海の向こうに沈む夕日を、子供のころの儂はただ眺めていた。
指先で窓枠をなぞりながら、真っ赤な空に向かって呟く。
「いつか、あの向こうまで行ってみたいな」
思えばあのころの儂は、どうしようもなく普通の娘であった。少しばかり魔法の筋が良いと褒められ、家が魔導士の名門である事に胸を張り、いつか己も親のようになれたらと夢見るような…そんなどこにでもいる年頃の少女であった筈だ。
母は朗らかで、父は寡黙で厳しく、それでいて儂の魔法が成功すれば不器用に目尻を緩めた。家の蔵には、代々伝わる秘具と魔本が並び、子供の儂は『いつか全部読んで良いときが来る』と聞かされて胸を高鳴らせていた。
本当に、あのころは単純であったな。
そしてある日、全てが終わる。
親は理由も語らず出立し、それきり戻らなかった。
残されたのは日に日に荒れていく屋敷と、残されていた三つの家宝。
そのひとつが――【焔の書】であった。
▽ ▽ ▽
【焔の書】の頁を開いた瞬間の感覚を、儂は生涯忘れぬであろう。
焔そのものと形容する他ないものが、意識の内側へと直接流れ込む。それは数百年分の視線であり、声であり、痛みであり、歓喜と後悔の感情でもあった。当時ではまるで扱えもしない魔法を行使する感覚。炎の圧力。焼ける臭い。死の瞬間の静けさ。
歴代の持ち主の一生が、雪崩のように儂の中へ押し寄せた。
まだ年端も行かぬ娘であった儂の心は、それを受け止めるにはあまりにも未熟であった。しかし【焔の書】は容赦をせぬ。読者を選ぶのではなく、持ち主を「継承者」として扱う類の物であったのだろう。
気付いた時には、髪はかつての濃い紫から、白が混じる色に変わっていた。
鏡に映る自分の目は妙に静かで、幼さより先に諦観を宿していた。
そして、口を開けば――
「……さて、どうしたものか」
自分でもおかしくなるほど、言葉遣いが変わっていた。他人行儀で、旧い言い回しで、どこか老獪さを感じさせる。試しに昔のような調子で話そうとしても、舌の根が落ち着かぬのだから、我が事ながら驚いたものだ。
恐らくは内に溜めこまれた数多の記憶が、儂の思考の形その物を書き換えたのだろう。まだ年若いはずの自分が、気付けば「老い」の側から世界を眺めている。
魔法の腕も、記憶の通りと言う訳には行かぬ。
どれほど見取り稽古を積んでいても、体に染みついた練度までは一足飛びに手に入らぬ。ただ、魔力の流れ方、属性の噛み合わせ、炎の圧と出力の加減――そうした「読み解き」の部分だけは、異様なほど早く身に付いて行った。
残された家宝は三つ。【焔の書】、【炎哭の杖ルシエル】、【焔環の紅玉】。屋敷は程なく手放され、儂はそれらと共に街へ出る事になった。【焔の書】は持ち出しこそすれ、使う機会は絶無に等しい。実質的には杖と紅玉の二つだけが、儂の相棒といえるものだった。
▽ ▽ ▽
聖遺物級の装備を二つも持ち歩く黒位の探索者。
文字にすれば強者の響きがあるが、実際の儂は、噂の割には年若く、妙に落ち着いた口調の、どこか不気味な娘であった。
「黒位の時点で聖遺物を二つも持っていたのか」
「家が没落したから抱えて逃げたのだろう」
「近寄ると運が落ちる」
陰でささやかれる言葉など、記憶の中の先人たちに比べれば可愛い物であったが、人は自分の事となると不思議とこたえる。
近付いて来る者は、儂ではなく装備を見ている。
仲間に誘われたと思えば、分配の段で「杖か紅玉を担保として預からせてくれ」と平然と言う。笑って断れば、次の日には別の噂が増えている。
そうして儂は、いつしか一人で依頼を受ける事が多くなった。黒位から青位へと昇格しても扱いは変わらず、青位探索者としては稀有な火力を見込まれつつ、しかし誰とも深く組まぬ。そういう立場が、妙に板について行った。
……そんな儂に、「魔導士としての自分」だけを見て声を掛けてきた男がいる。
エルド・フェルナー。
初めて顔を合わせた時、あれは儂の杖にも紅玉にも視線を寄こさなかった。
見ていたのは魔法の軌跡と、面処理の実績だけであった。
「広い面を一挙に処理できる必要時限定の最大火力が要る」
「今の規模で、この範囲を焼ける者は少ない」
そんな風に穏やかに評されて、儂は少し面食らったのを覚えている。褒められ慣れていないわけではない。ただ、その言葉には下心も打算も混じっておらず、純粋な評価としての重さがあった。
あれほど真っ直ぐに、儂自身を求めた者は他に居ない。
その瞬間、胸の内が妙に温かくなり、儂は自分で自分に呆れた。
数百年分の記憶を抱えていようが、結局中身は年頃の娘であると言う事だ。
少し見当違いな優しさを向けられただけで、ころりと揺らいでしまう。
だが、年の功が邪魔をする。
エルドの視線が、誰の方へ向いて行くのか。
その目が、誰を真ん中に据えて動き出しているのか。
それを読み取るのに、さほど時間は必要ではなかった。
クーデリア・リーフィス。
あの付与師の娘に向ける視線は、仲間を見る物とは少しばかり質が異なる。
本人は自覚などしておらぬであろうがな。
オーリスも同じ物を見ている。
あの娘がエルドへ向ける目は、誰が見ても分かる。
儂が口を出さずとも、気付く者は多いであろう。
儂はと言えば、己の胸の内を苦笑いで押し流した。老いの目線で見れば、若い者同士の恋情など微笑ましい物である。ひとつの家を捨て、新たなパーティに身を置き、儂が今さら何を奪おうと言うのか。
それでも、心のどこかで「羨ましいな」と思う自分が居た事も否定はせぬが。
▽ ▽ ▽
……さて、話が妙に湿っぽくなった。
少し話題を変えよう。
問題の浴場での一件である。
光焼く翼がまだ今ほど名を上げておらぬ頃、とある街の温泉宿に逗留した事がある。任務帰りで皆疲れており、久し振りの湯だと喜んでおった。
「リディアも行かない?今日くらいはゆっくりしてもいいと思うよ」
「ふむ、悪くない誘いであるな」
そう答えた儂は、内心少しだけ緊張していた。
理由は言うまでも無い。【焔の書】由来の記憶の中には、当然ながら男の目から見た浴場の光景も混じっている。それを自覚しているせいか、人前で衣を脱ぐ場となると、妙に落ち着かぬ。
脱衣所でクーデリアと二人きりになった時、儂は一度深く息を吸った。
クーデリアは無駄の無い体つきで、筋肉も脂肪も程良く付いている。
戦場で動き続ける者の体だ。
白い肌に、青白い髪が零れ落ちる様は、記憶の中の誰とも重ならない、美しい線を描いていた。
……男の記憶が、ささやきを始める。
――ここは視線を落とす所である。
――いや、今のは偶然であるから、もう少しだけ見てよい。
――いや良くない。
――全く、落ちつけ。
儂は心の中で自分を引っ叩き、気付けばタオルをぎゅっと握りしめていた。
「リディア、顔赤いけど、湯気でやられた?」
「い、いや、少し汗が出ただけぞ……」
危ない。
今のは本当に危なかったと思う。
あのまま冷静さを失っていれば、視線が明らかに不躾な物になっていたに違いない。
湯船に浸かってからも、儂は出来る限り視線を泳がせた。
壁、天井、湯面。ときおりどうしても隣のクーデリアが目に入ってしまうが、そのたびに心の中で「儂は女である」と繰り返す。
儂は女である。
儂は女である。
……いかん、ここで目覚めてしまう。
「本当に大丈夫?のぼせてるなら先に上がる?」
「問題ない。これくらいは平気ぞ」
横から覗き込んで来るクーデリアの顔が近くて、余計に心臓に悪い。
視界の端で揺れる肩や首筋の線を見ないようにするのに、儂は普段の戦闘以上の集中力を要した。
もし儂が男であったなら。
いや、もし【焔の書】の記憶が無かったなら。
儂は今とは全く別の生き方をしていたであろうな、と湯の中でぼんやりと考えていた。
クーデリアの様な娘が側に居れば、全力で口説きにかかっていたかもしれぬ。
あの真面目さと才覚と、時折見せる無防備さ。
どれも人を惹きつけずにおかぬ。
なに?精神が老成しているなら女の裸の一つや二つ?
阿保を抜かすな。あれ程の極上の肢体を前にして反応せぬ男なぞ、それこそ不能か身内くらいのものよ。最早襲わぬだけでも大した理性……
しかしそれでも儂は耐えた。女じゃからな!
……まあ、耐えられたからこそ、今こうして笑い話にしておるのだが。
▽ ▽ ▽
閑話休題。
儂は今、この光焼く翼というパーティを心から気に入っている。エルドの采配は信頼に足るし、トゥリオの盾は堅固で、ラナの剣は明るく鋭い。氷雨の幻は戦場を有利に運び、オーリスの祈りは命を支え、クーデリアの付与は理を整えてくれる。
嘗ての我が家の名を取り戻す事など、もはやどうでも良いのかもしれぬ。ここでなら、それを超える何かを残せる気がするのだ。家名ではなく、個としての名を。
そうなると、やはり目指す先は決まって来る。
紫位――最高位探索者の座。
あの頂に届かずして、焔を継いだ者を名乗る訳には行かぬ。
このパーティの一員として、そしてリディア・グレイス個人として、儂はそこまで行きたいと願っている。
老いぼれじみた口調でも、心の中ではまだ若い娘のまま、遠い空を見上げる。
きっと行ける。この翼と共であるなら。
そう信じて、今日も儂は杖を握る。【焔の書】がくれた数百年分の記憶を、今度こそ自分自身の物として燃やし尽くすために。
リディアは名門魔導士家系の一人娘で才能も十分+歴代所有者の記憶継承ありとかいう相当なサラブレッドだったりします。
当主とその妻である両親が揃って蒸発したことで一気に没落したんですけどね…両親の行方も消えた理由も、両方とも不明なままです。