孤立した孤島、モガの森の深部——暗雲たる緑に覆われた営巣域の湿気は、生臭い獣臭と泥の匂いで満ちていた。
モガの村へかけた甚大な損害金、補填不能な45万ゼニー。返済の術を完全に失い、自暴自棄へと転がり落ちたレッドが選んだのは、ギルドの許可すら得ていない無謀な単独狩猟だった。知識を得るなど臆病者のすることだと吐き捨て、ただ闇雲に強振すればすべてが解決すると信じ込んでいた。
手にするのは、研ぎ澄まされることもなく刃こぼれを放置された無骨な大剣、アイアンソード。身に纏うのは、継ぎ接ぎだらけでわずかな衝撃すら殺せないレザーボロシリーズ。防御力「5」という数値は、大型モンスターの前では実質的に全裸で立ち向かうに等しい。
しかし、道化師とは派手に肉体を四散させる美学の持ち主である。己の無知と傲慢を誇示しながら破滅へと突き進む男の、最後の断罪劇が幕を開けようとしていた。
第一節 虚勢
巨大な樹木の根が複雑に絡み合う営巣域の開けた場所で、それは静かに佇んでいた。陸の女王、リオレイア。緑の鱗を鈍く光らせ、鋭い眼光で侵入者を射抜いている。
「ハッ、でけぇ蜥蜴が! 俺の獲物になりにわざわざ出てきてくれたってわけだ!」
レッドはアイアンソードを力任せに引き抜き、大地を蹴った。間合いを詰めるでもなく、相手の隙を窺うでもない。ただ正面から大剣を振り下ろす。刃がリオレイアの堅牢な頭部甲殻へと叩きつけられた。
ガキンッ!
甲高い金属音が鼓膜を刺し、強烈な反動がレッドの腕を痺れさせた。手入れを怠り、切れ味の落ちた鉄の塊は、リオレイアの硬質化した鱗を掠めることすらできず弾かれたのだ。
「チッ……なんだこの硬さは! 砥石の品質がクソなのか!? いや、地面の足場が濡れてて踏み込みが足りなかっただけだ! なんだって俺の邪魔ばかりしやがる!」
弾かれた衝撃で体勢を大きく崩しながらも、レッドは吠えた。自分の技術不足、武器の不完全さ、地形の悪さ、そして不意に身を翻したリオレイアの動き。目に入るすべての要素へ罵詈雑言を撒き散らし、彼は自分が圧倒的な劣勢に立たされている事実から頑なに目を背け続けた。
第二節 毒
怒声が響き渡る空間を、リオレイアの巨躯が切り裂く。巨大な翼を羽ばたかせ、宙へと浮き上がったかと思うと、空中で旋回しながら鋭い毒爪を突き出した。
バキッ!
「ガハッ……!?」
レザーボロの薄い胸当てなど存在しないも同然だった。重厚な脚力がレッドの胸板を砕き、その爪が皮膚を裂いて肉の奥深くへと突き刺さる。吹き飛んだレッドは湿った泥の上に転がり、猛烈な衝撃に喘いだ。
直後、傷口から焼けつくような激痛が全身へと広がった。紫色の毒素が、裂けた皮膚を通じて瞬く間に脈打つ血流に乗る。
「くっ……痛ぇ! なんだこれ、熱い……息が、うまく吸えねぇ……!」
震える手でポーチを探ぐる。入っていたのは、村の路地裏で拾い集めたような干からびた薬草が数本だけ。解毒薬の緑の瓶など、どこにも存在しない。
「知識など不要」と高く括り、準備を怠った代償が、容赦のない生体反応として身体を蝕んでいく。
「効けよ! なんで痛みが引かねぇんだよ!」
叩き込むように薬草を口へ押し込み、血混じりの唾液とともに飲み込む。だが、体内で猛威を振るう毒素は薬草のささやかな効能など容易く擦り潰した。力もうとしても腕に力が入らず、怒鳴ろうとしても喉が焼けつくように掠れる。毒だけは、彼の理不尽な怒りに何ひとつ従わなかった。
第三節 右腕
荒い息を吐きながら立ち上がろうとしたその時、眼前を巨大な影が覆い尽くした。地上に着地したリオレイアが、間髪入れずに鋭い顎を剥き出しにして噛みついてくる。
グシャッ、バリバリッ!
「あッ……あああああぁぁぁぁぁッッ!!!」
耳を刺すのは、肉が引きちぎられ、骨が粉砕される生々しい音。リオレイアの巨大な牙が、大剣を握っていたレッドの右肩から肘にかけて容赦なく突き刺さり、そのまま首を振って食いちぎった。
赤黒い血が間欠泉のように噴き出し、泥を赤く染め上げる。
「俺の……俺の腕が……手がない……!?」
数歩後退し、レッドは地面に転がった肉の塊を見つめた。そこには、泥に塗れ、握り拳を作ったまま動かない自分の右腕があった。激痛の波が脳を焼き尽くす中で、彼は狂気じみた絶望を理解する。
大剣は右腕で支え、引き抜くものだ。右腕を失ったということは、二度とあの重厚な刃を振るうことができない。ハンターとして戦う術を完全に奪われたのだ。いや、それどころか、日常のあらゆる動作から「右腕」という概念が永遠に消滅した事実が、冷徹な現実となって重くのしかかった。
第四節 右脚
「いやだ……死にたくない、帰る……! 村へ帰るんだ!」
右肩の切り口を左手で固く押さえ、噴き出す血を止めようと試みながら、レッドはなりふり構わず背を向けた。泥を蹴り、無我夢中で逃走を図る。
しかし、狩人の咆哮を背に受けた瞬間、巨大な尾が風を切って横薙ぎに迫った。尾の先にある鋭い棘が、逃げ出そうとした彼の右脚を膝上から容易く薙ぎ払う。
ズサッ……!
レッドは泥の中へと倒れ込み、顔面から地面に激突した。
「いっ……立ち上がれ! 立つんだ俺!」
逃げなければならない。足を踏み出し、地面を蹴ろうとする。だが、脳が命じる「右の爪先を動かす」という感覚は、何もない空間へと虚しく消えた。見下ろすと、右膝から下が存在しなかった。ボロ布のような皮膚の破片と、砕けた大腿骨の白い断面が覗いているだけだった。
「なんで……脚が……動かない……?」
立とうとするたびに体勢が崩れ、自分の血の海へと顔を突っ込む。一人では歩くことも、走ることも、この恐ろしい森から抜け出すこともできない。完全に動く術を奪われた惨めな肉塊と化したことを、彼はようやく悟った。
第五節 救援
「おい! 誰か! 誰か居ないのかよ!!」
泥に突っ伏したまま、レッドは喉が張り裂けんばかりの声で叫んだ。
「ギルドの奴らは何やってんだ! ハンターがピンチなんだぞ、早く助けに来い! 命令だ、今すぐ来い!!」
最初は横暴な命令だった。しかし、帰ってくるのは木々の葉が風に揺れる音と、リオレイアの低い唸り声だけ。
「頼む……誰か……助けてくれ! 45万ゼニーは払う! なんでもする! だから助けてくれぇ!」
取引、そして懇願へと声の質が急速に崩れていく。
「レム! 惠美子! 誰でもいい、名前を呼んでるだろ! 来てくれよ!!」
知人の名を叫び、助けを求める。だが、誰も来るはずがなかった。彼は借金から逃げ出すため、そして成果を独り占めするために、行先を誰にも告げず、他者との同行を突っぱねてこの森へ侵入したのだ。援護を拒み、孤立を選んだ過去の自分の浅はかさが、逃げ場のない完全な孤独として牙を剥いていた。
第六節 残った未来
リオレイアがゆっくりと歩み寄り、レッドを見下ろしている。影が彼を完全に覆い尽くした。
「まだ……まだだ……。片腕と片脚がなくなったって……生きてさえ帰れれば……!」
絶望の淵で、レッドの脳裏に生還後の未来が縋りつくように浮かんだ。ハンターなんか辞めていい。モガの村の片隅で、物乞いをしてでも、惨めに這いつくばってでも生きていければそれでいい。命さえあれば——。
だが、リオレイアはそんな淡い希望すら許さなかった。
グシャッ!!
残されていた左腕と左脚の上に、女王の巨大な足甲が叩きつけられた。骨が擦り砕ける鈍い音が響き、四肢すべての機能が完全に破壊される。
「あ……が……あ…………」
激痛はすでに許容量を超え、声すらまともに出ない。わずかに残されていた「生存後の未来」という最後の救いは、手足の完全な喪失とともに、容赦なく押し潰された。
第七節 運搬
身動きひとつ取れなくなったレッドの首筋に、リオレイアの冷たい嘴が触れた。鋭い牙が皮膚に喰い込み、持ち上げられる。
ガバッ……!
視界が急激に浮遊した。
「あ……ぐ……」
眼下を、自分の血で染まった泥地が遠ざかっていく。置き去りにされた使い物にならないアイアンソード、そして深い緑の樹海が小さくなっていく。
空中を運ばれながら、レッドの頭の中に恐ろしい理解が降りてきた。自分は戦士としてモンスターに敗北したのではない。ただの「肉」として、捕食者の巣へと運搬されているのだと。人間としての尊厳など、最初から存在しなかったのだと。
第八節 営巣地
ドサリと、硬い物の上へ投げ落とされた。
そこはリオレイアの営巣地だった。周囲には、過去に捕食された大型草食種の白骨や、干からびた肉の削りかすが散乱している。強烈な腐敗臭が鼻腔を突き抜けた。
「ごめ……ごめんなさい……!」
それまで一度として口にしたことのない言葉が、爛れた唇から漏れ出た。
「ごめんなさい……俺が間違ってた……反省します……だから……助けて……!」
だが、その謝罪は己の罪を認めた反省などではなかった。ただ目の前の死から逃れたい一心で、己の存在だけを残してほしいと乞う、浅ましい取引に過ぎなかった。謝罪の言葉すら遅すぎた。リオレイアにとって、目の前で蠢く赤黒い肉塊の言葉など、風の音と同義だった。
第九節 精神破砕
リオレイアがゆっくりと首を下げ、喉を鳴らす。その巨大な瞳に、小さく震える己の姿が映っていた。
その瞬間、レッドの頭の中に「助かるための正しい手順」が狂おしいほどの濁流となって溢れ出した。
切れ味が落ちたら砥石を使うべきだった。
毒を受けたら解毒薬を飲むべきだった。
一人で来ずに、同行者を募るべきだった。
危険を感じたら救援信号を上げるべきだった。
敵わないと悟った時点で退却するべきだった。
知識を軽視し、すべてを他人のせいにしていた男の頭に、いまさらになって「正解」だけが次々と浮かび上がってくる。それらはすべて正しく、そしてそのすべてが、いまさら何ひとつとして間に合わない。
「あああぁぁぁぁぁぁッッ!!! ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさい!!」
取り返しのつかない現実の重みが脳を破壊した。怒りも、他責も、虚勢もすべてが吹き飛び、残ったのは自らが招いた圧倒的な絶望への恐怖だけだった。発狂した彼の目から涙と血が溢れ出し、正気を完全に失った奇声を上げ続ける。
第十節 食物連鎖
生存への執着は、あまりの恐怖に耐えかねてついに完全に折れた。破滅の道化師として舞い続けた男の精神は破砕され、ただの震える肉片へと変わり果てていた。
リオレイアの巨大な顎が開かれる。
バリッ……バリバリ……ッ!!
牙が容赦なく身肉を貫き、毒素の回った臓腑を噛みちぎる。骨が砕ける音が営巣地に響き渡り、最後のかすかな悲鳴すらも喉の奥で押し潰された。血が滴り、肉が削ぎ落とされ、命だったものは急速に生命活動を停止していく。
そこに教訓も、ドラマチックな総括も存在しない。あるのはただ、自然界の冷酷なルール——食物連鎖という営みだけだった。命を軽視し、知識を蔑んだ男は、ただの「栄養素」として巨竜の胎内へと消えていった。
後日、捜索に向かったギルド編纂室の公式記録には、ただ一行、無機質な文字だけが記されることとなる。
【リオレイア未承認狩猟事案】
犠牲者 レッド 未承認ハンター
遺体回収不能