広間は風が通わないはずなのに、どこかで潮がひっそりと息をしているようだった。瘴気の膜が揺れるたび、鐘の音が響き、胸の奥を指で押されたような圧が残る。
(……この音も、全部こいつが握ってる。一刻も早く止めないと、地上が危ない。)
レイグレンの分身は相変わらず愉快そうに…ただ嗤っている。肩から胸元へ下がる呪具が、しゃらり、しゃらりと揺れ、その音にすら魔力の揺らぎが混じっていた。
「ではあ――続きと参りましょうかあ?」
彼の嗤いの余韻が広間に染みる中、私は一歩踏み出す。
(この分身体は、人と思って戦うべき相手では無い。それこそ、肉体としての死の概念が無いような相手だ。なら狙うべきは拘束でも殺害でもない。その維持線を切るのが唯一の攻略法!)
横のヴァルクが、床を睨みながら告げた。
「クーデリア。この分身は三層で構成されている。外殻、媒介、根幹だ。そのうちの一番奥…根幹となる層が、柱と繋がっている。そこを断てば分身は維持できない筈だ」
ヴァルクの言葉を受け、リディアもまた杖を構えながら頷く。
「外殻を焼いて弱らせるくらいは出来よう。儂の炎で、条件は整えてやれる」
「……分かった。二人とも、タイミングは任せる」
私達のやり取りを受けて…レイグレンはあからさまに喜色を浮かべ、仰々しく…まるで演者のように両手を広げた。こいつが何を考えているのか…まるで分からない。先ほどから、ただこちらの攻撃を一方的に待っているだけ。……まさかあちらから攻撃をすることは出来ないのか? それとも別の狙いがあるのか…謎ではあるが、こちらとしてはそちらの方が都合が良いのであるが…そこは少々不穏に感じるところである。
「いやあ、三人がかりとは実に豪勢でございますねえ!
ではあ――ご期待に応えましょうかあ?」
レイグレンのこの言葉と同時に、空気が逆立つ。
柱の根元に貼りついた呪具の一つが、じぃ……と音を立てて光り始めた。
私は即座に叫ぶ。
「リディア、今!」
「心得たわ――《
リディアの杖先から、雷鱗龍をも仕留めた爆発的な火焔が放出され、柱の周囲が一瞬で高熱に包まれる。周囲の空間が歪むほどの圧倒的な熱量の暴虐。
(外殻が揺らいだ……!)
「ヴァルク!」
「任せろ!」
ヴァルクが手袋に仕込まれた紋を発動する。
刻印が黒く光り、床を走る細い魔力線を逆流させるように引っぺがした。
「媒介層、切断!」
床の紋様が一瞬だけ強く光り、レイグレンの輪郭が僅かに揺らぐ。
「ほう……! そこを壊しますかあ」
興味深そうに目を細めた顔が喜悦に歪む。
――今だ。
私は粒状の媒介を指先でつまみ、杖の根元へ滑らせた。
「『斬』『光』混成付与。根幹まで届け!」
風を切る音さえ出ない鋭い魔力の刃。
斬が線を刻み、光が軌跡を固定し、私がその二つの混成を抑え込む。
一閃。
刃が床の中心へ走り――今度は吸い込まれない。
(届く……! 今回は吸われてない!)
刃はそのままレイグレンの足元の線まで届き、眩く光った。
「おや……?」
レイグレンの声が揺らぎ、胸元に罅が入る。
対象は皮膚ではない。構造そのものの破断だ。
「あと少しだ!流し込め!」
ヴァルクの声と同時に、私は追撃を重ねた。
「――裂けろ!」
二撃目が根幹の線を完全に断ち切る。
柱が唸り、内部から白い光があふれ――
レイグレンの分身が霧散した。
残滓が、嗤うように揺れて消える。
広間に満ちていた鐘の音が、嘘みたいに止んだ。
波と渦の紋様が音を失い、ただの石の床へと戻っていく。
私は深く息を吐いた。
「……やった」
ヴァルクも肩の力を落とす。
「…柱の機能が完全に停止した。
瘴気と潮の境界を揺らしていた核は、壊れた筈だ。」
リディアも頷く。
「ふぅ…魔物を呼び寄せる鐘の音も、これでもう鳴らぬじゃろう」
私はすぐに円盤の映像へ目を移した。
水飛沫はまだ激しいが――新たな魔物の群れは、増えていないように見える。
エルドが弓を引き、ラナが剣を振り、氷雨が幻影を展開し続けている。
オーリスの結界が光を取り戻していく。
「あとは、持ちこたえるだけ……!」
胸の奥に安堵が灯るその瞬間。
霧散したレイグレンの残骸――
いや、床の端に転がっていた小さな呪具が、
ひとりでに青白く光った。
「……?」
ヴァルクが眉を寄せる。
次の瞬間。
広間に、ねっとりした男の声が響いた。
『いやあ、いやあ、実に見事でございましたあ!』
思わず身構える。
(……分身!? いや、違う。残響……?)
呪具から漏れ出す声は、分身のそれと同じ。
しかしそれは、遥かに深く、重い。
『まさか本当に根幹を断ち切れるとはあ! 流石は国家の象徴…紫華様とでも言ったところですねえ。ええ、ええ、私の研究史に残してあげたいほどに素晴らしい! 三人がかりとはいえ、私の分身を退けるとは大したものです。』
リディアが杖を構え直す。
「……本体かえ?」
『本体。という呼称が正しいかは存じ上げませんが…私自身は別の作業で手が離せませんでしてねえ?』
声が嘲りを含んで揺れる。
『ですがあ、ご安心くださいませえ。私の『目的』はとっくに果たされました故、ここでこれ以上の狼藉は働きませんとも』
「目的……?」
私が呟くと、レイグレンの声が愉悦で歪んだ。
『さてえ? それは観測者の皆様でお考えくださればよろしい。ここから先は――どうぞご自由に、お好きなように頑張ってくださいませえ』
呪具がぷつりと光を消す。
それで、一切の音が消えた。
分身の残滓は完全に消え、本体が来る気配は微塵もない。
ヴァルクが険しい顔で呟く。
「……本体は、最初から近くにはいなかったか。こちらは囮……いや、観測対象、か?」
潮の音が遠くでくぐもって響く中、私も口惜しさから歯を噛みしめる。
(自分が引き起こした揺らぎの結果だけを観測して、それで消えた? 奴の言い分を信じるなら、リューグーの一連の事件はただの実験。今後何か、もっと大きなことを引き起こすつもりということなのか?)
「さて……こやつの声も消えたことじゃし、ここから出たいところじゃが」
リディアが広間を見渡すので、私もつられて周囲を見回した。
ここは海の底の遺跡。天井は瘴気の膜で覆われ、階段らしきものは崩れている。
柱の機能は停止したが、それはこの空間の中核が壊れたというだけ。
つまり、特に出口にはなっていない。
「……どうやって地上に戻ればいいんだろ」
ヴァルクが広間の隅を調べながら言う。
「崩落の跡があるな。奴が生身であれば出入りの機構が残されていたとは思うが……分身となれば残っている保証はない」
リディアも天井を睨んだ。
「泳いで戻るには深すぎるし、瘴気で体ももたぬじゃろう」
私は肩を落とす。
「海の底に閉じ込められた、ってこと?」
「まあ、そういう話になるのお……」
リディアが苦笑いを漏らした。
ヴァルクは腕を組み、石壁を叩く。
「……いくつか方法は考えられるが、試すには準備がいる。
遺跡の構造、瘴気の量、潮流の圧……一つずつ探っていくしかない」
私は息を整える。
(上では皆がまだ戦ってる……けど、魔物の波は止まった。
今すぐ崩壊する状況じゃない。でも――急がないと)
「……確実に戻れる方法を探そう。
あんな奴の観測対象のままなんて、絶対に嫌だから」
リディアが笑う。
「うむ、儂も御免じゃな。
本体は来ぬと分かった以上、ここから先は儂ら自身の手で道を拓かねば」
ヴァルクが頷く。
「周囲の構造を読み取る。
潮の圧が弱い場所、空洞、上へ伸びる空気の流れ……手がかりはある」
私は杖を握り直し、深く息を吸い込んだ。
「帰るよ。みんなのところへ」
三人で頷き合い、私たちは遺跡を更に調査することに決めた。
――仲間の元へ帰るために。
分身体撃破。
ただしレイグレン側からの攻撃は一切なしです。接待かな?
エルド達はクー子達の捜索を諦めた後に一旦港に戻ったところ、魔物の大群が襲撃してきたので急遽迎撃してます。ダンジョン外なのである程度の軍も常駐してますが、特筆する程の戦力でも無いので描写は省きます。そもそも5人で守り切れる規模では無いので、魔物の本隊はエルド達に任せて、駐屯軍は都市内に分散して守ってると思ってください。