世界の底、光すら届かない「無間」の闇の中で、藍染惣右介は不敵に微笑んだ。
かつて世界を揺るがした男の、絶対的な威圧を孕んだ誘い。並の死神であれば、その言葉の重圧だけで魂魄が潰れかねない。
しかし――目の前の少年は、全く聞いていなかった。
「ねえおじさん、ここ、なんでこんなに広いの? 誰もいないのに勿体ないね。かけっこしたら楽しそう」
一勇は藍染の問いかけを完全にスルーし、暗闇を見つめて目を輝かせている。
「……私の言葉が聞こえなかったのかい? 質問をしているのは私の方だ、黒崎一勇」
「あ、これ何?おじさん、面白い服着てるね。目が隠れてるよ? 前見えるの?」
一勇は藍染に歩み寄り、その全身を覆う霊圧拘束具を無邪気にツンツンと突き始めた。
涅マユリが持てる技術の粋を集め、藍染の規格外の霊圧を抑え込むために作った最高機密の拘束衣。それを、ただの珍しいおもちゃのように触っている。
「……少しは人の話を聞かないかい」
藍染の口から、微かな、本当に微かな溜息が漏れた。
かつて護廷十三隊を、十刃を、そして一勇の父である黒崎一護を、その圧倒的な言葉と策略で翻弄してきた藍染惣右介である。その彼が、会話の主導権を完全に握らせてもらえない。
呆れ混じりに思考を巡らせる藍染を置き去りにして、一勇はポンと手を叩いた。
「あ、そうだ! 思い出した! 苺花ちゃんが言ってたんだ」
「……苺花? 誰だいそれは」
「阿散井苺花ちゃん。お父さんの友達の子供でね、ぼくの友達!」
藍染の脳内に、かつて自らの計画を阻まんとした死神たちの顔が浮かぶ。
阿散井。そして、一護の親しい友人。
「阿散井恋次と、朽木ルキアの娘か」
「うん! 苺花ちゃんね、こないだ尸魂界の歴史?のお勉強をパパにさせられたんだって。それでね、『地下のいっちばん深いところにはね、昔、お母さまたちを騙して尸魂界をめちゃくちゃにしようとした、すっごく悪い変態大悪党おじさんが閉じ込められてるのよ!』って怒ってた!」
――変態大悪党おじさん。
無間の静寂の中に、そのワードがぽつんと響いた。
世界の理を壊し、霊王に取って代わろうとした神の領域に最も近い男に対する、あまりにも俗世的で、あまりにも容赦のない評価だった。
」
藍染の端正な顔が、わずかに引き攣った。
「そう! 『もし捕まってるおじさんに会ったら、アタシこちょこちょの刑にしてやるんだから!』って言ってたよ。おじさん、悪いことしたの?」
純粋無垢な一勇の瞳が、藍染をじっと見つめる。
あの阿散井恋次の娘が、無間の囚人に向けた「こちょこちょの刑」という可愛らしい脅し文句。そして、かつての自分の大業を「悪いこと」の一言で片付けようとする少年。
だが、藍染の胸に湧き上がったのは、怒りではなかった。
それは、過去10年間、この無間で決して味わうことのなかった、腹の底から突き上げてくるような「可笑しさ」だった。
「なるほど、朽木ルキアも阿散井恋次も、相変わらず面白い教育を子供にしているものだ。いいだろう、黒崎一勇。私がその『変態大悪党おじさん』だ」
藍染は笑みを収め、今度は静かに、しかし最高に不敵な声音で少年を見据えた。
「君の父親が私をここに閉じ込めた。だが、その息子である君が、今こうして私の退屈を壊しに現れた。……因果とは、本当に歪んでいて美しいと思わないかい?」
「……? なにいってるの、おじさん」
一勇は小首を傾げ、心底不思議そうな顔で藍染を見つめた。
「あ、そうだ。ぼく、もう帰らなきゃ。内緒で家を出てきちゃったから、遅くなるとおかあさんにすっごく怒られるんだ」
そう言うと、一勇は悪びれもせず、自分の背後にある空間を再び小さな手でパチンと叩いた。
すると、先ほど彼が通ってきた、空間の裂け目である「門」が再び目の前に現れる。
「じゃあねおじさん、また来るね!」
一勇は無邪気に手を振ると、光の向こう側へと足早に消えていった。
パキ、と小さな音を立てて空間のヒビが閉じ、無間には再び、完全な静寂と漆黒の闇が戻ってきた。
後に残されたのは、縛られたままの藍染惣右介、ただ一人。
「…………」
藍染は、一勇が消えた空間をしばらく無言で見つめていた。
かつて死神の頂点に立ち、世界の理を超越しようとした男が、八歳の子供に完全にペースを乱され、置いてきぼりにされたのだ。
(……『また来るね』、か)
厳重な結界を誇る尸魂界の最下層へ、散歩がてらにやってきて、母親に怒られるからと帰っていく。そんな出入りを許す存在など、この世界のどこを探してもいるはずがなかった。
だが、藍染の口元は、自然と歪な弧を描いていた。
拘束具の奥で、彼の霊圧が愉悦に震える。
(黒崎一護の息子。……いや、死神、滅却師、完現術、虚。そのすべてを内包する、あの異質な魂魄……。黒崎一勇、君は一体何者なんだ?)