ハーマイオニー・グレンジャーと緋色の予見者 作:ネギタリアン
ハロウィンの朝、城じゅうに焼きかぼちゃの甘い匂いが漂っていた。厨房のほうから流れてくるその匂いに、廊下ですれ違う誰もがそわそわしている。
「さあ、今日はいよいよ、物を飛ばしてみましょう!」
積み上げた本の上に立ったフリットウィック先生が、甲高い声で言った。小柄な先生の頭は、そうでもしないと机の上に出てこない。
「ビューン、ヒョイ、ですよ。手首の動きを忘れずに。それから、呪文は正確に! ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」
机の上には、生徒一人に一枚ずつ、白い羽根が置かれていた。
あちこちで呪文の声が上がる。シェーマスは杖で羽根をつつきすぎて、羽根を焦がした。ネビルの羽根は、ぴくりとも動かない。
サミュエルが軽く手首を返すと、羽根はふわりと浮き上がり、教室の天井近くで静かに止まった。
「おお、お見事! グリフィンドールに五点!」
隣の机では、ロンが杖を風車のように振り回していた。
「ウィンガディアム・レヴィオサー!」
「違う、違う。それじゃ目に刺さるわ」
ロンの隣で、ハーマイオニーが眉をひそめた。
「ウィン・ガー・ディアム・レヴィ・オー・サ。『ガー』と長く伸ばすの。あなたのはレヴィオサー」
「そんなによくご存じなら、君がやってみろよ」
ハーマイオニーは袖をまくり、杖を振った。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」
彼女の羽根は机を離れ、サミュエルの羽根のすぐ下まで浮き上がった。
「よくできました! 皆さん、ミス・グレンジャーもやりましたよ!」
ロンの顔が、ますます赤くなった。
*
グリフィンドール塔の談話室は、いつも暖かかった。
円い部屋の壁は深紅の布で覆われ、暖炉では薪がぱちぱちと爆ぜている。詰め物のたっぷり入った肘掛け椅子は、座ると体ごと沈みこむ。窓の外では十月の風が湖を渡り、塔のてっぺんをひゅうひゅうと鳴らしていた。
ハロウィンの昼休み。昼食のコーニッシュ・パスティを片手に戻ってきた生徒たちで、部屋はいっぱいだった。暖炉の前の一番いい場所は、いつの間にかサミュエルの席ということになっている。
「サミュエル、爆発スナップやろうぜ!」
「えー、ゴブストーンがいいよ。昨日の続き」
シェーマスとディーンが、カードと石の袋をそれぞれ掲げている。
「じゃあ、爆発スナップを先に。シェーマスの眉毛が残ってるうちに」
「おい!」
どっと笑いが起きて、それで決まりだった。ラベンダーとパーバティが「見てるだけでいい?」と椅子を寄せてくる。
カードを配り始めたところで、ロンがどさりと隣に座りこんだ。
「聞いてくれよ。さっきの妖精の呪文の授業」
「見てたよ。羽根、最後まで机にくっついてたね」
「うるさいな。それより、あいつだよ。『ウィンガーディアム・レヴィオーサ。あなたのはレヴィオサー』だってさ」
ロンが甲高い声で真似をすると、何人かがくすくす笑った。
「で、自分だけ羽根を浮かせて、先生に褒められてさ。あんなのと一緒にいたら、誰だって嫌になるよ。友だちがいないのも当然だ」
周りは苦笑いで、曖昧に頷いている。
サミュエルはカードを切りながら、軽く言った。
「まあ、マグルの生まれじゃ、浮いてしまうのも仕方ないさ。羽根と一緒にね」
談話室に、大きな笑いが弾けた。ロンが膝を叩いて喜んでいる。
そのとき、肖像画の穴の近くで、誰かが立ち止まる気配がした。
ハーマイオニーだった。腕いっぱいに本を抱えて、こちらを見ている。
一瞬だけ、目が合った。
彼女は何も言わなかった。顔を伏せ、本を抱え直すと、足早に肖像画の穴から出ていった。
「……やべ。聞こえてたかな」
ロンが首をすくめた。
「さあ。――ほら、シェーマス、君の番だ」
サミュエルはカードを一枚、テーブルに置いた。
――雑だったな。
ロンの愚痴を軽くいなすつもりで足した一言だった。聞いている人間がいないか、確かめもせずに。手際が悪い。それだけのことだ。
ばんっ、とカードの山が爆発した。
「うわっ、眉毛! 俺の眉毛!」
シェーマスの前髪から煙が上がり、談話室はまた笑い声でいっぱいになった。
*
午後の授業に、ハーマイオニーは出てこなかった。
「トイレで泣いてるらしいよ」
パーバティが、廊下でラベンダーにささやいているのが聞こえた。
夕方、宴会の前の一時間。男子寮の部屋には、誰もいなかった。
サミュエルはベッドの脇のトランクを開け、梯子を降りた。
ランプに火を入れる。油と羊皮紙の匂いは、屋敷にいた頃と何も変わらない。棚の短剣も、魔法薬の小瓶も、八月に置いたときのままだ。
作業台の引き出しの奥から、銀色の紙を一枚取り出した。光の角度で、ふっと消えては、また現れる紙。夏に漉いてから、まだ一枚も使っていなかった。
あの場でロンに合わせた分は、どこかで帳尻を合わせておかないと、釣り合いが取れない。それだけだ。
羽根ペンをインクに浸し、二行だけ書いた。事実をそのまま。慰めの言葉は、一つも入れなかった。
インクが乾くのを待って、紙を折り始める。三角に折る。開いて、また折る。首を細く引き出し、翼を広げる。
梯子を上がり、寮の窓を開けた。冷たい夜気が、カーテンを大きく膨らませる。
手のひらの鶴に、そっと息を吹きかけた。
鶴は一度だけ羽ばたいて、窓の外の暗がりへ溶けていった。
サミュエルは窓を閉め、何事もなかったように大広間へ降りていった。
*
女子トイレのいちばん奥の個室で、ハーマイオニーは膝を抱えていた。
泣くのは、もうやめていた。ただ、ここから出ていく理由が見つからなかった。
――まあ、マグルの生まれじゃ、浮いてしまうのも仕方ないさ。
あの人の声だけが、何度も耳の奥で繰り返される。ロンの悪口より、なぜかそっちのほうが痛かった。
列車の中で、あの人は初めて私の話を最後まで聞いてくれた。言い返して、考えて、また言い返してくれた。だから少しだけ、期待してしまったのだ。
――ばかみたい。
ハーマイオニーは膝に額を押しつけた。遠くで、宴会の始まりを告げる鐘が鳴っている。
ふと、個室の上のほうで、何かがきらりと光った。
見上げても、何もない。気のせいかと思ったとき、膝の上に、かさりと小さな重みが落ちた。
鶴だった。
銀色がかった、ほとんど透き通った紙で折られている。角度を変えると、ふっと見えなくなりそうになる。
おそるおそる、翼を開いた。
少し右上がりの、整った細い字が並んでいた。
〈君の発音は正しかった。
間違っているのは、笑ったほうだ。〉
差出人の名前は、どこにもなかった。
「……誰?」
返事をする者はいない。
ハリー? 違う。あの子はこんな字を書かない。ネビル? あの子に、こんな不思議な紙が折れるとは思えない。
知っている誰かの顔を思い浮かべては、一人ずつ消していく。最後まで、当てはまる顔は見つからなかった。
ハーマイオニーは、その紙をもう一度読んだ。もう一度。それから、ほんの少しだけ、口の端をゆるめた。
紙を丁寧に折り目どおりに戻し、鶴の形にして、ローブの内ポケットにしまった。
*
大広間は、ハロウィンの飾りでいっぱいだった。
壁にも天井にも、千匹の生きたコウモリが羽ばたいている。テーブルの上には、くり抜いたかぼちゃの中で蝋燭が揺れ、金の皿には焼きたてのパンプキンパイと糖蜜タルトが山盛りになっていた。
「ハーマイオニー、まだ来てないな」
ハリーが、空いた席をちらりと見た。
「まだトイレにいるって。ずっと泣いてるみたい」
向かいの席で、ラベンダーが小声で言った。
「……ほっとけよ」
ロンはそう言いながら、ローストポテトを取る手が止まっている。
サミュエルは何も言わずに、かぼちゃジュースを飲んだ。
そのとき、大広間の扉が乱暴に開いた。
紫のターバンを巻いたクィレル先生が、よろめきながら駆けこんでくる。顔が、恐怖で引きつっていた。
「トロールが……地下室に……お知らせしなくてはと思って」
そう言うと、先生はその場にばったりと倒れた。
大広間じゅうが、悲鳴に包まれた。
「静まれ!」
ダンブルドアの杖の先から、紫色の爆竹がばんばんと弾けた。
「監督生よ。すぐさま自分の寮の生徒を引率して、寮に帰るように」
「グリフィンドール、こっちだ! 一年生は僕から離れるな!」
パーシーが胸のバッジを光らせて叫んでいる。人の波にもまれながら階段へ向かう途中で、ハリーがロンの腕をつかんだのが見えた。
「ハーマイオニーだ。あの子、トロールのこと知らないんだ」
ロンの顔から、さっと血の気が引いた。
二人が列からそっと抜けていく。ハリーが一度だけ、サミュエルを振り返った。
「サミュエル、君も――」
「寮に戻れって言われただろう」
サミュエルは、まっすぐ前を見たまま答えた。
「先生たちが探しに行く。一年生が行っても、邪魔になるだけだ。それに、パーシーの目の前で規則を破るのは、賢くない」
ハリーは何か言いかけて、やめた。二人の姿は、すぐに人波の向こうへ消えた。
談話室に戻ると、一年生たちは青い顔で暖炉の前に固まっていた。
「トロールって、壁を壊したりする?」
「ここまで来たらどうしよう……」
「来ないよ。グリフィンドール塔の入り口は、太った婦人の合言葉なしには開かない。トロールが合言葉を覚えられると思う?」
サミュエルが肩をすくめると、ネビルがやっと、ふにゃりと笑った。
「サ、サミュエルは、怖くないの?」
「怖いよ。だから、早くパイを食べて寝たい」
「……それ、怖がってる人の台詞じゃないよ」
誰かが宴会の残りを談話室に運ばせて、ちょっとしたパーティーが始まった。
「トロールの鼻くそって、何色だと思う?」
「緑だろ。絶対緑」
フレッドとジョージが、真面目な顔で言い合っている。一年生たちがげらげら笑い出し、さっきまでの青い顔はもうどこにもなかった。
サミュエルはその真ん中で、いつも通りに笑っていた。
「サミュエル、ポッターとウィーズリーはどこだ?」
パーシーが人数を数えながら、眉間にしわを寄せた。
「さっき、トイレに寄るって言ってたよ。すぐ戻るんじゃないかな」
「まったく、こんなときに……!」
パーシーは頭を抱えて、肖像画の穴のほうをにらんだ。
時計の針が、九時を回った。
肖像画の穴が開いて、ハリーとロンが、それからハーマイオニーが入ってきた。三人とも、埃まみれだった。
「おい、どこ行ってたんだよ」
「……ちょっとね」
フレッドに肩を叩かれて、ハリーが曖昧に笑う。ロンは何も言わずに、パイの皿へまっすぐ向かった。
ハーマイオニーは、暖炉の前を通るとき、一度もこちらを見なかった。ローブの胸のあたりを片手で押さえたまま、女子寮の階段を上っていった。
サミュエルはちらりとその背中を見て、視線をパイの皿に戻した。三人とも無事だったらしい。それで、話は終わりだった。
*
次の朝には、寮じゅうに噂が広まっていた。
「ポッターとウィーズリーが、トロールをやっつけたんだって」
「グレンジャーを助けに行ったらしいよ」
「グレンジャーは先生に嘘ついて、二人をかばったんだって。信じられる?」
「あのグレンジャーが? 規則の塊みたいなやつなのに」
「でもさ、今朝ちょっと笑ってたよ。初めて見た」
ラベンダーとパーバティのひそひそ話を背中で聞きながら、サミュエルは大広間に入った。
朝食の席で、ハリーとロンとハーマイオニーは並んで座っていた。ロンが何か言うと、ハーマイオニーが呆れたように首を振り、ハリーが笑う。昨日までは見たことのない光景だった。
サミュエルは、その横を通りながら言った。
「英雄のご帰還だね。パーシーの顔、見ものだったよ」
「うるさいな」
ロンが口をとがらせ、ハリーが笑った。
ハーマイオニーが、ふと顔を上げた。
サミュエルはいつもの笑顔を向けて、そのまま席へ歩いていった。彼女は何も言わず、すぐにロンのほうへ向き直った。
しばらくして、ロンがトーストをくわえたまま隣にやって来た。
「なあ。あいつ、そんなに悪いやつじゃなかったよ」
「へえ。それはよかった」
「それに……昨日の、あれ。俺もだけど、君もちょっと言いすぎだったかもな。羽根と一緒に、ってやつ」
サミュエルはベーコンを切る手を止めずに、軽く笑った。
「……かもね」
ローブの内ポケットの中の小さな重みのことを、彼女は誰にも話さなかった。