飛行訓練の授業は、木曜の午後だった。
校庭の芝生には、古びた箒が二列に並べてある。空は薄く晴れていたが、湖を渡ってくる風はもう冷たい。スリザリンとの合同授業で、向こうの列にはドラコの姿も見えた。
「何をぼやぼやしてるんですか。みんな箒のそばに立って。さあ、早く!」
白髪を短く刈ったフーチ先生が、鷹のような黄色い目で一年生を見回した。
「右手を箒の上に突き出して。そして『上がれ!』と言う」
「上がれ!」
サミュエルの箒は、言い終わる前に手のひらに飛びこんできた。隣のハリーの箒も、同じだった。
ハーマイオニーの箒は地面の上でころりと転がっただけで、ネビルの箒はぴくりとも動かない。
「上がれってば……上がれ……」
「ネビル、声が震えてると、箒もびくびくするんだ」
サミュエルが小声で言うと、ネビルは泣きそうな顔でうなずいた。
「では、私が笛を吹いたら、地面を強く蹴ってください。二メートルぐらい浮いたら、少し前屈みになって、すぐに降りてくること。笛を吹いたらですよ。――いち、にの……」
ネビルが、笛より先に地面を蹴った。
「こら、戻ってきなさい!」
ネビルの箒は、コルクの栓が抜けたみたいに斜めに飛び出した。三メートル、六メートル――。上がりきったところで、柄がぐるりと向きを変える。
その瞬間、サミュエルの右目の奥で、景色がずれた。
半透明の箒が、まっすぐこちらへ突っこんでくる。その先に立っているのは、パーバティだった。
サミュエルは、パーバティの腕をつかんで、ぐいと引き寄せた。
「え?」
彼女の体が、すっぽりと彼の胸に収まる。一秒遅れて、ネビルの箒が、さっきまで彼女の立っていた芝生をえぐるように低空で通り過ぎた。土くれが飛び散り、何人かが悲鳴を上げた。
ネビルはそのまま箒から振り落とされ、どさりと芝生に落ちた。
「手首が折れてるわ」
フーチ先生が駆け寄り、ネビルを助け起こす。それから一度だけ、パーバティの肩を放したばかりのサミュエルを、怪訝そうに見た。
「――私がこの子を医務室に連れていくあいだ、誰も動いてはいけません。箒もそのままにしておくこと。さもないと、クィディッチの『ク』の字を言う前にホグワーツから出ていってもらいますよ」
先生がネビルを連れて城へ消えると、パーバティがおずおずとサミュエルの袖を引いた。
「あの……さっき、ありがとう。どうして分かったの? ネビルの箒がこっちに来るって」
「勘だよ。ネビルの顔が、こっちを向いてたから」
「そ、そう……」
パーバティは耳まで真っ赤になって、うつむいた。まだ、彼の袖をつかんだままだった。ラベンダーに肘でつつかれて、ようやく手を離す。
「ちょっと! 顔、真っ赤よ」
「う、うるさいわね!」
パーバティは頬を両手で押さえて、ラベンダーの陰に隠れた。
ドラコが芝生から何かを拾い上げたのは、そのときだった。
「見ろよ。ロングボトムのばあさんが送ってきた、ばかげた玉だ」
思い出し玉だった。中の煙が、真っ赤に光っている。
「返せよ、マルフォイ」
ハリーの声は、低かった。
「取りに来いよ、ポッター。木の上にでも置いといてやる」
ドラコは箒にまたがって、ふわりと浮き上がった。
「ハリー、だめ! 先生が言ったでしょう!」
ハーマイオニーの叫びを振り切って、ハリーが地面を蹴った。
そこから先は、誰もが見上げることしかできなかった。
初めて箒に乗ったはずのハリーが、まるで生まれたときから空にいたみたいに、ドラコの真正面まで上がっていく。ドラコが玉を高く放り投げる。ハリーが一直線に急降下する。地面すれすれで、玉を片手でつかみ取った。
グリフィンドールの列から、歓声が爆発した。
「ハリー・ポッター!」
その歓声は、すぐに凍りついた。
城のほうから、マクゴナガル先生が走ってくる。
「まさか――こんなことはホグワーツで一度も……ポッター、私と一緒にいらっしゃい」
先生はハリーの腕をつかんで、足早に城へ戻っていった。ハリーの背中が、がくんがくんと揺れている。
「退学だ……」
ロンの顔は、紙のように白かった。
*
その夜の夕食に、ハリーは頬を上気させて戻ってきた。
「退学じゃなかった!」
「じゃあ何だよ」
「シーカーだって。キャプテンのウッドが、百年ぶりの一年生選手だって言ってた。……秘密にしろって言われたから、誰にも言うなよ」
ロンが、ポテトを喉に詰まらせた。サミュエルは笑って、水のゴブレットを差し出した。
「秘密にするなら、その顔をなんとかしないと。今のハリーは、校庭の端からでも分かる」
ハリーは慌てて両手で自分の頬を押さえた。
*
翌日、妖精の呪文の授業のあとで、フリットウィック先生に呼び止められた。
「ミスター・ヴェスゲレート。少しよろしいですかな」
教室に誰もいなくなるのを待って、先生は積み上げた本の上から、じっとこちらを見た。いつもの愉快そうな顔ではない。
「昨日の飛行訓練の件で、ミネルバとマダム・フーチから相談を受けました。ロングボトム君の箒が来る前に、あなたはもう動いていたそうですな」
「勘です」
「あなたのお母上の目のことは、私どももよく存じております。……その右目も、同じものですな?」
サミュエルは少しだけ黙ってから、うなずいた。
「数秒先までです。いつでも見えるわけじゃありません」
「ウッド君は、あなたの名前も出したそうです。ですが、数秒先が見える選手を出せば、相手チームから抗議が来るのは目に見えています。ブラッジャーがどこから来るか、全部分かってしまうのですからな。――不公正な優位、というやつです」
先生は、小さく息をついた。
「ですから、あなたを選手の候補にはできません。残念ですが。ポッター君お一人の特例でしたら、他の寮にも説明がつきます」
「でしょうね」
サミュエルは、あっさりと笑った。
「僕も、そう思います。ハリーのほうが、ずっと向いてますよ。あの急降下、僕じゃ真似できない」
「……がっかりは、しないのですかな」
「規則は規則ですから」
フリットウィック先生は、何か言いたそうに眉を動かして、それから「結構」とだけ言った。
*
噂は、その日のうちに寮じゅうを駆け巡った。
「サミュエルが、クィディッチに出られないって!」
「嘘だろ。じゃあ、うちの寮は誰が――」
「サミュエルが出ないんなら、今年も優勝はスリザリンじゃないか」
「抗議しようぜ。フリットウィック先生のところに、みんなで押しかけて」
シェーマスが息巻くと、何人かが「そうだ」と声を上げた。
「やめとけって」
サミュエルは、ソファの背にもたれたまま笑った。
「抗議されて困るのは、先生じゃなくて僕だよ。『ヴェスゲレートは、ずるをしてでも試合に出たがってる』って、スリザリンの連中に言われるのがおちだ」
「……それは、たしかに嫌だな」
シェーマスが渋々引き下がると、騒ぎはそれで収まった。
騒ぎが散ったあとで、ハリーがためらいがちに隣に腰を下ろした。
「君の目のこと、知らなかった」
「言ってなかったからね」
「未来が見えるって、どんな感じなの?」
「空の雲行きが見えるようなものさ。ほんの少し先の、小さな範囲だけ。明日の天気までは分からない」
「それでも、すごいよ」
「ハリーの急降下のほうがすごいって。あれは、見えてたって真似できない」
ハリーは照れくさそうに、くしゃくしゃの髪をかき回した。
寮じゅうが「誰が代わりに出るんだ」と騒ぐ中、ロンだけが妙ににやにやしていた。
一週間後、朝食のテーブルに、六羽のコノハズクが細長い包みを運んできた。ハリーの前に、どさりと置かれる。
包み紙の隙間から、つややかな柄がのぞいていた。
「ニンバス2000だ……」
ロンが、うっとりとため息をついた。
ハリーがシーカーに選ばれたことは秘密のはずだったが、秘密は一日ももたなかった。百年ぶりの一年生選手。それも、あのハリー・ポッター。
「よかったね、ハリー」
サミュエルがハリーの肩を叩くと、ハリーは少し申し訳なさそうな顔をした。
「サミュエルのほうが、選ばれるべきだったんじゃないかって、まだ思うんだ」
「選ばれるべきなのは、あの急降下を見せた人間だよ。それに、僕が出たら面白くないだろ。最初から結果が分かってる試合なんて」
周りの一年生たちが、どっと笑った。
*
それからハリーは、週に三日、日が暮れてからの練習に通うようになった。宿題をする時間が減ったハリーに、サミュエルは談話室で魔法史のレポートの要点を教えてやった。
「ゴブリンの反乱は、年号だけ覚えればいい。ビンズ先生は、それ以外読んでないから」
「本当に?」
「たぶんね」
十一月も下旬に入った土曜日。クィディッチ・シーズンの開幕戦だった。
朝食の席で、ハリーはソーセージを一口も食べられずにいた。
「トースト一枚でいいから、食べときなよ。空腹で箒から落ちるほうが、ずっと格好悪い」
「……分かった」
ハリーは、サミュエルが差し出したトーストを、半分だけかじった。
観客席は、吐く息が白くなるほど冷えこんでいた。かぼちゃジュースの湯気が、あちこちで立ちのぼっている。グリフィンドールの席では、ロンとディーンが、シーツで作った大きな旗を広げた。〈ポッターを大統領に〉。ハーマイオニーが魔法をかけて、文字の色がくるくると変わるようにしてあった。
ハグリッドが、大きな体を窮屈そうに縮めて隣に座った。
「ハリーの初陣だ。見逃してたまるか」
「さあ、クアッフルはグリフィンドールのアンジェリーナ・ジョンソンが取りました――なんと素晴らしいチェイサーでしょう。その上、かなりの美人でもあります」
「ジョーダン!」
「失礼しました、先生」
解説席で、リー・ジョーダンがマクゴナガル先生に叱られている。観客席がどっと笑った。
試合が始まって、しばらくはグリフィンドールが優勢だった。
異変が起きたのは、二十分ほど過ぎた頃だった。
「ハリーの箒、どうしたんだ?」
空の上で、ハリーの箒がびくんと跳ねた。次の瞬間、まるで振り落とそうとするかのように、激しく暴れ始める。ハリーは片手で柄にぶら下がっていた。
観客席じゅうに悲鳴が上がった。
「誰かが呪いをかけてる」
双眼鏡をのぞいていたハーマイオニーが、さっと顔色を変えた。
「スネイプよ。見て、ハリーから目を離さないで、ぶつぶつ何か唱えてる」
彼女は返事も待たずに、観客席の通路を駆け出していった。
サミュエルは、その背中を目で追った。それから、空のハリーに視線を戻した。
半透明の影は見えない。数秒先までしか見えない右目に、あの高さで起きることは映らない。
手が、腰の箱にかかっていた。この距離、この高さ、暴れ回る的。当てられるか――そう計算しているうちに、教職員席のあたりで小さな騒ぎが起きた。誰かのローブの裾から、青い炎が上がっている。
同時に、ハリーの箒がぴたりと大人しくなった。
ハリーが一直線に急降下する。地面すれすれで箒から転げ落ち、両手で口を押さえて――何かを吐き出した。
金色の、小さな玉だった。
「スニッチを取ったぞ!」
グリフィンドールの観客席が、爆発したように沸いた。百七十対六十。ロンがハグリッドに抱きつき、ハグリッドがロンを丸ごと持ち上げた。
観客席の通路を、ハーマイオニーが息を切らせて戻ってきた。頬が赤く、手には空っぽのジャムの瓶を握っている。
「やったわ……やったのね、ハリー!」
「見事な火だったね」
サミュエルが声をかけると、彼女はぴたりと足を止めた。警戒するような目が、こちらを向く。
「……何?」
「純粋に感心したんだ。あの高さの的に、誰にも気づかれずに火をつけるなんて。僕には、あの距離は当てられなかった」
「それで?『マグル生まれにしては』って続くんでしょう」
言葉が、喉で止まった。
十月の談話室の、あの一言。
「……続かないよ」
「そう。なら、どうも」
彼女はそれだけ言って、ロンのほうへ駆けていった。
サミュエルは手を叩いて笑い、隣の一年生と肩を組んだ。
「最高だ、ハリー!」
いつもと同じ声だった。
*
その夜、談話室の祝勝会は真夜中近くまで続いた。
フレッドとジョージが厨房からくすねてきたというケーキと、誰かが持ちこんだバタービールの瓶。ハリーは何度も胴上げされ、そのたびに天井に頭をぶつけそうになっていた。
「サミュエル、乾杯の音頭を頼むよ!」
「それじゃあ――スニッチを食べそこねたシーカーに!」
「食べてないってば!」
ハリーの抗議は、笑い声にかき消された。
部屋に戻ったのは、日付が変わる少し前だった。
天蓋つきのベッドのカーテンを閉めると、隣のベッドから、ロンの満足そうないびきが聞こえてくる。
サミュエルは仰向けになって、天蓋の裏の暗がりを見上げた。
クィディッチの選手になれなかったこと。百年ぶりの一年生選手の座が、自分ではなくハリーに渡ったこと。先生たちに、右目のことを言い当てられたこと。
どれも、もう頭には残っていなかった。眠る前に思い出すほどのことでもない。
代わりに浮かんでくるのは、ひとつの声だった。
――その理屈、本当に自分で考えたの? それとも、誰かに教え込まれただけ?
列車の通路で、栗色の髪の女の子に言われた一言。
あれから、三か月近くが経つ。答えはまだ、見つかっていない。
サミュエルは寝返りを打ち、目を閉じた。
その一言だけが、いつまでも耳の奥に残っていた。