夕闇が迫る太平洋。見渡す限りの群青の海原を、巨大な白い船影が滑るように進んでいた。
日本有数の財閥、旗本家が所有する豪華客船。波頭を赤く染め上げる西日が、メイン・ラウンジの巨大なガラス窓を透過し、天井から吊るされたバカラ製のシャンデリアに複雑な反射を生み出している。
本来ならば優雅なクルージングのひとときとなるはずのその空間に、突如として場違いに騒々しい声が響き渡った。
「いやあ、助かりましたよ! 定期船に乗り遅れちまって、どうなることかと思ったんですがね! ガッハッハ!」
ラウンジの入り口から、派手な口髭を生やしたスーツ姿の男が、遠慮のない笑い声を上げながらズカズカと足を踏み入れてきた。
その後ろから、呆れ顔でため息を吐く女子高生と、周囲を興味深そうに見回す眼鏡をかけた小学生の男の子が続く。
「ちょっとお父さん、声が大きいわよ。せっかく拾ってもらったんだから、少しは大人しくしててよね」
「なんだ蘭、いいじゃないか。旗本家って言えば、泣く子も黙る大富豪だ。こんな豪華客船にタダで乗れるなんて、俺の普段の行いが良いからに決まってる!」
女子高生の窘める声も意に介さず、口髭の男は豪華なソファーの感触を確かめるようにどさりと腰を下ろした。
その騒々しいやり取りを、ラウンジの少し離れた特等席から、静かに見つめる二つの視線があった。
「……なるほど。優雅なクラシックの演奏会に、場違いなソリストが乱入してきたというわけか」
警視庁捜査一課の大黒圭吾警部補は、見事なカッティングが施されたクリスタルグラスを片手に、シャンパンの立ち昇る泡を見つめていた。
彼の身を包むのは、この日のために仕立てさせたミッドナイトブルーのタキシード。胸元にはシルクのポケットチーフが完璧な角度で覗き、カフスボタンが薄暗い間接照明を反射して鈍く光っている。
ソファの背後に直立する相棒の橘刑事は、華やかな場でありながら一切の装飾を排した、漆黒のパンツスーツに身を包んでいた。足元はヒールではなく、機動性を重視したフラットなレザーシューズ。彼女の鋭い視線は、騒ぐ三人組を頭の先からつま先まで、まるで手荷物検査のX線のようにスキャンしている。
「旗本家の執事が、漂流しかけていた彼らを拾ったそうよ。男は毛利小五郎。都内で探偵事務所を開いているらしいわ。連れは娘の蘭と、居候の子供の江戸川コナン」
橘の報告に、大黒はふっと口角を上げ、グラスを傾けた。
「探偵、ね。毛利小五郎といえば、たしか警視庁の元先輩だ。……面白い連中が乗り込んできたもんだ。ミステリー映画なら、名探偵の登場はこれから必ず血の雨が降る合図だよ」
大黒がわざとらしく肩をすくめた時、その視線が、男の子——コナンと完全に交差した。
コナンは、大黒と橘の姿を捉えた瞬間、ピクリと足を止めた。眼鏡の奥の瞳が、子供らしからぬ鋭い観察の色を帯びる。
(……なんだ、あの二人?)
コナンの視線が、大黒のタキシードの着こなしやリラックスしきった姿勢、そしてその後ろで彫像のように直立する橘の姿を捉える。
(女の人は、あの立ち方……それに足運び。ただの客じゃない。要人警護のプロか? なら、あのソファーに座ってる男は旗本家の人間……いや、違う。あの男の目は、金持ち特有の傲慢な目じゃない。獲物を品定めするような……)
「おい、坊や」
コナンの思考を遮るように、大黒が滑らかな声で呼びかけた。
コナンがハッとして見上げると、大黒は薄い笑みを浮かべ、空いた手でシガレットケースを弄んでいた。
「随分といい目をしているな。だが、ここは大人たちの退屈な社交場だ。探偵ごっこができるようなおもちゃは置いてないぜ?」
「あ、あはは……! ごめんなさい、おじさんたち、すっごくかっこいいから見とれちゃって!」
コナンは即座に子供らしい無邪気な笑顔を貼り付け、頭を掻いた。
小五郎がそれに気づき、コナンを小突いてから大黒の方へ向き直った。
「おや、失礼。うちのガキがじろじろと。……ところで、あんたたちもこの船の客で? 私は名探偵の毛利小五郎と申します」
小五郎が名刺を差し出そうとするが、大黒はグラスを持ったまま微動だにしない。ただ、極細の針のように目を細め、小五郎をリスペクトと皮肉の入り交じった視線で見つめた。
「……なるほど。元刑事殿の目には、この船に漂い始めた『死の匂い』がすでに見えているというわけか。俺はただのしがないサラリーマンさ。そっちのおっかない秘書と一緒に、上司のお守りをさせられてる」
大黒が親指で橘を指し示すと、橘の眉間がピクッと険しく寄った。
「誰がおっかない秘書よ、この詐欺師」
橘が低い声で凄むと、大黒は大げさにため息を吐いた。
コナンは、その短いやり取りの中に隠された二人の確かな信頼関係と、絶対に『ただのサラリーマン』ではない圧倒的な場慣れ感を確信していた。
(……只者じゃない。何かの事件で潜入してる警察か?)
「まあいい。探偵サン、あんたたちのそのからくりを解く腕前は本物だろう。せいぜい美味しいディナーでも楽しんでくれ。ただし、あんたたちの優秀な『嗅覚』が、よからぬ何かを刺激しなければいいがね」
大黒が意味深に微笑むと、小五郎は「はあ……?」と首を傾げ、蘭に促されてダイニングの方へと歩き去っていった。コナンだけが、最後にもう一度、油断なく大黒を振り返ってからその後を追った。
「……優秀な目を持った子供ね。あなたの嘘なんて、完全に見透かされていたわ」
橘が忌々しそうに呟く。
「構わないさ。あの探偵たちは、物理的なパズルを解くことにかけては下手な鑑識より上だ。からくりは彼らに任せて、俺たちは大人の仕事をしよう」
「相変わらず、美味しいところだけ持っていく気満々ね。でも、その悪魔的な観察眼だけは評価してあげる」
「ありがとう、相棒。最高の褒め言葉だ」
大黒は嬉しそうに口角を上げ、タキシードの襟を正した。
「俺のファンクラブ会員第一号として、この胸のチーフにサインでもしてやろうか?」
「結構よ、ナルシスト」
橘の手帳の角が、大黒の脇腹に深く突き刺さる。
大黒が短く呻くのを尻目に、橘は冷ややかな視線を前方に向けた。
「さて、雑談は終わりね。雇い主である旗本豪蔵氏の親族たちが、いよいよ晩餐の席に揃ったみたいよ」
大黒の視線の先、船内の中央に位置するメイン・ダイニングでは、専属の一流シェフが腕を振るったフルコースが豪奢なテーブルに並べられていた。しかし、空間を満たしているのは芳醇なソースの香りではなく、吐き気を催すほどの濃密な悪意だった。
銀製の重いカトラリーが、陶器の皿と乱暴に触れ合う。甲高い笑い声と、冷笑、そして底意地の悪い溜息が、波の音を掻き消すように響き渡っていた。
「……反吐が出るような探り合いだな。見ていられない」
大黒が再びシャンパンを口に含む。
「当主から溺愛される無垢な孫娘と、どこか影を引きずる正体不明の新郎。遺産を巡って牽制し合う親族たち。……こんな古典的な愛憎劇を、逃げ場のない閉鎖空間で堂々と繰り広げるとはね」
大黒の視線の先には、旗本家の面々が露骨に牽制し合う姿があった。
孫娘である夏江と武の結婚式を旗本島で終え、東京へ帰る途中のこの船内には、触れれば火花が散りそうなほどの殺伐とした空気が充満している。
「人間観察もいいけど、周囲の警戒にも少しは神経を使いなさい、大黒。豪蔵氏が部屋から出てこないからって、気を抜く暇はないわよ」
橘が周囲をスキャンし続けながら言う。
「警戒なら橘、お前のその優秀な目が完璧にこなしているじゃないか。俺の仕事は、親族たちの動機をプロファイリングしておくことだ」
大黒の視線の先で、長女の麻理子がワイングラスを無作法に置き、赤い口紅を引いた唇を歪めた。ドンッ、という乱暴な音が響き、赤ワインの飛沫が純白のテーブルクロスを汚す。
「お父様ったら、せっかくのディナーだというのに部屋に引きこもって……。本当に、誰のせいでこんな陰気な船旅になっているのかしらね」
麻理子の鋭い視線が、新郎の武へと突き刺さる。武は気まずそうに目を伏せ、隣に座る純白のドレス姿の夏江が、庇うように彼の腕に手を添えた。
「叔母様、そんな言い方……」
「事実じゃない。お父様がご機嫌斜めなのは、あなたのその『素晴らしい』旦那様の素性が気に入らないからでしょう?」
「まあまあ、麻理子。せっかくの夏江の門出なんだから」
夫である北郎が宥めるが、麻理子は鼻で笑って夫を睨みつけた。彼女のフォークが、皿の上の肉を親の仇のように強く突き刺している。
「あなたみたいなどこぞから拾われてきた養子には、旗本家の誇りなんて分からないでしょうね」
その言葉に、派手な毛皮のストールを羽織っていた秋江が、グラスを弄りながら甲高い笑い声を上げた。
「本当よねえ。おじい様も、財産を全部夏江に譲るなんて言い出すからおかしくなるのよ。ねえ、竜男?」
秋江の夫、竜男は、食事のマナーなど気にも留めず、両手で掴んだ骨付き肉に貪りついていた。口の周りを脂でテカらせながら、下品な音を立てて肉を噛みちぎる。
「違いねえ。まあ、遺言書なんて書き直させりゃいいだけの話だ。なあに、俺たちには俺たちのやり方がある」
竜男のギラついた目が、獲物を狙うように細められる。
欲望、嫉妬、保身、そして軽蔑。誰もが己の取り分だけを計算し、隙あらば隣人を蹴落とそうとしている。
大黒は極細の針のように目を細めた。
「見ろ、橘。誰もが腹の底で『当主の死』を望んでいる。夏江という無垢な娘に全財産が渡る前に、あの老人がくたばってくれればいいと、全員の顔に書いてある」
「だからこそ、私たちが秘密裏に護衛として呼ばれたんでしょう。豪蔵氏は、親族からの殺意に気づいていた」
大黒の視線が、テーブルの最も端に座る一人の青年に止まった。
麻理子と北郎の息子である一郎。彼は豪奢な食事には一切手を出さず、膝の上に広げたスケッチブックに黙々と木炭を走らせていた。
ガリッ、ガリッ。
静かなダイニングに、不快な摩擦音が響いている。一郎の手首は異常に強張っており、木炭が折れるのではないかというほどの強い筆圧で、スケッチブックに黒い線を刻み込んでいた。
そして、その目は時折スケッチブックから離れ、斜め向かいに座る夏江の横顔へ向けられる。
暗く、濁った瞳孔。瞬き一つせず、夏江の白い肌や髪の揺らぎを舐め回すようなその視線は、もはや好意の域を逸脱していた。
「……気味の悪い視線ね」
「ああ。あれは純粋な祝福じゃない。手に入らない美しい美術品を、無理やりにでも自分のものにしようとする類の視線だ。嫉妬を通り越した、暗い情念の塊。……実に分かりやすいノイズだよ」
大黒がシャンパンを飲み干そうとした時、ダイニングの扉が勢いよく開き、執事の鈴木が顔面を蒼白にして転がり込んできた。
「だ、誰か……! 誰か来てくれええっ!!」
悲鳴のような声が、優雅なディナーの空気を一瞬で真空に引き戻す。
「だ、旦那様が……! 豪蔵様が、お部屋で、血まみれで……!」
空気が完全に凍りついた。
数秒の空白の後、旗本家の面々が椅子を蹴り倒すようにして一斉に立ち上がる。夏江が短い悲鳴を上げ、武が彼女の肩を抱き寄せた。
「私は現場の安全を確保する!」
橘が叫ぶと同時に、漆黒のパンツスーツを翻して廊下へと駆け出した。
大黒は慌てふためく旗本家の人々や、食事を放り出して駆け出す小五郎たちの背中を見送りながら、ゆっくりとした足取りで歩き出した。その唇には、冷たく研ぎ澄まされた刃のような弧が描かれている。
旗本豪蔵の個室の前。
橘がいち早く半開きになった扉の前に立ち、内部を一瞥する。
薄暗い室内の中央。ペルシャ絨毯の上で、旗本家当主・豪蔵が、自身の血だまりの中でうつ伏せに倒れていた。
橘は即座に警察手帳(身分証部分は隠したまま)を取り出し、背後に群がる人々に鋭い視線を向けた。
「全員、この場から下がって! 室内には絶対に入らないで!」
しかし、毛利小五郎だけは「おい、どけ! 俺は名探偵の毛利小五郎だ!」と叫びながら、橘の制止を振り切って現場に首を突っ込んでくる。
数秒遅れて大黒が廊下に姿を現した。
毛利小五郎が死体の周囲を歩き回り、得意げに声を張り上げる。
「ふむ……! 凶器はこの床に落ちている血まみれの包丁。そして、ドアの隙間には血痕がついている。……おや? 遺体のそばに落ちている、この花は……!」
小五郎の足元、大人の死角になるような低い位置で、コナンが床に落ちている花や血痕の飛び方を真剣な目で凝視していた。その小さな手は、ドアの前の廊下に微かに残る血痕と、そのすぐそばに落ちている不自然な『パンの欠片』に伸びようとしている。
スッ、と背後から伸びた手が、コナンの襟首を軽く摘まみ上げた。
「うわっ!?」
「おいおい坊や。ここから先はR指定だ。血生臭いお遊戯の時間は終わり。探偵サンの真似事は、保護者の背中でやりな」
大黒が薄く笑いながら、コナンを小五郎の後ろへとひょいと追いやった。茶化すような口調だが、その所作には子供を凄惨な現場から遠ざけようとする警察官としての絶対的な線引きがあった。
コナンは悔しそうに唇を噛みつつも、「あ、ごめんなさい……」と子供らしく頭を下げて一歩引いた。しかし、その目は依然として現場の矛盾を射抜こうと光り続けている。
小五郎が指差した先には、花びらの千切れた一輪のシャクヤクが落ちていた。
その花を見た瞬間、親族たちが一斉に息を呑む。
「あれは……武さんのスーツの胸に飾ってあった花!」
秋江が金切り声を上げた。
全員の視線が、武に突き刺さる。
「き、君たち……! 私はやってない!」
武が後ずさるが、竜男が武の胸ぐらを掴み上げる。
その時、長男の祥二が、信じられないものを見るような目で武を指差した。
「ま、まさか……お前……! そうか、だから親父はお前との結婚に反対していたんだ! お前は、十年前に親父に会社を乗っ取られて自殺した、財城産業の社長の息子だな!」
祥二の叫びが、廊下に雷鳴のように響き渡った。
「なっ……財城産業の息子!?」
「じゃあ、この家に入り込んだのは……復讐のためだったのね!」
麻理子がヒステリックに叫び、夏江が信じられないという顔で武を見つめた。
「武さん……本当なの……?」
夏江の震える声に、武は力なく首を縦に振った。
「夏江、違うんだ! 私は確かに復讐のために君に近づいた……でも、君を愛してしまったんだ! だから、殺しなんて絶対にやっていない!」
武の悲痛な叫びをかき消すように、次々に罵声が浴びせられる。
小五郎もまた、「動機も証拠も揃っている。決まりだな」と自信満々に腕を組んでいる。
大黒は壁に背中を預け、タキシードのポケットに手を入れたまま、その騒ぎを静かに見つめていた。
誰もが武を犯人と決めつけ、安堵と保身の入り混じった醜い顔をしている。
だが、ただ一人。
画家の青年・一郎だけは違った。
彼は騒ぎの輪の最も外側に立ち、俯き、小刻みに肩を震わせている。その視線は、泣き崩れる夏江に執拗に、そして歪んだ歓喜を帯びて注がれていた。
さらに大黒の異常な視力は、一郎が強く握りしめた拳の爪の間に、微かな『黒っぽい汚れ』がこびりついているのを見逃さなかった。先ほどスケッチブックに乱暴に刻み込んでいた木炭の粉だ。
「橘」
大黒が低く、滑らかな声で呼ぶ。
「何よ」
「探偵サンたちが、得意のパズルゲームで表舞台を回してくれている間に、俺たちは裏方の仕事を始めるぞ。武は犯人じゃない。あいつはただの分かりやすいスケープゴートだ」
「どうしてそう言い切れるの」
「武は復讐のためにこの家に潜り込んだ男だ。もし本当に豪蔵を殺す気なら、自分のトレードマークである花を現場に落としていくような初歩的なヘマはしない。あれは周囲の目を欺くための、あまりにもわざとらしい偽装だ」
大黒は顎で、一郎を指し示した。
「旗本一郎の部屋を洗え。彼が使っている画材と、スケッチブックの内容だ。それと、遺体の周辺。血痕の飛び方と、凶器の柄に残された指紋の有無。探偵が騒いでいる間に、確固たる証拠を集めておけ」
橘は小さく頷き、改めて大黒の横顔を見つめた。
「……少しはまともな頭の使い方ができるじゃない」
「少し、は心外だな。ハリウッドなら俺のこのプロファイリングだけで三部作の映画が作れるぜ」
大黒がドヤ顔でウインクを飛ばすと、橘は大きなため息を吐いた。
「調子に乗らないで、お調子者。私が集めるのは事実だけよ。あなたのハッタリを補強する道具じゃないわ」
「わかっているさ。あの探偵サンの執念と観察眼は本物だ。だが、彼らに解けるのは目に見えるからくりだけ。武を倉庫に閉じ込めれば、真犯人は自分が疑われていないと錯覚し、必ず次の行動を起こす。……俺たちの仕事は、暗がりに潜む真犯人の『心』を抉り出すことだ」
大黒の顔に、獲物を確実に追い詰める捕食者の笑みが浮かぶ。
彼は武を糾弾する名探偵たちに背を向け、一人、静かな船内の廊下へと歩き出した。