エンドロールは警視庁で   作:いろはにポテト

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第10話:容疑者・大黒圭吾と氷の女(後編)

第一取調室の重い鉄の扉が、外から勢いよく開け放たれた。

 

廊下の光を背負ってそこに立っていたのは、いつもの漆黒のパンツスーツに身を包み、一睡もせずに走り回ったであろう微かな疲労を漂わせながらも、絶対零度の鋭い眼光と、一冊の分厚いファイルを握りしめた橘の姿だった。

 

「いいえ。その手続きは不要です、堂島監察官」

 

「橘刑事……?」

 

佐藤刑事が驚きに目を丸くし、「橘ちゃん!」と声を弾ませて駆け寄った。

橘は佐藤の制止を無視し、冷徹な足取りで取調室の中央へと進み出ると、堂島の目の前のテーブルの上に、バーンと分厚いファイルを叩きつけた。

 

「……遅かったじゃないか、相棒。俺が取調室の硬いパイプ椅子で腰を痛めるまで、あと十分しかなかったところだぞ」

 

大黒は手錠がかけられた両手を軽く組み、パイプ椅子の背もたれに身を預けながら不敵な笑みを浮かべた。その余裕の態度に、堂島監察官の眉間がピクリと不快げに動く。

 

「橘巡査部長。君にはすでに監察官室から身柄拘束の指示が出ているはずだ。被疑者の証拠隠滅を図った共犯として……」

 

「大黒警部補の無実を証明する、決定的な証拠書類一式です」

 

堂島の言葉を遮り、橘の低く透き通った声が取調室の冷たい空気を引き締める。

彼女はファイルを開き、一枚の写真と鑑識の報告書を堂島の前に突き出した。

 

「昨夜十時、被害者である三枝麗子が自宅マンションで刺殺された時刻、大黒警部補は確かに彼女の部屋にいました。しかし、それは彼女を殺すためではなく、彼女から『別の男に脅されている』という極秘の相談を受けるためでした」

 

「なんだって……? じゃあ、現場の足跡や指紋はどう説明するのよ!」

 

佐藤刑事が詰め寄る。橘は微動だにせず、淡々と事実を並べ立てた。

 

「現場の状況証拠はすべて、第三者によって巧妙に作られた偽装です。真犯人は、銀座の高級クラブで麗子と親密だった別の男——不動産会社経営の黒崎です」

 

「黒崎……だと?」

 

堂島がファイルの写真を確認する。そこには、麗子のスマートフォンに残された消去済みの通話履歴の復元データと、黒崎が事件当日の夜に麗子のマンション周辺をうろついていた防犯カメラの静止画が収められていた。

 

橘は続ける。

 

「黒崎は、麗子を利用して多くの金銭を騙し取ろうとしていましたが、麗子が警察に駆け込むと脅し始めたため、彼女の口を塞ぐことにした。そして、どうせ殺すなら、最近彼女と親しかった捜査一課の大黒警部補に罪を着せようと企んだのです」

 

「待て」

 

堂島がファイルをめくり、官僚的な冷たさで指摘する。

「黒崎に動機があったとしても、大黒が部屋に入ってから気絶させられ、凶器に指紋が残されたという状況証拠はどう説明する。大黒が罠に気づいた時には、すでに後ろから頭を殴られていたと言っていたが……」

 

堂島の問いかけに、大黒はふっと鼻で笑った。

彼の手錠がチャリと音を立てる。

 

「監察官殿、あんたは現場の裏側というものをまだ理解していないらしい。状況証拠というのは、いかようにも捏造できるのさ」

 

大黒の言葉を受け、橘がファイルの最後のページをめくった。

 

「凶器のナイフから検出された大黒警部補の指紋は、彼が数日前に麗子と食事をした際、彼女が自宅に忘れていた彼のライターを手渡したときの接触面に付着していたものです。真犯人はそのナイフの柄を綺麗に拭き取った上、あらかじめ採取してあった大黒警部補の皮膚片や微物の付着した手袋を使って、彼の指紋を人工的に転写した」

 

「なっ……!」佐藤が息を呑む。

 

「そして……」橘の目が、一段と鋭さを増す。

「黒崎は、大黒警部補を部屋におびき出すため、麗子のスマホから『今すぐ部屋に来てほしい』という偽のメッセージを送った。大黒警部補が部屋に入り、すでに冷たくなっていた麗子を発見して事態を把握した瞬間——背後から潜んでいた黒崎が、鈍器で彼を襲い、意識を奪ったのです」

 

橘はそこまで言い切ると、堂島に向かって真っ直ぐに視線を向けた。

 

「私が今朝方、黒崎の自宅アパートを任意でガサ入れした際、彼のクローゼットの奥から、大黒警部補の血液が付着した鈍器と、現場の指紋を偽造するために使われたシリコン製の転写シートを押収しました。……すでに黒崎の身柄も、所轄との連携で別件の詐欺容疑にて確保済みです」

 

取調室の中に、完全な静寂が訪れた。

堂島はファイルに目を走らせ、やがて小さく舌打ちをすると、忌々しそうにファイルを閉じた。

 

「……見事な手際だな。よかろう、大黒警部補の容疑は晴れた。身柄を解放する」

 

堂島はテーブルの上に置かれていた鍵を佐藤刑事に顎でしゃくり、退出するように促した。佐藤が大黒の手首にかけられた手錠をカチャリと外す。

 

「君の無実は証明された。だが、忘れるな大黒警部補。君のその素行不良が、今回警察組織にどれだけの迷惑をかけたか。次は必ず、君の首を切ってやる」

 

「ご忠告痛み入りますよ、監察官殿」

 

大黒は自由になった両手を軽く伸ばし、仕立ての良いチャコールグレーのスーツのシワを優雅に払いながら立ち上がった。堂島が足早に取調室を出ていくと、かつての「処刑台」は一瞬にして彼のためのステージへと変わる。

 

「大黒さん……! よかったぁぁっ! 本当に疑ってごめんなさい!」

 

佐藤が泣きそうな顔で大黒の腕に抱きつきそうになるが、大黒はすっと華麗に身をかわした。

 

「泣くのはそれくらいにしてくれ、佐藤くん。俺の美しいスーツが君の涙で湿ってしまう」

 

「……この期に及んでその軽口ね」

 

橘が冷ややかな声をかけながら、手帳をパチンと閉じた。

大黒はウインクを一つ飛ばし、さて、と伸びをする。

 

「さて、無実の証明も終わり、お上の護送車から解放されたわけだ。……どうだい、橘。この名誉の生還を祝して、銀座の一流バーで最高のマティーニでも奢らせてくれないか? もちろん、昨夜からの留置の精神的損害に対する慰謝料として、君のポケットマネーでね」

 

「却下よ」

 

橘は冷たく言い放つと、いつもの分厚い警察手帳の角を、大黒の胸板にドンッと容赦なく突きつけた。

 

「あなたが女遊びの脇の甘さで殺人容疑をかけられたせいで、私の夜通しの徹夜捜査と、膨大な始末書の数々が発生したのよ。その慰謝料を全額、私の代わりにあなたが払うべきだわ」

 

「おいおい、命の恩人に向かってその言い草はないだろう、相棒」

 

「命の恩人じゃなくて、手のかかるお荷物よ。……ほら、さっさと歩きなさい。本庁の入り口で報道陣が待ち構えてるわよ」

 

橘が先に踵を返して鉄の扉へ向かう。

大黒は苦笑いを浮かべ、シガレットケースを内ポケットに滑り込ませた。

 

「やれやれ。俺の美学を理解できるのは、世界中でこのお堅い氷の女だけらしい」

 

大黒は軽く肩をすくめると、廊下へ向けて、軽やかな足取りで相棒の背中を追いかけていった。

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