黒灰の霧が、ゆっくりと薄れていく。喉を焼いていた空気が、少しずつ落ち着きを取り戻していた。階層主を倒した直後の静けさ。塔の脈動が沈み、壁面の光脈がゆるやかに明滅を止める。
「第一層、完全制圧を確認」
オーリスの声が響く。
ヴァルクが呪釘を収め、リディアが静かに杖を下ろした。それぞれが呼吸を整え、残る瘴気の揺らぎを確かめる。この瞬間だけ、塔が呼吸を止めたように感じた。
霧が十分に薄れたことを確認してから、地図を広げた。薄れた瘴気の中で、ようやく文字が読める。それでも、墨の滲みは消えない。この場所では、紙一枚すら長くは保たないだろう。
ここが〈墨濛の塔〉――かつて底なしの塔とも呼ばれた、金位相当の危険区域だ。塔という名の通り縦構造だが、実際には螺旋に沈む地底に近い。構造は塔でありながら、空気は地下。上へ進むほど瘴気が濃く、光が弱くなる。理の流れが逆転しているのだ。
「……瘴気の層、まだ動いてるな」
ヴァルクが呻くように呟き、肩の外套を軽く払う。
黒い粉が舞い、すぐに壁へ吸い付く。
それが瘴気の性質――空気より重く、吸着し、魔力を溶かす。
瘴気は魔力を濁らせ、流れを歪める。
通常の術理では制御が乱れ、発動も安定しない。
この塔では、理より筋力と装備の質がものを言う。
白礫の洞を進むクーデリアたちとは、まるで正反対の環境だ。
あちらは光に包まれ、こちらは闇に沈む。
その対比は、まるで意図されたようだった。
(まあ…うちにはオーリスとヴァルクという対瘴気の専門家がいる分、
そのセオリーは通じないがな)
元気に残党を蹴散らしているリディアを横目に自嘲する。
今回の依頼の主目的である、聖遺物級装備の確保――こちらが本命であることは間違いない。国の上層もそう見ている。
封鎖指定が出た当初から、調査は難航していたが、
内部には高純度の魔鉱と聖遺物級の反応が観測されている。
白礫の洞が『保険』なら、墨濛の塔は『要』。
危険ではあるが、それだけに価値がある。
だからこそ、選ばれたのだ――〈光焼く翼〉が。
クーデリアを探索に出す機会は、聖遺物の装備が増えるに連れて少しづつ減っていった。付与が効かないというのも理由の一つだが、本来彼女は探索者ではなく、付与師ギルドの人間だった。俺が声をかけなければ、今もギルドで、講師として学徒を指導していただろう。
あの日、彼女をスカウトした。
救助任務の補強要員として参加した彼女が、地盤を一瞬で安定させたのを見たとき、理を整える者という言葉が脳裏に浮かんだ。戦いの最前線に立たせたいというより、その力を戦場でも使いたいと思った。それが彼女を探索者に引き入れた始まりだ。
だが、それは同時に彼女の道を変えることでもあった。ギルド内では模範講師と呼ばれていたが…その肩書きを、俺が奪った。正確には今でも兼任であるので奪ってはいないが、本業を探索者とさせたことで、教鞭を振るう機会は確かに減った。
――責任は常に頭のどこかにあった。
だから、彼女がいなくても現場が回る間は、出撃を頼まなかった。
*
廃区画地下ダンジョンの第七層攻略の編成を決める前夜だった。
任務帰りに立ち寄った酒場で、同席したヴァルクが杯を煽りながらふと零した言葉。
「……そういえばクー子が探索したがっていたぞ。
どうにもまだ気持ちを押し込んでいるようだったが」
「…そうか」
「暇だからと、ギルドの仕事を手伝っているようだ。」
「ああ、彼女は元々ギルド職員だからな。今でも籍は置いていることについては容認している。こちらとしても、探索外での仕事を縛るつもりはない。」
「そうか…一応忠告しておくが、
あれはいつ爆発するか分らんぞ」
ヴァルクがたまにクー子と飲んでいることは知っていたが、どうやらこちら以上に彼女を見てくれているらしい。しかしギルドでの仕事もあるならと言い訳をして、翌日、俺はその日の編成でも、結局クーデリアを外した。そしてそこが限界であり、転機だった。
その日の探索では、まさに付与を前提とした構造の扉が立ち塞がった。
雷を流し、魔力の属性を満たし、機構を動かす。
物理でも魔法でもどうにもならない領域――まさに、彼女の出番だ。
あの瞬間、胸の奥でほっとした。
ようやく、呼ぶ理由ができた。
いや、もしかすると、ずっとその理由を探していたのかもしれない。
彼女がいなければ開かない扉。
彼女がいなければ前へ進めない階層。
それがあることが、妙に嬉しかった。
――助かった。
安堵と、薄い自己欺瞞。きっと、どこかで理由を探していたのだ。
彼女をまた現場に呼ぶための、都合のいい言い訳を。
*
それでも、今は違う。
一回目の探索報告。白礫の洞の指揮は、問題なく機能している。
氷雨の補助とラナの支援を受けつつ、全員が彼女の指示のもとで動いていたらしい。文章からも分かる。クーデリアらしい、緻密で余白のない報告書だった。
いつもの癖――報告欄の横に、短い感想を添えている。
『敵性体の脅威は想定を下回る。付与による地質安定も良好。』
『想定より容易。引き続き慎重に進行。』
彼女らしい。簡単な任務ほど、最も慎重に臨む。
正直、安堵した。
初指揮で無理をしていない。それだけで十分だ。
あの冷静さがあれば、白礫の洞は問題ない。
「エルドや、上層の風、流れが変わっておるぞ」
リディアの声に意識を戻す。
上を見上げると、瘴気の霧が渦を巻き、微かに逆流していた。
塔の天井に穿たれた穴から、瘴気がゆっくりと溢れ出している。
通常とは逆…上層ほど密度が高いという報告はあったが、想像以上だ。
「酸素が薄れているな。オーリス、呼吸補助を全体に」
「了解。展開三十秒が限度です。」
光の膜が現れ、喉の痛みが薄れる。だが、すぐに膜がじりじりと侵食されていく。
瘴気が魔力を食うのだ。
どの属性でも、滞留すれば分解される。
――ここでは、息をすることすら敵対行為になる。
床面は黒い粘液で覆われ、踏むたびに微かな音を立てた。
瘴気のざらついた反響が、まるで声のように塔の壁を這う。
音を返しているのではない。塔そのものが、聞こえた音を真似て鳴いているのだ。
つまり、こちらの会話が敵の定位になる。
この環境下で、仲間との連携を維持するのは容易ではない。
「第二層は、ハンドサインを中心に使う。声は封じる」
指を交わし、全員が静かに頷く。
この階層では、音そのものが敵になる。
僅かな響きが全体に伝わり、位置を晒す危険があるのだ。
だから、身振りと視線だけで意思を交わす。
呼吸の速さ、肩の角度、指先の動き――そのわずかな変化で充分通じる。
何度も共に潜ってきた仲間たちなら、言葉などいらない。
……クー子がいれば、瘴気ごと魔力の流れを整えられたかもしれない。
そんな考えが一瞬だけ頭をかすめる。
だが、彼女をここに連れてくるつもりはない。
この塔の空気は、付与師を殺す空気だ。
彼女の繊細な魔力の流れは、この環境では壊されてしまう。
俺は再び視線を上げた。
壁面の脈動が速くなっている。
第二層の門が、瘴気を溢れさせながら開いていた。
そこから先は、瘴気濃度が倍近くに跳ね上がる。
仮に白礫の洞が赤位相当なら、こちらは間違いなく金位相当以上。
同じ任務とは思えない差だ。
「……負けるわけにはいかないな」
思わず呟く。ヴァルクが目を細めた。
「クー子と張り合う気か?」
「張り合う、というより――並ぶだけだ」
「この環境で?」
「ハンデがあっても、結果は同じでいい」
「……無茶を言う」
「無茶は、いつものことだ」
言葉は短く、それで十分だった。塔の奥から、低い鳴動が聞こえる。
瘴気が波のように押し寄せ、壁を叩く。空気が揺れ、靄が流れ、視界が闇に沈む。
俺はその中心を見据えた。
――ならば、覆してみせよう。
クーデリアが整えるなら、俺は突破する。
それぞれの形で、光焼く翼を前へ進めるために。
「第二層、突入」
その一言で全員が動いた。瘴気が爆ぜ、光が散る。
闇の塔を貫くように、〈光焼く翼〉が進み始めた。
――闇の底でも、進む先は同じだ。