一月の大広間の朝食は、湯気から始まる。
魔法のかかった天井には、灰色の雪雲が低く垂れこめていた。窓の外の校庭は一面の雪で、ハグリッドの小屋の煙突から、細い煙がまっすぐ立ちのぼっている。
長テーブルに並んだ大皿は、どれも保温の魔法がかかっていて、最後の一切れまで焼きたてと同じ温度を保っている。ポリッジの深鍋は、誰かがよそうたびに、ことことと小さな泡を立てた。厚切りのベーコン、焼きトマト、マッシュルーム、ベイクドビーンズ。トーストは銀のラックに立てられ、取っても取っても、いつの間にか一枚ずつ補充されている。
「ねえ、知ってた? テーブルごとに、ちょっとずつ献立が違うのよ」
隣の席から、パーバティが身を乗り出してきた。
「ハッフルパフのテーブルは、いつもパンの種類が多いの。厨房のすぐ上だからって、ハンナが言ってた。レイブンクローは紅茶の種類。スリザリンは――」
「スリザリンは?」
「ニシンの燻製が多いんですって。誰も食べないのに」
サミュエルが笑うと、パーバティも嬉しそうに笑った。
飛行訓練の日から、彼女はなんとなくサミュエルの近くに座るようになっていた。下心があるというより、懐いた子犬みたいに、屈託がない。
頭上で、ふくろうの羽音が響いた。
朝の郵便だ。何百羽ものふくろうが天井近くを旋回し、それぞれの宛先に小包や手紙を落としていく。ネビルの前には、祖母からの手編みの手袋。シェーマスの前には、母親の焼いたソーダブレッド。
「サミュエル、これ、いる?」
ディーンが、上級生から回ってきたハニーデュークスの袋を差し出した。
「爆発ボンボンと、ドルーブルの風船ガム。あと、ゴキブリ・ゴソゴソ豆板」
「最後のは遠慮しとく」
「賢明だな。リーが一つ食べて、一時間、足がむずむずするって騒いでた」
パーバティの前にも、小さな包みが届いていた。開けると、黄色い丸い菓子がいくつも並んでいる。甘い香辛料の匂いが、ふわりと立ちのぼった。
「ラドゥーよ。うちのお母さんが毎月送ってくれるの。サミュエル、一つどうぞ」
「いいの?」
「いいの。……ほかの人には内緒ね。パドマの分が減っちゃうから」
口に入れると、ほろりと崩れて、カルダモンの香りが広がった。
「おいしい。お母さん、料理上手なんだね」
「でしょう!」
パーバティは自分が褒められたように、頬を染めた。
「パーバティったら、さっきからサミュエルのほうばっかり見てる」
ラベンダーが、にやにやしながら肘でつついた。
「み、見てないってば!」
「見てた見てた。トースト、バター塗らないまま食べてたもん」
パーバティは真っ赤になって、ラベンダーの口を両手でふさいだ。サミュエルは聞こえないふりをして、紅茶を飲んだ。
サミュエルの前には、何も落ちてこなかった。ふくろうたちは、彼の頭上を素通りして飛んでいく。毎朝のことだった。
夕食のテーブルは、朝よりもさらに賑やかだった。
ステーキ・アンド・キドニーパイ、シェパーズパイ、ローストした羊肉にミントソース。デザートには糖蜜タルトと、カスタードをたっぷりかけたスポッティッド・ディック。
サミュエルの皿には、パイが三切れ、羊肉が山盛り、その横にマッシュポテトが小さな丘を作っていた。
「……なあ。それ、どこに入るんだよ」
ロンが、自分の皿と見比べて眉をひそめた。
「鍛えてるからね。食べないと、もたないんだ」
「鍛えてるって、何を?」
「全部」
ロンはしばらく考えてから、黙って自分の皿にもう一切れパイを足した。
*
その日から、なぜか同じようなことが続いた。
図書室の棚の前で、レイブンクローの女の子に声をかけられた。
「あの、あなたがサミュエル? 私、パドマ。パーバティの双子の姉妹よ」
「よく似てる。でも、パドマのほうが本を持つ手つきが慣れてるね」
「……分かる?」
「そこの棚、古代ルーンの入門書だろう。一年生で手に取る人は珍しい」
「ええ、あの……もしよかったら、今度、ちょっとだけ教えてもらえない? パーバティから、あなたがすごく詳しいって聞いて」
「いいよ。木曜の放課後なら」
パドマは顔を輝かせて、本を胸に抱えて去っていった。
木曜日、パドマは約束の時間の十分前に、図書室の窓際の席で待っていた。羊皮紙の上には、自分で書き写したルーン文字が何十個も並んでいる。
「このルーン、本によって意味が違うの。どっちが正しいの?」
「どっちも正しい。時代と地域で変わるんだ。だから、写本の出どころを先に確かめる」
「……そういうことだったのね」
パドマは目を丸くして、羊皮紙の端にびっしりと書きこみを始めた。
廊下の角では、ハッフルパフの女の子たちに囲まれた。
「サミュエル・ヴェスゲレートよね? ねえ、本当にクィディッチの選手に選ばれかけたの?」
「選ばれかけて、落ちたんだ。かっこ悪い話だよ」
「でも、未来が見えるって本当?」
「ほんのちょっとだけね。君が次に何を聞くかは、見なくても分かるけど」
「えっ、何?」
「『私の未来も見て』」
女の子たちがきゃあっと笑い声を上げた。
「当たり! じゃあ見て、見て」
「君は、このあと薬草学の授業に三分遅れる」
「えっ、嘘!」
女の子たちは、ばたばたと温室のほうへ駆けていった。未来なんて、見るまでもない。廊下の時計が、もう授業の始まる時刻を指していただけだ。
談話室では、上級生の女子にまで声をかけられた。
「ねえ、ヴェスゲレート君。魔法薬のレポート、ちょっと見てくれない? スネイプ先生の課題、意味が分からなくって」
「六年生の課題を、一年生に?」
「だって、あなた、もう全部知ってるって噂だもの」
羊皮紙をのぞきこむと、手伝うほどのところはほとんどなかった。結論の一行を直すだけで足りる。
「ここ、『満月草』じゃなくて『月長石の粉』だと思います」
「本当だわ! ありがとう。――ところで、あなたのお家って、ノクターン横丁の、あのお店よね? うちの父が、一度お話ししてみたいって」
レポートは口実だった。
サミュエルは、そのどれにも愛想よく応じた。
そして、そのどれにも、少しだけ冷めた目を向けていた。
あのハッフルパフの子の家は、魔法省の運輸部に親戚がいる。バーク商会は、移動キーの規制のことで何度か揉めている相手だ。レイブンクローの上級生の父親は、ノクターン横丁にいくつか店を持っている。パドマは――たぶん、本当にルーンが好きなだけだ。
全員がそうだとは思わない。でも、何人かは、間違いなく家で言われている。バーク家の跡取りとは、仲良くしておきなさい、と。
それを確かめる機会は、すぐにやって来た。
地下牢の魔法薬学の教室から出たところで、スリザリンの女の子に呼び止められた。黒い髪を短く切りそろえた、顔の平たい子だった。
「あなたがヴェスゲレート? パンジー・パーキンソンよ」
「ドラコの友だちだね。いつも隣に座ってる」
「そう。……母上がね、バーク家の方とは仲良くしておきなさいって。だから、仲良くしてあげてもいいわよ。グリフィンドールなのは、目をつぶってあげる」
サミュエルは、思わず笑ってしまった。ここまで正直だと、いっそ気持ちがいい。
「ありがとう。お母上によろしく伝えておいて」
「ええ。――あ、ドラコには内緒よ」
「どうして?」
「ドラコったら、あなたの話になると機嫌が悪くなるんだもの。グリフィンドールに取られたって、まだ根に持ってるのよ」
「それは光栄だな」
パンジーは、満足そうに去っていった。
十一歳にもなれば、子供だって家の言いつけで動く。それを責める気には、なれなかった。自分だって、同じことをしているのだから。
*
図書室の窓際の席から、ハーマイオニーはその様子を見ていた。
本棚の向こうで、サミュエルがパドマ・パチルにルーン文字を教えている。パドマが何か言うと、彼は楽しそうに笑って、羊皮紙の上に文字を書いてみせる。
――あの人、ああいう顔もするのね。
「ハーマイオニー、何見てるの?」
向かいの席で、ハリーが羽根ペンを止めた。
「何も。……ハリー、そこの年号、間違ってるわよ。ゴブリンの反乱は、一六一一年じゃなくて一六一二年。ビンズ先生、そういうところで減点するから」
「……ありがとう」
ロンが横からのぞきこんで、うんざりした顔をした。
ハーマイオニーは、自分の手元の『薬草とキノコ千種』に目を戻した。
別に、気にしているわけではない。
自分の顔については、だいたい分かっているつもりだ。髪は手に負えないほど広がるし、前歯は少し大きい。パーバティみたいに、きれいに編みこんだ黒髪でもない。でも、それで困ったことはない。人並み。それで十分だと思っている。
ただ。
昼間、廊下でパーバティが転びかけたとき、あの人はさっと腕を出して支えていた。「大丈夫?」と、ほんの少し首を傾げて。
私には、一度もあんなふうに話しかけてくれたことはない。いつも、皮肉ばかり。「グレンジャー」と苗字で呼んで、少し意地悪な顔をして。
――私にも、あんなふうに接してくれたらいいのに。
ハーマイオニーは、ぱたんと本を閉じた。
何を考えているんだろう。理屈で説明のつかない気持ちは、苦手だ。答えの書いてある本も、この気持ちにだけは見つからない。
「……ばかみたい」
小さく呟いて、彼女は次の本を開いた。
*
その夜、サミュエルは寮のベッドで天蓋を見上げていた。
今日一日で、何人の女の子に話しかけられただろう。数えようとして、やめた。
その中に、何の計算もなく自分に近づいてきた子は、何人いたのだろう。
パーバティは、たぶんそうだ。パドマも。でも、それ以外は分からない。分からないことが、気にならない。誰がどんな理由で笑いかけてきても、こちらは同じ顔で笑い返せばいい。
それで、困ったことは一度もなかった。父の屋敷では、それが正しいやり方だった。誰が何を考えていても、こちらが出来のいい跡取りでいる限り、何も問題は起きない。
好かれることと、好かれた理由を気にしないことは、たぶん同じ技術なのだ。
寝返りを打とうとして、ふと手が止まった。
――そういえば。
グレンジャーだけは、一度もこういうことをしてこない。
家柄を聞いてこない。未来を見てほしいとも言わない。レポートを手伝ってほしいとも、仲良くしてあげてもいいとも言わない。会えば言い返してくるだけだ。正しいと思ったことを、まっすぐに。
そんな相手は、この城に、たぶん彼女しかいない。
サミュエルは、しばらく暗がりを見つめていた。
喉が渇いた気がして、ベッドを抜け出した。談話室の暖炉は、もう熾火になっていた。
水差しに手を伸ばしたとき、女子寮の階段から、誰かが降りてくる足音がした。
ハーマイオニーだった。寝間着の上にカーディガンを羽織り、分厚い本を抱えている。
「……まだ起きてたの」
「君こそ。消灯時間はとっくに過ぎてるよ、規則の鬼のグレンジャーさん」
「本を談話室に忘れたのよ。取りに来ただけ」
「その手に持ってるのは?」
「……これは、別の本」
「なるほど。二冊同時に読むわけだ」
「三冊よ。何か問題でも?」
「その『ホグワーツの歴史』、何回目?」
「……四回目」
「なら、二百十ページの図版、気づいた? 大広間の天井の挿絵と、説明文の左右が逆になってる」
ハーマイオニーの目が、ぱっと見開かれた。
「本当? ――待って、確かめる」
「明日にしなよ。どうせ逃げないから」
ハーマイオニーはつんと顎を上げ、暖炉脇の椅子から、もう一冊の本を拾い上げた。
「おやすみ、ヴェスゲレート」
「おやすみ、グレンジャー。目を悪くしないように」
「余計なお世話」
彼女は階段を上っていった。
サミュエルは、水差しの水を一杯飲んだ。
熾火が、ぱちりと一つだけ爆ぜた。今日一日、いちばん肩の力が抜けていたのがいつだったのか、彼は考えないことにした。