三月に入っても、朝の廊下はまだ吐く息が白かった。
大広間へ向かう玄関ホールには、四つの大きな砂時計が並んでいる。寮ごとの得点を示すもので、グリフィンドールにはルビー、スリザリンにはエメラルド、レイブンクローにはサファイア、ハッフルパフには黄色いダイヤモンドが詰まっている。
その朝、砂時計の前に人だかりができていた。
「……嘘だろ」
誰かが、呆然と呟いた。
グリフィンドールの砂時計の中で、昨日まで山のように積もっていたルビーが、底のほうにわずかに残っているだけだった。
「百五十点、減ってる」
「一晩で? どうやったらそんなに……」
「最下位だ。スリザリンより下だぞ」
ざわめきが、あっという間に広がっていく。
サミュエルは人だかりの後ろから、砂時計を眺めた。昨日まで首位だったのが、きれいに最下位に落ちている。見事なものだ、と他人事のように思った。
事情は、朝食が終わる前に知れ渡った。
「ポッターだって。ポッターとグレンジャーと、それからロングボトム」
「真夜中に天文台の塔をうろついてて、マクゴナガルに捕まったんだってさ。一人五十点ずつ」
「マルフォイも捕まったらしいけど、あっちは二十点だけだって」
「何やってたんだよ、真夜中に」
「知らないよ。でも、ポッターだぞ? クィディッチの英雄が」
グリフィンドールのテーブルの端で、ハリーがうつむいてトーストをちぎっていた。ちぎるだけで、口には運んでいない。その隣で、ハーマイオニーは膝の上で両手を握りしめていた。ネビルの姿は、どこにもなかった。
ロンの姿もなかった。
昼休みに医務室をのぞくと、ロンはベッドの上で、右手を包帯でぐるぐる巻きにされていた。
「その手、どうしたの」
「……犬に噛まれた」
「包帯の隙間から、緑色に腫れてるのが見えるけど」
「……珍しい犬なんだよ」
ロンは目をそらして、毛布を顎まで引き上げた。
「そう。お大事に」
サミュエルはそれ以上聞かずに、ベッド脇の机に蛙チョコレートを一つ置いた。ロンは、ばつの悪そうな顔で「……ありがと」と呟いた。
*
それから何日も、空気は悪いままだった。
昨日までハリーに手を振っていた上級生たちが、廊下ですれ違っても目をそらす。レイブンクローやハッフルパフの生徒まで、ひそひそとハリーを指さした。今年こそスリザリンの連続優勝が止まると、みんな楽しみにしていたのだ。
スリザリンの生徒だけが、ハリーが通るたびに拍手をして、「ありがとう、ポッター! 恩に着るよ!」とはやし立てた。
廊下でハリーとすれ違ったレイブンクローの上級生が、わざと聞こえるように言った。
「あれが、例のポッターだってさ。英雄様も落ちたもんだね」
ハリーは何も言い返さず、ただ足を速めた。その肩が、ひと回り小さく見えた。
談話室の空気は、もっと重かった。
「――だいたい、ロングボトムなんか、最初から足手まといだったんだよ」
暖炉の前で、四年生の男子が大きな声で言った。
「あいつが何かやらかすたびに、点が減るんだ。今度だって、どうせあいつがへまをしたんだろ」
部屋の隅の椅子で、ネビルが体を縮めた。手に持った薬草学の教科書が、小刻みに震えている。
何人かが、同調するように笑った。
「そういえば」
サミュエルは、窓際のテーブルから顔を上げた。
「明日の魔法史、レポートの締め切りじゃなかったっけ。四年生って、たしか『中世の魔女狩り』で羊皮紙三巻だよね」
四年生の男子の顔から、さっと血の気が引いた。
「……げっ。明日?」
「ビンズ先生、締め切りだけは絶対忘れないから」
「くそっ、まだ一行も書いてない!」
男子は鞄をつかんで、男子寮の階段を駆け上がっていった。何人かが慌てて後を追う。
談話室の空気が、少しだけ軽くなった。
サミュエルはまた、自分の羊皮紙に目を戻した。
しばらくして、彼は羊皮紙を持って立ち上がり、部屋の隅の椅子に近づいた。
「ネビル、ちょっといい?」
「えっ……ぼ、僕?」
「薬草学のレポートなんだけど、鉢の植え替えのところがどうしても分からないんだ。鉢の土の配合、君なら知ってるだろ?」
ネビルは目をぱちくりさせた。
「し、知ってるけど……サミュエルが、薬草学で分からないことなんてあるの?」
「あるよ。植物は、呪文で言うことを聞かないから苦手なんだ」
ネビルはおずおずと羊皮紙をのぞきこみ、やがて小さな声で説明を始めた。ドラゴンの糞を混ぜた堆肥の割合。根を傷つけないための鉢の深さ。水をやる時刻の見分け方。話すうちに、声が少しずつしっかりしてくる。
近くの椅子に座っていた何人かが、いつの間にか聞き耳を立てていた。
「……へえ。ロングボトムって、そういうのは詳しいんだな」
誰かがぽつりと言った。ネビルの耳が、真っ赤になった。
「ありがとう、ネビル。助かったよ」
サミュエルは羊皮紙を丸めて、窓際の席に戻った。植え替えのやり方なら、三年前に屋敷の温室で覚えていた。
次の朝、ふくろう便で、三人のもとにマクゴナガル先生からの短い手紙が届いた。
ハーマイオニーは封を開け、一読して、唇を噛んだ。手紙を持つ指が白くなっている。罰則の日時が書いてあるのだろう。ハリーは手紙を握りつぶすようにしてポケットに突っこんだ。
サミュエルは自分の紅茶に砂糖を一つ落とし、ゆっくりとかき混ぜた。
*
ハーマイオニーは、授業で手を挙げなくなった。
マクゴナガル先生の問いかけにも、フリットウィック先生の問いかけにも、黙ってうつむいたまま答えない。休み時間は図書室にこもり、誰とも話さずに本を読んでいる。
図書室の書架の陰で、ハッフルパフの女の子が二人、声をひそめて話していた。
「グレンジャーって、自分は優等生ぶってるくせに、真夜中に規則破りなんて」
「先生の前でだけいい子なのよ。それに、ほら、マグル生まれだし――」
十月の談話室で自分が口にしたのと、そっくり同じ響きだった。
「ねえ、君たち」
サミュエルは、何でもない顔で書架の角から姿を見せた。
「さっき、スプラウト先生が探してたよ。温室の当番、今日じゃなかった? 鉢の植え替えがあるって」
「えっ、嘘、今日だった?」
「たぶんね。急いだほうがいいよ。先生、遅刻には厳しいから」
二人は本を抱えて、ばたばたと図書室を出ていった。マダム・ピンスが、カウンターの向こうで鋭く咳払いをした。
当番が今日なのかどうか、サミュエルは知らない。温室に行けば、何か手伝うことくらいはあるだろう。
書架の向こうの窓際の席で、ハーマイオニーは本に顔をうずめていた。こちらの話し声が届いたのかどうか、分からなかった。
その日の午後、魔法薬学の授業の前にも、似たようなことがあった。
地下牢の前の廊下で、スリザリンの生徒が何人か、ハーマイオニーの背中に向かって何か言いかけた。
「なあ、ドラコ」
サミュエルは、その輪の真ん中にいたドラコに声をかけた。
「この前のクィディッチの話の続き、聞かせてくれないか。スリザリンのシーカーの話」
「……なんだよ、急に」
「ハリーに勝つ方法、スリザリンならもう考えてるんだろう?」
ドラコの顔が、ぱっと明るくなった。
「当たり前さ。いいか、まずは――」
ドラコが得意げに話し始めると、周りのスリザリン生たちもそちらに気を取られた。ハーマイオニーは、その間に教室の中へ入っていった。
ドラコの話は、スネイプ先生が扉を開けるまで続いた。サミュエルは最後まで、感心したように相づちを打っていた。
*
その週の終わり、クィディッチの練習から戻ってきたハリーが、談話室の隅でサミュエルを呼び止めた。
「チームを、辞めようかと思ってる」
ハリーは、泥だらけの練習着のまま、うつむいていた。
「みんな、僕のせいだって思ってる。僕がいなければ――」
「辞めたら、百五十点は永遠に戻らないよ」
「……え?」
「辞めて謝って回るのと、次の試合でスニッチを取ってみんなを黙らせるの、どっちが早いと思う?」
ハリーは、しばらく黙っていた。
「……ウッドにも、同じこと言われた」
「なら、ウッドは正しい」
ハリーは、少しだけ笑った。この一週間で、初めて見る笑い方だった。
*
「サミュエル、なんでハリーたちを責めないの?」
夕食のあと、談話室でシェーマスが不満そうに言った。
「みんな言ってるよ。百五十点だぞ。寮杯は絶望的だって」
「済んだことだよ」
サミュエルは、チェスの駒を並べながら肩をすくめた。
「点なんて、取り返せばいい。残りの試合に勝って、授業で点を稼げば、まだ十分間に合う。それに、クィディッチのシーカーは誰だっけ?」
「……ハリー」
「だろ? ハリーを責めて、試合でスニッチを取り逃がされたら、それこそ寮杯は終わりだ。どっちが得か、考えるまでもない」
シェーマスは口をつぐんだ。周りで聞いていた何人かも、顔を見合わせている。
「それに」
サミュエルは、駒をひとつ盤に置いた。
「僕たちが寮の中でもめてるのを見て、一番喜ぶのは誰だと思う?」
談話室が、しんと静かになった。
誰も、スリザリンの名前は口にしなかった。口にする必要もなかった。
その夜から、談話室で三人の悪口を大声で言う生徒は、目に見えて減った。
点数のことなど、サミュエルにはどうでもよかった。寮杯がどこの寮に行こうと、知ったことではない。ただ、自分のいる寮の空気が腐っていくのを、黙って見ているつもりはなかった。グリフィンドールの中心にいる人間がそれを放っておけば、困るのは自分なのだ。
――少なくとも、彼はそう考えていた。
*
その夜、談話室の人影がまばらになった頃。
ハーマイオニーが一人、暖炉から一番遠い椅子に座っていた。膝の上に本を開いているが、さっきから一ページもめくっていない。
サミュエルは、その向かいの椅子に腰を下ろした。
「今日の変身術、手を挙げなかったね」
ハーマイオニーが、ゆっくりと顔を上げた。
「マクゴナガル先生、何度も君のほうを見てたよ。誰も答えないから、寂しそうだった」
「……気にしてないわ」
「先生が?」
「私が、よ」
ハーマイオニーは、きっぱりと言った。声は少しかすれていたけれど、背筋はまっすぐに伸びていた。
「規則を破ったのは本当だもの。減点されて当然よ。みんなに何を言われても、仕方ないわ」
「そう」
サミュエルは、それ以上何も言わなかった。
代わりに、テーブルの上のチェス盤を引き寄せた。
「明日の呪文学、物を回転させる呪文だろう。どっちが先に成功させるか、賭けない?」
「……は?」
「負けたほうが、来週の魔法史のレポートの年号を、全部清書する」
ハーマイオニーは、しばらくぽかんとしていた。それから、眉をきゅっと寄せた。
「あなた、私が負けると思ってるの?」
「思ってるよ。最近、手を挙げる練習をさぼってるから」
「手を挙げるのに、練習なんていらないわよ」
「なら、明日は挙げられるね」
ハーマイオニーは、ぐっと言葉に詰まった。
「……受けて立つわ」
「決まりだ」
「ねえ」
ハーマイオニーが、本を閉じた。
「どうして、私に構うの。みんな、今は私と話したくないはずよ」
「穢れた血は、からかいがいがあるからね」
口にしてから、その言葉の重さを思い出した。ただ、沈んだ顔を元に戻すには、いつもより少しだけ強い言葉が要る。そう思っただけだった。
怒鳴られても仕方ない、と身構えた。
「……最低」
ハーマイオニーは、呆れたように首を振っただけだった。声に棘はなかった。こちらを見る目も、怒ってはいなかった。からかわれた子供を見るような、少しだけ呆れた目だった。
「よく言われる」
意味を知らないわけではない。九月の列車で、彼女は本で読んだだけの言葉を、使った本人の口から聞いたのだ。そのうえで、今の言葉を言葉どおりには受け取っていない。
――ああ、そうか。
これは喧嘩ではない。じゃれ合いだ。少なくとも彼女は、そう受け取っている。
そして自分も、いつの間にか、そのつもりで口にしていたのかもしれない。
さっきまで膝の上で握りしめていたハーマイオニーの手は、もう開いていた。
少しの間のあと、彼女が小さな声で言った。
「……でも、ありがとう」
目が、ほんの少し潤んでいた。口の端が、ほんのりと上がっている。
「何のことだか」
サミュエルは肩をすくめて、とぼけてみせた。
けれど胸の中では、何かが小さく跳ねていた。元気づけられた。ちゃんと、笑ってくれた。狙いどおりだ。
サミュエルは立ち上がり、チェス盤を元の場所に戻した。
「おやすみ、グレンジャー」
「おやすみ。――ヴェスゲレート」
女子寮の階段の途中で、ハーマイオニーが一度だけ振り向いた気配がした。サミュエルは振り返らなかった。
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
階段の上へ消えた足音を聞きながら、サミュエルは、自分の口元が緩んでいることに気づいた。
――あれを見て、俺は何を思った?
あの潤んだ目。ほんのりと上がった口の端。立ち回りでも、計算でもない何かが、胸の奥で動いた気がした。
サミュエルは椅子の背にもたれて、指先で自分の頬を軽く叩いた。
違う。そうじゃない。
上手くやる。それが自分の仕事だ。父の言うとおり、誰にでも綺麗な顔を見せて、誰にでも好かれて、各方面に貸しを作っておく。バーク家の人間は、商人魂を忘れてはならない。
寮の空気を整えた。彼女の機嫌も直した。これで、寮の中の貸し借りは一つ片づいた。いい取引だった。
それだけのことだ。それ以外の何かであるはずがない。
図書室で。地下牢の前で。談話室で。今日、彼が何度、誰にも気づかれないように彼女の前に立ったのか――それを知っている者は、この城に一人もいなかった。
彼女自身も、含めて。