深夜。伊豆プリンセスホテルのプールサイドには、赤と青のパトランプの光がせわしなく交錯していた。
吹き荒れる強風の中、静岡県警のパトカーが数台到着し、現場の保存と実況見分が始まっていた。ブルーシートで覆われたブロンズ像の下には、未だに凄惨な血の匂いが漂っている。
現場の指揮を執るのは、もじゃもじゃ頭の横溝刑事だった。彼は毛利小五郎の姿を見つけるなり、「おお! 名探偵の毛利さんじゃないですか!」と大げさに歓喜の声を上げていた。
大黒は、パトランプの光が届かないバルコニーの暗がりに背中を預け、シガレットケースから取り出したタバコを指先で弄んでいた。火は点けていない。
その横顔は、探偵と地元警察のやり取りを無感情に俯瞰している。
「お待たせ」
暗闇から、音もなく橘が姿を現した。その手には、いつも通りの分厚い手帳が握られている。
「随分と早かったな。足を使った捜査の成果は?」
大黒が薄く笑うと、橘は冷ややかな目を向けたまま手帳を開いた。
「あなたのプロファイリング通り。ドンピシャね」
橘の低く透き通った声が、風切り音に混ざって大黒の耳に届く。
「県警が実況見分でバタバタしている隙に、フロントに手帳を提示して佐山明子の宿泊カードと免許証のコピーを確認したわ。彼女の旧姓は『秋本』。さらに、本庁を出る前にあなたが読み込んでいた江原の被害者リストと照らし合わせ、確信を得た。……念のため、本人の許可なく彼女の部屋も少しだけ『見学』させてもらったわ」
橘が手帳の間から、小さく折り畳まれた古い新聞の切り抜きを取り出した。
「スーツケースの隠しポケットに入っていたわ。三年前に自殺した、秋本システム開発の社長の記事。……その会社を大規模なサイバー攻撃で倒産に追い込んだのが、当時別件で捜査線上に浮上していた江原時男よ」
「……完璧な動機だ」
大黒は新聞記事を一瞥し、弄んでいたタバコをシガレットケースに戻した。ゆっくりと首を鳴らす。
「証拠不十分で立件を逃れたハッカーと、親代わりだった兄を殺された妹。……あとは、あっちの『名探偵』がトリックを暴いてくれるのを待つだけだ」
大黒の視線の先。
小五郎が「これは酔っ払いの転落事故だ!」と横溝刑事に熱弁を振るっているその背後で、コナンが腕時計型の麻酔銃の照準を、小五郎の首筋にピタリと合わせていた。
プシュッ、という微かな風切り音。
小五郎の体がふらつき、背後のプールサイドのパラソルチェアに、まるで計算されたかのようにどさりと腰を下ろした。小五郎の頭がガクンと下がり、静かな寝息が漏れ始める。
「おや、毛利さん? どうしたんですか、突然……」
横溝刑事が慌てて近づこうとした瞬間、小五郎の口が——いや、パラソルの影に隠れたコナンが蝶ネクタイ型変声機を通して——重々しい声を発した。
『横溝刑事。事故ではありませんよ。これは、極めて巧妙に仕組まれた殺人事件です』
「さ、殺人!? しかし、江原さんは自室である21階のバルコニーから……」
『違います。彼が突き落とされたのは、自室の真上……22階のバルコニーからです』
そこからのコナンの推理ショーは、大黒が「パズルのプロ」と称賛するに相応しい、鮮やかで論理的なものだった。
風の抵抗を計算し尽くした落下地点のズレ。
江原の自室のドアチェーンを利用した密室トリック。
そして、ナイトバロンの仮面に残された、透明なテープの剥がし跡。犯人は、あらかじめ江原に衣装を着せて22階のバルコニーの外側にテープで固定し、アリバイ工作を終えた後に、自室からテープを引っ張って彼を落下させたのだ。
『……つまり。泥酔した江原さんを部屋まで送り届けたフリをして、密かに自分の部屋である22階へと連れ込むことができた人物。……このミステリーツアーの参加者の中にいる真犯人は……』
コナンの声が、夜のプールサイドに響き渡る。
『——佐山明子さん、あなたです』
ピタリと、風の音さえ止んだような静寂が落ちた。
全員の視線が、青ざめて立ち尽くす佐山明子へと一斉に突き刺さる。コナンが完璧なロジックで『物理的なパズル』の最後のピースを嵌め込んだ、その瞬間だった。
「……違う!!」
悲痛な叫び声が、静寂を切り裂いた。
明子の隣に立っていた長身の青年——前田聡が、彼女を庇うように一歩前に進み出た。
「聡……?」
明子が震える声で前田を見上げる。前田は彼女と目を合わせることなく、横溝刑事と眠る小五郎の方へ向き直った。
「私が……私がやりました。明子は関係ない!」
「な、なんだって!?」
横溝刑事が目を剥く。
「江原を憎んでいたんです。あいつは私の過去のトラウマを……だから、酔い潰れた彼を私の部屋に運び込み、あのトリックを使って殺しました」
前田の自白。
明子が「嘘よ! 聡はそんなこと……!」とすがりつこうとするが、前田は彼女の肩を強く抱き寄せ、その言葉を遮った。
彼の目は、すべてを背負い込む覚悟を決めた、悲壮な光を帯びていた。
コナンがパラソルの影で舌打ちをする。
(馬鹿野郎! あんたは犯人じゃない! 犯人は、22階の隣の部屋に泊まっていた……)
コナンが前田の嘘を暴こうと変声機に口を寄せた、その瞬間だった。
パンッ、パンッ、パンッ。
夜のプールサイドに、ゆっくりとした、しかし極めて冷酷な拍手の音が響き渡った。
全員の視線が一斉に暗がりへ向く。
そこから、ベージュのサマーウールスーツのポケットに両手を突っ込んだ大黒が、悠然とした足取りで歩み出てきた。その後ろには、冷ややかな視線を放つ橘が付き従っている。
「素晴らしい自己犠牲だ、前田聡。愛する女の罪を被り、自ら十字架を背負おうとするその姿。……涙腺が緩むほどの美しい庇い合いだよ」
大黒の登場に、横溝刑事が「あ、あなたは……?」と眉をひそめる。
橘が無言で警察手帳を提示すると、横溝は「け、警視庁の捜査一課!?」と直立不動になった。
大黒は横溝を一瞥もせず、前田と明子の目の前まで歩み寄った。
「だがな、前田。日本の警察機構の前じゃ、映画『カサブランカ』のハンフリー・ボガートを気取ったところで、そのロマンチックな嘘は通用しないぜ」
「な、何を言ってるんですか! 私は自分が殺したと……」
「君が犯人なら、わざわざ江原にナイトバロンの衣装なんて着せない」
大黒の声が、一段階低く、そして研ぎ澄まされた刃のようなトーンに変わる。
「名探偵サンが鮮やかに解き明かしたように、あの衣装と仮面には、犯行のからくりを成立させるための『物理的な意味』があった。……だが、俺が見ているのはそんな表面上の理由じゃない。衣装を着せた『本当の理由』だ」
大黒の極細の針のような視線が、前田の腕の中で震える佐山明子を正確に射抜いた。
「佐山明子。君は、自分の愛する家族を間接的に殺した江原時男を、どうしても許せなかった」
明子の肩が、ビクッと大きく跳ねる。
前田が「やめろ!」と叫ぼうとするが、大黒の圧倒的な声の圧力がそれを許さない。
「江原は、他人の人生を狂わせておきながら、正義のハッカーを気取り、このミステリーツアーで大金を手に入れようと下品に笑っていた。君にとって、その顔は吐き気がするほど醜悪だったはずだ。……だから君は、ただ殺すだけでは飽き足らなかった」
大黒が一歩、明子へと近づく。
「君は江原に、奴が誇りとしていた『ナイトバロン』の衣装を着せた。そして、無様なピエロの姿のまま、冷たい夜空へ放り投げたんだ。……『お前は伝説のハッカーなんかじゃない。ただの滑稽で薄汚い悪党だ』と、その血文字で突きつけるためにな」
「あ……ああ……っ」
明子の喉から、言葉にならない声が漏れる。
大黒のプロファイリングは、コナンが暴いた「物理的なトリック」のさらに奥底にある、犯人の最も見られたくない「ドロドロとした怨恨の形」を、容赦なく白日の下に引きずり出していた。
橘が、氷のような声で事実を並べ立てる。
「佐山明子。あなたの旧姓は秋本。三年前に江原のハッキングで会社を倒産させられ、自殺した秋本社長は、あなたの実の兄ね。私が先ほど、あなたの部屋のスーツケースから見つけたわ。……大切にしまってあった、お兄さんの新聞記事を」
明子の膝から、完全に力が抜けた。
前田が彼女を支えきれず、二人はプールサイドの冷たいタイルの上に崩れ落ちた。
「明子……」
前田が、泣き崩れる明子の背中を強く抱きしめる。
「聡……ごめんなさい……ごめんなさい……! 兄さんの無念を晴らしたくて……でも、あなたを巻き込むつもりなんてなかったの……っ!」
明子の悲痛な慟哭が、風と波の音に混じって響き渡る。
誰もが言葉を失い、悲劇の恋人たちを見つめていた。パラソルの影にいるコナンもまた、名探偵として真実を暴くことの重さに、静かに唇を噛み締めていた。
だが、大黒の目は一切の同情を帯びていなかった。
彼は見下ろすようにして、前田聡に冷酷な言葉を投げかけた。
「前田。君が彼女の犯行に気づき、身代わりに名乗り出ようとした気持ちは痛いほどよくわかる。……だが、それは彼女の決意に対する最大の侮辱だ」
前田がハッとして大黒を見上げる。
「彼女は自分の手を血に染めてでも、兄の復讐を遂げようとした。その業の深さを、君の自己満足な『愛』で薄っぺらい悲恋物語にすり替えるな。……本当に彼女を愛しているなら、罪を被ることじゃない。彼女が自分の犯した罪と向き合い、償い終わるまで、外で待ち続けることだ」
大黒の言葉が、前田の胸に深く、そして重く突き刺さる。
前田はゆっくりと明子から手を離し、そして、自分自身の無力さに涙を流しながら深く頭を下げた。
「……あなたの言う通りだ。私は、彼女の悲しみに寄り添うことすらできていなかった……」
大黒はそれ以上何も言わず、踵を返した。
横溝刑事に視線で合図を送ると、横溝は神妙な面持ちで明子に手錠をかけた。
「さて、橘。俺の仕事は終わった。あとは所轄の横溝刑事が、完璧な調書を巻いてくれるだろう」
大黒がサマーウールのジャケットの襟を立て、風を避けるように歩き出す。
橘がその後ろを追いかけながら、忌々しそうに手帳をしまった。
「結局、私たちは内偵に来ただけで、サイバー犯罪の売買現場は押さえられなかったわね。江原が死んでしまったんだから」
「サイバー課には『ターゲットは物理的に排除された』とでも報告しておけ。それに、完全な無駄足というわけでもないさ」
大黒は歩きながら、フッと口角を上げた。
「俺は名探偵サンの見事なパズル解きと、哀しい復讐劇の結末を特等席で見られたんだ。これでこのホテルの宿泊費がタダになるなら、安いバカンスだと思わないか?」
「……何言ってるの、この守銭奴」
橘の氷点下の声が、大黒の背中を打つ。
「参加者の中から殺人犯が出た時点で、このミステリーツアー自体が中止よ。当然、謎解き成功の『宿泊費タダ』の権利なんて消滅してるわ」
大黒の足がピタリと止まる。
「……は?」
「明日のチェックアウト時、正規の宿泊料金をフロントで請求されるわ。ちなみに、あなたが昨日の夜、ルームサービスで頼んだ最高級のシャトー・マルゴーとキャビアの代金も、当然あなたの自腹よ。……警視庁の経費で落ちるわけないでしょ」
大黒の顔から、見事に血の気が引いた。
「ま、待て橘! あれは潜入捜査の一環としての偽装工作で……!」
「言い訳は本庁の経理課に言いなさい。私は一足先に東京へ戻るわ。せいぜいカードの限度額を心配することね、美食家気取りの浪費家さん」
橘はヒールを鳴らすことなく、鮮やかな足取りで夜のホテルへと消えていった。
「……おい、嘘だろ……。俺の夏のボーナスが……」
吹き荒れる伊豆の強風の中、天才プロファイラーの悲痛な叫び声が、誰にも届くことなく空しく響き渡っていた。