脱出の為の手掛かりとして、まず最初に広間を詳しく調べている間…リディアが杖をくるりと回しながら、疑問ともつかない感想を口にした。
「分身も残響も……完全に消えおったな。思ったよりあっけないのう」
「でも、終わったって感じはしないよね」
私は柱の根元へ近づき、先ほどの戦闘中「じぃ……」と音を立てて光り始めた、今はもう機能を停止している呪具を見下ろした。その表面には細い線刻が走り、中心が黒く濁っているようだ。
――結局、何も起きなかった。
発動の直前で分身が消えたからなのか、あるいは最初から攻撃が目的ではなかったのか。
(……判断がつかないね。どうにも奴はこちらの攻撃を待っていたみたいだけど…随分と挑発してたことを鑑みるに、
ヴァルクがしゃがみ込み、件の呪具に手をかざした。
呪具の専門家として、代表して探ってくれているようだ。
「……成程。クーデリアの懸念通り、これは恐らく攻撃目的の呪具ではなさそうだ」
「じゃあ…観測とか?」
「か、もしくは
位相のずれた領域を広く読み取るための仕掛けとみるが……機能の詳細までは分からん」
「じゃあ結論として、向こうからの攻撃は無かったってこと?」
ヴァルクは顎に指を添えたまま、少し考えるように目を細めた。
「……最初から攻撃する気がなかった、という可能性は高いな。ここまでの干渉の仕方からして」
「やっぱり……」
レイグレンはあれだけ好き放題喋り続けていたというのに、結局最後まで、こちらへ直接的な害意を向けてくることは一度もなかった。挑発だけは何度もしてきていたけれども…それもまた、その挑発にこちらがどう動くのかを嬉々として観察しているような、そんな印象しか残らなかった。
(紫位一人と金位二人を同時に相手にして、それでも『実験台』)
その単語が、胸の奥に重く沈む。
私は顔を上げ、機能停止した黒い柱を見渡した。一部崩れた柱の内部は中空で、細い管のような構造が複雑に絡み合っていたらしい。瘴気と潮の境界を作り、鐘の音を生んでいた装置。それらはすべて今、沈黙している。しかし、これで終わりではない。地上ではまだ、仲間たちが魔物の大群と戦っているのだ。
「……帰ろう。まずは帰還手段を見つけて、急いでここから脱出しないと」
▽ ▽ ▽
――某所
レイグレンの視座が揺らぐ。
潮底拠点の分身が崩壊した直後、返って来た観測ログが盤面の光として立ち上がる。
彼は椅子にも座らず、盤の前に立ったまま、淡々と指先を滑らせた。
「ふむ……」
光が三つの層に分かれ、そこには三名の情報が表示されていた。
左から順に、紫華、呪具師、大魔導士。
彼はまず、最も関心の大きい者へと視線を落とす。
クーデリア・リーフィス。《紫華》。
位相ずれ領域に対する干渉が、予想より深い。
位相ずれ直後の斬属性付与による攻撃――
あの一撃で、境界面の振幅が三割ほど沈んでいる。
レイグレンは小さく顎を撫でた。
「想定よりも押すのではなく、均す方向に働きますか。付与魔法は専門外でしたが…それでも並の付与師よりは知識があるつもりだったんですけどねえ。こればかりは史上最上とされる付与師様の腕を、素直に賞賛しておきましょうか。まあ彼女には自著があるようですし、そちらで学び直すのも良いでしょう」
彼の声には、喜悦よりも純粋な研究者としての熱が滲む。
「それに二属性同時の付与!
古代期の束ね文字ですねえ……触媒を消費しているあたり間違い無いでしょう」
基本的に、呪具に付与は通じない。だというのに、だ。
他二人の補助があり、不安定になっていたとはいえ、分身の維持線は上書きされ、断ち切られてしまった。
「まあ呪具など、所詮はただの
呪具師として極めた先は、案外つまらないものですなあ」
次に指先が滑ったのは、ヴァルクの観測ログだ。
呪具師ヴァルク・ゼノス。
媒介層を即座に切断した手腕、呪具の知識・観察眼、どれを取っても他の金位級と比較して十分に高い。やはり有望、目を付けていた甲斐がある。
「これは本国(月影国)の基準でも、上位に入るでしょうねえ」
淡々としながらも、確かな興味と狂気が宿るその眼はギラギラと輝く。
そして最後に、大魔導士リディア・グレイス。
彼は盤に映る赤熱の揺れを見て、息を吸った。
「酸欠型の高位火魔法に、分身の外殻を焼き尽くした圧倒的な熱量……あれは相当なものです。炎熱系に特化した聖遺物装備の力もあるでしょうが、こちらもまた金位としては非常に優秀ですねえ」
分身越しに観測した限りでも、あの炎は特筆すべきと断じるものがある。
レイグレンは頷く。
「――実りある観測でしたとも」
盤の光が消え、その次には潮瘴収束帯のデータが開かれる。
リューグー周辺の海域を覆っていた流れが、可視化されていた。
魔物の集積位置。潮と瘴気の反転圧。
境界の反応閾値。呪具の介入による流入量の偏り。
それらすべてが、分身経由の観測で鮮明になった。
「よろしい……これにて潮底拠点での観測は完了でございます。
早々に廃棄で良いでしょう。はい、さようなら。」
先ほどまでの観測対象のことなどは微塵も気にせず、拠点を廃棄するための起爆装置を一切の躊躇いなく起動させるあたり、この男はやはりどこかが狂っているのだろう。
――しかし、装置に反応はない。
「ああ……これは、先ほどの戦闘で起爆装置が破壊されてますねえ。物理的には距離を離していた筈なんですがあ、これは付与の影響ですかねえ? ……仕方がない、後で呪具だけでも遠隔で壊しておきますか」
レイグレンは棚に置かれていた筒状呪具を手に取る。
分身の残した記録は、既に全てこちらに退避済みだ。
筒から光が瞬き――飛び出した粒子が盤に染み込んでいく。
潮底拠点の記録がすべて吐き出されると、筒の光はゆっくりと収束して消えていった。
「……本命の模倣呪具の方は、起動の直後に停止しましたか」
相変わらず衝撃に弱いと漏らしながらその完遂率を見やる。
「外観データは完遂、それ以外が20%……これでは戦力としては使い道がありませんねえ。本気の敵意が起動条件なのでまず完遂しないのは困ったものです。
……まあ、それでも有名人の
クーデリアとリディアを思い浮かべてから、もう一度盤を弄る。
今度は新たな映像が立ち上がった。
リューグー外縁。
鐘の音こそもう無いが、潮は乱れ、未だ押し寄せる魔物たち。
その中で、前衛の三人が並び立っている。
「……おお」
まるで玩具の箱を開けた子どものような、静かな愉悦が頬に滲む。
「これはこれは。《紫煌》エルド・フェルナー殿ではありませんかあ。いつ見てもお見事ですなあ……あの弓捌き」
群れの突進を正確に撃ち抜き、海面すれすれの軌道で矢が滑るように走る。
その軌跡はまるで、潮流と瘴気の反転を読む動き。
レイグレンは感嘆したように息を漏らした。
「周囲の環境をここまで深く把握して立ち回れる前衛は、滅多におりませんよお。
流石は紫位――
つい、と指先が別の線へ移る。
盾を構え、砲弾のような魔物の突撃を真正面から受け止めている男。
「そして、《紫嶺》トゥリオ・ハルヴァ殿……
あれは堅牢などという次元ではありませんなあ」
一撃の受けを、彼は寸分違わず正しい角度に落とし込む。
盾の縁、足の重心、肩の回転、装甲の軋み――
あらゆる要素が揺らぎを吸収する向きに整えられている。
「……ふむ、こちらもまた大したものです。
肉体で
それはまるで、研究対象そのものだ。
レイグレンは映像から視線を外さないまま、口元を歪ませる。
「紫位はやはり逸材揃いですなあ。いずれどこかで、壁を超えるようなことがあればその時は……まあ、それは今考えても詮無きことでしょう。」
だが彼の見定めるような視線は、そこでは終わらなかった。
魔物の群れの影を搔き分けるように、きらりと斜めに走る切先。
海面の乱反射でもない、幻でもない。剣そのものの軌跡。
レイグレンは、その一閃が持つ
「……ラナ・シエル。【神剣ラグナ】」
嗤いが収まり、深くゆっくりと霧散する。
「神器の適合者……そう、それだ。
核層の断片を弾くような見事な剣筋……
本当に、美しい、そして……」
「
興味はラナ本人ではない。
彼女の剣――神器そのものに向けられていた。
掌を軽く合わせる。
その一音が、なぜか戦場の喧騒に混じって響くようにさえ感じられた。
「……さて。盤上には面白い駒が、随分と揃ってきましたなあ。神器も…紫位も…そして
レイグレンの視座は、まだ見ぬ次の局面へと向いていた。
「――全てはこの星の命脈のために」