「……この広間で調べられそうなものはもう無いね。他の場所を探しに行こう。」
柱の機能が停止したことで鐘の音は止まった。残された呪具の数々も、脱出に使えそうなものではないのでこれ以上ここに留まる必要は無いだろう。しかし目下の問題…というより、目を背けたくなるような最大の懸念事項が、私達には残っていた。
「ここから地上へ戻る方法、そもそもあるんじゃろうかの?」
リディアが杖を肩に当て、困ったような声色で呟く。潮底遺跡の深度は、はっきりとは分からない。ただ、到達するまでに経過した時間からして相当なものだとは推測出来る。
(ここは海の底……このまま外に出ても、間違いなく溺死するだけだね)
ただ…まるで希望がない訳ではない。
「瘴気と潮の境界……あれはまだ、完全には消えてない気がする」
「境界の残滓か。確かに柱が境界そのものを作っていたわけではないからな。あれは潮と瘴気の流れを、奴の狙い通りに整えるための道具に過ぎない。だから装置を壊しても、現象の地盤はすぐには消えない筈だ」
「ならそこを通れば、急に海水が流れ込んだりはしない……よね?」
「完全ではないが、押し返す力は暫くは残るだろう。行くなら、急いだ方が良い」
それを聞いて、胸の奥が一気に熱くなる。ぼんやりとしていた脱出への希望が、ようやく現実味を帯びてきた。
「……決めた。上へ行くよ!」
遺跡の外壁は無傷ではないが、所々に崩れた場所がある。
そこを重点的に探れば、上側へ抜けられる場所があるかもしれない。
▽ ▽ ▽
広間を出て未探索の回廊の奥へ進むと、風の通り道のような場所に出た。
境界の残滓が揺らいでいる。
薄く、灰色の膜のように。
光に触れるたび、ゆらゆらと波紋を描いていた。
「……これが、押し返してる?」
「うむ。潮の層が、まだ瘴気の残り香に押されておるんじゃな。奇妙なバランスじゃ」
確かに海水はすぐ近くにある。
なのに、境界の膜で押し止められていた。
膜の向こう側では、海流が怒涛の勢いで流れている。
だがこちら側は――静寂。
異様で、そして今の私達からすれば最高に都合のいい光景。
「行こう。膜の中を通る!」
「…通れるのかの?」
リディアが杖で軽く膜に触れる。
波打つように揺れ、杖身を拒まない。
「……瘴気と潮の反発を緩衝するための膜だな」
ヴァルクが分析を落ち着いた声でまとめる。
「付与の要領で、魔力の振幅を調律すれば通れるだろう。
ただ、崩れない程度に、そっとだ」
「分かった。風で包むよ」
「微力ながら協力しよう。儂は風魔法も使えるからの」
私は杖先に『風』を付与し、周囲を薄く包む。
境界の残滓に干渉しないよう、優しく、ゆっくりと。
そしてそのまま、三人揃って膜に触れる。
「……っ」
境界膜に触れた瞬間、体がふわりと浮く感覚があった。
その直後にリディアの風魔法が発動し、私を含む三人の身体を浮き上がらせる。
海流を遮断する安全な膜の中で、私たちは急速に海面に向けて上昇していった。
▽ ▽ ▽
(……光?)
海中の影が薄れ、視界に淡い明るさがにじむ。
「しっかり浮上しておるな……想定よりもずっと速いが、潮の層に押されてかえ?」
「いや、どうやら上層へ逃げる力が働いているようだ。俺たちがここに引き込まれた時の、逆の流れということだろう」
ヴァルクの言葉の意味を理解する前に――視界の先で、青い光がふっと広がった。
海面だ。
次の瞬間、境界を隔てていた膜が『パンッ』と弾けた。
どうにも間一髪のタイミングであったようだ。
「……出た!」
私は思わず声を上げ、すぐに海面へ身を乗り出す。
周囲は夕景の気配が漂い、外縁部の防壁が遠くに見える。
海面は荒れているが、もうあの揺らぎは無い。
「潮も瘴気も安定しておるのう。柱を壊した影響じゃな」
「港まで距離はあるが、この程度なら問題ない」
ヴァルクが周囲を観察しながら頷く。
(……戻れる)
胸の奥がじわりと温かくなる。
エルドたちは無事だろうか。
ラナも氷雨も、オーリスも。
(早く……合流しないと)
私は一つ深呼吸して、発声する。
「さあ、帰ろう。皆のところへ! …リディア、推進役はお願いできる?」
「当然じゃ。出力重視で思いっきり飛ばすからの。
その代わり、細かい調整はクー子に頼むぞ?」
「合点承知!! ヴァルクは私ら二人分、しっかり掴んで!」
二人は即座に私の意図を汲み、身動きが取り辛い海面であっても淀みなく準備に動いてくれる。三人分程度の体重なら、二人の魔法の出力でも十分運べるだろう。
「文字通り、飛んで行くよ! 『風』を付与!」
▽ ▽ ▽
――リューグー外縁
周辺の海は、未だに獣のように吠えていた。度重なる魔物の侵攻により外縁部の防壁は損傷が激しい。柱の破片が落下し、潮流はささくれ立つ。鐘の音が止まった今でも、一度集った魔物たちの波は、完全には引いていないのだ。
「三時方向、潜り込みあり!」
エルドが叫ぶと同時に、弓弦が鋭く鳴り、一本の矢が次々と分裂し、海面すれすれを滑った。矢は海中から跳ね上がった魔物の目を正確に貫き、泡を散らして沈める。
だが――
「また来た……っ」
ラナが剣を払うと、黒い影が裂けて飛沫が散った。
寄せてくる魔物は、どれも陸上の獣とは違う形をしていた。
<潮噛み
鋭い胸鰭を脚のように使い、防壁をよじ登る魔物。
動きが速く、斬っても水を含んだ肉が粘るように再密着する。
<
水路の隙間を通れる程に細く、足元へ噛みつく細長い魔物。
噛まれると瘴気が直接流れ込むため、致死性が高い。
<
耐久力が高い分、対処に時間が掛かる魔物。
甲殻が非常に硬質で、鈍重な代わりに簡単には怯まない。
どれも、集められた海の瘴気に触れて変質した魔物たちだ。
ダンジョン産よりは幾分かマシだが…それでも外の魔物にしては強力な部類である。
「っ……氷雨、右側の溝! 影が寄ってる!」
「分かった!」
氷雨が軽く息を吐いて集中し、白い指をひらりと動かす。
「《
誘導に特化した幻が作られ、潜んでいた溝潜り蛇がそちらへ吸い寄せられるように軌道を誤る。そこへラナが駆け込み、剣を横薙ぎにする。あっさりと両断された魔物の肉体は海へと放り出され、濁った水柱が上がった。
「助かった!」
「ううん……まだ来る、かな」
氷雨の声は相変わらず静かだったが、その手は微かに震えている。
継続して結界を展開し続けているオーリスの額にも、汗がじっとりと滲んでいた。
「結界、外層が限界です……! 再展開まで間隔、少し開きます!」
「無理はするな。内層だけでも保持してくれれば十分だ」
状況を聞いたエルドが、即座に指示を返す。
魔物の波を押し留める外層と、仲間の治癒を促進する内層という高度な二重結界を、今この時まで継続してくれていたオーリスには感謝しかない。いつの間にか継続して鳴っていた鐘の音は止み、押し寄せる魔物の新たな波は止まっている。希望的観測ではあるが、これが最後の一波だと思えば耐え切ることは不可能ではない。
しかしそれも、今も最前線で魔物の群れの衝突を受け止め続ける、この男の状況次第である。
「トゥリオ、持つか!?」
「……俺は絶対に倒れない。ただ、足場の方がそろそろ限界だ!」
短いが、息に少し硬さがあった。
彼の体力は装備の効果で無尽蔵であっても、精神は確実に擦り減っていく。
そしてそれ以上に、魔物の、盾の、荒れる潮流の…それら全ての衝撃を延々と受け続けている、外縁部の防壁側の損傷が激しい。崩落の危険性――それを最も敏感に感じ取れているのが、パーティ内で最も強く足場に踏ん張り、衝撃を流す受け方を続けるトゥリオであることは間違いないだろう。
(このままでは…保つか怪しい。周辺地域の避難は既に済んでいる。
ならば避難防衛ラインを下げることも視野に……)
エルドがそう思考した、その時だった。
海の先――外縁のさらに向こう側。
濁った潮の境界が、白く照らされている。
「……エルド?」
ラナがエルドの側へと飛び寄り、確認を取る。
「ああ……見間違いじゃない」
ここからはまだ遠い海面の上……
そこで今度は、大きな紅い光柱が立ち上がった。
「あれは……焔?」
オーリスが目を瞬かせる。
だが、それはただの焔ではない。
海の湿り気をねじ伏せるほどの圧を備えた、超火力の焔だ。
それを見てエルドは、僅かに口角を上げた。
「……あの焔、見間違えようがない。リディアのものだ」
次の瞬間、海面が大きく揺れた。
爆ぜるような音とともに、熱の奔流が水平線の向こうまで広がる。
そして――
「――エルド!」
紅の光柱の根元から、風と潮に乗って、聞き慣れた声が飛んできた。
焔と風を纏い、こちらへと一直線に突き進む三つの影。
「クーデリア達か!!」
潮の匂いの中で、彼の声は、確かに震えていた。