日曜日の午後二時。
米花町の中心部にそびえ立つ『ホテル・ニュー米花』の一階ティーラウンジは、天井まで届くガラス窓から柔らかな秋の日差しが差し込み、ハープの生演奏が流れる優雅な空間となっていた。
その中央の特等席に、普段の漆黒のパンツスーツや機能的なフラットシューズを封印し、淡いラベンダー色のシフォンワンピースに身を包んだ橘が座っていた。背筋は相変わらず定規で引いたように直角だが、普段の氷のような殺気は、わずかな困惑と居心地の悪さに取って代わられている。
そして、そんな彼女の斜め後方。巨大な観葉植物の鉢植えの陰に隠れるようにして、場違いに大きなメニュー表で顔を覆う二人の男がいた。
「ロブ・ライナー監督の『恋人たちの予感』という映画を知っているか? 高木」
メニュー表の裏側で、サングラスをかけた大黒圭吾が、極小のボリュームで囁いた。休日の変装のつもりか、今日はツイードのジャケットにタートルネックという、どこかの大学教授のような装いだ。
「男と女の間に純粋な友情は成立するのか、という永遠の命題に挑んだロマンティック・コメディの金字塔だ。……だが、今俺たちの目の前で繰り広げられているのは、ロマコメなんかじゃない。質の悪い詐欺の手口だ」
「あ、あの、大黒さん……! やっぱり帰りませんか!? これ、完全にただのストーカー行為というか、職権濫用ですよ! 橘さんにバレたら、僕まで手帳の角で撲殺されますって!」
隣に座る高木刑事が、冷や汗を滝のように流しながら震え声で訴える。
「何を言っている、高木。これは警視庁捜査一課の重要な内偵捜査だ。俺の優秀な相棒に、どこの馬の骨とも知れない害虫がたかろうとしているんだぞ。駆除するのは上司としての当然の義務だろう」
大黒がサングラスの隙間から鋭い視線を飛ばした先。
橘の対面に座っているのは、いかにも仕立ての良さそうなブランドスーツを着込み、髪を撫でつけた三十代前半の男だった。実家の両親が無理やりセッティングしたというお見合い相手——財務省の若きエリート官僚、小早川である。
「いやあ、橘さん。警察官と聞いていたから、もっとゴツゴツした柔道家みたいな女性が来るかと心配していたんですが、こんなに可憐な方だとは! 僕、一目見て運命を感じちゃいましたよ」
小早川が、白い歯を見せてキザに笑う。
橘は笑顔を引き攣らせながら、紅茶のカップをソーサーに置いた。
「……恐れ入ります。普段は現場に出ることが多いものですから、このような格好は慣れておらず」
「またまたご謙遜を! そうだ、結婚したらそんな野蛮で危険なお仕事はすぐに辞めていただいて構いませんよ。僕の収入と実家の資産があれば、橘さんには毎日エステとランチを楽しんでもらうだけの生活を保証できますから」
小早川が自信満々に胸を張る。
その瞬間、橘のラベンダー色のワンピースの袖口の下で、組まれた指先がピクリと強張った。
その時、テーブルの端に伏せて置かれていた橘の個人用スマートフォンが、ブブッ、ブブッ、と連続してバイブレーション音を立てた。
「おや、メッセージですか? 構いませんよ、確認してください。女性は連絡がマメな方が可愛らしいですからね」
小早川が余裕たっぷりに微笑む。
橘は「失礼いたします。母が結果を気にしておりまして……」と無難な口実を述べ、スマホを手に取って画面に視線を落とした。
しかし、画面に並んでいたのは母親からの連絡ではなく、『大黒』からの立て続けのショートメッセージだった。
『目の前のエリート官僚殿の観察結果を報告してやろう。奴がさっきからチラチラと見せびらかしている左手の高級腕時計、パテック・フィリップだ。だが、ベルトの革のシワの位置がおかしい』
画面の文字を読んだ瞬間、橘のこめかみがピクリと引き攣った。
なぜ大黒が、今まさに自分の目の前にいる小早川の時計のことを見ているのか。橘は顔を上げることなく、視線だけをわずかに動かして周囲の気配を探り、斜め後方の観葉植物の陰から漂う「馴染みのあるふざけた気配」を瞬時に察知した。
橘は平静を装いながら、テーブルの下で素早く指を動かして返信を打ち込む。
『なんでここにいるのよ、このストーカー上司。今すぐ消えなさい』
送信した直後、即座に大黒から長文の返信がポップアップ表示された。
『人聞きが悪いな。部下の危機を救いに来たと言ってくれ。いいから時計を見ろ。奴の手首の太さに対して、ベルトの穴が二つ分外側で擦り切れている。つまり新品で買った自分の時計じゃない。レンタル品か中古品だ。おまけに、足を組んだ時に見えた革靴。甲はピカピカだが、ソールの踵が斜めにすり減ったまま補修されていない。典型的な、表面だけを取り繕う見栄っ張りだ』
あまりにも的確な指摘に、橘はスマホから顔を上げ、紅茶を飲むフリをしながら小早川の手元と足元に視線を走らせた。
確かに、時計のベルトには不自然な使用感があり、テーブルの下の革靴の踵は無残に削れている。
橘は再びスマホに目を落とし、指先を動かした。
『だから何よ。お見合いの席で少し背伸びをしてるだけかもしれないじゃない。重箱の隅をつつかないで、減点パパ』
大黒の言いなりになるのが癪で反論したものの、数秒後に届いた返信が、橘の指を止めた。
『甘いな、相棒。問題はここからだ。奴の視線の動きを見ろ。お前の顔を見ているようで、実はお前の背後にあるガラス窓に映った自分の髪型を三十分に十回は確認している。そして何より、ウェイトレスに対する態度だ』
ちょうどその時、ウェイトレスが新しいお冷やを注ぎにテーブルへやってきた。
小早川は橘に向かっていた柔和な笑顔をスッと消し、ウェイトレスを一瞥もせずに、顎で「あっち行け」とばかりにしゃくったのだ。さらには、お冷やのグラスが置かれたわずかな水滴を見て、露骨に舌打ちをして紙ナプキンで拭き取った。
ブブッ、と橘の手元のスマホが震える。
『見ろ。自分より立場が上、あるいは利用価値があると思った人間にはペコペコし、下だと見なしたサービス業の人間には徹底的に傲慢になる。奴がお前と結婚したがっている本当の理由は、お前の実家の家柄と、警察官というクリーンな肩書だ。おそらく省内で何らかのトラブルを抱えていて、自分の箔をつけるための隠れ蓑としてお前を利用しようとしているだけだ。あんな男に一生を預けるつもりか?』
無機質なテキストの羅列だったが、その文面からは、いつもの茶化すような態度だけでなく、相棒を安売りさせまいとする大黒の妙な凄みが伝わってきた。
その時、今度は小早川のスマートフォンが着信を知らせて震えた。
「おっと、失礼。大臣秘書官からかな? 僕がいないと省内の仕事が回らなくてね。少し席を外しますよ、ハニー」
小早川はウインクを飛ばし、スマホを片手にラウンジの外——ロビーの化粧室の方へと歩き去っていった。
小早川の背中がガラス扉の向こうに消えた、その直後。
「……ハニー、だとさ。聞いたか高木、鳥肌が立ったぞ」
斜め後方の観葉植物の陰から、メニュー表を下ろした大黒が、ひょっこりと身を乗り出して直接声をかけてきた。隣では高木が「し、しーっ! 声が大きいですよ大黒さん!」と青い顔で手を振っている。
橘は冷めきった紅茶を見つめ、静かに目を閉じた。
そして、再び目を開けて後ろを振り向いた時。そこにはお見合い仕様の可憐な女性の姿はなく、警視庁捜査一課の刑事の目が宿っていた。
「……大黒」
橘の声が、氷のように冷徹な現場モードへと切り替わる。
「なんだ」
「あの男、電話に出る直前、スマホの画面を見て一瞬だけ顔を引き攣らせたわ。大臣秘書官なんかじゃない。脅迫か、借金の取り立てよ。……高木、あんたもそこにいるんでしょ」
「ひぃっ! は、はいっ! お邪魔しております、橘さん!」
高木が観葉植物の陰で座ったまま直立不動になる。
「高木、今すぐあの男の後を追って、通話内容を立ち聞きして確認しなさい。……大黒警部補」
橘が、完全にスイッチの入った敬語で呼びかける。
「ほう。役職呼びが出たな。どうするつもりだ、橘刑事」
「私の貴重な日曜日の午後と、この着慣れない窮屈なワンピースの代償を、あの男に払わせます。……あなたのその悪趣味なプロファイリングで、奴の化けの皮を剥がす材料を今すぐ揃えなさい」
「……了解だ、相棒。逃げ場のない証拠を用意してやる」
大黒の口角が、獲物を定めた捕食者のように獰猛に吊り上がった。
十分後。
小早川が、額にうっすらと浮かんだ脂汗をハンカチで拭きながら、何食わぬ顔でテーブルへと戻ってきた。
「いやあ、お待たせ! やっぱり大きなプロジェクトの決裁は、僕が直接指示を出さないとダメみたいでね。……さて、そろそろ場所を変えて、僕の行きつけのフレンチにでも行きませんか?」
小早川がスマートに立ち上がろうとした、その瞬間。
橘の手元のスマホに、高木からの調査結果のメッセージが一件届いた。橘は画面を一瞥して伏せると、座ったまま氷点下の声で呼び止めた。
「小早川さん」
先ほどまでのぎこちない愛想笑いは消え失せ、対象を制圧する直前の絶対零度の視線が、小早川を下から射抜いていた。
「え……? な、なんですか、急に怖い顔をして」
橘はテーブルの上で優雅に指を組んだ。
「プロジェクトの決裁、ですか。おかしな話ですね。ロビーの公衆電話の陰で、都内の闇カジノの債権回収業者を相手に『来週までに三百万用意するから、省に連絡するのだけは待ってくれ』と泣きついていたのは、どこのどなたかしら?」
小早川の顔から、スッと血の気が引いた。
「な、なぜそれを……!? いや、あれは悪い冗談で……」
「それだけではありません」
コツ、コツ、と重厚な革靴の音を響かせながら、ツイードジャケット姿の大黒が、片手に伝票を挟んだバインダーを持ってテーブルの横へと歩み出てきた。サングラスを外し、冷たい目で小早川を見下ろす。
「だ、誰だあんたは!」
「警視庁捜査一課の大黒ですよ。あまりにも見え透いた嘘が耳に入ったもので、少しばかり事実確認をさせてもらいましてね」
大黒はテーブルの上に、一枚のレシートのような紙切れを滑らせた。高木がラウンジのレジ係に警察手帳を提示して確認してきた、予約履歴の控えだ。
「小早川さん。あなたは先ほど、このホテルのラウンジのケーキセットを頼む際、自分が持っていた株主優待の無料クーポン券が期限切れだったことに気づき、レジの裏で店員に『俺は財務省の人間だぞ、融通を利かせろ』と五分間もゴネていたそうですね」
「なっ……!?」
「さらには、今日のお見合いの席の会計。あなたは『財布を忘れた』と嘘をついて、こちらの橘さんに全額払わせるつもりだった。なぜなら、あなたのそのブランド物の長財布の中には今、千円札が一枚と、消費者金融のカードが三枚しか入っていないからだ。……違いますか?」
大黒の冷酷で滑らかな声が、小早川のプライドを容赦なく砕いていく。
周囲のテーブルの客たちが、何事かとヒソヒソと視線を向け始めた。
「う、嘘だ! なんだお前たちは! プライバシーの侵害だぞ!」
小早川が顔を真っ赤にして立ち上がり、大黒の胸ぐらを掴もうと手を伸ばした、その瞬間。
ガシッ!!
ラベンダー色のシフォンワンピースの袖が舞い、橘の右手が小早川の手首を万力のような握力で掴み取った。
そして、ひねるような最小限の関節技の動作だけで、小早川の体をテーブルの上へと無慈悲にうつ伏せに押さえつけた。
「い、ぐぎぎぎっ!? 痛っ、折れる、腕が折れるぅぅっ!!」
ハープの生演奏がピタリと止まり、ラウンジが静まり返る。
橘は美しいワンピース姿のまま、一切の表情を変えず、小早川の耳元に冷たく囁いた。
「公務員に対する暴行未遂ね。……それと、私の親に提出した釣書の『資産状況・借金なし』という記載。あれは完全な私文書偽造、および結婚詐欺の予備罪といったところかしら」
「け、警察……!? 本物の刑事なのか、あんたたち……!」
「ええ。警視庁捜査一課よ。……大黒、この男、どう処理する?」
橘が顔を上げて尋ねると、大黒はわざとらしく肩をすくめ、懐からシガレットケースを取り出して弄んだ。
「まだ金銭の詐取といった実害は出ていないからな、立件は難しいだろう。……おい、エリート官僚殿。映画『カサブランカ』にこんな名台詞がある。『君の瞳に乾杯』だ。だが、今のあんたのその濁りきった目を前にして言える台詞は一つしかない」
大黒は身を屈め、押さえつけられて涙目になっている小早川の顔を覗き込んだ。
「『お前の分のコーヒー代は自分で払って、二度と俺の相棒の前にツラを見せるな』。……理解できたか?」
「ひ、ひぃぃっ! わかりました! 払います、二度と近づきませんから離してぇぇっ!!」
橘がパッと手を離すと、小早川はポケットから皺くちゃの千円札と小銭をテーブルにぶちまけ、転ぶようにしてラウンジから逃げ出していった。
静寂が戻ったラウンジで、大黒はふうっと息を吐き、小早川が座っていたソファに我が物顔でどさりと腰を下ろした。
「やれやれ。休日の昼下がりに、ずいぶんと安っぽい嘘を見せられたもんだ。……おい高木、もう出てきていいぞ」
ロビーの入り口の方から、立ち聞きを終えた高木がひょこひょこと姿を現す。
「い、いやあ……橘さんのワンピース姿での関節技、ある意味ホラー映画より迫力がありましたね……」
「高木。あんたもそこに座りなさい。説教の時間よ」
橘がスマホをポーチにしまいながら、冷ややかな声で命じる。しかし、大黒はそんな相棒の怒気などどこ吹く風で、テーブルの上のメニューを開いた。
「まあ落ち着け、橘。俺の完璧な観察眼のおかげで、お前は結婚詐欺師の餌食にならずに済んだんだ。つまり、俺は命の恩人と言っても過言じゃない」
「……で? 何が言いたいの、この恩着せがましいお節介焼き」
橘がポーチから、いつもの分厚い警察手帳を取り出し、その角を大黒の眉間にピタリと突きつけた。
「せっかくの最高級ホテルのラウンジだ。恩人に対するお礼として、この『季節限定・シャインマスカットの3段アフタヌーンティーセット、一人前八千円』と、最高級のダージリンを俺に奢るというのはどうだ?」
「……高木」
「は、はいっ!」
「私、今から両親に『お見合いは破談になった』って電話してくるから、そのまま直帰するわ。……この甘党が頼むアフタヌーンティーの代金、あんたが立て替えておきなさい。勝手に尾行に加担した勉強代よ」
「ええええっ!? ぼ、僕が八千円もですか!? なんで僕がぁぁっ!?」
高木の絶叫を背中に受けながら、橘はラベンダー色の裾を翻し、フラットシューズではないヒールの音をカツカツと優雅に響かせてラウンジを去っていく。
「おい待て橘! 俺はまだ注文して……というか、俺と高木の男二人で、このハート型のケーキスタンドを突つけと言うのか!?」
秋の柔らかな日差しが差し込むホテルのラウンジに、大黒の悲痛なツッコミと、財布の中身を数えて泣き崩れる高木の嗚咽が、ハープの音色に乗っていつまでも響き渡っていた。