今日はラナとの体術訓練の日である。約束を守るのは人の基本、朝の冷気にも負けずにベッドを這い出す。昨夜の酒が少し頭に残り、ぼんやりとしたまま外へ出ると、既にラナが両手を腰に当てて待ち構えていた。
「おっそーい! 二日酔いとか言わせないからね!」
「言ってないよ……でも、声が響くんだけど」
「はいはい、言い訳禁止! 稽古ではちゃんと動くからね!」
言い返すこともなくついていき、修練場に到着。まだ早朝ということもあり空気は冷たいが、そのぶん澄んで凛としていた。肌寒さを感じつつもどこか心地よい風を浴びながらも体をほぐし、私は小さく息を吐く。探索者にとって大事なのは己の強みを磨くこと――私なら付与だ。けれど、いざというとき頼れるのは結局この身体。不測の事態に陥った瞬間、魔力も杖も届かない距離で生き残れるかどうか、それを決めるのは体捌きの熟練度だ。
「剣士だって、剣だけ振ってるわけじゃない。接近戦は結局、動きの差で勝つの!」
ラナは笑いながら木剣を構え、一歩で間合いを詰めた。重心の移動がまるで読めず、反射的に肩をひねって避ける。頬をかすめた風の圧が痛い。
「お、いいじゃん!」
「そっちこそ、まだ余裕あるでしょ?」
「当たり前。あたしが本気出したら、クー子は確実に寝込むことになるよ?」
「それは……否定できないかも」
一度距離を取って、再び構え直す。今度は踏み込み、引き、反転とリズムよく動いて攻撃を捌き…時には反撃しながら、相手の動きを観察する。繰り返すうちに息が整い、動きの流れが馴染んできた。無理のない体重移動にラナが満足げに頷く。
「いいね、付与師でここまで動ける人いないよ!」
「付与で全部解決できるわけじゃないし…」
「その通り! どんな職でも、探索者である以上は最終的にフィジカルなのさ!」
言いながらラナがもう一歩踏み出す。その踏み込みを見た瞬間、私は反射的に床を蹴った。間合いを詰め、肩口を狙って掌底を放つ。ラナはそれを半歩でかわし、逆に私の背へ回り込む。回転して肘を返すと、乾いた音が響き、空気が揺れた。私の肘とラナの木剣が互いの髪を掠め、すぐに距離が開く。
「おっと、今のは危なかったね!」
「そっちこそ油断してたんじゃない?」
「してたかも。でもそっちの反応が良かったよ」
ラナの足が一瞬止まる。その隙を逃さず、私は再び前へ。低い姿勢から回し蹴りを放つ。地面を滑るように踏み込み、足先を止めた瞬間、ラナが笑った。
「そうそう、その動き! 腰がぶれないと力が乗る!」
次の瞬間、ラナが逆方向へ体をひねり、私の腕を軽く取って地面に流した。
床に足裏が吸い付くような感覚。押し返そうとするが、体の流れを完全に読まれてしまえば抵抗の仕様がない。そのまま引き倒され、息を整えながら立ち上がると、ラナは軽く手を振った。
「ちゃんと見えてる。感覚が鋭いね。付与で鍛えた集中力が効いてるんだと思う」
「ラナは集中力だけでどうにかなる相手じゃないけどね」
「いやいや、今の反応は普通にセンスあるって。次、もう一回いこっか」
言葉が終わる前に、木剣を捨てたラナが踏み込んだ。
私は半歩ずらして腕を払い――そのまま体を反転、肘をラナの脇腹に滑り込ませる!
僅かに息を呑む気配を感じるが…次の瞬間にはその肘を掴まれ、またも引き倒される。
「はぁっ……まだまだ!」
「ふふ、言うようになったね!」
二人の影が、訓練場の中央で絡み合う。打撃と受けに身躱しと、様々な重心移動の連続。息が合っているのか合っていないのか…少なくとも黒位や緑位レベルの探索者では、動きを捕捉するのが少々難しい速度での攻防を続ける。拳が交差するたびに、微かな風が肌を撫でた。
時間にして三十分弱といったところか。当然その間は動きっぱなしであるため、全身からは汗が噴き出し、顎を伝った滴が床に落ちていく。両者ともに衣服は汗でずしりと濡れ、呼吸のたびに肩が大きく上下していたが…それでも動きは止まらない。体の中の魔力の流れと、筋肉の反応が徐々に一致していく。
攻撃と防御の境界が曖昧になり、ただ流れの中に身を任せる感覚。その一瞬――拳と拳がぶつかり、乾いた音が響いた。
互いに踏み込みを止め、同時に息を吐く。
「……よし、一旦ここまでかな!」
「へえ…珍しい…わね。ちょっと…短くないかしら?」
「それ言ったら本気で倒れそうな顔してるから、やめとく」
「優しいね、ラナ」
「でしょ?」
互いに笑い合いながら、拳を軽く合わせる。
訓練場に流れる空気は、もう修練のそれではなく、どこか穏やかだった。
ラナは手拭いで汗を拭きながら顎をしゃくった。
「さて、恒例の
視線の先にあるのは訓練場の隅の木柱――【無限稽古柱】
仮に消し炭にしても数秒後には再生する特殊木材で、昔の紫位が寄贈したらしい。
私は拳を握り、柱の前に立つ。
魔力を整え、拳に『壊』を付与した。空気がびりっと震え、指先に熱が走る。
「いくよ」
踏み込み一閃――固く握った拳が風を裂き、柱の表面に着弾。壊属性を叩きこまれた柱はその直後に一瞬で崩壊。細かな罅が一斉に広がり、内側から爆ぜるような衝撃音を伴い…木っ端みじんに砕け散った!
柱だったものの破片が宙に舞い、数秒ののちには再び形を取り戻す。我ながら会心の一撃であるのだが、唯一の観客であるラナはどこか遠い目をしていた。
「ねぇ、やっぱそれ、人に使っちゃダメだからね?」
「分かってるって。出力落とせば骨折るくらいで済むし」
「怖いことサラッと言わないでよ!」
呆れ笑いしながら、ラナは私の肩を叩く。
「もう一ラウンドいこっか。折角なら、もっと汗かこうぜ!」
「うん、いいね。小休止もとれたし」
ラナの笑顔を見て、少しだけ力が抜ける。拳を握り直す。付与師の私がこうして素手の戦いを学ぶ日が来るとは思わなかった。でも必要なんだ。理を整えるにも、土台は身体だ。
▽ ▽ ▽
夕陽が差し込む頃、私たちはようやく訓練を終え、浴場へ向かった。湯気が立ちこめる石造りの浴室。湯に浸かった瞬間、全身の筋肉がほぐれていく。
「ふぅ……生き返る~」
「わかる。疲れが全部抜ける感じ」
「てかさ、クー子って見た目より筋肉ついてるね。腕とか背中、引き締まってる」
「付与師は付与師で色々と負荷かかるんだよ。ラナほどじゃないけど…」
「いやいや、あたしは剣士だからね。ていうかクー子、体のラインめっちゃ綺麗だね!?」
「褒めてもなんも出ないよ」
「出なくても言いたいの!」
笑いながら湯をかけ合い、反撃の飛沫が肩に当たる。湯気の中で、笑い声が反響した。
「こうして見るとさ、紫位とか金位とか関係ないね。結局、みんな努力してるんだなって思う」
「うん、称号も力も積み重ねの結果だしね」
「だからさ、こういう時間が好きなんだ。
ちゃんと汗かいて頑張って笑って――それだけで十分」
ラナの言葉に私は頷いた。彼女の明るさの裏にある努力を、私は知っている。戦場の一瞬を支えるのは、こうした積み重ねだ。
湯から上がり、髪を乾かす。窓から射す夕光が湯気の中で揺れ、ラナが腰に手を当てて笑う。
「よし、明日は杖術もやろっか!」
「明日も? 休みの日は無いの?」
「私の鍛錬に、休日の二文字はない!」
「ほんとラナは化け物だね…主に体力的な意味で」
「褒め言葉、ありがと!」
笑いながら手を振って出ていくラナの背を見送り、私は少し遅れて外に出た。夕日に染まる空気が頬を撫でる。拳を握ると、魔力の流れと身体の芯が少しだけ噛み合う気がした。……強みを磨くだけじゃ届かない場所がある。でも、それを支える体を知れば、きっとまた一歩、前へ進める。
その夜、私は程よい疲労感から深く眠れた。