エンドロールは警視庁で   作:いろはにポテト

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第12話:遺体安置所の長い夜(後編)

バンッ!!

 

遺体安置所の分厚いステンレス製の扉が、外から凄まじい勢いで蹴り開けられた。

そこから猛然と飛び込んできたのは、重武装の盾を持ったSATの突入部隊ではない。隣接するコントロールルームから全速力で駆けつけ、仕立ての良いネイビーのスリーピーススーツの裾を荒々しく翻した大黒圭吾だった。

 

「大黒!!」

 

銃口から逃れ、床を転がった橘が叫ぶ。

大黒の手には、シルバーのシリンダーが鈍く光るリボルバーが握られていた。

彼は室内に踏み込むと同時、相手の数や配置を確認するような素振りすら見せず、一切の躊躇なく引き金を引いた。

 

パァンッ!!

 

放たれた銃弾が、リーダーの男が持っていた自動小銃の機関部を正確に打ち砕く。

火花が散り、男が驚愕に目を見開いて銃を取り落とした、その一瞬の隙。大黒は次弾を撃つことなく、自らの肉体を弾丸のようにして男の懐へと全速力で飛び込んだ。

 

「この野郎っ!」

 

大黒の肩がリーダーの胸板に激突し、二人はもつれ合うようにして、解剖台から崩れ落ちた遺体とホルマリンの液溜まりの中へ豪快に転がり込んだ。

 

だが、室内にいるテロリストはリーダーだけではない。

「……撃て! 殺せ!」

ドアの死角に潜んでいた男と、橘に銃を突きつけていた男が、一斉にアサルトライフルを構え直した。

 

「遅いわ」

 

橘の低く、絶対零度の声が男たちの背後で響いた。

彼女は床に落ちていた犬飼検視官の手術用メスを拾い上げると、流れるような動作で、自分に銃を向けていた男の太ももに深々と突き立てた。

 

「ぎああっ!?」

 

男が悲鳴を上げて膝をつく。その顔面に、橘の容赦のない膝蹴りが炸裂し、男はキャビネットに叩きつけられて完全に沈黙した。

 

「くそっ、女ァ!」

 

ドアの死角にいた三番目の男が、大黒と組み合っているリーダーを援護しようと、大黒の背中へ銃口を向けた。

だが、橘の動作には一切の無駄がない。彼女は太ももから引き抜いた血まみれのメスを、手首のスナップだけで鋭く投げつけた。

銀色の閃光が走り、銃のトリガーに掛かっていた男の手の甲を正確に切り裂く。

 

「痛っ……!」

 

男が銃を落とした音が響くよりも早く、橘は低空で滑るように男の懐に滑り込んだ。彼女の左手が男の胸ぐらを掴み、右腕が脇の下を潜り抜ける。元警備部SPとしての完璧な背負い投げ。男の巨大な身体が宙を舞い、冷たいタイルの床へと叩きつけられ気を失う。

 

「……三人制圧」

橘が荒い息を吐きながら立ち上がる。

 

だが、事件はまだ終わっていなかった。

「動くな! 動いたらこの老人の頭を撃ち抜くぞ!」

 

部屋の奥。解剖台で遺体の腹を切り裂いていた四番目の男(執刀役)が、血まみれの右手で小さな「マイクロチップ」を握りしめ、左腕で犬飼検視官の首を締め上げて盾にしていたのだ。男の右手には拳銃が握られ、犬飼のこめかみに押し当てられている。

 

「チップは回収した! 銃を捨てろ警察官! 俺はこのままこいつを連れて……」

 

「私の解剖室を汚しておいて、随分と勝手な言い草じゃないか」

 

突然、人質になっているはずの犬飼検視官が、冷ややかな声で呟いた。

「な、何だと……?」

 

男が怯んだ瞬間、犬飼は白衣のポケットに忍ばせていた「ホルマリンの原液ビン」を、男の顔面めがけて思い切り後ろ手で叩き割った。

 

「ぐあああっ! 目が、目がぁぁっ!!」

強烈な薬品の飛沫と刺激臭が男の顔を襲い、男はたまらず犬飼を突き飛ばして両手で顔を覆った。

 

「今だ、橘!」

ホルマリンの海から立ち上がった大黒が叫ぶ。

 

大黒と橘は、左右から同時に男へ向かって踏み込んだ。

大黒の重い右フックが男の左頬を打ち砕き、コンマ数秒遅れて橘の強烈な回し蹴りが男の右側頭部を刈り取る。

完璧なタイミングの挟み撃ち。四番目の男は錐揉み回転しながら吹き飛び、壁に激突して崩れ落ちた。ポロリと、手から血塗られたマイクロチップが転がり落ちる。

 

「……先生、ご無事で?」

橘が息を整えながら犬飼を助け起こす。

「ああ、なんのこれしき。伊達に何十年も死体と向き合っとらんよ」

 

その時だった。

「……舐めるな、警察ァッ!!」

 

最初に大黒に押し倒されたはずのリーダーの男が、ホルマリンの海から血走った目で起き上がった。その手には、隠し持っていたサバイバルナイフが握られており、油断して背中を向けていた大黒の脇腹めがけて、狂ったように刃を突き出してきたのだ。

 

「大黒! 後ろ!」

橘が叫ぶ。

 

大黒は振り返ることなく、まるで背中に目があるかのように身を翻した。

突き出されたナイフの刃を、オーダーメイドの革靴の硬いヒールで的確に蹴り落とす。刃が根本からへし折れる金属音が地下室に響いた。

 

大黒はそのまま体勢を崩したリーダーの胸ぐらを掴み上げ、極細の針のような、底知れぬ冷酷な目で男の瞳孔を睨みつけた。

 

「……映画なら、ここで気の利いたジョークの一つでも飛ばして、スマートにとどめを刺すところだ」

 

大黒の低く、地を這うような声。

 

「だが、あいにく俺は今、ひどく機嫌が悪い。俺の最高の相棒の顔に泥を塗った上に、俺の何より大切なスーツまで、こんなに台無しにしてくれたんだからな」

 

大黒の右の拳が、容赦なく、そして無慈悲に振り上げられた。

 

「眠れ、三流の死体泥棒」

 

重い拳が、男の顔面に的確に振り下ろされた。

ゴキッ、という骨の砕ける鈍い音が響き、リーダーの男は白目を剥いて完全に意識を失い、血の混じったホルマリンの海に再び沈んだ。

 

 

完全な静寂が、遺体安置所に戻ってきた。

荒い息遣いと、ひしゃげた解剖台からホルマリンの雫がポタリ、ポタリと滴り落ちる音だけが室内に響いている。

 

「大黒さん! 橘さん!」

高木や目暮警部たちが慌てて室内に飛び込んでくる。その後ろから、重武装のSATの隊員たちが雪崩れ込んできて、大黒たちが叩き伏せた四人のテロリストたちに次々と手錠をかけ、引きずり出していった。

 

大黒はゆっくりと立ち上がると、血とホルマリンでべっとりと汚れた両手を、ポケットから取り出したシルクのハンカチで乱暴に拭き取った。ハンカチは瞬時に汚れ、大黒はそれを舌打ちとともにゴミ箱へ放り投げた。

 

彼が深く、重い溜息をついて振り向くと、そこには、いつものように背筋を定規で引いたように直立した橘が立っていた。

彼女の頬には、先ほど男の銃床で殴られた際にできた傷から生々しく血が滲んでおり、漆黒のパンツスーツも床を転がった際の埃や汚れでまみれている。

 

「……無茶をしましたね、大黒警部補。相手は重武装のテロリストです。単独で先行突入するなど、捜査の基本手順から完全に外れています」

 

橘は完璧な敬語で、しかしその目には隠しきれない安堵と疲労の色を浮かべて言った。

目暮警部や高木が駆けつけたことで、彼女は咄嗟に警察官としての「理性の仮面」を被り直したのだ。

 

「あの状況で俺の制止を振り切って突入できる馬鹿は、世界中探しても俺しかいないだろう。それに……」

 

大黒はひどい悪臭を放つ、汚れたスーツのジャケットを脱ぎ捨て、肩をすくめた。

 

「お前が俺の『2』という暗号の意図を、一ミリの遅れもなく理解し、射線から逃れてくれると信じていたからな」

 

大黒の言葉に、橘は小さく息を吐いた。

そして、彼女は腰のポーチからいつもの分厚い革張りの警察手帳を取り出すと、ゆっくりと大黒に近づき、その手帳の角を、大黒の汚れたシャツの胸板に軽く、本当に軽く押し当てた。

普段の、彼を制裁するための強烈な一撃とは違う、労わるような優しい接触だった。

 

「……ありがとう、大黒。あなたが電話口で異変に気づいてくれなかったら、どうなっていたか」

 

タメ口に戻った橘の、飾らない素直な感謝の言葉。

大黒は目を丸くして、それから照れ隠しのように、フッと楽しげに笑った。

 

「その言葉は録音しておきたかったな。本庁の連中に聞かせたら、明日から真夏に雪が降るぜ」

 

「調子に乗らないで」

 

橘が手帳の角を、少しだけ強めに押し込む。

大黒は「痛っ」と大げさに呻きながら、自分の無残な姿を見下ろした。

 

「大黒、橘。二人とも、よくやった!」

 

目暮警部が歩み寄り、二人の肩に重く、温かい手を置いた。その目には、優秀な部下たちが無事であったことへの深い安堵が滲んでいる。

「後の事後処理と連中の素性調査は、ワシと高木たちで引き受ける。お前たちは今すぐ医務室へ行って、傷の手当を受けてきなさい」

 

「……ありがとうございます、警部」

 

大黒と橘は短く一礼し、制圧部隊や鑑識官たちが慌ただしく行き交い始めた検視室を後にした。

 

 

本庁舎の廊下。

深夜の地下階は、まだ静寂と冷気に包まれている。

先ほどまでの血と硝煙の匂い、怒号と暴力が支配していた空間から切り離され、ただ二人の硬い靴音だけが、等間隔にコンクリートの壁に反響していた。

 

並んで歩く二人には、いつものような軽口の応酬も、手帳による物理的なツッコミもなかった。

沈黙が心地よく、そして少しだけ気恥ずかしかった。

 

「……ありがとう、大黒。本当に」

 

不意に、橘が立ち止まり、静かな声で言った。

彼女は、大黒の顔を見ずに、わずかに俯いている。

 

「犬飼先生が銃を突きつけられた時、私にはどうすることもできなかった。……あなたが私のSOSを拾ってくれなければ、私たちは確実にあの冷たい床で殺されていたわ」

 

その時、大黒は、俯く橘の肩が微かに、小刻みに震えているのに気づいた。

極寒の遺体安置所に長時間閉じ込められ、プロの傭兵に銃を突きつけられるという極限の死の恐怖。そしてそこから解放されたことによる、強烈なアドレナリンの反動が、今になって彼女の身体を襲っているのだ。どんなに屈強な元SPであろうと、彼女もまた一人の人間だった。

 

大黒は何も言わず、手に持っていた自分のスーツのジャケット——先ほど脱ぎ捨てた、泥と血とホルマリンでひどく汚れたあのジャケットを、橘の震える肩にふわりと掛けた。

 

「大黒……これ」

 

橘が驚いて顔を上げる。

強烈な薬品の匂いと泥の臭いがするジャケット。だが、そこには、大黒が先ほどまで命懸けで戦っていた際の、確かな体温と熱が残っていた。

 

大黒は内ポケットから銀色のシガレットケースを取り出し、火をつけないタバコを一本くわえながら、自分の無残に汚れたシャツとスラックスを見下ろした。

 

「見ろよ。イタリアの職人に三ヶ月かけて仕立てさせた、俺の給料三ヶ月分のスーツがただのゴミ屑だ。おまけに腕は痛むし、拳の皮まで剥けた」

 

「……ごめんなさい。クリーニング代、それと新しいスーツの代金なら、私が……」

 

「いいさ」

 

大黒は、いつもの退屈そうな、あるいは相手をからかうような笑みではなく、どこか穏やかで、静かな笑みを浮かべて橘を見た。

 

「最高級のオーダーメイドスーツは、金を払って三ヶ月待てば、また同じものが手に入る。……だがな」

 

大黒はくわえていたタバコを指先に挟み、橘の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

 

「俺のウザい映画の講釈を、文句を言いながらも完璧に理解して、コンマ数秒の暗号に命を預けてくれる相棒は、世界中どこを探しても一人しかいないからな。……代えがきかないんだよ、お前は」

 

橘は小さく息を呑んだ。

そして、肩に掛けられた泥だらけのジャケットの襟を、両手で少しだけ強く握りしめた。

彼女の常に警戒を怠らない氷のような瞳が、この時ばかりは柔らかく解け、微かに潤んでいるように見えた。

 

「……安い命ね。三ヶ月分のスーツと同価値だなんて」

 

橘が、泣き笑いのような表情で、精一杯の強がりを口にする。

大黒は軽く肩をすくめ、再び前を向いて歩き出した。

 

「俺に言わせりゃ、破格の値段だよ」

 

大黒の背中が、薄暗い廊下の先へと進んでいく。橘はジャケットを羽織ったまま、その後を追った。

 

「さあ、帰ろうぜ相棒。エンドロールが流れる頃には、ヒーローのスーツはボロボロの方が絵になるもんだ」

 

深夜の静寂に包まれた警視庁の地下廊下。

二人の間に、もう余計な言葉は必要なかった。泥だらけの天才プロファイラーと、肩に大きすぎるジャケットを羽織った氷の女刑事は、並んで静かに、深い信頼の闇の中を歩み去っていった。

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