エンドロールは警視庁で   作:いろはにポテト

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第11話:遺体安置所の長い夜(前編)

警視庁本庁舎、地下三階。

冷たい蛍光灯の光が、ステンレス製の重厚な扉と無機質なタイル張りの廊下を照らし出している。

ここは、監察医務院の分室としても機能する、警視庁の遺体安置所および検視室だ。

地上で働く刑事たちの喧騒が一切届かない、完全な静寂と冷気に支配された世界である。

 

「……というわけでね、橘君。人間の胃袋というのは、死後もなお驚くべき保存能力を発揮することがあるのだよ。18世紀の英国海軍の記録にも、難破船から引き上げられた船員の胃の中から、当時の航海日誌の切れ端が未消化のまま……」

 

解剖台の横で、白衣を着た初老の男——博識で饒舌なベテラン検視官の犬飼が、メスを片手に嬉々として語り続けている。

橘刑事は、強烈な消毒薬の匂いが漂う部屋の中で、今朝方港区で引き上げられた身元不明の水死体の所持品リストと、手元の鑑識レポートを照らし合わせながら、淡々と相槌を打っていた。

 

「興味深いお話ですね、先生。ですが、こちらの仏さんの胃袋から出てきたのは、航海日誌ではなく飲みかけのウイスキーと微量の睡眠薬のようです」

 

「おや、それは残念。歴史的発見とはいかなかったか」

 

犬飼が肩をすくめた、その時だった。

 

カツッ、カツッ、カツッ。

 

分厚い防音扉の向こう側——本来なら関係者以外絶対に立ち入ることのない地下の廊下から、複数の重い足音が響いてきた。

橘の手から、報告書の束がスッと下ろされる。

足音の響き、靴底の硬さ、そして寸分違わぬ歩幅の揃い方。

 

(足音は三人……いや、四人。歩幅にブレがない。訓練されたプロの歩き方だ)

 

橘が瞬時に右手を腰のホルスターへ伸ばそうとした瞬間、電子ロックで施錠されているはずの検視室の扉が、不自然な電子音とともに音もなく開いた。

 

「……動くな。両手を上げて、壁を向け」

 

背後から掛けられた低く歪んだ声。

それと同時に、橘の後頭部と、犬飼検視官の背中に、ピタリと冷たい金属の銃口が押し当てられた。

 

「聞こえなかったのか。お前もだ、ドクター」

 

犬飼検視官が、顔を青ざめさせながらゆっくりと両手を上げる。

橘の額の横から、黒の目出し帽にタクティカルベストを着込んだ完全武装の男が回り込み、彼女から拳銃と警察手帳を素早く奪い取った。さらに別の男が、橘の足首に隠されていたバックアップ用の小型拳銃まで的確に回収する。

 

「無駄な抵抗はやめろ。大人しくしていれば命は助けてやる」

 

リーダー格と思われる大柄な男が、サプレッサーの装着されたサブマシンガンを構えながら、冷酷な目で橘を見下ろした。

男たちの目的は明白だった。彼らは安置されている遺体の一つ——国際的な密輸シンジケートの運び屋だった男の遺体が収められた冷蔵ロッカーを開け、遺体を引きずり出した。そして、持参したメスでその腹部を無残に切り裂き始めたのだ。胃袋に隠されたマイクロチップの回収である。

 

(……この短時間でハッキングして電子ロックを解除し、警視庁の地下に侵入するほどの組織力。相手は重武装のテロリスト。ここで私が動けば、犬飼先生が確実に撃たれる)

 

橘が壁際で両手を上げながら、静かに、しかし極限の集中力で反撃の機会を窺っていた、その時。

 

ジリリリリリリッ!

 

検視室の壁に備え付けられた内線電話が、無機質で甲高いコール音を鳴らし始めた。

男たちがピタリと解剖作業を止め、銃口を一斉に橘と犬飼に向ける。張り詰めた空気が、部屋の温度をさらに数度下げた。

 

「……出ろ。日常の定期連絡を装え。少しでも異変を悟らせれば、この老人の頭を吹き飛ばす」

 

リーダーの男が、犬飼のこめかみに銃口を強く押し当てながら、橘に受話器を取るよう顎でしゃくった。

橘は一切の表情を変えず、小さく深呼吸を一つして受話器を取った。

 

『おーい、橘。俺だ。例の水死体の検視報告書はまだか? 高木が退屈で死にそうになってるぞ』

 

電話の主は、大黒圭吾警部補だった。

周囲をプロのテロリストたちに囲まれ、数センチ先には銃口が突きつけられている絶体絶命の状況下。橘は背筋を伸ばし、極めて平坦で、いつも通りの「呆れ果てた相棒」の声を完璧に作り上げた。

 

「……ええ。遺体の確認は終わったわ。特に異常なし。報告書は私のデスクの二段目に入っているから、高木に取りに行かせて」

 

『了解だ。じゃあ、俺はこれで……』

 

「それから、大黒」

 

橘は、目の前のテロリストの銃口を真っ直ぐに見据えながら、静かに、しかしはっきりと口にした。

 

「あなたが私の机に置いていった『ダイ・ハード』のDVD。やっぱり私には退屈だったわ。テロリストにビルが占拠されるなんて、非現実的すぎるわよ、このシネマ中毒」

 

受話器の向こうで、わずかに息を呑む気配がした。

数秒の、永遠にも似た沈黙。

 

『……そうか。なら、次は頭を使わないラブコメでも貸してやるよ』

 

ガチャリ。通話が切れる。

橘が受話器を戻すと、リーダーの男が鼻で笑った。

 

「見事な演技だ。映画の趣味は合わないようだがな」

 

男たちが再び遺体の解剖作業に戻る。

橘は壁際で両手を上げたまま、冷ややかな瞳の奥で静かに「その時」を待っていた。

あの男なら、絶対に気づくはずだ。

 

 

同じ頃。本庁舎一階の捜査一課フロア。

受話器を置いた大黒は、デスクの上に広げていた海外の映画雑誌をパタンと閉じた。その顔から、普段の軽薄で退屈そうな笑みが完全に消え去り、獲物を定めた捕食者のような絶対的な冷酷さが宿っている。

 

「大黒さん? どうしたんですか。橘さん、報告書持ってもう戻ってくるんですか?」

 

残業の夜食に買ってきた缶コーヒーを運びながら、高木刑事が首を傾げる。

大黒はゆっくりと立ち上がり、椅子の背もたれに掛けてあったネイビーのスリーピーススーツのジャケットを羽織りながら、低く、しかしフロア全体に響く声で言った。

 

「あいつらは、とんでもない女を人質にとったもんだ。絶対に後悔させてやる」

 

「えっ……!? 大黒さん、何を言ってるんですか!?」

 

「高木。橘が自ら映画の感想を口にするなんてあり得ない。あいつのデスクの引き出しには予備の弾倉と手帳の替えしか入っていないし、俺もDVDなんて貸した覚えはない。それに『ダイ・ハード』は、重武装のテロリストにビルが占拠され、外部との連絡を絶たれる映画だ」

 

高木の顔から、一気に血の気が引いた。

 

「ま、まさか……地下の検視室に、テロリストが!? で、でも大黒さん! たかが映画の感想だけで……もし橘さんの冗談で、僕たちの勘違いだったら、上層部から大目玉を食らいますよ!?」

 

「どうした高木! 一体何事かね!」

 

パニックに陥る高木の声を遮るように、捜査一課のフロアに太く重厚な声が響いた。

トレードマークのソフト帽を被り、厳しい顔つきをした目暮十三警部が、足早に近づいてくる。

 

「め、目暮警部!」

 

「大黒君の怒気を含んだ声が廊下まで聞こえてきたぞ。……それで? 橘君からの連絡というのは、一体どういう状況だ」

 

目暮警部はデスクの前に立ち、真剣な眼差しで大黒を見つめた。

大黒はスーツのフロントボタンを留めながら、状況を簡潔に並べ立てる。

 

「相手は複数。地下の電子ロックを無音で突破する技術と装備を持っています。目的は不明ですが、犬飼先生と橘が拘束されているのは確実です。『ダイ・ハード』の暗号から見て、相手は重武装。橘は手出しができない状態にあります」

 

「何だと……! 本庁舎の地下に武装グループが侵入したというのか!」

 

目暮警部は愕然としながらも、わずか数秒で指揮官としての顔を引き締めた。

現場の最前線を長年潜り抜けてきた男の覚悟が、その目に宿る。目暮警部は鋭い視線を高木へ向けた。

 

「高木君! 直ちに地下三階へ通じる全てのエレベーターの電源を落とし、非常階段の防犯ゲートを物理的にロックしろ! それから第一特殊部隊に出動要請! ワシの権限でSATを動かす!」

 

「め、目暮警部まで! ほ、本当にいいんですか!?」

 

「構わん! もし勘違いだったら、ワシが上の連中に頭を下げて、腹を切る覚悟で責任を取る! ……さあ、急ぎたまえ!」

 

「は、はいっ!」

高木が弾かれたように電話機へと飛びつく。

 

目暮警部は再び大黒に向き直った。

「警備のコントロールルームを開けさせる。君はそこで、テロリストとの交渉役を頼めるか?」

 

「もちろんです、警部。……あいつらの耳元で、最高の映画のセリフを囁いてやります」

 

大黒の不敵な返答に、目暮警部は力強く頷いた。

 

大黒の報告と目暮警部の素早い決断により、警視庁本庁舎は水面下で一気に戦時態勢へと移行した。

深夜の静寂に包まれていた庁舎内に、目に見えない極度の緊張感が走る。重武装のSAT隊員たちが無音で集結し、アサルトライフルの安全装置を解除する金属音が、冷たいコンクリートの壁に響き渡った。

 

わずか数分後。

コントロールルームに陣取った目暮警部が、監視カメラの映像を見ながら苦々しい表情を浮かべた。

 

「……相手は四人。全員がアサルトライフルで武装しておる。犬飼先生と橘君が射線上にいる以上、SATが突入のためにドアを爆破した瞬間のコンマ数秒で、人質が確実に撃たれてしまうぞ」

 

大黒は無言のままコンソールに身を乗り出し、検視室に繋がる館内放送のインターホンのスイッチを叩き込んだ。

 

地下の検視室に、大黒の低く滑らかな声が響き渡る。

 

『——夜分遅くに本庁の地下で死体泥棒とは、随分と命知らずで悪趣味な連中だな』

 

スピーカーからの声に、武装グループの男たちが弾かれたように銃を構え直した。

橘はハッと顔を上げ、監視カメラを見つめた。犬飼検視官も「おお、大黒君か」と嬉しそうに目を細める。

 

「警察か。早いな……あの女の暗号か!」

 

リーダーの男が忌々しそうに舌打ちをした直後、その太い腕が橘の胸ぐらを乱暴に掴み上げた。

 

「よくも舐めた真似をしてくれたな、警察官」

 

ガンッ!

 

鈍い音とともに、男の銃床が橘の頬を容赦なく打ち据えた。

 

「くっ……!」

 

橘が床に膝をつき、口の端から一筋の血が流れる。犬飼検視官が「やめろ!」と叫ぶが、別の男に銃を突きつけられて押し黙った。

リーダーの男は橘の髪を掴んで監視カメラへ向け、冷酷に睨みつける。

 

「見てるんだろう、通信越しのマヌケな相棒。手出しは無用だ。目的の物を回収し次第、ここから立ち去る。ドアを開けたり妙な真似をすれば、次はこいつの頭を本当に吹き飛ばす」

 

コントロールルームでその凄惨な映像を見つめ、マイクを握りしめる大黒。

彼の目に、静かな、しかし絶対的な怒りの炎が宿った。

 

『要求はわかった。……ところでプロの傭兵殿。あんたたちは「リーサル・ウェポン」という映画を知っているか?』

 

「……何?」

突然の映画の話題に、リーダーの男が怪訝そうに眉をひそめる。

大黒はそこでインターホンのスイッチから指を離し、マイクの音声を完全に切った。

 

「高木」

大黒はコントロールルームのモニターから目を離さず、横に立つ高木に低く尋ねた。

「あの映画で、主人公たちが敵陣へスリーカウントで突入する時、どう動くか覚えているか?」

 

「え? あ、はい……たしか『1、2、3』の『3』で飛び出そうって約束したのに、狂犬のリッグスが『2』で勝手に飛び出しちゃうんですよね」

 

「そうだ。相手はプロの傭兵だ。警察がカウントダウンを始めれば、当然『3』のタイミングに備えて極限まで筋肉を強張らせ、身構える」

 

大黒は懐からリボルバーを抜き出し、シリンダーを弾き出して弾薬を確認しながら冷酷に言い放つ。

「だが、『2』の瞬間なら、人間の意識に必ず隙間ができる」

 

「し、しかし大黒君!」

目暮警部が焦燥した声で割って入る。

「その作戦をどうやって橘君に伝える気だ!? 映画のタイトルを出しただけで、彼女がそれを瞬時に理解できるのか!?」

 

「あいつは俺の相棒ですよ、警部」

 

大黒はシリンダーをチャキリと戻し、不敵な笑みを浮かべた。

「俺のウザい映画の講釈を、日本で一番聞かされている女です。……それに、あいつのあの目を見ればわかる」

 

モニターの中の橘は、口から血を流しながらも、その瞳孔はわずかに収縮し、全身の筋肉を周囲の空気に溶け込むように静かに引き絞っていた。

大黒の「本気の時のトーン」に混ざった映画のタイトル。それが何を意味するのか、彼女は完全に理解している。

 

大黒は再びインターホンのスイッチを押し込み、マイクに向かって冷徹に宣告した。

 

『悪いが、交渉は決裂だ。今から「3」数える間に、橘から銃を下ろせ』

 

「ふざけるな! 撃つぞ!」

リーダーの男が橘の頭に銃口を押し当てる。

 

『数えるぞ。……「1」!』

 

スピーカーから響いた大黒の鋭い声。

男がハッとして銃を構え直し、「3」の瞬間に備えて全身の筋肉を硬直させた、コンマ数秒後。

 

『「2」!!』

 

大黒の咆哮と同時。

床に膝をついていた橘が、爆発的な脚力で真横へと飛んだ。

 

「なっ……!?」

 

「3」を待っていた男の意識の隙を突き、橘の頭があった空間を男の銃弾が空切る。

橘が射線から完全に逃れたその直後——。

 

バンッ!!

 

遺体安置所の分厚いステンレス製の扉が、外から凄まじい勢いで蹴り開けられた。

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