焦げたタイヤの匂いと、けたたましいスキール音が、夕暮れの湾岸道路を切り裂いた。
鮮烈な赤色のマツダ・RX-7——捜査一課の佐藤美和子刑事の愛車が、物理法則を無視したような鋭いドリフトを決めながら、埠頭の倉庫街へと続くコーナーを猛スピードで曲がりきった。
「ちょっと佐藤さん! 左、左にフォークリフトがぁぁっ!!」
後部座席の左側で、高木刑事がアシストグリップに両手でしがみつきながら、裏返った声で絶叫する。
「大丈夫よ高木くん! このくらいの隙間、目をつぶってても抜けられるわ!」
ハンドルを握る佐藤刑事が、不敵な笑みを浮かべてシフトレバーを叩き込み、さらにアクセルを踏み込んだ。強烈なGが車内を襲う。
そして、高木の隣——後部座席の右側では。
いつもはどんな死体を見ても眉一つ動かさない大黒圭吾警部補が、自慢のチャコールグレーのスリーピーススーツの襟元を乱し、顔を真っ青にしてシートの背もたれに張り付いていた。
「……スティーブ・マックイーンの『ブリット』という映画を知っているか、佐藤くん……。サンフランシスコの坂道を、マスタングが跳ね回りながら疾走する……カーチェイス映画の金字塔だ……」
大黒の声は、激しい横揺れで小刻みに震えている。
「映画の話はあとにして、大黒さん! ほら、ターゲットの白いバンが見えたわよ!」
佐藤が怒鳴る。
助手席に座る橘だけが、この異常な暴走車の中で、いつも通り定規で引いたような直角の背筋を保っていた。彼女はシートベルトをしっかりと締め、片手でダッシュボードを支えながら、冷ややかな視線をルームミラー越しの大黒へ向けた。
「顔色が死体みたいよ、この三半規管の弱いモヤシ男。自分で『佐藤の車に同乗する』って言い出したんだから、舌を噛まないように奥歯を食いしばってなさい」
「ぐ、ぐうの音も出ないとはこのことだ……。まさか本庁の銀の魔女が、ここまで道路交通法を創造的に解釈するドライバーだとは……」
「誰が魔女よ!」
佐藤がツッコミを入れながら、急ブレーキとともにハンドルを切った。
赤いRX-7が、逃走していた白いバンの進路を完全に塞ぐ形で、真横にピタリと停車する。
バンが慌ててバックしようとした瞬間、助手席のドアが蹴り開けられた。
「動かないで! 警察よ!」
橘が車外へ飛び出すと同時に、運転席から佐藤も飛び出した。
バンの運転席から、バールを持った大柄な男が降りてくる。ここ数週間、都内の高級宝飾店や時計店を次々と襲っていた連続強盗団のリーダー格、鮫島だ。
「くそっ、女二人かよ! 邪魔すんじゃねえ!」
鮫島がバールを振り上げた瞬間。
佐藤が流れるようなステップで間合いを詰め、バールを持った腕を蹴り上げた。金属音が響き、バールが宙を舞う。体勢を崩した鮫島の懐に、今度は橘が音もなく滑り込み、襟首と肘を掴んでアスファルトへ豪快に叩きつけた。
「ぐあっ!?」
佐藤が膝で鮫島の頭を押さえつけ、橘が一切の無駄のない動きで後ろ手に手錠をかける。
強盗団のリーダーが制圧されるまで、わずか三秒。警視庁が誇る二人の女刑事による、息を呑むほど完璧な連携だった。
「……ふう。橘ちゃん、やっぱりいい動きするわね。今度、柔道場で手合わせ願おうかしら」
佐藤が額の汗を拭いながらニッと笑う。
「光栄です、佐藤先輩。ですが私は逮捕術専門ですので、ルール無用の実戦形式ならいつでも」
橘が真面目な顔で答えるのを聞きながら、後部座席から大黒と高木が、まるで生まれたての小鹿のような足取りで這い出してきた。
「……お、俺の胃袋の中身が、エスプレッソだけだったことに感謝するよ……」
大黒が膝に手をついて深呼吸をし、乱れたスーツのジャケットをなんとか整える。
その時、大黒の視線が、制圧されたバンの「荷台」へと向けられた。
高木がバンの後ろの扉を開ける。
「あれ……? 空っぽだ! 大黒さん、二時間前に銀座の時計店から奪われた二億円相当の時計も、共犯者の男も乗ってませんよ!」
「へえ、お仲間と獲物は別の場所に隠したってわけね。……おい鮫島! 共犯者の『氷室』はどこへ行った! 奪った時計はどこ!?」
佐藤が鮫島の胸ぐらを掴んで引き起こす。
しかし、地面に這いつくばった鮫島は、口の端から血を流しながらニヤリと下品に笑った。
「さあね。氷室の野郎なら、今頃は時計を抱えて高飛びの準備中さ。俺が囮になって時間を稼げば、あいつが安全に海外へ売り捌いて、俺の口座に分け前を振り込む手筈になってる。……残念だったな、お巡りさんよ」
鮫島の挑発的な言葉に、佐藤が眉を吊り上げる。
「なんですって!? あんた、自分が捕まってでもあいつを逃がすつもりなの!?」
「俺と氷室は、ガキの頃から施設で一緒に育った兄弟みたいなもんだ。あいつは絶対に俺を裏切らねえ。俺がムショから出る頃には、南の島で暮らせるだけの大金が待ってるってわけよ」
高木が焦ったように無線機を取り出す。
「佐藤さん! 今すぐ空港と港に緊急配備を敷かないと、共犯者に逃げられます!」
「待て、高木。無線の無駄遣いだ」
それまで黙ってスーツの埃を払っていた大黒が、低く滑らかな声で高木を制した。
先ほどまでの車酔いの気配は完全に消え失せ、その目には、獲物の嘘を嗅ぎつけた捕食者の冷たい光が宿っていた。
大黒はゆっくりと歩み寄り、アスファルトに押さえつけられている鮫島の目の前にしゃがみ込んだ。
「大黒さん……? でも、早くしないと海外へ……」
「高木。そして佐藤くんも、少し落ち着いてこの男の顔を見てみろ。……お前たちは、この男が『長年の相棒を信じて自己犠牲を払った、義理堅い悪党』に見えるか?」
大黒が細い指で、鮫島の着ている革ジャンと、その下から覗くTシャツの襟元を指し示した。
「橘。お前の目で、こいつの服装とバンの運転席の状況を報告しろ」
「……警部補」
橘が瞬時に現場モードの敬語へと切り替わり、バンの運転席と鮫島の体をスキャンする。
「バンの助手席の足元に、コンビニの袋に入ったままの新品の着替えが二着。それに、ダッシュボードにはまだ温かい缶コーヒーが二本置かれています。一本は微糖、もう一本はブラック。どちらも一口飲まれただけです」
「そういうことだ」
大黒は懐からシガレットケースを取り出し、火をつけないタバコを指先でくるりと回した。
「鮫島。もしお前が最初から『囮』になるつもりで、共犯者の氷室と別行動を取っていたなら、なぜ車内に一口しか飲んでいない二人分の温かいコーヒーがある? 人は、これから警察とカーチェイスを演じて豚箱に入るという直前に、相棒の分のコーヒーまで買ってドライブスルー感覚で走り出したりはしない」
鮫島の顔から、余裕の薄笑いがピクリと消えた。
「そ、それは……たまたま二本買っただけで……」
「嘘をつくな。お前のその不自然に荒い呼吸と、さっきからチラチラと倉庫街の奥——第三埠頭の冷凍倉庫の方角を気にする視線の動きが、すべてを語っている」
大黒の声が、一段階低く、氷のように冷徹な響きを帯びる。
「お前と氷室は、ほんの十五分前までこの車に一緒に乗っていた。そして第三埠頭の倉庫に立ち寄り、そこで金の分配か、あるいは逃走ルートを巡って激しく揉めた。……見ろ、お前の革ジャンの右袖。微かに白い霜のような粉が付着している。あれは冷凍倉庫の搬入口の壁に擦れた跡だ。そして、お前の右手の拳の関節には、誰かの歯が当たってできた生々しい裂傷がある」
佐藤と高木がハッとして鮫島の右手を見る。確かに、その拳には新しい血が滲んでいた。
「お前は信じていた相棒とやらを殴り倒し、氷室をあの極寒の冷凍倉庫の中に閉じ込めて、自分一人で時計を独占して逃げるつもりだったんじゃないのか?」
「なっ……!? ち、違う、俺はそんなこと……!」
鮫島の目が大きく見開かれ、額から一気に脂汗が噴き出した。
大黒はさらに身を乗り出し、鮫島の瞳の奥を射抜くように言葉を突きつける。
「だが、お前が倉庫からバンを出した直後、運悪くパトカーに発見されて追われる羽目になった。だから時計を積んだまま捕まるわけにはいかず、途中の路地のゴミ捨て場かどこかに、時計の入ったバッグを一時的に放り出して車体を軽くした。そして捕まった今、『相棒が持って逃げた』と嘘をつけば、警察の目が空港に向き、その隙に保釈か脱走の手立てを考えられるとでも思ったか」
大黒はふっと鼻で笑い、冷酷な宣告を下した。
「お粗末な計算だ、鮫島。もし俺たちが今、お前の嘘を信じて空港の捜索に全力を注いだらどうなると思う? ……第三埠頭の冷凍倉庫は、マイナス二十度だ。外から鍵をかけられ、頭から血を流して気絶している氷室は、あと三十分もすれば確実に凍死する」
「……っ!!」
鮫島の顔から、完全に血の気が引いた。
「強盗致傷と、強盗殺人。日本の裁判所がこの二つの罪状にどれほど重い差をつけているか、お前でも分かるだろう。相棒を裏切って見殺しにし、死刑台への片道切符を手に入れるか。それとも、今ここで倉庫の場所と時計の隠し場所を吐いて、ただの強盗犯として罪を償うか。……五秒やる。選べ」
「い、言う! 言います!! 第三埠頭の、一番奥の四号倉庫だ! 時計は、その手前の資材置き場のブルーシートの下に隠した! た、頼む、あいつを助けてやってくれ……! カッとなって殴っちまっただけなんだ、殺す気なんてなかったんだぁぁっ!!」
鮫島がボロボロと涙と鼻水を流しながら、絶叫するように自白した。
大黒は満足そうに頷くと、立ち上がってシガレットケースを内ポケットにしまった。
「……聞いた通りだ、高木。応援のパトカーを四号倉庫へ向かわせろ。毛布と救急車の手配も忘れるな」
「は、はいっ! すごいです大黒さん、一瞬で全部吐かせちゃった……!」
高木が感動に目を輝かせながら無線機に向かって走り出す。
佐藤もまた、感心したように腕を組んで大黒を見つめた。
「噂には聞いてたけど、本当にえげつない尋問するわね、大黒警部補。私なら力ずくで吐かせようとして、時間をロスしてたかも」
「暴力を振るうのは俺の趣味じゃなくてね。言葉だけで落ちてくれるなら、スーツも汚れないし、始末書も増えない」
大黒が優雅に微笑み、さて、と踵を返した。
「仕事は終わった。俺はあの赤い悪魔の車には二度と乗らないぞ。タクシーを拾って、銀座のバーで少しばかり揺れた三半規管をアルコールで消毒して帰る」
「待ちなさい、この虚弱体質のサボり魔」
橘が背後から音もなく近づき、いつもの分厚い警察手帳の角を、大黒の背中にピタリと突きつけた。
「まだ資材置き場からの証拠品の回収と、氷室の身柄確保が残ってるわ。現場の責任者が勝手にタクシーで銀座へ消えるなんて、許すわけないでしょ」
「おいおい橘、俺はさっきのGで魂が半分抜けかけているんだ。これ以上の公務は労働基準法に……」
「あら、大黒さん。銀座までなら、私の車で送ってあげるわよ? 帰りはパトランプを回さずに、法定速度ギリギリで『ゆっくり』走ってあげるから!」
佐藤が車のキーを指先でくるくると回しながら、悪戯っぽくウインクを飛ばした。
その「ゆっくり」が一般人の感覚とどれほど乖離しているかを知っている大黒と高木は、同時に顔を引き攣らせた。
「橘! 頼む、お前が運転してくれ! 俺の命と、この新調したスーツの平穏のために!」
「ダメよ。これは佐藤先輩の愛車なんだから、他人がハンドルを握るなんて失礼でしょ。……さあ、後部座席に乗りなさい、大黒。高木も、証拠品を回収したらすぐ乗るのよ」
「ええええっ!? 帰りも佐藤さんの運転ですかぁぁっ!?」
「ま、待て橘! 俺は歩いてもいい! ここから本庁まで歩いて帰るからぁぁっ!!」
夕闇が迫る埠頭に、再び赤いRX-7の咆哮が響き渡る。
車内から漏れ聞こえる大黒と高木の悲鳴を乗せて、警視庁捜査一課の夜は、今日も猛スピードで更けていった。