黒崎一勇が「死神の力」を持っている。
その事実を知った時、父である一護と、母である織姫はひどく複雑な心境だった。
かつて世界を救うために命を懸けて戦った一護だからこそ、幼い息子にはそんな危険な世界に関わってほしくないという思いが強かった。しかし、一勇の持つ力はあまりにも異質で、あまりにも強大すぎた。
「放っておく方が危ない、か……」
一護は苦渋の決断を下した。力を隠して暴走させるよりは、尸魂界の学校で正しい力の扱い方を学ばせた方がいい。そうして一勇は、死神の養成機関である「真央霊術院(しんおうれいじゅついん)」へ通うことになった。
ただし、条件が一つ。
まだ八歳の子供である一勇を尸魂界に住まわせるわけにはいかない。一勇が尸魂界に赴くのは、現世から学校へ登校する時だけ。放課後はすぐに現世の家に帰る――それが両親との絶対の約束だった。
*
「一勇くん、今日の授業もお疲れ様! また明日ね!」
「うん、また明日!」
真央霊術院の校門前で、同級生たちに笑顔で手を振る。
今日の授業もすべて終わり、普通ならここから穿界門(せんかいもん)を通って現世の黒崎医院へ帰るはずの時間だった。
だが、一勇はふと足を止める。
「……そうだ。ちょっとおじさんのところに寄っていこーっと」
一勇にとって、それは「学校の帰りに近所の公園に寄る」くらいの軽い気持ちだった。
人目を盗み、一勇は小さな手で空間をパチンと叩く。すると、世界の理を無視するように、再びあの黒い「門」が目の前に開いた。
*
――パキッ、パキッ。
光すら届かない「無間」の暗闇に、半年ぶりにあの音が響いた。
すべてを縛られ、ただ時が過ぎるのを待っていた藍染惣右介は、その音と同時にゆっくりと目(拘束具の奥の意識)を開く。
空間に開いた小さな門から、オレンジ色の髪の少年がひょっこりと顔を出した。
「やあ、おじさん! また来ちゃった」
カバンを背負った一勇が、無邪気な声を響かせる。
藍染は、信じられないものを見るかのように、だがその口元に歪な歓喜の笑みを浮かべて少年を迎え入れた。
「……本当にまた来るとはね」
一勇は屈託のない笑顔のまま、藍染の足元――すべてを拒絶するはずの無間の床へ、当然のようにちょこんと腰掛けた。
数多の死神や霊王すらも戦慄させた最凶の反逆者を前に、この少年はまるで「近所のちょっと変わったおじさん」に学校の出来事を報告するかのような態度を崩さない。
「あのね、おじさん。僕、今日から『真央霊術院』って学校に通い始めたんだよ」
「ほう……」
拘束具の奥で、藍染の知性がかすかに揺れた。
「黒崎一護も、随分と妥協を覚えたものだ。君のその『力』を隠し通せぬと悟り、あえて死神の檻へと放り込んだか。……だが、彼らは気づいていないのだろうね。君が学校帰りに、この私のもとへ『道草』を食いに来ていることには」
「うん! お父さんたちには内緒。だって、ここに最初に来たとき、おじさんの霊圧?っていうのが凄すぎて、お父さんたちにバレそうになって大変だったんだもん。だから今日は、僕の力でちょっとだけ『おじさんの周りの空気』を包んでおいたんだ」
さらりと告げられた言葉に、藍染は内心で冷徹な驚愕を覚えていた。
自分の持つ、五感を狂わせるほどの、そして触れる者すら消し去るほどの膨大な霊圧。それを、わずか八歳の子供が、自らの能力で完全に「隔離」し、現世や瀞霊廷の監視から隠蔽しているというのだ。
「……やはり、君は面白い」
藍染の口元が、さらに深く歪む。
「真央霊術院、か。あそこは退屈な場所だよ。教わることのすべてが、かつて私が、そして君の父親が壊し、乗り越えた『古い秩序』の焼き直しに過ぎない。君ほどの器が、あのような場所で何を学ぶというのかね?」
「えー? でもね、今日の授業でね、先生が『鬼道』っていうのを教えてくれたんだよ。こうやって、言葉を唱えてドカンってやるの。おじさんは、そういうの得意?」
一勇はカバンから、真新しい霊術院の教科書を取り出し、藍染に見せるように掲げた。
「得意、か。ふふ……。いいだろう、黒崎一勇。退屈な模倣を教える教師たちに代わり、この私が君に『本当の力の扱い方』の、ほんの片鱗を授けてあげよう。……ただし、これからは毎日、学校の帰りにここへ立ち寄るがいい」
「わあ、本当!? 宿題も教えてくれる?」
「宿題、か。……護廷十三隊がひっくり返るような宿題になりそうだがね」
無間の闇の中で、かつて世界を揺るがした神の如き男と、その理を軽々と踏み越える怪物の雛が、奇妙な師弟関係を結ぼうとしていた。もちろん、現世で首を長くして息子の帰りを待っている、黒崎一護の知る由もないところで――。
一勇は教科書をめくる手を止め、不思議そうに首をかしげました。
「おじさんはそんなに強いのに、ずーっとここに一人ぼっちだったんでしょ? それって、すっごく寂しくなかった?」
「……何が言いたい、黒崎一勇」
「おじさんが世界を変えたかったのは、自分と同じ高さで、ちゃんとお話しできる誰かが欲しかったからなんじゃないかな、って思ったんだ」
あまりにも無垢で、本質を射抜く言葉。
かつて藍染が天の座を目指した根底にあった、誰にも理解されない深淵の如き「孤独」。かつて黒崎一護が感じ取ったその痛みを、息子である一勇が正確にすくい上げたのです。
完璧な仮面の奥で、藍染は一瞬言葉を失いました。そして、自嘲を孕んだ声で静かに返します。
「……寂しい、か。人の身の、なんと矮小な物差しだ」
「でもね、今は僕がいるよ! だからおじさんは、もう一人ぼっちじゃない。ね、だから鬼道、教えて?」
一勇は笑って、藍染の冷たい拘束具に温かい手をそっと重ねました。
かつて拒絶したはずの「他者との繋がり」が、最も奇妙な形で目の前にある。藍染の口元に、傲慢な嘲笑ではない、どこか静かな笑みが浮かびました。
「……ふふ。やはり君は、あの男の息子だ。どこまでも私の計算を狂わせる」
かつて誰とも交わらなかった孤高の反逆者は、世界で初めて、自らの意志で一人の少年の「師」となる道を選んだのです。
「いいだろう。私の孤独の深さを知りながら、なお踏み込んでくるというのなら――相応の覚悟をしてもらうよ」
藍染は拘束具の奥から、無限の可能性を秘めた少年を真っ直ぐに見据えました。
「さあ、学びたまえ、黒崎一勇。そして最後に――来い。私の高みまで」
こうして、光の届かない「無間」の闇の中で、世界を揺るがした最凶の反逆者と、その理を軽々と踏み越える少年の、秘密の授業が始まりました。
藍染が口頭で授けるのは、真央霊術院で教わるような生易しいものではありません。霊圧の構成、世界の理、そして空間そのものをねじ曲げる「真の鬼道」の深淵。
かつて五番隊隊長だった頃、藍染は多くの部下に慕われ、何かを教える機会も数多くありました。しかし、あれはすべて「理想の隊長」を演じるための偽りであり、都合の良い操り人形を育てるための手段に過ぎませんでした。
他者に対して自らの意志で、純粋に「何かを教える」という体験。それは、藍染の長い人生において、この時が本当に初めてのことだったのです。
八歳の一勇は、その本物の教えを、まるでおもちゃの遊び方を覚えるように、驚異的な速さで吸収していきます。
「おじさん、こう? 『破道の四、白雷(びゃくらい)』!」
一勇が小さな指先を突き出すと、無間の闇を割って、見たこともないほど巨大で濃密な雷光が迸りました。詠唱破棄どころか、完全に規格外の威力です。
「……ふふ、見事だ。だが、まだ霊圧の収束が甘いね」
厳しくも、どこか楽しげに藍染が応じます。
かつて誰とも交わらぬ高みで孤独にいた藍染にとって、演じる必要のない本当の自分で言葉を交わし、自らの深淵を瞬時に体現してみせる一勇との時間は、かつて味わったことのない奇妙な充足感をもたらしていました。
「あ、もうこんな時間! お父さんたちとの約束の時間になっちゃう」
ふと現世の時間を察知した一勇が、慌ててカバンを背負いました。
「おじさん、今日の宿題、明日までにちゃんとやってくるね! バイバイ、また明日!」
一勇がパチンと手を叩くと、黒い門が開き、少年はその向こう側へと消えていきました。
一人残された無間の闇。
しかし、今の藍染の胸には、半年間一度も感じることのなかった、現世の陽だまりのような温かい余韻が、確かに残っていました。