焼け付くような真昼の太陽が、米花町三丁目のアスファルトから陽炎を立ち昇らせていた。
雑居ビルの隙間に走る、人一人がようやく通れるほどの細い路地裏。湿った生ゴミの臭いと、鉄の錆びたような血の臭いが混ざり合い、逃げ場のない重い空気を形成している。
黄色い規制線テープの向こう側では、鑑識課のカメラのフラッシュが規則的なリズムで焚かれていた。
「被害者は都内の商社に勤めるサラリーマンです。財布と腕時計が抜き取られており、腹部を一突き。典型的な物取りの犯行に見えますが……」
手帳を片手に報告する高木刑事の顎から、大粒の汗がアスファルトへ滴り落ちる。彼はハンカチで首筋を拭いながら、到着したばかりの二人の人物に視線を向けた。
一人は、およそ殺人現場には似つかわしくない、艶やかなネイビーのイタリア製スリーピーススーツを隙なく着こなした男。警視庁捜査一課のエース、大黒圭吾警部補だった。
大黒は磨き上げられた革靴の爪先を気にしながら、路地の水溜まりとゴミ袋を優雅なステップで避けて歩く。その唇には、どこか退屈そうな薄い笑みが張り付いていた。
「物取り、ね。高木、君はクラシック映画の観すぎだ。そんなステレオタイプな強盗が、昼下がりの米花町にいると思うか?」
大黒の背後から、冷ややかな声が飛んだ。
「少なくとも、現場に到着して第一声がそれの刑事よりは、強盗の方がまだ実在する確率は高いと思うけど」
声の主は、大黒の相棒である橘刑事。
ダークグレーのタイトなパンツスーツに身を包み、背筋を定規で引いたように真っ直ぐ伸ばしている。元・警視庁警備部SPという経歴を持つ彼女の視線は、無意識のうちに周囲のビルの屋上や路地の出入り口へ鋭く向けられ、常に空間の脅威を警戒する動きを見せていた。
「手厳しいな、相棒。俺はただ、見え透いた偽装工作に苦言を呈しているだけさ」
大黒は肩をすくめ、被害者の遺体のそばにしゃがみ込んだ。スーツの膝が汚れた地面に触れないよう、絶妙なバランスを保っている。
遺体は仰向けに倒れ、腹部から流れた血が周囲のアスファルトを黒赤く染めていた。大黒の視線は、致命傷である腹部でも、奪われた財布の入っていた空のポケットでもなく、被害者の『足元』に固定されていた。
大黒の細い指が、被害者の履いている革靴の底をペンライトで照らし出す。
「橘。君のその優秀な目で、この靴底の泥を見てみろ」
橘が一歩進み出て、大黒の照らす先を覗き込む。彼女の端正な眉が微かに動いた。
「……赤土。それに、白い粒状のものが混ざってる。パーライト……園芸用の土壌改良材ね」
「ご名答」
大黒は立ち上がり、ペンライトをスーツの内ポケットに仕舞い込んだ。
「ここはコンクリートジャングルだ。被害者の通勤ルートにも、この路地裏にも、こんな上等な園芸用の土はない。おまけに靴の甲には、細かな擦れ跡がある。これは歩いてついた傷じゃない。うつ伏せの状態で、車のトランクのような狭い場所に押し込まれ、引きずり出された時につく摩擦痕だ」
大黒は振り返り、呆然と口を開けている高木に向かって指を鳴らした。
「つまり、ここは殺害現場じゃない。実に稚拙な偽装だな。犯人は別の場所で被害者を殺し、車でここまで運んで強盗に見せかけた。財布と時計を抜いたのは、身元確認を遅らせるためだろうよ」
「な、なるほど……! では、すぐに被害者の交友関係と、園芸関係のトラブルを洗い出します!」
「そういうことだ。頼んだぞ、高木」
大黒はくるりと踵を返し、規制線の外へ向かって歩き出した。
「待ちなさい」
橘の低くドスの効いた声が、大黒の背中を打つ。彼女は手帳を閉じ、大黒の進路を塞ぐように立ち塞がった。
「どこへ行く気?」
「決まっているだろう。時刻は十二時半だ。通りを二つ向こうにいったところに、最高のペスカトーレを出すトラットリアがある。アサリの鮮度が落ちる前に席に着きたい」
「被害者の身元確認も、周辺の防犯カメラの確認も終わってないわ。あなたは捜査の責任者でしょ」
「現場の見立ては終わった。地道な裏付け捜査は優秀な部下に任せるのが、有能な上司の務めというやつさ」
橘の右手がピクッと動き、分厚い革張りの手帳の角が大黒の脇腹を正確に捉えた。
鈍い音が響き、大黒が「ふぐっ」と短く呻いて前かがみになる。
「勝手に持ち場を離れないで、このサボり魔。……まあいいわ、どこへでも消えなさい」
橘は冷ややかな目で大黒を見下ろしながら、周囲の鑑識官たちへ視線を移した。
「あなたの見立て通り、これが偽装なら初動が命よ。私が遺体の着衣から車両のトランクの繊維片を洗い出し、高木刑事が被害者の足取りを追う。あなたは……その無駄に高いスーツを汚さないうちに、視界から消えて」
大黒は脇腹を押さえながら、痛みを誤魔化すように薄く笑った。
「君のそういう話の早いところ、心底愛してるよ。じゃあ、夕方に本庁で」
大黒は足早に路地裏から去っていく。橘はその後ろ姿を数秒だけ睨みつけると、即座に鑑識官へ振り返り、一切の淀みない声で指示を飛ばし始めた。
夜が明けたように眩しい昼下がりから一転、警視庁本庁舎の窓の外は、すでに毒々しいオレンジ色の夕陽に沈みかけていた。
捜査一課のフロア。大黒は自身のデスクで、テイクアウトしたエスプレッソのカップを片手に、海外の映画雑誌のページをパラパラと捲っていた。周囲の刑事たちが慌ただしく電話をかけ、書類の山と格闘している中、彼のデスク周りだけが完全に切り離された優雅な空間となっている。
そこへ、ヒールを床に打ち付ける鋭い足音が近づいてきた。
バンッ!
大黒の目の前、映画雑誌の上に、分厚いファイルが叩きつけられる。
見上げると、疲労の色一つ見せない完璧な姿勢の橘が立っていた。その後ろで、高木が息も絶え絶えに崩れ落ちそうになっている。
「ご歓談のところ悪いけど、仕事の時間よ、大黒」
橘の声には一切の感情が混じっていなかったが、その圧力だけで周囲の空気が数度下がった。
「ご苦労。で、裏付け捜査の成果は?」
大黒がエスプレッソをすすると、橘は流れるような動作でファイルを開いた。
「被害者の名前は田中浩二。最近、自宅の庭の改修工事を巡って、請け負った造園業者と激しい金銭トラブルを起こしてたわ。業者の名前は『大塚造園』。社長の大塚は、今日の午前中のアリバイが曖昧ね」
「動機は十分。で、物証は?」
「被害者のジャケットの背中から、微量の化学繊維を検出したわ。私が大塚造園のトラックと社用車をすべて確認したところ、社用車のトランクのカーペット素材と完全に一致。さらに、社用車のタイヤの泥受けから、現場の路地裏の成分と一致するアスファルトの粉塵と、被害者の靴底と同じパーライト混じりの赤土を採取した」
橘は一息にそこまで言い切ると、ファイルを大黒の胸元へ押し付けた。
「鑑識の報告書と、車両の押収令状のコピー。外堀はすべて埋めたわ。あとは、あなたの『口先』で本丸を落とすだけよ」
大黒の顔から、ふざけた笑みが消えた。
伏せられた目が報告書の文字をなぞり、数秒の沈黙が下りる。再び顔を上げたとき、その目には獲物を定める捕食者のような冷たい光が宿っていた。
「上出来だ。これだけ完璧な証拠が揃っていれば十分だ。……高木、大塚社長を第参取調室へ。VIP待遇で案内しろ」
「は、はいっ!」
取調室を照らす蛍光灯の光は、無機質で冷たい。
パイプ椅子に座る大塚造園の社長・大塚は、作業着姿のまま激しい貧乏揺すりを繰り返していた。額には脂汗が浮き、しきりに分厚い手で首筋を擦っている。
ガチャリ、と重い鉄の扉が開き、大黒がゆっくりとした足取りで入室した。
彼は大塚の正面に座ると、ファイルを開くこともなく、ただ黙って大塚の顔を見つめた。
十秒。二十秒。
沈黙が取調室の空気を極限まで圧縮していく。
「な、なんだよ。俺は忙しいんだ。田中って奴が死んだのは気の毒だが、俺には関係ねえ!」
耐えきれなくなった大塚が声を荒らげた。
大黒はゆっくりと瞬きをし、懐から銀色のシガレットケースを取り出した。中からタバコを一本抜き取るが、火はつけず、指先で弄ぶ。
「大塚社長。死体の処理というのは、フィクションの世界でも現実でも、常に頭の痛い問題だ」
「……何の話をしている」
「車のトランクというのは、意外と密閉性が低い。特に、腹を刺されて出血している人間を詰め込めば、血はカーペットの繊維の奥深くまで染み込む。いくら高圧洗浄機で洗おうが、漂白剤を撒こうが、ルミノール反応というスプレーをかければ、青く光り輝く」
大塚の喉仏が、ゴクリと上下に動いた。
大黒はその微細な動きを見逃さない。彼の声のトーンが、一段階低く、滑らかになった。
「あなたは田中氏と揉めていた。今朝、話し合いの最中にカッとなって刃物で刺した。我に返ったあなたは、隠蔽するために彼の財布を抜き、社用車のトランクに死体を乗せて、米花町の路地裏に捨てた」
「ふざけるな! 証拠があるのか! 俺はやってねえ!」
大塚が立ち上がり、机を両手で激しく叩いた。
その瞬間、取調室の扉が開き、橘が静かに入室してきた。彼女の足音には一切の迷いがない。
橘は手にしたファイルを大塚の目の前に滑らせ、冷徹な声で事実を並べ立てた。
「被害者の着衣から検出された繊維片が、あなたの社用車のトランクのものと一致。あなたの車のタイヤからは、被害者の靴底と同じ独自の配合がされた園芸用の土と、遺体遺棄現場のアスファルト粉塵が検出されました。社用車は現在、鑑識がルミノール検査を行っています。結果が出るまで、あと十分というところでしょうか」
大塚の顔から、さっと血の気が引いていく。
震える手がファイルに伸びかけるが、橘の氷のような視線に射竦められ、空中でピタリと止まった。
大黒が、机に身を乗り出した。
タバコを持った指で、大塚の顔を指し示す。
「完璧な証拠だ。だが、俺が一番の証拠だと思っているのは、あんたのその『手』だ」
「……手?」
「爪の間だよ、社長。念入りに洗ったようだが、細かい赤土が入り込んでいる。田中氏をトランクから引きずり出す時、あんたは転倒しそうになって地面に手をついた。違うか?」
大塚は反射的に両手を握りしめ、テーブルの下に隠そうとした。
その瞬間、勝負は決した。
「隠しても無駄だ。あんたの挙動、目の泳ぎ方、発汗のペース。すべてが雄弁に自白している。今ここで罪を認めるか、十分後に青く光るトランクを見ながら絶望するか。好きな方を選べ」
大黒の声は、もはや尋問ではなく、死刑宣告に近い響きを持っていた。
大塚の膝から力が抜け、パイプ椅子にドスリと腰を落とす。両手で顔を覆い、くぐもった嗚咽が取調室に響き渡った。
「……あいつが、俺の作った庭を……金を出さないどころか、全部やり直せって……だから……」
自白が始まった。
大黒はそれ以上追及することはせず、ゆっくりと立ち上がった。扉の前に立つ橘に視線で合図を送る。
「動機の供述調書は高木に巻かせろ。俺の仕事は終わった」
夜の警視庁の廊下。
自動販売機の光だけが、等間隔に薄暗い空間を照らしている。
大黒は缶のブラックコーヒーを開け、一口飲んで顔をしかめた。
「やはり泥水だな、ここのコーヒーは。せっかくの勝利の美酒が台無しだ」
少し遅れて取調室から出てきた橘が、大黒の隣に並んで歩き出す。彼女の手には、いつも通りの分厚い手帳が握られていた。
「文句があるなら、自分で豆から挽いて淹れればいいでしょ、エリート様。今日のあなたの功績は、座ってエスプレッソを飲みながら海外の雑誌を読んでたことだけなんだから」
「手厳しいな。俺の卓越したプロファイリングと心理的プレッシャーがなければ、あの大男はまだ口を割っていなかったかもしれないぜ?」
「私が足で稼いだ物証がなければ、あなたの言葉はただの戯言よ。ハッタリだけで人を裁くことはできないわ」
橘は前を向いたまま、冷たく言い放つ。
しかし、大黒はその言葉に怒るどころか、楽しげに口角を上げた。
「その通りだ。だからこそ、君という優秀な相棒が俺の背中を守ってくれる。俺が安心して一息つけるのは、君が完璧な仕事をするからだ」
橘の足がピタリと止まる。
彼女はゆっくりと大黒の方を向き、その手帳を大黒の胸元に突きつけた。
「勘違いしないで、大黒警部補。私はあなたを守ってるわけじゃない。警察という組織のルールと、事実を守っているだけよ。あなたが少しでも道を外れれば、私が真っ先にあなたを撃つわ」
大黒は胸元に押し付けられた手帳を見下ろし、小さく笑った。
「頼もしい相棒を持った俺は、幸せ者だな。……さあ、飯に行こう。今日のディナーは君の奢りだ。俺は頭を使ってひどく腹が減っている」
「……は? なんで私が」
「俺が事件を解決した功労者だからだ。ステーキがいいな。もちろん、領収書は経費で落としてくれ」
大黒はコーヒー缶をゴミ箱に放り投げると、軽やかな足取りで廊下を歩き出した。
背後から、橘の怒りに満ちた声と、ヒールの鋭い足音が追いかけてくる。
「経費で落ちるわけないでしょ! 待ちなさい、このたかり屋!」
夜の警視庁に、二人の掛け合いがいつまでも響いていた。