エンドロールは警視庁で   作:いろはにポテト

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第9話:容疑者・大黒圭吾と氷の女(前編)

無機質な蛍光灯の光が、狭い部屋の空気を冷たく照らし出していた。

 

警視庁本庁舎、第一取調室。

普段ならば、大黒圭吾が鋭い言葉の刃で犯罪者の心をへし折るための「処刑台」であるその場所に、今日、彼は『被疑者』として座っていた。

 

チャコールグレーの最高級スーツは、昨夜からの留置でわずかにシワが寄っている。ネクタイは外され、第一ボタンが開けられた無防備な首元。そして、テーブルの上に置かれた彼の両手首には、鈍い銀色の光を放つ手錠がしっかりと喰い込んでいた。

 

「アルフレッド・ヒッチコック監督の『間違えられた男』という映画を知っているか? 堂島監察官」

 

大黒は手錠の鎖をチャリ、と鳴らしながら、対面に座る男に向かって薄く笑った。

 

「善良な音楽家が、身に覚えのない強盗の容疑をかけられ、状況証拠の積み重ねだけで地獄へ突き落とされていくサスペンスだ。……まさか俺が、自分の職場でそのリメイク版を演じる羽目になるとはね」

 

対面に座る男——警視庁警務部監察官の堂島誠一郎は、銀縁眼鏡の奥の冷徹な瞳を一切動かすことなく、大黒を見据えた。彼の隣には、捜査一課の代表として同席を許された佐藤美和子刑事が、険しい顔で腕を組んで立っている。

 

「映画の講釈はどうでもいい。状況がどれほど絶望的か、君のその頭脳なら理解できるはずだ、大黒警部補」

 

堂島が、テーブルの上に数枚の現場写真を滑らせた。彼の声には、身内を思いやるような温かさは一ミリも存在しない。あるのはただ、警察組織のガンを切り捨てるという無機質な殺意だけだ。

 

「本来なら捜査一課が取り調べを行うところだが、君の直属の上司である目暮警部たちは、身内への情が深すぎるため捜査から外された。よって、警察の中の警察である我々『監察官室』が、君の不祥事を直々に処理させてもらう」

 

写真に写っているのは、都内の高級マンションの一室。白い毛足の長いラグマットの上で、赤いスリップドレスを着た美しい女性が、胸をナイフで一突きにされて絶命している姿だった。

 

「被害者は、銀座の高級クラブのホステス、三枝麗子。昨夜の午後十時頃、自宅マンションで刺殺されているのが発見された。……そして、通報を受けて駆けつけた所轄の警官が現場で鉢合わせたのが、血まみれの彼女の傍らに立っていた君だ」

 

「俺が呼び出されて部屋に入った時には、すでに彼女は冷たくなっていた。俺を呼び出した彼女からのメッセージが罠だと気づいた時には、後ろから誰かに頭を殴られて意識を飛ばされたよ」

 

大黒が後頭部を軽くさする。堂島は氷のような視線で調書をめくった。

 

「凶器のナイフからは、君の指紋が検出されている。さらに、彼女のスマートフォンには君との親密なやり取りが残されており、最近、別れ話を巡って君が彼女から執拗に責め立てられていたという証言もある」

 

佐藤刑事が一歩前に出て、バンッ、とテーブルを叩いた。

 

「大黒さん! あなた、麗子さんの他にも同時に三人の女性と付き合っていたそうですね! そのことで麗子さんに『警察にバラす』って脅されていたって……! どうか嘘だと言ってください! 同じ一課の仲間が、痴情のもつれで人を殺したなんて、私は絶対に信じたくありません!」

 

佐藤の悲痛な叫びに、大黒は苦笑いを浮かべて肩をすくめた。

 

「女性にモテるのは否定しないさ、佐藤くん。美しい花があれば愛でたくなるのが男の性だ。……だがな、俺は女性に恨まれることはあっても、女性に手を上げるような野蛮な真似は絶対にしない。何より、自分のスーツに返り血が飛ぶような不経済な殺し方は、俺の美学に反する」

 

「ふざけないでください!」

 

佐藤が怒鳴りかけたその時、堂島が冷たく彼女を制した。

 

「静かにしろ、佐藤刑事。……大黒、君の相棒である橘刑事は、昨夜から本庁に姿を現していない。我々監察官室は、彼女が君の犯行の証拠隠滅に走っていると判断し、彼女の身柄も拘束する手配を済ませた」

 

堂島の言葉に、大黒の目からふざけた光がスッと消えた。

代わりに宿ったのは、絶対的な確信に満ちた、静かで冷徹な光だった。

 

「証拠隠滅? 笑わせるなよ、堂島監察官。あんたたちは、俺の相棒を何も分かっていない」

 

大黒は手錠のはめられた両手を組み、背もたれに深く身を預けた。

 

「あいつは今頃、俺を嵌めた真犯人の喉笛に食らいつくために、泥水の中を走り回っているさ。……なぜならあいつは、俺がこの世で唯一、自分の命と背中を預けられる女だからだ」

 

「……ずいぶんと信頼しているんですね。普段はあんなに犬猿の仲なのに」

 

佐藤が呆れたように呟く。

大黒は天井の蛍光灯を見上げ、懐かしむように目を細めた。

 

「いい機会だ。俺の無実を証明する決定的な証拠を橘が持ってくるまで、少しばかり昔話を聞かせてやろう。……あれは二年前。俺がまだ相棒を持たず、警備部のSPだった橘と最悪な出会いを果たした時の話だ」

 

時計の針は、二年前へと巻き戻る。

 

当時の大黒圭吾は、捜査一課において「単独行動の異端児」として知られていた。卓越したプロファイリング能力で数々の難事件を解決する一方、規律を無視し、上司に盾突き、面倒な雑務をすべて押し付ける彼のスタイルに、誰も相棒として就きたがらなかったのだ。

 

そんな彼に、上層部が半ば嫌がらせのように命じたのが、来日中のヨーロッパ某国の経済大臣の警護任務——警備部との合同オペレーションだった。

 

都内の最高級ホテルのスイートルーム前。

ボルドーのタキシードを着こなした大黒は、壁に背中を預け、ポケットから取り出したシガレットケースを退屈そうに弄んでいた。

 

「フランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』を知っているか? お堅いSP殿」

 

大黒が声をかけた相手は、スイートルームの扉の横に、まるで大理石の彫像のように直立不動で立つ一人の女性警察官だった。

漆黒のパンツスーツ。一切の遊びがないタイトにまとめられた黒髪。そして、廊下の隅々までを無機質にスキャンし続ける、氷のように冷たい瞳。

 

警備部警護課の若きエース、橘巡査部長だった。

 

「狙撃や暗殺というのは、常に被害者が最も安心している瞬間に行われる。だが、この大臣閣下はどうだ? 脅迫状が届いているというのに、部屋に愛人を連れ込んでシャンパンを開けている。護衛する価値があるのかね、こんな男に」

 

橘は視線を一ミリも動かさず、氷点下の声で答えた。

 

「警護対象の人格を評価するのは、私たちの仕事ではありません、大黒警部補。それから、そのだらしない立ち姿を正してください。警備部の規律が乱れます」

 

「手厳しいな。俺は捜査一課の人間だ。脅迫状の送り主をプロファイリングするために呼ばれただけで、肉の盾になるつもりはない」

 

「でしたら、邪魔にならないよう隅に引っ込んでいてください、この軟派な衣装道楽」

 

初対面でありながら、敬語の中に明確な軽蔑の棘を混ぜて言い放つ橘に、大黒は面白そうに口角を上げた。

 

その時だった。

エレベーターの扉が開き、ルームサービスのワゴンを押したホテルの給仕係の男が、ゆっくりと廊下を歩いてきた。ワゴンには白いクロスがかけられ、銀のドームカバーが乗せられている。

 

橘が、一歩前へ出た。

 

「止まりなさい。追加のオーダーは入っていないはずよ。身分証の提示を」

 

橘の右手は、すでにスーツのジャケットの内側——ホルスターの銃へと伸びていた。

給仕係の男が立ち止まり、「し、失礼いたしました。確認いたします」とポケットに手を入れた、その瞬間。

 

「橘! 伏せろ、そいつは囮だ!」

 

大黒の鋭い怒声が廊下に響き渡った。

橘が反射的に大黒の方を見たコンマ数秒後。

 

パァンッ!!

 

乾いた銃声が響いたのは、給仕係のワゴンからではなく、廊下の突き当たりにある「非常階段の防火扉の隙間」からだった。

 

大黒は、給仕係の男の『視線』が最初からスイートルームのドアではなく、橘の背後の非常階段に向けられていたこと、そして男の靴底にホテルのカーペットにはない「非常階段のコンクリートの粉塵」が付着していたことから、これが二段構えの襲撃であることを瞬時に見抜いていたのだ。

 

大黒は橘の肩を強く突き飛ばして射線から外すと同時に、自らは床を転がりながらタキシードの内ポケットからリボルバーを抜き放った。

 

「ぐっ……!」

 

床に倒れ込んだ橘の頬を、銃弾がかすめ、壁の絵画を粉々に打ち砕く。

すると、囮だった給仕係の男が、ワゴンの下から隠し持っていたサブマシンガンを引き抜こうとした。

 

だが、それよりも橘の動きの方が圧倒的に速かった。

 

「なめるな!!」

 

橘は床に倒れた姿勢のまま、バネのように跳ね起きた。

踏み込みと同時に放たれた鋭い蹴りが、給仕係の男のアゴを正確に打ち抜く。男が白目を剥いて仰向けに倒れるよりも早く、橘は男の持っていた銃を蹴り飛ばし、非常階段の防火扉へ向かって疾風のように駆け出した。

 

「おい、待て! 深追いするな!」

 

大黒の制止も聞かず、橘は防火扉を蹴り開けた。

そこには、ライフルを構えた二人目の襲撃犯が、まさに次の弾を装填しようとしているところだった。

 

狭い踊り場での、ゼロ距離の遭遇。

襲撃犯が銃口を橘へ向け、橘が拳銃の引き金を引こうとした瞬間、襲撃犯の足元に転がっていた空き缶を橘が踏み抜き、わずかに体勢が崩れた。

 

(しまっ……!)

 

橘の脳裏に「死」の二文字がよぎった、その時。

 

「おい、スナイパー。お前の狙いは、そのお堅いお嬢さんじゃなくて、部屋の中の豚だろうが!」

 

非常階段の上へと通じる階段の影——いつの間にか先回りしていた大黒が、踊り場の蛍光灯をリボルバーで撃ち抜いた。

 

パァンッ! とガラスが砕け散り、暗闇が落ちる。

怯んだ襲撃犯の視線が大黒へ向いた一瞬の隙を突き、体勢を立て直した橘が、暗闇の中で正確に襲撃犯の懐へと潜り込んだ。

 

ゴキッ、と鈍い音が響き、橘の容赦ない関節技が襲撃犯の右腕をへし折る。

絶叫とともにライフルが床に落ち、橘は男をコンクリートの床へと豪快に叩きつけた。

 

「……確保」

 

荒い息を吐きながら、橘が暗闇の中で男に手錠をかける。

非常灯の薄暗い緑色の光の中、大黒がゆっくりと階段を下りてきた。

 

「見事な体術だ。だが、命令違反の単独突入は減点だな、お嬢さん」

 

大黒が軽く笑うと、橘は立ち上がり、頬から流れる一筋の血を親指で拭った。

そして、大黒の目の前まで歩み寄ると、懐から取り出した分厚い警察手帳の角を、大黒のタキシードの胸板にドンッ、と強く突きつけた。

 

「お嬢さんと呼ばないで。それと、さっき私を突き飛ばした時、あなたの肘が私の肋骨に当たったわ。過剰防衛よ、この乱暴者」

 

「おいおい、命の恩人に向かってその言い草はないだろう」

 

「……でも」

 

橘は、手帳を押し当てたまま、悔しそうに、しかし真っ直ぐに大黒の瞳を見上げた。

 

「あなたが給仕係の男の『目線』と『靴の汚れ』に気づいてくれなければ、私は背後から撃たれていた。……私の観察眼の不足です。ありがとうございました、大黒警部補」

 

元SPとしての高いプライドを折り、素直に礼を述べた彼女の瞳には、氷のような冷たさの奥に、燃えるようなプロフェッショナルの炎が宿っていた。

 

大黒は、自分の胸に押し当てられた手帳を見下ろし、そして橘の真っ直ぐな目を見つめ返した。

 

「……面白いな、お前。気に入ったよ、橘」

 

大黒の口角が、これまでにないほど深く、そして楽しげに吊り上がった。

 

「お前のその人間離れした目と足があれば、俺は現場で一歩も動かずに事件を解決できる。……来週から捜査一課へ来い。俺が上層部に掛け合って、お前を俺の『盾』として引き抜いてやる」

 

「冗談じゃないわ。誰があなたみたいな不真面目な人の相棒なんか……」

 

「拒否権はないさ。俺に命を救われた借りは、一生かけて現場の雑務で返してもらうぞ、相棒」

 

「……というのが、俺とあいつの馴れ初めだ。どうだ、涙なしには語れない美しいバディの誕生秘話だろう?」

 

第一取調室の現在。

大黒が手錠を鳴らしてウインクを飛ばすと、話を聞いていた佐藤刑事は、感心したような、呆れたような複雑な溜息を吐いた。

 

「つまり……大黒さんは最初から、自分がサボるために橘ちゃんを捜査一課に引き抜いたってことですか!?」

 

「人聞きが悪いな。適材適所と言ってくれ」

 

「くだらない身の上話はそこまでだ、大黒警部補」

 

堂島監察官が、氷のような声で遮った。

 

「美しい過去があったとしても、現在の君が殺人容疑者である事実は変わらない。もうすぐ送検の手続きが始まる。……我々監察官室が、君という警察の恥部を完全に切り捨ててやる」

 

堂島が立ち上がろうとした、その時だった。

 

バンッ!!

 

取調室の重い鉄の扉が、外から勢いよく開け放たれた。

廊下の光を背負ってそこに立っていたのは、いつもの漆黒のパンツスーツに身を包み、一睡もせずに走り回ったであろう微かな疲労を漂わせながらも、絶対零度の鋭い眼光と、一冊の分厚いファイルを握りしめた橘の姿だった。

 

(後編へ続く)

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