深夜の太平洋。
荒れ狂う潮風が、豪華客船『オーシャン・シンフォニー号』の甲板を容赦なく打ち据えていた。
暗闇に包まれた船尾のデッキには、生温かい血の匂いが充満している。
床に転がっているのは、旗本家の次女・秋江の夫である竜男の撲殺体だった。頭部から流れた血液が、波の飛沫と混ざり合って無残な染みを作っている。
「間違いない! 倉庫を抜け出した武の仕業だ!」
毛利小五郎の怒声が、風切り音を裂いて響き渡った。
親族たちが恐怖に顔を引き攣らせて固まる中、その輪の中心で、画家の青年・一郎が痛みに顔を歪めてしゃがみ込んでいた。彼の右太ももには深々と刃物が突き立てられており、ズボンが黒赤く染まっている。
「……武さんだったよ。暗がりから急に現れて、竜男義兄さんを鉄パイプで殴り殺した……。僕が止めに入ったら、いきなり刺されて……」
一郎が荒い息を吐きながら証言すると、長女の麻理子がヒステリックな悲鳴を上げた。
「ああ、恐ろしい! あの男、復讐のために私たちを皆殺しにする気よ!」
誰もがパニックに陥り、見えない凶刃の影に怯えている。
だが、大人たちが武への憎悪と恐怖を募らせている足元で、ただ一人、コナンだけが床に這いつくばるようにして遺体の周辺や一郎の傷を観察していた。
(……おかしい。一郎兄さんを刺した刃物の角度……どう見ても自分で刺したようにしか見えないぞ。それに、さっき豪蔵さんのお部屋の前の廊下に落ちていた、あの『パンの欠片』。……誰かが、廊下の血痕を拭き取った時に落としたものだとしたら……)
コナンが鋭い視線で証拠の矛盾を組み立てようとした、まさにその時だった。
バリバリバリバリッ!
夜空を切り裂くような、鼓膜を圧迫する強烈なローター音が頭上から降り注いだ。
全員が驚いて空を見上げる。
漆黒の雲を割って降下してきたのは、サーチライトを眩しく輝かせる警視庁の大型ヘリコプターだった。
強烈なダウンウォッシュが海水を巻き上げ、親族たちが悲鳴を上げて顔を覆う。
ヘリコプターが最上甲板のヘリポートへゆっくりと着陸し、サイドドアがスライドして開いた。
身を屈めながら降りてきたのは、仕立ての良いベージュのスーツに身を包み、強風の中でも完璧にセットされた髪を乱さない男——警視庁捜査一課の白鳥任三郎警部だった。
ヘリポートの入り口で彼を出迎えたのは、強風の中でミッドナイトブルーのタキシードの袖を優雅に払う大黒と、一切のブレなく直立する漆黒のパンツスーツの橘だった。
「まさか、ただの遺産相続の揉め事で警視庁のヘリが出動するとはね。派手な登場がお好きなようで、お堅いエリート殿」
大黒が薄い笑みを浮かべて声をかけると、白鳥はフッと鼻で笑い、スーツの襟を正した。
「旗本家は日本経済の太い柱だからね。彼らをいつまでも海の上に留め置くわけにはいかないよ。それに、君から直々に『至急の身辺調査』を頼まれるなど、珍しいこともあるものだと思ってね」
「白鳥警部。わざわざのご足労、ありがとうございます」
橘が一歩前に出て、非の打ち所のない完璧な敬礼を見せる。大黒に対する普段の棘のある態度とは打って変わった、元SPとしてのプロフェッショナルな顔だった。
「ご苦労様、橘君。大黒君のお守り、いつも大変だね」
「ええ。この問題児を海に投げ捨てたくなる衝動を抑えるのに、毎日苦労しています」
橘が表情一つ変えずに言い放つと、大黒は大げさに肩をすくめた。
「相変わらず手厳しい相棒だ。それで、白鳥警部。頼んでおいた『身辺調査の資料』は持ってきてくれたんだろうな?」
大黒の目が、ヘリポートの誘導灯の光を反射して鋭く光る。
白鳥は革製のブリーフケースを開け、一枚の分厚いファイルを橘へと手渡した。
「ああ、本庁のデータベースと僕の個人的なネットワークをフル活用して調べ上げたよ。……大黒君のプロファイリング通りだ。旗本一郎。彼の美術品に対する『執着行動』は、もはや正常な範疇を超えている」
橘がファイルを素早く開き、ペンライトの光を当てて文字を追う。その端正な眉が、次第に険しく寄せられていった。
「……なるほど。大黒、あなたの言う通りね。これなら、あの異常な視線にも納得がいくわ。私が先ほど彼がディナーを抜けた隙に部屋から回収した『物証』とも、完全にピースが噛み合う」
「上出来だ。白鳥警部、あんたのその歩くウィキペディアみたいな頭脳には、いつも感服するよ」
「褒めても何も出ないよ、大黒君。で? 肝心のからくりは解けたのかい?」
白鳥の問いに、大黒はふっと口角を上げた。
「物理的なからくりなんて、手品と同じだ。そんなものは、下の階で走り回っている『探偵サマ』に解かせておけばいい」
大黒は踵を返し、船内へと通じる重厚な扉へ向かって歩き出した。
「さあ、そろそろ終わらせようか。悲劇の被害者の化けの皮を剥がす時間だ」
夜が明けるにはまだ遠い、深夜のメイン・ラウンジ。
怯える親族たちが集められたその部屋では、毛利小五郎がこれ見よがしに咳払いをし、得意げな顔で腕を組んでいた。
「……つまり! 倉庫を抜け出した武が、甲板で竜男さんを撲殺した。そして、止めに入った一郎くんを刺して逃走した! 動機も状況証拠も、すべてが武の犯行を裏付けている!」
小五郎の断言に、夏江が「そんな……武さんが……」と両手で顔を覆って泣き崩れる。
ソファに座らされ、足の応急処置を受けた一郎は、痛みに耐えるように俯きながら、その様子をじっと見つめていた。
コナンが小五郎の足元で、わざとらしい高い声を上げる。
「あれれー? おじさん、もし武さんが犯人なら、おじいさんのお部屋の前の廊下に落ちてた『パンの切れ端』って何だったの? 武さん、パンなんて持ち歩いてないよね?」
「ええい、うるさい! 誰かの食べこぼしに決まってるだろうが!」
コナンが決定的な矛盾を突きつけようとした、その瞬間だった。
パンッ、パンッ、パンッ。
ラウンジの入り口から、乾いた拍手の音が響き渡った。
全員の視線が一斉に入り口へ向く。
そこには、大黒圭吾がゆっくりと手を叩きながら立っていた。その後ろには、氷のような視線を放つ橘と、静かに室内を見渡す白鳥警部が控えている。
「素晴らしい観察眼だ、坊や。だが、名探偵サンの見ているパズルは、盤面が最初から歪んでいる」
大黒はゆっくりとした足取りで部屋の中央へ進み出る。その圧倒的な存在感と、背後の「本物の警察官」たちの威圧感に、小五郎も親族たちも言葉を失って口を閉ざした。
「武氏は犯人じゃない。彼はただ、都合よく利用されただけの分かりやすいスケープゴートだ。違うか?」
大黒の冷たく研ぎ澄まされた視線が、小五郎からスッと外れ、ソファで俯く一郎へと固定された。
一郎の肩が、ビクッと大きく跳ねる。
「な、なんのことですか……僕は、武さんに刺されて……」
「ええ、わかっていますよ」
白鳥警部が一歩前に出て、静かな、しかし威圧感のある声で告げた。
「旗本一郎さん。あなたのその足の傷。刃物が突き刺さった角度と、ズボンに付着した血痕の飛沫の方向から見て、他人に刺されたものではない。……自分で自分の太ももを刺すのは、さぞ痛かったでしょうね」
親族たちが息を呑む。麻理子が信じられないという顔で一郎を見つめた。
「い、一郎……? 何を言ってるの、この人たちは……」
「ち、違う! 僕はやってない! 武さんがやったんだ!」
一郎が立ち上がろうとするが、足の痛みで顔を歪めて再びソファに倒れ込む。
橘が手にしたファイルを冷徹に開き、淡々と事実を読み上げ始めた。
「旗本一郎さん。私が先ほど、あなたの自室のダストボックスから回収したものを報告します。当主である旗本豪蔵氏の血液が微量に付着した、木炭のデッサン用手袋。そして……細かく引き裂かれた、夏江さんの似顔絵のスケッチです」
夏江がハッとして顔を上げる。
一郎の顔から、スッと血の気が引いた。
「なぜ、夏江さんのスケッチが引き裂かれていたのか。……動機は明らかですね」
橘の鋭い視線が一郎を射抜く。
コナンが目を見開き、大黒と一郎を交互に見つめた。
(そうか……! あのパンの欠片は、木炭デッサンの『消しゴム』代わりにする食パンだ! 豪蔵さんの部屋の廊下に落ちた血痕を拭き取った時に、袖から落としたんだ!)
大黒が、一郎の目の前まで歩み寄った。
タキシードのポケットに手を入れたまま、見下ろすように冷酷な言葉の刃を突き立てる。
「君は、夏江氏を愛していた。だが、彼女は武氏と結婚してしまった。どうしても諦めきれなかった君は、当主である豪蔵氏に直談判に行った。……しかし、あの傲慢な老人は、君の想いを『薄汚い欲望』だと一蹴し、君の宝物であるスケッチブックを破り捨てた」
一郎の息が止まる。
大黒の声は、ラウンジの空気を凍らせるほど冷たかった。
「それが、君の貧弱なプライドの逆鱗に触れた。君はカッとなって豪蔵氏を刺し殺し、廊下の血痕を拭き取った際、デッサン用のパンの欠片を落とすという初歩的なミスを犯した。さらに現場に花を落として武氏に罪をなすりつけ、勘付いて脅迫してきた竜男氏を甲板で撲殺した。最後に自分の足を刺し、悲劇の被害者を装った。……実に稚拙で、身勝手な犯行だ」
「ち、違う……!」
一郎が両手で頭を抱え、獣のようなうなり声を上げた。
「おじい様が悪いんだ! 僕の心を……夏江さんへの純粋な愛を、あんな風に踏みにじるから! 僕はただ、夏江さんを……!」
「愛だと?」
大黒の低く、滑らかな声が、一郎の叫びを完全に叩き潰した。
「映画『コレクター』を観たことがあるか? 美しい女性を蝶のように標本にして監禁する、狂気の青年の物語だ。……君のそれは愛じゃない。美しい美術品を自分だけのショーケースに飾りたいという、ひどく独りよがりな所有欲だ」
大黒は極細の針のように目を細め、一郎の心の最も柔らかい部分を容赦なく抉り出す。
「本当に彼女を愛しているなら、身内を殺して彼女を悲しませるような真似は絶対にしないはずだ。君の犯した罪は、君の描く絵と同じ。表面だけを取り繕い、自己満足の愛情を塗りたくっただけの、中身のない贋作だよ」
沈黙が、ラウンジを重く支配する。
一郎の口から力が抜け、彼は両手で顔を覆ったまま、今度は嘘ではない本当の嗚咽を漏らし始めた。麻理子が泣き崩れ、夏江が信じられないという顔で一郎を見つめている。
小五郎が唖然として立ち尽くし、コナンは大黒の背中を、戦慄と圧倒の入り混じった目で見つめていた。
(……これが、大黒刑事たちのやり方か。目暮警部たちのように、揺るぎない客観的な証拠を突きつけて追い詰めるだけじゃない。言葉の刃で、犯人の『心』を完全にへし折っちまった……)
「白鳥警部。後の身柄確保と調書の作成は、本庁のエリート部隊にお任せしますよ。俺は少し、頭を使って疲れた」
大黒が振り返り、白鳥に向かってウインクを飛ばす。
「ああ、引き受けよう。見事な手際だったよ、大黒君」
白鳥が部下たちに指示を出し、泣き崩れる一郎に手錠がかけられる。
大黒はタキシードのフロントボタンを外し、優雅な足取りでラウンジの出口へと向かった。
しかし、その前に橘が立ちはだかり、手帳の角を大黒の胸板に軽く押し当てた。
「どこへ行く気?」
橘の氷点下の声が響く。
「決まっているだろう。バー・ラウンジだ。この船には、最高の年代物のバーボンが積んであるらしい。事件が片付いた今、俺は美酒を味わう権利がある」
「……この酔っぱらい。白鳥警部がいらっしゃっている前で、少しは真面目に働きなさい」
橘が手帳の角を持った手に力を込める。大黒は胸を大げさに押さえて呻いた。
「痛い痛い! わかった、わかったからその凶器をしまってくれ! ……白鳥警部、後の始末は頼んだよ。俺はバーボンと、橘の冷ややかな視線をつまみに、事件の余韻に浸るとするさ」
夜明けの光が、荒れ狂っていた太平洋の波間を静かに照らし始めていた。
豪華客船の廊下に、いつものように響き渡る大黒の軽口と橘の冷ややかなツッコミが、波音に溶けていった。