初夏の潮風が、相模湾の水面を滑るように吹き抜け、伊豆の高台に建つ豪奢なリゾートホテル『伊豆プリンセスホテル』の巨大なパノラマウィンドウを叩いていた。
陽光が降り注ぐ広大なロビーラウンジ。その片隅の、周囲から微妙に隔離されたような特等席に、場違いなほど洗練された雰囲気を放つ二人の男女が座っていた。
「ブライアン・シンガー監督の『ユージュアル・サスペクツ』という映画を知っているか? 橘」
大黒圭吾は、アイス・ティのグラスを傾け、氷の立てる涼やかな音を楽しみながら薄く笑った。南国のリゾートという舞台に合わせ、今日は仕立ての良いベージュのサマーウールスーツに、淡いブルーのリネンシャツという軽快な装いだ。
「全員が犯罪者で、全員が嘘つき。互いに疑心暗鬼に陥りながら、正体不明の伝説のギャング『カイザー・ソゼ』の影に怯える。だが、真の黒幕は最も警戒されていない場所から、足を引きずりながら悠然と歩き去っていく。……誰も信用できない犯人当てゲームの最高峰だ」
大黒の対面で、橘はレモンスカッシュのグラスに触れることもなく、無感情な視線でロビーを行き交う宿泊客たちをスキャンし続けていた。ネイビーのパンツドレスというリゾート仕様の装いだが、足元はヒールではなく踏み込みの効くフラットパンプスだ。
「映画の講釈はどうでもいいわ、このシネマ中毒。それより、なぜ本庁の私たちが、サイバー犯罪対策課の尻拭いでこんなお遊びのツアーに付き合わされているのか。その不条理に対する愚痴なら聞いてあげる」
橘の氷点下の声が、夏の熱気を相殺するように響く。
「不条理? とんでもない。幻のコンピューターウイルス『闇の男爵』のプログラムデータ。その開発者か、あるいは売人が、この『伊豆ミステリーツアー』の参加者の中に潜んでおり、極秘裏にデータの売買が行われる。……俺たちはそれを内偵し、現場を押さえる。特等席での人間観察としては文句なしのシチュエーションじゃないか」
大黒がストローを咥えようとした、その時だった。
「おーい、蘭! チェックイン済ませたぞ! ほら、ボウズも早く来い!」
ロビーの入り口から、派手なアロハシャツ姿の毛利小五郎が、遠慮のない大声を張り上げながら歩いてきた。
後ろには呆れ顔の蘭と、周囲を鋭い目で見回すコナンが続いている。
「ちょっとお父さん、ホテルの中なんだから大声出さないでよ。阿笠博士の風邪のおかげでタダで来られたんだから、少しはお行儀よくしてよね」
「なんだよ、せっかくの伊豆だぞ! それに、このツアーで事件の謎を解けば、宿泊費タダの上にコンピュータープログラムのフロッピーがもらえるって話じゃねえか。名探偵の俺様がちゃっちゃと解いてやるさ!」
小五郎と蘭の騒々しいやり取りを耳にした大黒は、グラスをソーサーに置き、ふっと口角を吊り上げた。
「……なるほど。どうやらこのミステリーツアーには、伝説のハッカーよりもよっぽど厄介な『招かれざる客』が招待されていたらしい」
大黒の呟きに、橘が深い溜息を吐く。
「……あの探偵たちね」
コナンは、ロビーの調度品を観察していた視線をスッと動かし——そして、優雅に脚を組んで座る大黒と、彫像のように直立する橘の姿を捉え、ピタリと動きを止めた。
(……大黒刑事に、橘刑事! なんで警視庁の本庁組が、伊豆のホテルに……!?)
コナンの瞳に、瞬時に鋭い警戒の色が走る。
この前の豪華客船の事件で見せた、あの男のえげつない心理誘導と、女刑事の完璧な制圧術。彼らがただのバカンスでここにいるとは、到底思えなかった。コナンが大黒を凝視していると、大黒はわざとらしく片手を上げ、人懐っこい笑顔を作って見せた。
「やあ、坊や。奇遇だね。探偵サンも、まさか伊豆のツアーに参加しているとは。相変わらず波瀾万丈な人生を送っているようで何よりだ」
小五郎が大黒の声に気づき、目を丸くして歩み寄ってくる。
「あんた……たしか、旗本家の船にいた……」
「大黒です。今回は休暇でしてね。俺の相棒の橘の慰安旅行を兼ねて、伊豆の太陽を浴びに来たんですよ」
大黒が嘘八百を並べ立てると、橘の右足がテーブルの下で大黒のすねを正確に蹴り抜いた。
大黒が短く呻くのを尻目に、コナンが無邪気な声を上げる。
「ねえねえ、大黒刑事たち! お仕事のお休みで来たの? それとも、ここで誰か悪い人を待ってるの?」
コナンの子供らしい声色に隠された、明確な『探り』。
大黒は極細の針のように目を細め、コナンの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「ただのバカンスだよ、坊や。……だが、あんたたちという『疫病神』がやってきた以上、このお遊びのツアーが血生臭い事件に早変わりしないか、少しばかり心配になってきたよ。俺は死体なんて見たくないからね」
「……疫病神ってなんだよ、目暮警部みたいなこと言いやがって」
小五郎が不満げに呟いた時、ツアーの主催者側から「参加者の皆様、そろそろツアールームへご案内いたします」とアナウンスが入った。
「まあいい。探偵サン、あんたたちのそのからくりを解く腕前は本物だろう。せいぜいミステリーツアーを楽しんでくれ。ただし、あんたたちの優秀な『嗅覚』が、よからぬ本物の事件を呼び込まなければいいがね」
大黒が意味深に微笑むと、小五郎は「はあ?」と首を傾げ、蘭に促されてエレベーターの方へと歩き去っていった。コナンだけが、最後にもう一度、油断なく大黒を振り返ってからその後を追った。
「……優秀な目を持った子供ね。あなたの嘘なんて、完全に見透かされていたわよ、ホラ吹き男」
橘が忌々しそうに呟く。
「構わないさ。あの探偵たちは、物理的なパズルを解くことにかけてはプロ中のプロだ。今回のツアーの裏に隠された黒幕の正体を暴くための、優秀な手駒になってくれる」
夕刻。
ホテル内のフレンチレストランは、ミステリーツアーの参加者たちの顔合わせの場となっていた。
豪華なシャンデリアの下、丸テーブルを囲む参加者たちの間には、和やかな空気など微塵も存在しなかった。互いが互いを「主催者ではないか」と疑い、腹の探り合いをするピリピリとした緊張感が充満している。
大黒と橘は、彼らから少し離れたテーブル席に陣取り、ワイングラスを傾けながらその様子を冷ややかに俯瞰していた。
「橘。ターゲットを復唱しろ」
大黒がグラスの縁を指でなぞりながら、低く滑らかな声で命じる。
橘は視線を参加者たちのテーブルに向けたまま、一切の淀みなく答えた。
「江原時男。腕利きのハッカーであり、今回のツアーで『闇の男爵』のウイルスデータを売り捌くという情報がある男。そしてもう一人が、上條秀子。コンピューターソフト会社の社長。彼女の会社は最近経営が傾いており、起死回生の手段として江原からウイルスデータを買い取ろうとしている形跡がある」
大黒の視線の先。
江原時男は、すでにワインを何杯も煽り、顔を赤くして下品な笑い声を上げていた。彼は隣の席に座る蘭にじっとりと絡みつくような視線を向け、あろうことか彼女の肩に馴れ馴れしく腕を回した。
「いやあ、お嬢ちゃん可愛いねえ。こんなツアー、俺がパパッと謎を解いてやるから、後で俺の部屋に……」
「や、やめてください!」
蘭が身をよじって逃れようとした瞬間、江原の手首を、隣に座っていた長身の青年がガシッと力強く掴んだ。
「嫌がっているじゃないですか。やめなさい」
青年の声は静かだが、その握力と体幹のブレなさは、彼が只者ではないことを示していた。
前田聡。城南大学の空手部主将であり、全国大会のチャンピオン。蘭の憧れの人物でもあった。
「い、痛えな! 何すんだ若造!」
江原が顔を歪めて腕を引き抜く。その見苦しい様子を、少し離れた席からコンピューターソフト会社社長の上條秀子が、氷のように冷たく、そして軽蔑に満ちた目で見つめていた。
「……実に分かりやすい構図だ」
大黒が赤ワインを一口含む。
「傲慢で隙だらけのハッカーに、それを嫌悪しながらもデータを利用しようと企む女社長。そして、正義感に溢れる若き空手チャンピオン。……あの江原という男、自分が優位に立っていると勘違いしているようだが、あんな脇の甘い男が黒幕なわけがない」
大黒の視線が、江原からスッと外れ、前田聡の隣で静かに食事を進めている女性へと固定された。
前田の婚約者である、佐山明子。
彼女は「ごめんなさいね、江原さんったらお酒が過ぎるみたいで」と周囲に愛想笑いを振りまいていた。
だが、大黒の異常な観察眼は、彼女の微細な『ノイズ』を見逃さなかった。
江原が下劣な声で笑うたび、彼女のナイフを握る指の関節が白く血の気を失い、微かに震えている。そして、江原が「俺様のハッキング技術にかかれば、どんな会社のセキュリティも紙切れ同然さ!」と自慢げに口にした瞬間——佐山明子の瞳孔が収縮し、呼吸がコンマ数秒だけ完全に停止した。
その直後、前田聡がテーブルの下で、彼女の震える手を庇うようにそっと握りしめたのを、大黒は見逃さなかった。
(……なるほど。見え透いた愛想笑いだ。あの女の笑顔の裏には、骨の髄まで焼き尽くすような暗く深い憎悪が沈んでいる。そして、前田はそれを知っていて庇おうとしている)
「大黒」
橘の声が、レストランの喧騒を遮断するように低く響く。
「江原のウイルス売買の取引だけど……」
「取引なんてもうどうでもいい」
大黒がワイングラスをテーブルに置き、極細の針のような視線で佐山明子を射抜く。
「金やデータへの執着より、もっとドロドロとした『殺意の悪臭』が、あのテーブルには充満している。……橘。俺の勘が正しければ、今夜、江原時男は確実に死ぬ」
夜十時。
海から吹き付ける強風が、ホテルの周囲の木々を激しく揺らしていた。
大黒と橘は、ホテルの外、プールサイドに通じるバルコニーの暗がりに立ち、宿泊棟の上層階を監視していた。
強風で煽られるヤシの木の葉擦れの音が、耳障りなノイズとして響き続けている。
「コナン君! 危ないからそんな身を乗り出しちゃダメよ!」
少し離れた場所で、蘭の声が風に乗って聞こえてきた。コナンたちもまた、ツアーの謎解きの手がかりを探してホテルの外を歩き回っていたのだ。
その時だった。
「きゃあああああっ!!」
ホテルの上層階から、女性の悲鳴が夜空を切り裂いた。
全員が見上げる。
月明かりに照らされた21階のバルコニー。そこから、マントを翻し、シルクハットに不気味な仮面を被った男——『闇の男爵』の衣装を着た人物が、宙を舞って落下してきた。
「落ちてくるぞ!!」
小五郎が叫ぶ。
風を孕んだマントがバサバサと不気味な音を立てながら、男の体は恐ろしい速度で落下していく。
そして。
グシャァッ!!
鈍く、そして凄惨な水音と肉の潰れる音が響き渡った。
落下した男は、プールサイドに設置されたブロンズ像の鋭い剣先に体を真っ二つに串刺しにされ、絶命していた。
仮面が外れ、血まみれの顔が露わになる。それは、数時間前までレストランで下品に笑っていたハッカー、江原時男だった。
「ひぃぃぃっ!」
「江原さんだ! 嘘だろ!?」
駆けつけたツアー参加者たちが、凄惨な死体を見て次々と悲鳴を上げ、後ずさる。
小五郎が真っ青な顔で遺体に近づき、叫んだ。
「死んでる……! 21階の自室のバルコニーから、酔っ払って誤って転落したんだ! 不幸な事故だ!」
小五郎が安易な結論を出す中、コナンは強風に煽られながらも、ブロンズ像の根元に這いつくばるようにして遺体の周辺を観察し始めていた。
(……おかしい。いくら酔っ払っていたとしても、なぜわざわざナイトバロンの衣装なんて着てバルコニーに出たんだ? それに、このブロンズ像の位置。21階のバルコニーの真下から、不自然なほどずれている。……強風の抵抗? いや、仮面についているこのテープの跡はなんだ……!)
コナンが、現場に残されたわずかな『物理的な綻び』の匂いを嗅ぎ取り、血塗られた衣装の切れ端に小さな手を伸ばそうとした、その瞬間。
グイッ。
サマーウールのジャケットの袖口から伸びた長い腕が、コナンの襟首を後ろから軽く掴み、宙に吊り上げた。
「うわっ!?」
「おいおい坊や。ここから先はR指定だ。血生臭いお遊戯の時間は終わり。探偵サンの真似事は、保護者の背中でやりな」
大黒が、コナンを小五郎の後ろへとひょいと放り投げた。その動作は優雅で軽やかだが、子供を凄惨な現場から遠ざけるという警察官としての絶対的な線引きがあった。
「あ、ごめんなさい……」
コナンが悔しそうに引き下がるが、その目は依然として落下地点のズレと、仮面に残されたトリックの解明に向けて光を放っている。
大黒は、江原の凄惨な遺体にも、不自然な落下地点のズレにも一瞥をくれず、ただ冷ややかに周囲の参加者たち——特に、震える手で顔を覆っている佐山明子を見渡した。
「橘」
大黒の声が、海風の中で一段低く、そしてプロフェッショナルな響きを帯びて発せられる。
「何よ」
「探偵サンたちは、風の抵抗と落下地点のズレという『物理パズル』に夢中だ。目に見えるからくりは、彼らに解かせておけばいい」
大黒は振り返り、佐山明子を庇うように立つ前田聡を氷のような視線で射抜いた。
「俺たちの仕事は、犯人がなぜ『江原をナイトバロンの衣装に着替えさせて突き落とす』などという、回りくどく怨恨に満ちた殺し方を選んだのかを暴き出すことだ。……橘」
「警部補」
橘が手帳を開き、大黒の『本気の指示』に対して、完璧な敬語で応える。
「江原の過去のハッキング記録と、奴がサイバー攻撃で倒産に追い込んだ企業のリスト。本庁を出る前に俺たちが読み込んでいた内偵資料の中にすべてあるはずだ。それをもう一度洗い直せ。そして……フロントに手帳をチラつかせて、佐山明子の宿泊カードの『旧姓』を確認しろ。それでも足りなきゃ、彼女の部屋を直接『見学』してきな」
「……了解、警部補」
大黒が海風に前髪を揺らしながら、暗闇に沈むホテルの上層階を見上げる。
「さあ、悲劇の当事者と、それを庇おうとする恋人に教えてやろうじゃないか。探偵サンがパズルを解き終わるより先に、君たちの抱えた『哀しい嘘の悪臭』は、とっくに俺の鼻を突いているってことをね」
強風吹き荒れる伊豆のホテルで、名探偵のパズルゲームと、警察官の容赦なき心理戦が幕を開けた。