代表選手の選出から一週間、グリフィンドールの談話室には、妙な空気が漂っていた。
ハリーが自分で名前を入れたのではないか。どうやって年齢線を越えたのか。ずるをしてまで、目立ちたかったのか。
面と向かって言う者はいなかった。けれど、ハリーが談話室に入ってくると、暖炉の前の会話がふっと途切れる。肘掛け椅子を、それとなく空けない者がいる。ロンでさえ、ハリーと口をきかなくなっていた。代表選手に選ばれなかったことで、拗ねているのだ。
ある晩、サミュエルが談話室の窓際でチェス盤を広げていると、暖炉の前で、二年生が三人、声をひそめて話しているのが聞こえた。
「ポッターって、結局ずるしたんだろ。年齢線なんて、うまくやれば越えられるんだって」
「フレッドとジョージは、髭が生えただけだったけどな」
「あの二人より、ポッターのほうが悪知恵が働くってことさ。だから、こっちも無視してやろうぜ。代表選手だからって、いい気になるなって」
サミュエルは、チェスの駒を一つ置いて、立ち上がった。
暖炉の前まで歩いていって、三人の向かいの肘掛け椅子に、当たり前のように腰を下ろした。
「年齢線、試してみた?」
三人が、ぎくりとこちらを見た。
「え……い、いや」
「試してみるといい。ダンブルドアが自分で引いた線だ。フレッドとジョージが老け薬を飲んで、二人そろって白い髭で弾き出されたのを見ただろう。七年生でさえ、誰も越えられなかった」
サミュエルは、肘掛けに頬杖をついた。
「それから、炎のゴブレット。あれは、何百年も前の魔法で守られた道具だ。生半可な錯乱の呪文じゃ、だまされない。十四歳の四年生が、こっそり一人でどうにかできるようなものじゃないよ」
「……じゃあ、誰が入れたんだよ」
「さあ。でも、少なくとも、ハリーじゃない」
サミュエルは、軽く肩をすくめた。
「疑うくらいなら、自分で年齢線を越える方法を考えてみることだ。考えついたら、ハリーを無視してもいい。考えつかなかったら――ハリーにも、考えつかなかったってことだよ」
三人は、顔を見合わせた。何か言い返そうとして、誰も言葉が出てこなかった。
「……そっか」
「そうだよな。ポッターに、そんな頭があるわけないか」
「それは言いすぎ」
三人が、くすくすと笑った。暖炉の前の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
サミュエルは、窓際のチェス盤に戻った。
部屋の隅で、ハリーが、こちらを見ていた。何か言いたそうに口を開いて、結局、何も言わずに、小さく頷いた。
その夜、男子寮の部屋で、ハリーがベッドのカーテンの陰から声をかけてきた。
「さっきは、ありがとう」
「何もしてないよ。年齢線の話をしただけ」
「……ロンは、僕が自分で入れたと思ってる」
ハリーの声は、低かった。隣のロンのベッドは、カーテンがぴったり閉じられていた。
「ロンは、思ってないよ」
「え?」
「思ってたら、もっと大声で言ってる。ロンは、ハリーが選ばれたのが、ちょっと悔しいだけだ。自分の名前が、どこにも呼ばれなかったことが」
ハリーは、しばらく黙っていた。
「……そのうち、戻るかな」
「戻るよ。ロンは、怒ってるのが一番苦手だから」
カーテンの向こうで、ロンのベッドがかすかにきしんだ気がした。
*
その週の初め、ハーマイオニーは、談話室のテーブルの上に、小さなバッジの入った箱を置いた。
ホグワーツの厨房では、百人を超える屋敷しもべ妖精が、給金も休みもなしに働いている。『ホグワーツの歴史』を読み返していて、初めて知ったのだという。それから三日間、ハーマイオニーは、ずっと腹を立て続けていた。
「しもべ妖精福祉振興協会。略して、エス・ピー・イー・ダブリュー」
バッジには、そう書かれていた。会費は二シックル。バッジ代も込みで。
最初に聞かされたのは、ハリーとロンだった。ほかに、聞いてくれる者がいなかったのだ。ロンは、まだハリーと口をきいていない。二人は、テーブルの端と端に座って、互いに目も合わせないまま、それでも、ほかにやることがないから、という顔でハーマイオニーの話を聞いていた。
「反吐、だろ」
ロンが、箱を見下ろして言った。
「反吐じゃないわ! これは大事なことなの。彼らには、お給料も、お休みも、病気のときの手当てもないのよ」
「好きでやってるんだよ。働くのが楽しいんだ、あいつらは」
ハリーは、困ったように頭をかいた。
「ええと……ハーマイオニー、君の気持ちは、分かるけど」
「分かるなら、入って」
「……二シックル、だっけ」
ハリーは、観念したようにポケットを探った。ロンも、ぶつぶつ言いながら、それに続いた。二人とも、ハーマイオニーに押し切られた格好だった。ハリーは受け取ったバッジを机の上に置いたままにしたし、ロンは、早くもポケットの底に押しこんでいた。
談話室のほかの生徒は、誰も顔を上げなかった。シェーマスは、笑いをこらえて暖炉のほうを向いている。ラベンダーは「しもべ妖精?」と首をかしげただけで、すぐに隣の子とのおしゃべりに戻った。
ハーマイオニーは、箱を抱え直した。頬が、少し熱かった。
そのとき、窓際のチェス盤から、サミュエルが立ち上がった。
ポケットから二シックルを取り出して、テーブルの上に置く。
「一つもらうよ」
ハーマイオニーが、目を丸くした。
「……本当に?」
「うちにも、一人いるからね。砂糖衣を半分にするのが、とても上手いしもべ妖精が」
何のことだか分からなかったが、それでも嬉しくて、バッジを一つ差し出した。サミュエルは、それを人目に触れないよう、ローブの内ポケットに留めた。
それから、談話室のほうを振り返って、軽い調子で言った。
「みんなも、二シックルで済むなら、入っておけば? あとで『あのとき入ってくれればよかったのに』って、一生言われ続けるよりは安いと思うけど」
談話室が、どっと笑いに包まれた。
「サミュエルが入るんなら」
「じゃあ、僕も」
最初に手を挙げたのは、シェーマスだった。ディーンが続き、ネビルが続き、ラベンダーとパーバティが「どうせ二シックルだし」と肩をすくめながら列を作った。
それが、始まりだった。
翌日には、噂を聞きつけたハッフルパフのハンナ・アボットが、バッジを求めにやって来た。その次の日には、レイブンクローの上級生が、数人まとめて。サミュエルが、大広間のボーバトンのテーブルのそばで、フラーに何か一言だけ話しかけているのを、ハーマイオニーは遠くから見ていた。フラーは「あら、おもしろそう」と笑って、その場で二シックルを出した。その週の終わりには、ボーバトンの女子生徒の胸に、バッジが並んでいた。
ダームストラングの生徒の数人も、バッジを付けていた。クラムが、何も言わずに二シックルを置いていったからだ、と誰かが言っていた。
ハーマイオニーは、箱の中身が減っていくのを、信じられない思いで見つめていた。
ハリーとロンですら、仕方なく払った二シックルだった。それが、サミュエルがたった一言、笑いながら口にしただけで、三つの寮と、二つの外国の学校にまで広がった。
嬉しかった。本当に、嬉しかったのだ。
けれど、胸の奥に、小さな棘のようなものが残った。みんなが聞いたのは、私の話ではなかったのだ。
そのことは、あまり考えたくなかった。
*
ハーマイオニーが、サミュエルのその力の本当の大きさを知ったのは、翌週の初めのことだった。
大広間へ向かう玄関ホールで、ボーバトンとダームストラングの生徒たちが、輪になって何か話していた。何人かのローブの胸に、緑色の小さなバッジが光っている。
〈セドリック・ディゴリーを応援しよう――ホグワーツの真のチャンピオンを!〉
バッジの文字が、ふっと消えて、別の文字に変わった。
〈汚いぞ、ポッター〉
マルフォイが、スリザリンの生徒たちに配っているバッジだった。それが、いつの間にか、両校の生徒たちの間にまで広がっていた。
「ホグワーツは、ずるい学校ね。代表選手を二人も出すなんて」
「十四歳の子供を、わざわざ。何を考えているのかしら」
ボーバトンの女子生徒たちが、フランス語なまりの英語で、くすくすと笑っていた。ダームストラングの上級生たちが、ハリーの名前を口にしては、鼻で笑っていた。
ハーマイオニーは、本を抱えたまま立ち止まった。何か言い返したかった。けれど、相手は上級生ばかりで、しかも、ほとんどが自分の言葉など聞きもしない顔をしていた。
そのとき、玄関の大階段を、サミュエルが降りてきた。
ハーマイオニーは、少し離れた柱の陰から、それを見ていた。
サミュエルは、輪の中には入らなかった。ただ、輪の外れで、フラーと何か話し始めた。ほんの二言、三言。それから、少し先で黒パンを持って立っていたクラムにも、何か一言だけ声をかけた。
それだけだった。
フラーが、ボーバトンの女子生徒たちのほうを振り返った。何か、フランス語で短く言った。女子生徒たちが、ぴたりと笑うのをやめた。
クラムが、ダームストラングの上級生たちのほうへ歩いていって、低い声で何か言った。上級生たちは、気まずそうに顔を見合わせて、胸のバッジを外し始めた。
五分もしないうちに、輪はばらばらにほどけていった。
サミュエルは、何事もなかったように、大広間へ入っていった。
ハーマイオニーは、柱の陰に立ったまま、それを見送っていた。
――今、何が起きたの。
サミュエルは、何もしていなかった。演説もしなかったし、杖を抜いたわけでもない。ただ、フラーとクラムに、一言ずつ声をかけただけだった。
それなのに、三つの学校をまたいだ空気が、たった五分で変わってしまった。
フラーも、クラムも、自分の学校の代表選手だ。それぞれの学校の生徒たちにとって、誰よりも言葉に重みのある二人。その二人が、迷いもなくサミュエルの一言で動いた。
信頼されているのだ。
グリフィンドールの寮生たちだけではない。ハッフルパフも、レイブンクローも、スリザリンも。それどころか、ボーバトンもダームストラングも。誰もが、あの人の言うことなら、と思っている。
六月の湖のほとりで、あの人は言った。誰もが魅了されるような、理想的な人間を演じていた。相手が欲しがっている言葉を、差し出してきた。それは優しさではなく、詐欺だったと。
あの人は、そういう自分を、何よりも嫌っている。
でも。
ハーマイオニーは、ばらばらになった輪の跡を見つめた。
あの人が嫌っているその力が、今、ハリーを守った。それだけじゃない。今まで、何度も、誰かを守ってきた。シェーマスを。ネビルを。ハンナを。それから、私を。
あの人が自分で「詐欺」と呼ぶものは、ほかの誰かにとっては、信頼そのものなのだ。
その夜、談話室で、サミュエルは寮生に「あのバッジ、どうなったの」と聞かれて、肩をすくめていた。
「さあ。面倒くさくなったんじゃないかな。バッジって、付けるのも外すのも面倒だし」
自嘲まじりの、いつもの軽い調子だった。何もしていない、という顔をしていた。
本人だけが、それを知らないのだ。
ハーマイオニーは、それを言ってあげたかった。あなたが嫌っているその力に、今日、ハリーは救われたのよ、と。
けれど、言えば、あの人はきっと困った顔で笑って、「たまたまだよ」と流してしまうだろう。六月の湖のほとりで、あれほど自分を責めていた人だ。慰めの言葉は、たぶん、まだ届かない。
だから、何も言わなかった。代わりに、心の中で、その事実をそっとしまっておいた。いつか、届く日のために。
*
翌日の放課後、図書室から出たところで、ハーマイオニーは呼び止められた。
「グレンジャー」
ドラコだった。珍しく、クラッブもゴイルも連れていない。壁にもたれて、腕を組んでいた。
列車の中で見た、あの強張った顔ではなかった。声も、低く落ち着いている。それが、かえって不気味だった。
「また、悪口を言いに来たの?」
「いや。話をしに来た」
ドラコは、ハーマイオニーのローブの胸元に留められたバッジを、一瞥した。
「そのバッジのことだ。やめろ」
「……あなたに言われる筋合いはないわ」
「サミュエルを大切だと思うなら、そんな活動はやめろと言っているんだ」
ハーマイオニーは、言い返しかけた口を閉じた。
ドラコは、いつものように嘲る顔をしていなかった。ただ淡々と、事実を並べるように続けた。
「あいつは、お前の活動に二シックル払って、談話室で一声かけた。それだけで、グリフィンドールの半分が入ったそうだな。ボーバトンまで。ダームストラングまで。純血の家の連中は、もう噂している。バーク家の跡取りが、屋敷しもべの解放運動の旗頭になった、と」
「旗頭なんかじゃ――」
「あいつがどう思っていようと、外からはそう見える。屋敷しもべを使っていない純血の家は、ない。バーク家も、うちも、例外じゃない。お前が旗を振るたびに、あいつの名前が、一緒に振られるんだ」
ハーマイオニーは、息を呑んだ。
「サミュエルほどの教養があるなら、この活動の無謀さは分かっている。分かっていて、笑って二シックルを払ったんだ。お前に恥をかかせないために」
ドラコは、そこで一度、言葉を切った。
「あいつは、頼まれると断れない男だ。お前が頼めば、何でもする。だから、お前のほうが止めるしかない」
「……私は、間違ったことはしていないわ」
「間違っているとは言っていない。身勝手だと言っているんだ」
静かな声だった。
「お前は、屋敷しもべを奴隷だと言う。事実、そうだ。だが、あいつらの大半は、自由になりたがっていない。服を一枚渡されたら、解雇の印だ。しもべにとっては、死ぬほどの恥なんだ。仕える家がなくなれば、魔力も弱って、衰えていく。給金を出すと言われて、泣いて嫌がるしもべを、僕は何匹も見てきた」
「それは、そう教えこまれてきたからでしょう。長い間、奴隷だった人が、自由を怖がるのは当たり前よ」
「かもな」
ドラコは、意外なほどあっさりと頷いた。
「だが、自由を欲しがるしもべなんて、百に一匹いるかどうかだ。そういうやつは、仲間のしもべたちが気味悪がって、口もきかない。……お前は、ホグワーツの厨房に降りて、本人たちに聞いたのか? 自由になりたいか、と」
ハーマイオニーは、答えられなかった。
まだ、聞いていなかった。本を読んで、数字を知って、腹を立てた。それだけだった。
「聞きもしないで、旗だけ立てる。それは、善意じゃない。自己満足だ」
ドラコの声には、棘がなかった。それが、何よりも痛かった。
「別に、お前が一人で恥をかく分には、僕は何も言わない。だが、グレンジャー」
ドラコは、壁から身を起こした。
「お前のために、サミュエルは、また居づらくなるんだ。去年の冬の、あの玄関ホールのあとで、あいつがどうなったか、お前は知らないだろう。スリザリンの談話室では、今でも、あいつの名前を出すと空気が冷える。家からも、毎週、ふくろう便が来ている」
ハーマイオニーの指が、バッジの上で止まった。
「……あいつを、これ以上、お前の都合に巻きこむな」
ドラコは、それだけ言って、背を向けた。足音は、急ぐでもなく、廊下の向こうへ遠ざかっていった。
ハーマイオニーは、しばらく、その場から動けなかった。
やめるつもりは、なかった。ドラコの言うことが全部正しいとも、思わなかった。しもべ妖精たちの実情なら、これから自分の目で確かめればいい。
それでも、談話室でバッジを内ポケットにしまったサミュエルの横顔が、頭から離れなかった。
あのとき、彼は笑っていた。人目に触れないように、と、そっと留めていた。
あれは、隠したのではなく、守ってくれていたのかもしれない。
ハーマイオニーは、図書室の扉に額を預けて、小さく息を吐いた。
*
その夜、談話室の人が少なくなった頃、サミュエルのほうから声をかけてきた。
「まだ起きてたんだ」
「ルーン文字の宿題が終わらなくて」
「君が?」
「たまには、そういう日もあるの」
他愛のない話が、しばらく続いた。宿題のこと。ハグリッドの新しい授業の、尻尾爆発スクリュートのこと。ロンとハリーが、まだ口をきいていないこと。
ふと、会話が途切れた。
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。
「……ねえ。聞いてもいい? しもべ妖精のこと」
羊皮紙を見つめたまま、ハーマイオニーは言った。
サミュエルが、こちらを向いた。
「バッジの話?」
「それもあるけど……今日の放課後、ドラコに言われたの。サミュエルを大切に思うなら、やめろって」
「ドラコが?」
サミュエルは、少し驚いた顔をして、それから、かすかに笑った。
「あいつは、そういうやつだよ。怒鳴る前に、ちゃんと調べてから来る」
「しもべ妖精は、自由になりたがっていないって。服を渡されるのは、解雇の恥なんだって。……本当なの? あなたの家には、いるでしょう。砂糖衣を半分にするのが上手いっていう子が」
サミュエルは、すぐには答えなかった。暖炉の火を見たまま、少しだけ考えていた。
「ピッピーは、紅茶を一滴こぼすたびに、厨房の扉に頭をぶつける。自分で、罰するんだ。誰に言われたわけでもなく」
ハーマイオニーの手が、止まった。
「一年生のとき、一度だけ、『来年も、これでいい』って言ったことがある。叱ったと思ったのか、泣かれた。後から分かった。叱られたんじゃなくて、褒められたことが、なかったから、どうしていいか分からなかったんだ」
「……それは」
「ドラコの言うことは、半分は本当だと思う。『自由にしてあげる』なんて言ったら、ピッピーは、一番怖がる。服を渡すっていうのは、あの子たちにとって、『もうお前は要らない』って言われるのと同じだから」
「でも、それは、そう教えこまれてきたからでしょう?」
「うん。だから、君は間違ってない。ドラコの言い分の、もう半分は、変えられなかった側の言い分だ」
サミュエルは、ようやくこちらを向いた。
「ただ、順番が違う。旗を立てる前に、聞くんだ。何が嫌で、何は嫌じゃないのか。厨房の入口は、フレッドとジョージが知ってる。いきなり演説をするんじゃなくて、まず、毎日の食事のお礼を言いに行くといい。『自由にしてあげる』じゃなくて、『嫌なことがあったら教えて』から」
「……お礼、から」
「それと、間違っても、服は渡さないこと。僕が言うことじゃないけど」
ハーマイオニーは、小さく笑った。笑ってから、気づいた。肩に入っていた力が、ふっと抜けていた。
「あなたのことは? ドラコが言ってた。私のせいで、あなたがまた居づらくなるって」
「君のせいじゃない」
即答だった。
「居づらいのは、今に始まったことじゃないよ。それに、二シックルは、僕が自分で決めて払った。やめろって言われても、やめないつもりだったしね」
「でも――」
「ドラコには、心配してくれてありがとうって、言っておく。君は、聞きに行く先を、ちゃんと選んだ。それで十分だよ」
ハーマイオニーは、何も言えなかった。
胸の奥の棘が、ほんの少し、丸くなった気がした。みんなが聞いたのは、私の話ではなかった。でも、この人は、私の話を、最後まで聞いてくれた。
「……ありがとう」
暖炉の火が、二人の間で、静かに揺れていた。
ハーマイオニーは、膝の上の羊皮紙を見つめた。昨日、玄関ホールで見たもののことを考えていた。フラーが、あの人の一言で、迷いもなく振り返った姿を。
歓迎の宴の夜、フラーが当たり前のようにあの人の隣に座ったときのことを、思い出していた。大広間じゅうの男子生徒が見とれる人が、あの人の前でだけ、少女のように楽しそうに笑っていた。
あの人も、笑っていた。困ったような顔をしながら、それでも、追い払いはしなかった。
聞かないでおこう、と、九月からずっと思っていた。
でも。
「……前に、言ってたわよね」
声が、少しだけ震えた。
「恋愛感情って、よく分からないって」
サミュエルが、こちらを向いた。
「でも……フラーと、付き合ってるんじゃないの?」
言ってしまった。
ハーマイオニーは、羊皮紙から目を上げられなかった。
サミュエルは、少しの間、黙っていた。
「付き合ってない」
短い答えだった。
「……あっちが、僕に気があるのは知ってる。でも、今はトーナメント中だし。余計なことを言うつもりはない」
ハーマイオニーは、ゆっくりと顔を上げた。
サミュエルは、暖炉の火を見ていた。
付き合ってない。
その言葉に、胸の奥がふっと軽くなりかけた。
けれど、続きの言葉が、それを押しとどめた。
――今はトーナメント中だし。余計なことを言うつもりはない。
今は。
ハーマイオニーの耳には、その一語だけが、妙にはっきりと響いた。
今は、言わない。トーナメントが終わるまでは。フラーの邪魔にならないように。終わったら、そのときは――
そのときは、きっと、何かを言うつもりなのだ。
「……そう」
ハーマイオニーは、羊皮紙に目を戻した。
「優しいのね。試合の邪魔にならないように、って」
「……そういうことに、なるのかな」
サミュエルが、少しだけ首をかしげた。
会話は、そのまま、またスクリュートの話に戻っていった。
*
女子寮の階段を上っていく背中を見送りながら、サミュエルは、暖炉の前に一人で座っていた。
しもべ妖精のことを相談されたのは、少し意外だった。頼ってもらえたことが、思いのほか嬉しかった。
玄関ホールで、フラーには、こう言っただけだった。
――君の学校の子たち、ハリーのことで少し騒がしいね。ボーバトンの生徒が、まだ十四歳の子供を寄ってたかってからかってるって知れたら、代表選手の君の品位に関わるんじゃないかな。
フラーは、くすりと笑って、すぐに振り返った。クラムには、もっと短く言った。――あれは、ずるい戦い方だ。クラムは、それだけで分かってくれた。
どちらも、相手が一番動きやすい理由を、差し出しただけだった。
ハーマイオニーへの答えだけは、違った。
余計なことを言うつもりはない。
フラーの気持ちに、今は応えるつもりがない。けれど、命がけの試合の前に、わざわざそれを言って彼女の心を乱したくない。だから、何も言わない。
遠回しに、断るつもりだった。
それを、ハーマイオニーにだけは、正直に言ったつもりだった。新聞の記事も、熱愛報道も、彼女にだけは否定した。
伝わった、と思っていた。
階段の上で、ハーマイオニーが、一度だけ足を止めた。それから、振り返らずに、寝室へ消えていった。
サミュエルは、それに気づかなかった。
暖炉の火が、ゆっくりと燠火に変わっていった。