十一月二十四日の午後、禁じられた森のはずれに、巨大な囲い地が作られていた。
木の観客席が、すり鉢状に組み上げられている。その底の、岩だらけの囲いの中に、何かがいた。観客席に上がった瞬間、熱風が顔を打った。硫黄の匂いが鼻をつく。
ドラゴンだった。
第一の課題は、ドラゴンが守る金の卵を取ってくることだった。代表選手たちは、それぞれ一頭ずつ、別の種類のドラゴンと向き合う。
サミュエルの席は、観客席の最前列に近い、一番よく見える場所だった。父が、魔法省の知り合いを通して手配したらしい。隣には、各国の来賓が座っていた。
ハーマイオニーとロンは、ずっと後ろの、グリフィンドールの生徒たちが固まっている席にいた。
一番手は、セドリックだった。
スウェーデン・ショートスナウトの前で、セドリックは岩を一つ犬に変えて、ドラゴンの注意を逸らした。犬に気を取られたドラゴンの横をすり抜け、卵をつかむ。その途中で、ドラゴンが振り向いて、セドリックの顔に炎を吹きかけた。観客席から悲鳴が上がった。
二番手が、フラーだった。
ウェールズ・グリーン種。緑色の鱗の、小柄なドラゴン。
フラーは、囲いの中に入ってくると、杖を構えて、何かを静かに唱え始めた。歌うような、柔らかな声。ドラゴンの瞼が、とろりと重くなっていく。首が下がり、巨体が、ゆっくりと岩の上に沈みこんだ。
眠ったのだ。
観客席が、息を詰めて見守った。フラーは、眠るドラゴンの横を、一歩、また一歩と進んでいく。卵まで、あと少し。
ドラゴンが、大きな鼾をかいた。
鼻の穴から、炎が一筋、噴き出した。炎は、すぐ横を通り過ぎようとしていたフラーのスカートの裾に、ぱっと燃え移った。
「――!」
サミュエルは、思わず立ち上がりかけていた。
フラーは、杖の先から水を噴き出させて、炎を消した。焦げたスカートの裾を気にも留めずに、そのまま卵をつかみ取った。
観客席が、割れんばかりに沸いた。
サミュエルは、自分が手すりを握りしめていたことに気づいた。指の関節が、白くなっていた。
*
三番手は、クラムだった。
チャイニーズ・ファイアボール。真っ赤な鱗に、金色の棘の縁取り。
クラムは、迷いもなく、ドラゴンの目に向かって呪文を放った。結膜炎の呪い。ドラゴンが、目をやられて、苦しげにのたうった。のたうった巨体の足が、自分の卵を、半分以上踏み潰してしまった。
それでも、クラムは金の卵を取った。
審査員の一人が、卵のことで点を引いていた。クラムは、眉一つ動かさなかった。
最後が、ハリーだった。
ハンガリー・ホーンテール。四頭の中で、一番凶暴なドラゴン。
ハリーは、囲いの中に入ってくると、杖を上げて、何かを叫んだ。
城のほうから、何かが飛んできた。ファイアボルトだった。呼び寄せ呪文。ハリーは箒にまたがって、空へ舞い上がった。ホーンテールが、それを追って首を伸ばす。尾の棘が、ハリーの肩をかすめた。
ハリーは、空中でドラゴンを翻弄し、卵の真上から急降下した。
金の卵が、ハリーの手の中で、きらりと光った。
観客席が、爆発した。
サミュエルは、思わず後ろの席を振り返った。グリフィンドールの生徒たちの真ん中で、ハーマイオニーが両手で顔を覆っていた。指の隙間から、ハリーの姿を見ていた。隣で、ロンが真っ青な顔のまま、拳を突き上げていた。
*
課題のあと、サミュエルは、代表選手の控えの天幕をのぞいた。
天幕の中では、マダム・ポンフリーが、セドリックの顔の火傷に橙色の軟膏を塗っていた。その奥の簡易ベッドに、フラーが腰掛けていた。焦げたスカートの裾を、つまらなそうに指でつまんでいる。
「……見てた?」
フラーが、こちらに気づいて顔を上げた。
「見てた。スカートに火がついたとき、立ち上がりかけた」
フラーの目が、ぱっと見開かれた。それから、ふわりと笑った。ドラゴンの前でも見せなかったような、ひどく無防備な笑い方だった。
「本当?」
「本当。来賓の人に、変な目で見られた」
「……そう」
フラーは、焦げた裾を、膝の上でそっと撫でた。
「なら、焦げた甲斐があったわ」
サミュエルは、何と返せばいいのか分からなかった。マダム・ポンフリーに「代表選手以外は出ていきなさい」と追い出されるまで、天幕の入口に立っていた。
*
課題が終わっても、興奮は冷めなかった。
観客席から城へ戻る道すがら、生徒たちが口々に今日の話をしていた。フラーのスカート。クラムの踏み潰された卵。ハリーの急降下。それから、ロンとハリーが、ようやく仲直りしたらしい、という噂。
サミュエルは、その人の流れの中を、黙って歩いていた。
命がけだった。
フラーも、クラムも、セドリックも、ハリーも。ドラゴンの前に、一人で立っていた。一歩間違えれば、死んでいたかもしれない場所に。誰かに言われたからではなく、自分で名前を入れて。ハリーだけは違ったけれど、それでも逃げずに、杖を上げた。
本気で、何かに向き合っていた。
サミュエルは、自分の手を見下ろした。
フラーのスカートに火がついた瞬間、立ち上がりかけていた。今も、指先がかすかに震えている。
フラーは、自分に好意を持っている。それは、分かっていた。合宿のときから。新聞に書かれる前から。
それなのに、自分は、何をしているのか。
トーナメント中だから。去年の夏、庇ってもらった恩があるから。余計なことを言って、心を乱したくないから。
どれも、もっともな理由だった。
けれど、どれも、本当の理由ではない気がした。
*
その夜、グリフィンドールの談話室は、ハリーの祝勝会で夜更けまで沸き続けた。
フレッドとジョージが厨房からくすねてきたというケーキと、バタービールの瓶が、テーブルの上に山と積まれた。ハリーが金の卵を開けると、中から、この世のものとは思えない金切り声が響き渡って、全員が耳をふさいだ。
「なんだ、今の!」
「拷問の呪いを受けてる人の声みたいだったぞ!」
ハリーとロンは、肩を組んで笑っていた。一か月ぶりに見る光景だった。
祝勝会が終わって、寮生たちが一人、また一人と寝室へ引き上げていった。
暖炉の前の隅の椅子に、ハーマイオニーが一人で座っていた。祝勝会の間じゅう、ハリーとロンが仲直りしたのを、嬉しそうに眺めていた。今は、膝の上に、まだ半分しか読んでいない本を広げている。
サミュエルは、その向かいの椅子に腰を下ろした。
「……ハーマイオニー」
「何?」
「聞いてほしいことがある」
ハーマイオニーが、本から顔を上げた。サミュエルの顔を見て、何か察したように、本を閉じた。
サミュエルは、しばらく、暖炉の火を見ていた。
「今日、課題を見てて、考えてた。みんな、命がけだった。本気で、何かに向き合ってた」
「……ええ」
「それに比べて、俺は、何にも向き合ってないなって」
ハーマイオニーは、黙って聞いていた。
「六月、湖で、誰にも心を許せてないって言っただろう。あれから、ずっと考えてた。どうして、そうなのか」
サミュエルは、膝の上で手を組んだ。
「たぶん、誰かを好きになるのが、怖いんじゃないんだ。好きになっても、それが返ってこないのが怖いんだと思う」
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。
「結局、俺は、誰かに愛されたいだけなんだ。必要とされたい。認めてほしい。それだけ。だから、相手が何を欲しがってるか、いつも先回りして差し出してきた。そうすれば、嫌われないから」
ハーマイオニーの指が、閉じた本の表紙の上で、きゅっと丸まった。
「……それで、聞きたいんだけど」
サミュエルは、少しだけ顔を上げた。
「誰かの気持ちに、うまく応えられない時って、どうすればいいと思う?」
*
ハーマイオニーは、すぐには答えられなかった。
誰かの気持ち。
誰の、と聞けばよかった。けれど、聞かなくても、分かる気がした。今日、ドラゴンの前で歌うように呪文を唱えていた人。歓迎の宴の夜、当たり前のように彼の隣に座った人。
フラーのことだ。
それとも。
ほんの一瞬だけ、別の可能性が頭をよぎった。湖のほとりで、「大切な存在だ」と言われた夜のこと。もしかしたら、と。
――いいえ。
ハーマイオニーは、その考えを、自分で打ち消した。そんなはずはない。あの人は、一般論として聞いているのだ。それとも、フラーのことを。どちらにしても、私のことではない。
胸の奥が、きりきりと痛んだ。
――行かないで。
そう言いたかった。フラーのところへなんて、行かないで、と。
けれど、そんなことを言う資格が、自分のどこにあるのだろう。湖のほとりで、手伝う、と言った。この人が生きていくのを。それは、この人を縛るためではなかったはずだ。
この人は、愛されたいのだ。愛しても返ってこないのが、怖いのだ。
なら。
フラーは、この人を愛している。それは、誰の目にも明らかだった。
「……無下にするより」
声が、自分のものではないように聞こえた。
「一度、ちゃんと向き合ってみたら。それで、分かることも、あると思う」
言ってから、自分の言葉に、心臓が凍りつきそうになった。
サミュエルは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……そうか。向き合ってみる、か」
「……ええ」
「君が言うなら、そうしてみる」
サミュエルは、少しだけ笑った。ほっとしたような、素直な笑い方だった。
「ありがとう、ハーマイオニー。やっぱり、君に聞いてよかった」
*
サミュエルが男子寮の階段を上っていったあとも、ハーマイオニーは、暖炉の前から動けなかった。
君が言うなら、そうしてみる。
あの人は、私の言葉を、そのまま信じた。疑いもせずに。湖のほとりで、自分の一番痛いところを見せてくれたのと同じ顔で。
一度、ちゃんと向き合ってみたら。
自分で言った言葉が、何度も、何度も、頭の中で繰り返された。
どうして、あんなことを言ったのだろう。本当に言いたかったことは、まるで逆だったのに。
暖炉の火が、燠火に変わっていく。
ハーマイオニーは、膝の上の本を、ぎゅっと抱きしめた。
何かが、取り返しのつかない方向へ、動き出してしまった気がした。それが何なのか、まだ、うまく言葉にすることができなかった。
談話室の窓の外では、十一月の冷たい雨が、静かに降り始めていた。
*
次の朝の大広間で、フラーがレイブンクローのテーブルから、サミュエルに小さく手を振った。
いつもなら、軽く会釈して終わりにするところだった。サミュエルは、少しだけ迷ってから、手を振り返した。
フラーの顔が、ぱっと輝いた。
グリフィンドールのテーブルの端で、ハーマイオニーがそれを見ていた。トーストを持った手が、宙で止まっていた。
図書室では、このところ毎日のように、ダームストラングの代表選手が隅の席に座っていた。何をするでもなく、ハーマイオニーが本を広げる机のほうを、ちらちらと見ていた。サミュエルは、それに気づいていた。彼女のほうは、まだ気づいていないようだった。