二月十四日の朝、大広間の天井からは、薔薇の花びらが降っていた。
砂糖漬けにした赤い花びらが、ひらひらと舞い降りてきては、テーブルに届く前にふっと消える。屋敷しもべ妖精たちの、年に一度の悪ふざけだという。どのテーブルにも、ハート形に焼いたショートブレッドの皿が並んでいた。
ふくろうの羽音が、いつもの朝の倍は多かった。
あちこちで、カードが開かれる。魔法のかかったカードは、開いた瞬間に金色の文字がふわりと宙に浮かび上がり、送り主の声でひとこと読み上げてから、きらきらと崩れて消えていく。
〈ずっと見てました!〉
どこかのテーブルで甲高い声が響き、受け取った男子生徒が、テーブルに突っ伏した。
グリフィンドールのテーブルの、サミュエルの席の前には、小さな山ができていた。
「……これ、全部君宛て?」
ロンが、ショートブレッドをくわえたまま固まった。
リボンをかけた箱。ハート形の包み。手紙の束。ふくろうが一羽来るたびに、山はまた少し高くなる。
「去年の今頃は、こんなことになるなんて思ってなかったな」
サミュエルは苦笑いしながら、一番上の箱を手に取った。
差出人の名前を確かめ、カードの言葉を読み、送り主の座っているテーブルを探す。目が合えば、軽く会釈して、口の動きだけで「ありがとう」と伝える。
次の箱。次の手紙。
ハッフルパフのテーブルで、女の子が二人、手を取り合ってきゃあきゃあ騒いでいる。
「全部、食べるの?」
「一人一つずつ、ちゃんと味を覚えておく。お礼を言うときに、何をもらったか覚えてないと失礼だろ」
「……君、本当に十一歳か?」
「四月で十二になるよ」
ハリーが、呆れたように笑った。
パーバティの包みは、手作りらしい形の不ぞろいなトリュフだった。パドマからは、ルーン文字で「感謝」と刻んだ小さなチョコレートの板。スリザリンのテーブルから飛んできた箱には、几帳面な字で「母上に言われたので。P・P」と書いてあった。
サミュエルは、思わず吹き出しそうになった。
「おい、サミュエル」
テーブルの向こうから、フレッドとジョージが同じ顔をして身を乗り出してきた。
「その山の一割は、俺たちによこすべきだと思わないか」
「何の一割?」
「宣伝料さ。お前が一年生の中でいちばんモテるって噂を流したのは、俺たちだからな」
「流さなくても、こうなってたと思うけど」
「……聞いたか、ジョージ。こいつ、言いやがった」
「聞いたとも、フレッド。末恐ろしい一年生だ」
双子は大げさに天を仰ぎ、サミュエルの山からハート形の包みを一つずつ素早くかすめ取っていった。
大広間を出るとき、スリザリンのテーブルの端からドラコが声をかけてきた。
「ずいぶんな山だな、ヴェスゲレート。グリフィンドールの女どもは、趣味が悪い」
「スリザリンからも一箱届いてるよ」
「……誰からだ」
「内緒」
ドラコはむっとした顔で、隣のパンジーを振り返った。パンジーは素知らぬ顔で、ショートブレッドをかじっていた。
*
朝食も終わりに近づいた頃、見慣れないふくろうが窓から入ってきた。
大きな茶色のミミズクで、脚に結んだ荷札には、外国の消印がいくつも押してある。
「国際便だ」
ディーンが、身を乗り出した。
一羽、また一羽。南の国の明るい色のふくろうや、雪のように白い大きなふくろうが、次々と天井近くを旋回して、サミュエルの前に荷物を落としていく。
ボーバトンの淡い青の封筒。ダームストラングの紋章を押した、硬い羊皮紙の包み。
「合宿で知り合った人たちだよ。物好きが何人かいたみたいだ」
サミュエルは、何でもないように言った。
ダームストラングの包みを開けると、中から出てきたのは、黒パンが一斤と、硬い羊皮紙の切れ端だった。太い字で、一行だけ。
〈元気か。 V・K〉
「……何それ。パン?」
「たぶん、あの人なりの挨拶だよ」
サミュエルは、パンを大事そうに脇へよけた。
山の中に、一つだけ、毛色の違う包みが紛れていた。
つやのある白い紙に、銀色の細いリボン。ほかの包みのような派手さはない。けれど、指先で触れただけで分かるほど、紙そのものが上等だった。
中には、パリの菓子店の名前が金で箔押しされた小箱。淡い色のマカロンが、六つ並んでいる。
添えられたカードには、流れるような字で、一行だけ。
〈氷の薔薇は、まだ溶けていないわ。――F〉
サミュエルは、カードの文字をしばらく眺めていた。
ほんの少しだけ、目を細める。
それから、カードを箱の中に戻して、蓋を閉じた。
「誰から?」
「合宿で会った人。氷の彫刻が好きな人だよ」
ロンは首をかしげたが、それ以上は聞いてこなかった。
*
ハーマイオニーの鞄の中には、包みが三つ入っていた。
どれも同じ、茶色い紙に赤いリボン。中身は、両親が持たせてくれた、砂糖控えめのチョコレートだ。歯医者の娘のバレンタインなんて、こんなものだ。
一つ目は、朝食のあと、ハリーに渡した。
「はい、ハリー。いつもありがとう」
「わあ、ありがとう、ハーマイオニー」
二つ目は、ロンに。
「砂糖控えめ? ……まあ、ないよりはいいか」
「いらないなら返して」
「いる、いるって!」
簡単だった。友だちに、友だちとしてチョコレートを渡す。それだけのことだ。
三つ目の包みは、まだ鞄の底にある。
これだけは、リボンを三回結び直した。
先月、図書室の窓際から見た光景が、頭から離れなかった。転びかけたパーバティを、さっと腕を出して支えていた。パドマには、楽しそうにルーン文字を教えていた。女の子たちには誰にでも、少しだけ首を傾げて「大丈夫?」と笑う。
私には、あんなふうに話しかけたことなんて、一度もないくせに。
でも、今日は二月十四日だ。チョコレートを渡すのは、女の子の役目の日。渡せば、あの人も少しは――私のことを、女の子として扱ってくれるかもしれない。
ばかばかしい。理屈で考えれば、チョコレート一つで人の態度が変わるはずがない。そう分かっているのに、薔薇の花びらの降る大広間に入った瞬間から、足元がふわふわして、頭が理屈どおりに動いてくれなかった。バレンタインというのは、たぶん、そういう魔法なのだ。
朝食の席で、渡そうと思った。でも、あの人の前には、もうチョコレートの山ができていた。周りには、女の子たちが入れ代わり立ち代わりやって来る。
一人一人に、同じように笑っている。会釈して、口の動きだけでお礼を言って。きれいな笑顔だった。きれいすぎて、列車の通路で怒鳴ったあの顔とは、同じ人間に見えなかった。
――あの山の中に、これを一つ置くの?
手が、鞄の口で止まった。
昼休みの廊下で、もう一度。今度は一人で歩いていた。
今なら、と思って一歩踏み出した。足音に気づいたのか、あの人が振り向いた。
「グレンジャー? 何か用?」
「……べ、別に。あなた、羽根ペン落としたわよ」
「落としてないけど」
「じゃあ、見間違いね」
あの人が首をかしげている間に、角の向こうからパーバティが駆け寄ってきて、あの人の腕を引っぱっていった。
ハーマイオニーは、その場で額に手を当てた。羽根ペン。よりにもよって、羽根ペン。
午後の図書室で、三度目。あの人はパドマ・パチルと並んで、ルーン文字の本を開いていた。
ハーマイオニーは、本棚の陰で立ち止まった。
どうして、と自分でも思う。ハリーにもロンにも、あんなに簡単に渡せたのに。
あれは、友だちに渡すチョコレートだったからだ。この一つだけは、違う。期待が入っている。期待の入ったものは、渡す瞬間に、中身を見透かされそうで怖い。
もし受け取ってもらえても、あの山の一つになるだけかもしれない。「ありがとう、グレンジャー」と、いつもの笑顔で言われて、それで終わり。それがいちばん怖かった。
列車で杖の話を聞かせてもらったお礼。そう言えば、理由にはなる。でも、本当の理由がそれではないことは、自分がいちばんよく知っていた。
理屈で説明のつかないことは、苦手だ。
いっそ、名前を書かずに、ふくろうで送ってしまおうか。そう考えて、すぐに首を振った。差出人の分からない贈り物なんて、それこそ誰かさんの真似みたいだ。ローブの内ポケットには、今もあの銀色の鶴が入っている。
渡すなら、ちゃんと自分の手で渡したい。そう思うから、余計に渡せないのだ。
夕方になっても、三つ目の包みは、鞄の底に入ったままだった。
*
夕食の終わり頃、もう一羽、ふくろうがやって来た。
年寄りの、灰色のメンフクロウだった。脚に結ばれているのは、バレンタインのカードでも、菓子の包みでもない。薄い羊皮紙を三つ折りにして、緑色の封蝋で閉じた、事務的な封書だった。
封蝋には、杖と骨を交差させた紋章が押してある。
聖マンゴ魔法疾患傷害病院。
サミュエルは封を切り、中の一枚を広げた。
〈アメリア・ヴェスゲレート様の容態につきまして、前回のご報告時からの変化はございません。引き続き、当院にて治療と経過観察を行ってまいります。〉
それだけだった。
サミュエルの顔から、ほんの一瞬だけ、表情が抜け落ちた。
「サミュエル?」
隣のハリーが、こちらを見ていた。
「どうかした?」
「何でもない。家からの連絡だよ」
サミュエルは手紙を三つ折りに戻し、ローブの内ポケットに入れた。それから、デザートの糖蜜タルトに手を伸ばして、いつも通りに笑った。
「ハリー、そのタルト、最後の一切れだぞ。ロンに取られる前に食べときな」
「おい、聞こえてるぞ!」
笑い声の中で、ふと視線を感じた。テーブルの少し先で、ハーマイオニーがこちらを見ていた。目が合うと、彼女はすぐにかぼちゃジュースのゴブレットに目を落とした。
*
その夜、寮の部屋に誰もいなくなるのを待って、サミュエルはトランクの梯子を降りた。
ランプに火を入れる。作業台の上には、今日もらった菓子の箱が、きちんと積み上げてあった。一つずつ、贈り主の名前と中身を書いた小さな札をつけてある。
サミュエルは菓子の山には目もくれず、作業台のいちばん下の引き出しを開けた。
中には、同じ封書が、束になって入っていた。
どれも、緑色の封蝋。どれも、杖と骨の紋章。
一番古いものは、四年以上前の日付だった。七歳の年。そこから毎月、一通ずつ。数えたことはないが、五十通は超えているはずだった。
一番上の一通を取り出して、広げる。
〈前回のご報告時からの変化はございません。〉
その下の一通を広げる。
〈前回のご報告時からの変化はございません。〉
その下も。その下も。
サミュエルは、今日届いた一通を、束のいちばん上に重ねた。引き出しを閉める。
しばらく、作業台の前に座ったまま、動かなかった。
ランプの芯が、じじ、と小さな音を立てた。
やがてサミュエルは羽根ペンを取り、小さなカードを四十二枚、作業台に並べた。一枚ずつ、贈り主の名前と、お礼の言葉を書いていく。トリュフの形が可愛かった。ルーン文字の彫り方が丁寧だった。お母上によろしく。
四十二枚目を書き終えるまで、手が止まることはなかった。
*
談話室に戻ると、もう真夜中に近かった。
暖炉の火は小さくなっていて、残っているのは一人だけだった。
ハーマイオニーが、暖炉の前の肘掛け椅子で、膝の上に本を広げていた。足元には、いつもの鞄が置いてある。
「……まだ起きてたのか」
「宿題が終わらなかったのよ」
「君が?」
「たまには、そういう日もあるわ」
サミュエルは、向かいの椅子に腰を下ろした。深く沈みこむ。思っていたより、体が重かった。
「チョコレート、たくさんもらってたわね」
「数えてないよ」
「嘘ばっかり。四十二個」
「……数えてたの?」
「た、たまたま目に入っただけよ。あれだけ積んであれば、誰だって目に入るわ」
「そう」
「……あの白い包みの人は、誰?」
「白い包み?」
「銀のリボンの。ほかのと、全然違ったでしょう」
「ああ。合宿で会った人だよ」
「ボーバトンの?」
「よく見てるね」
「だから、目に入っただけだって言ってるでしょう」
ハーマイオニーは早口で言って、本のページをめくった。めくったページを、すぐにまた戻している。
サミュエルは、思わず笑った。
今日一日、何十回も笑った。どれも、相手に合わせて選んだ笑い方だった。今のは、選ぶ前に出てしまった。
「何がおかしいの」
「何も。……グレンジャー、その本、さっきから同じページだよ」
「う、うるさいわね」
ハーマイオニーは本を閉じて、顔をそむけた。
しばらく、二人とも黙っていた。暖炉の薪が、静かに崩れる音だけがしていた。
サミュエルは椅子の背に頭をあずけて、目を閉じた。
ここでは、誰のための顔も作らなくていい。なぜそう思うのかは、考えなかった。
「……疲れてるの?」
「少しね」
「夕食のとき、顔色が悪かったわ」
「糖蜜タルトの食べすぎ」
「……そういうことにしておいてあげる」
ハーマイオニーは小さく息をつき、本を膝の上で閉じた。
「なら、早く寝なさいよ。月曜は、変身術の小テストよ」
「知ってる。君こそ」
「……二百十ページ」
「ん?」
「確かめたわ。本当に、逆だった」
「だろう」
「四回も読んだのに、気づかなかったの。……それだけよ」
「それだけ?」
「それだけ!」
ハーマイオニーが鞄を持ち上げて立ち上がった。鞄の中で、何かがかさりと鳴った。
「おやすみ、ヴェスゲレート」
「おやすみ、グレンジャー」
女子寮の階段を上っていく足音を聞きながら、サミュエルは、もう少しだけ目を閉じていた。