
誰も、拍手をしなかった。何百という目が、グリフィンドールのテーブルの一点に集まっていた。ハリーは、自分の名前を呼ばれたことが理解できないという顔で、椅子に座ったまま固まっていた。
ハーマイオニーが、ハリーの背中をそっと押した。ハリーは、ふらふらと立ち上がって、教職員席の奥の扉へ消えていった。
大広間に、ざわめきが戻ってきた。怒りと、疑いと、驚きの混じったざわめきだった。
サミュエルは、そのざわめきの中に入らなかった。
ただ、黙って、ハリーが消えていった扉を見ていた。
*
談話室へ戻る階段の途中で、ハーマイオニーが隣に並んだ。
いつものように、サミュエルのほうから話しかけた。
「ゴブレットの年齢線、フレッドとジョージが破ろうとして、二人とも白い髭が生えたんだって」
「見たわ。ダンブルドアの年齢線を、老け薬で越えようなんて」
「マダム・マクシームって、ハグリッドより大きくない?」
「ほとんど同じよ。……ハグリッド、ずっと見とれてたわ」
「ボーバトンの制服、寒そうだったね」
「あれで、スコットランドの冬は越せないわね」
当たり障りのない話だった。
代表選手のこと。両校の制服のこと。ゴブレットの炎の色のこと。どれも、明日には忘れてしまうような話。
ハーマイオニーは、一度も、フラーの名前を口にしなかった。
大広間で、フラーが当たり前のように隣に座ったこと。新聞の記事のこと。片目をつぶって見せたこと。
聞きたいことがあるのは、分かっていた。彼女の目が、何度もこちらの横顔をうかがっては、また階段の先へ戻っていくのが見えた。
けれど、彼女は聞かなかった。
六月の湖のほとりで、互いの一番痛いところまで、言葉にしたばかりだった。だからこそ、なのかもしれない。せっかく開いた扉を、また閉じてしまうのが怖いのか。それとも、聞く資格が、まだ自分にはないと思っているのか。
サミュエルのほうからも、言わなかった。
フラーとは、何でもない。そう言ってしまうのは、簡単だった。けれど、その一言がフラーの耳に入ったら、どうなるのか。去年の夏、記者たちの前で、自分を庇ってくれた人だった。それに、では何なのかと聞かれたら、まだ、答えを持っていなかった。
二人は、当たり障りのない話の表面を、慎重に、慎重になぞりながら、太った婦人の肖像画の前まで歩いた。
合言葉を言って、肖像画の穴をくぐる。
談話室は、ハリーが代表選手に選ばれた話で、爆発したような騒ぎになっていた。
「おやすみ、サミュエル」
「おやすみ、ハーマイオニー」
名前で呼び合うのは、まだ少しだけ、ぎこちなかった。
女子寮の階段を上っていく背中を、サミュエルは、見えなくなるまで見送っていた。
去年の今頃なら、いや、二年前なら、あの背中に向かって何か意地の悪い一言を投げていたかもしれない。マグルのチョコか、と言ったときのように。
そういう言葉は、もう、自分の中のどこを探しても出てこなかった。
それなのに、この距離だけは、どう詰めればいいのか、まだ分からなかった。
作品には関係ない話ではございますが、一つご報告がございます。
本日から完結済みの新作『ペルソナ4外伝〜堂島菜々子とオカルト研究部〜』の投稿を始めました。
毎日投稿の予定はありませんが、ペルソナ4リバイバルの発売に向け徐々に投稿頻度を上げていく予定です。
興味ある方はぜひ、見ていってください。