警視庁本庁舎、捜査一課フロア。
重苦しい緊張感が、タバコの煙とコーヒーの焦げた匂いと共にフロア全体に充満していた。
「……タイムリミットまで、あと二時間。目暮警部、このままでは都内のどこかに仕掛けられた三つ目の爆弾が作動してしまいます!」
高木刑事が、血走った目で壁の時計を見上げながら叫ぶ。彼のワイシャツは汗で張り付き、ネクタイは無造作に緩められていた。フロアでは数十名の捜査員が電話に怒鳴り、都内の監視カメラ映像を血眼になって確認している。
「わかっておる! だが、あの男……自首してきた霧島は、一言も口を割ろうとせんのだ!」
目暮警部が苛立たしげにデスクを叩く。分厚い拳が木製のデスクを揺らし、積まれた書類が床に滑り落ちた。
ここ数日、都内を恐怖のどん底に陥れている連続爆弾魔。
第一の事件は港区の廃ビル。第二の事件は新宿区の解体予定のビル。どちらも深夜に大規模な爆発を起こし、警察の威信を粉々に吹き飛ばした。現場には必ず「警察の無能を嘆く」という芝居がかった犯行声明文が残されており、メディアは連日この劇場型犯罪を大々的に報じていた。
そして今朝になって突然、犯人は本庁の受付に姿を現し「私が犯人です」と自首してきたのだ。
元・東都大学の犯罪心理学講師、霧島涼。35歳。
経歴に傷のない、エリート然とした男だった。
しかし彼は、取り調べに対して三つ目の爆弾の隠し場所については一切口を閉ざし、ただ一つの不気味な要求だけを繰り返していた。
『——大黒圭吾警部補を呼んでください。彼としか話す気はありません』
捜査一課の精鋭たちが代わる代わる取調室に入り、宥めすかし、あるいは机を叩いて怒鳴りつけたが、霧島は薄気味悪い笑みを浮かべるだけで、決して口を開こうとはしなかった。
時計の針が、無情にもカチリと音を立てる。
その時、捜査一課のフロアの扉が開き、ゆっくりとした、だが極めて規則正しい革靴の足音が響いた。
「ジョナサン・デミ監督の『羊たちの沈黙』という映画を知っているか? 警部」
静まり返ったフロアに、場違いなほど優雅で、滑らかな声が落ちる。
チャコールグレーの最高級スリーピーススーツに身を包んだ大黒圭吾が、テイクアウトしたエスプレッソのカップを片手に、退屈そうに目を細めて立っていた。彼のスーツにはシワ一つなく、狂騒に包まれる捜査一課の中で、彼だけがまるで別世界の住人のような空気を纏っている。
「天才的な精神科医であり猟奇殺人鬼でもあるハンニバル・レクター博士が、FBIの訓練生クラリスの過去とトラウマを暴き出し、精神的に支配していくサイコスリラーの金字塔だ。……第一取調室にいる三流の爆弾魔は、どうやら自分がレクター博士にでもなったつもりらしい」
大黒はカップを自分のデスクに置き、深く息を吐いた。
「大黒君! 遅いぞ、今まで何をやっていたんだ!」
目暮警部が怒鳴る。その顔は疲労と焦りで朱に染まっている。
「何って、朝の優雅なコーヒーブレイクですよ。俺は良質なカフェインを摂取しないと、脳のシナプスが正常に繋がらない体質でしてね。それに……」
大黒は周囲の慌ただしい捜査員たちを見渡し、忌々しそうに盛大な舌打ちをした。
「俺の専属のドアオープナー兼、証拠収集マシンである橘刑事が、数日前の地下室でのテロリスト制圧における名誉の負傷とやらで、一週間の絶対安静中だ。あいつがいないせいで、俺は自分で取調室の重い鉄の扉を開け、パイプ椅子を引き、あまつさえ自分の足でコーヒーを買いに行かなきゃならない。完全に労働基準法違反ですよ。訴えたい気分だ」
「ふざけている場合か! 爆弾のタイムリミットまであと二時間しかないんだぞ! 奴はお前としか話さないと言っている。いいから早く中へ入れ!」
目暮の怒声に背中を押され、大黒は「やれやれ」と大げさに肩をすくめた。
「わかりましたよ。ですが警部、期待はしないでください。今の俺には、橘という最強の盾がない。丸腰でサイコパスの深層心理に飛び込めという無茶な命令だ」
大黒はそう言い残し、ゆっくりとした足取りで第一取調室へと向かった。
ガチャリ、と重い鉄の扉が開く。
無機質な蛍光灯の下、冷たいコンクリートの壁に囲まれた第一取調室。
部屋の中央にあるパイプ椅子に座っていた男——霧島涼が、扉の音に反応してゆっくりと顔を上げた。
整った顔立ちに、銀縁の眼鏡。髪は綺麗に撫でつけられ、自首してきた爆弾魔とは思えないほど身なりは整っている。手錠をかけられながらも、その口元には余裕に満ちた、薄気味悪い笑みが張り付いている。
「お待ちしていましたよ、大黒警部補」
霧島の声は、クラシック音楽の解説でもするような滑らかさだった。
大黒は何も答えず、手にした調書をテーブルに放り投げた。そして、霧島の正面にあるパイプ椅子を無造作に引き、優雅に腰を下ろした。
スリーピーススーツのシワを丁寧に払い、足を組む。その間、大黒の極細の針のような視線は、霧島の髪の先から靴の裏まで、まるで品定めするように冷酷に舐め回していた。
「さあ、ゲームを始めましょうか」
霧島が身を乗り出す。
「ゲームのルールは簡単です。あなたが私の心の中を読み解き、三つ目の爆弾の場所を当てる。もし外れれば、二時間後に都内のどこかで美しい花火が上がる。……どうです? あなたのその卓越したプロファイリング能力で、私を丸裸にしてみては?」
大黒は懐から銀色のシガレットケースを取り出した。
親指の腹で蓋を弾き開け、中からタバコを一本抜き取る。火はつけず、指先で器用にくるくると回し始めた。その目は、ひどく退屈そうに霧島を見つめている。
「……沈黙、ですか」
霧島が眼鏡を指で押し上げ、口角を深く吊り上げた。
「なぜ何も聞かないのです? 第一の爆弾は港区の廃ビル、第二は新宿区の解体予定のビル。これらに共通する法則性と、現場に残した犯行声明文の心理分析から、私のアブノーマルな心理を分析するのではないのですか? あなたのその『現場主義のプロファイリング』とやらで」
大黒はタバコを回す指を止めず、淡々と答えた。
「必要ない」
「ほう?」
「お前の頭の中にある薄っぺらい自己顕示欲のカタログを、いちいち声に出して読んでやる趣味はないんでね」
大黒の冷ややかな一瞥に、霧島のこめかみがピクリと動いた。
だが、霧島はすぐに冷静さを取り戻し、自らの「専門領域」で大黒を圧倒しようと、言葉の刃を振りかざした。
「強がりはよしてください、大黒警部補。……私が代わりに、あなたの今の心理状態をプロファイリングして差し上げましょうか」
「言ってみろ」
「あなたは今、極度のプレッシャーと焦燥感に苛まれている」
霧島は手錠の鎖をチャリと鳴らし、自信満々に大黒を指差した。
「第一に、そのタバコだ。火もつけずに指先で弄ぶ行為は、典型的な代償行動。内心の不安や動揺を抑え込むために、無意識に手元へ意識を集中させている」
「……」
「第二に、あなたの視線の動きだ。先ほどから私の目ではなく、私の左肩やネクタイの結び目あたりをぼんやりと見ている。これは、私の表情から嘘を見抜こうとするあまり、全体像を捉えようとする心理的硬直状態の表れだ」
大黒は無表情のまま、タバコを弄ぶ指の速度を少しだけ遅くした。
「そして第三に……これが最も致命的だ」
霧島が、勝利を確信したように薄気味悪く笑う。
「今のあなたには、頼みの綱である『相棒』がいない。ニュースであなたの活躍は見ていますよ。言葉だけで犯人を追い詰める異端児。だが、それは橘刑事という完璧な証拠収集係が、裏で物証を固めてくれるから成立する手品だ。今日は彼女がいなくて、さぞ心細いでしょう?」
マジックミラー越しに隣の部屋で監視していた目暮警部と高木刑事が、息を呑む。
「くそっ、大黒さんの痛いところを……!」高木が拳を握りしめた。
霧島は完全に、自分がこの場の「支配者」であると確信していた。
警察を翻弄し、名指しした天才プロファイラーを心理学の理論で丸裸にする。その傲慢な優越感が、彼の態度から滲み出ている。
「さあ、どうです? 武器を持たないあなたが、言葉のハッタリだけでこの私から答えを引き出せるとでも?」
取調室に、重苦しい沈黙が下りた。
大黒はゆっくりとタバコをシガレットケースに戻し、パチン、と乾いた音を立てて蓋を閉じた。
「……終わったか?」
大黒の声は、氷のように冷たく、そして一切の感情を排していた。
「ええ。反論があるなら……」
「大学の講義ならC判定だ」
大黒が、霧島の言葉を冷徹に遮った。
「な……」
「心理学の教科書、第三章の丸暗記だな。お粗末すぎてあくびが出る」
大黒は足を組み直し、パイプ椅子の背もたれに深く身を預けた。
「タバコを弄ぶのが代償行動? 違うな。俺はただ、お前のその退屈な顔を見ていると眠くなるから、指先を動かして脳を覚醒させているだけだ」
「強弁だ。では視線の動きは……」
「お前のネクタイの結び目を見ていたのは、その安物のシルクの柄が微妙に右にズレていて、俺の美意識をひどく刺激したからだ。直してやりたい衝動を抑えるのに必死だったよ」
大黒の小馬鹿にしたような返答に、霧島の顔から余裕の笑みが剥がれ落ちた。
「……減らず口を」
「お前は、人間の行動を教科書の枠組みに当てはめて満足しているだけの、頭の固い学者にすぎない。現場の血の匂いも、人間の底知れぬ悪意も知らない、机上の空論だ」
大黒はゆっくりと身を乗り出し、極細の針のような視線で、ついに霧島の瞳孔の奥を真正面から射抜いた。
「俺の相棒を舐めるなよ」
大黒のトーンが、一段階低く、そして絶対零度の冷たさを帯びた。
その瞬間、取調室の空気が一変した。まるで重力が倍になったかのような、息苦しいほどのプレッシャーが霧島を襲う。
「あいつがここにいないからと言って、俺の言葉の刃が鈍るわけじゃない。それに、お前のその『必死に天才を気取ろうとする、薄っぺらい自己顕示欲』を暴くのに、俺の優秀な相棒の手を煩わせる必要もない」
「な……何を」
霧島が反射的に背もたれに体を引く。大黒の眼光に、言葉以上の『殺気』を感じ取ったのだ。
「三年ぶりだな、霧島涼」
大黒が、静かに、しかし決定的な事実を突きつける。
霧島の表情が、雷に打たれたように完全に硬直した。
「お前は俺の顔を知っていても、俺はお前の顔なんて微塵も覚えていなかった。だが、その教科書のコピペみたいな退屈なプロファイリングを聞いて思い出したよ」
大黒は、事前に頭に叩き込んできた霧島の過去を、一枚のカードを切るように提示した。
「三年前。お前が大学の犯罪心理学講師として、自ら書き上げた『異常犯罪者の行動予測における統合的プロファイリング理論』という論文を、実地捜査への応用を提案するために警視庁に持ち込んだ日のことだ。偶然それを手にした俺は、数ページめくっただけでお前の目の前でゴミ箱に捨てた」
霧島の呼吸が、急激に荒くなる。
「『教科書のコピペ。現場を知らない学者の退屈なポエムだ』……俺はそう言ったはずだぜ」
「…………っ!」
「あの屈辱を根に持ち、自分の理論が完璧であることを証明するために、わざわざ連続爆破事件を起こして俺を指名した。……実に哀れで、惨めな動機だ」
大黒の言葉の刃が、霧島の分厚いプライドの皮を、一枚ずつ確実に剥ぎ取っていく。
「本物のサイコパスは、爆弾の場所を当てるゲームなんて面倒なことはしない。ただ純粋に破壊を楽しむか、あるいは明確な目的のために他者を支配するだけだ。お前のように、過去の私怨を引きずって『自分がいかに頭が良いか』を証明しようとするのは、強烈なコンプレックスの裏返しにすぎない」
「黙れ……! 貴様に私の何がわかる!」
霧島がパイプ椅子を鳴らして激高し、立ち上がろうとする。だが、手錠の鎖が冷たい音を立ててそれを阻む。彼の額には、先ほどまでの余裕とは無縁の脂汗が浮いていた。
「俺にはお前を完璧にプロファイリングできる」
大黒は一切の容赦なく、冷酷に言い放つ。
「連続爆弾魔としての完璧な犯行声明。警察を翻弄する手口。そして、自首してきてからのこの芝居がかったゲームの提案。……すべてが『本物の天才犯罪者』の模倣(コピー)だ」
大黒は爆弾の場所など一切聞いていない。ただ、目の前の男の「存在価値」そのものを否定しにかかっているのだ。
「お前は、大学の犯罪心理学のポストを外されたんだったな? 理由は『論文の独自性の欠如』だ。自分の理論が誰にも評価されず、世間から見向きもされなかった。だから、現実の世界で犯罪を演じることで、俺に復讐し、自分の優秀さを証明したかった。……だが、悲しいかな。お前の犯罪計画は、またしても過去の事件の継ぎ接ぎだ」
「黙れと言っているだろうが!!」
霧島が血走った目で大黒を睨みつける。
大黒は懐から再びシガレットケースを取り出し、冷たい金属の表面を指先でなぞった。
「わかるさ。なぜなら、お前は……」