シャボンディ諸島、40番GR。
喧騒と狂乱が渦巻いていた広場の空気が、夕闇の訪れと共に少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。
高級居住区の最奥に位置するマヤの宮殿。その一室では、薄暗い間接照明の下で、静かで厳かな空気が流れていた。
ジュゥゥゥゥッ……!!
肉を焼く音が部屋に響く。
だが、豪奢な天蓋付きのベッドにうつ伏せになったハンコックの顔に、苦痛の表情はなかった。
かつて背中に刻まれていた忌まわしい『天駆ける竜の蹄』の上から、マヤの頭文字である『S』が絡みつく特注の刻印が重ねて押されたのだ。通常の天竜人の紋章とは全く異なる、流麗な龍の意匠。
「痛かったか?」
マヤが焼きごてを置き、ハンコックの背中に冷たいタオルを当てながら静かに尋ねた。
ハンコックは、ゆっくりと首を横に振った。その目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「いいえ……。過去のトラウマが、あたたかな安心で上書きされるようで……妾は今、心から幸せに存じます」
十六年間、彼女の心を縛り付けていた絶対的な恐怖の象徴。それが今、この世界で最も確実な『絶対安全圏の証』へと変わった。
天竜人であるマヤの『所有物』。それは皮肉にも、海軍も、四皇も、他の天竜人すらも手出しできない最強の盾だ。
「大げさだな。ほら、服を着ろ。飯が冷めるぞ。今日はうちのシェフが張り切ってるんだ」
マヤの平熱な声に、ハンコックは涙を拭い、息を呑むほど美しく微笑んだ。
(ああ……このお方は、昔から何も変わっておられない)
十六年前。マリージョアの悪臭漂う下水の中で出会った、泥まみれの少年。
今、目の前にいる青年は、あの時の少年と同じように、相手が奴隷であろうと七武海であろうと、決して態度を変えることなく、淡々と手を差し伸べてくれる。
着替えを済ませ、ダイニングルームへと向かう廊下を歩きながら、マヤは小さく息を吐いた。
(騒がしい一日だったな……)
ナミとロビンにわざと冷たく言い放ち、ルフィに『下賜する』と突き放した数時間前の出来事。
彼女たちの絶望に染まった顔を思い出すと、胸の奥が微かに痛む。だが、これもまた成長の過程だ。子供じみた海賊の理想論だけでは、この残酷な世界は生き抜けない。彼女たちが自分の足で立つため、そして世界中を敵に回すリスクを理解させるためには、あの手荒な荒療治が必要だったのだ。
広大なダイニングルームの重厚な扉を開けると、そこには長いテーブルに並べられた極上の料理の数々と、静かに待機する専属のシェフたちの姿があった。
そして――。
「……マヤ聖」
扉の前に、ガープ中将を先頭にして、ゾロ、サンジ、チョッパー、ブルック、フランキーの姿があった。
その後ろには、目を真っ赤に腫らしたナミとロビンの姿。
正体がバレないよう、エースは別の部屋で待機している。
マヤは、ふっと口元を綻ばせた。
「……船長はやはり来なかったか。予想通りだな」
その声に、ガープが痛恨の面持ちで深く頭を下げた。
「マヤ聖……! この度は、バカ孫が本当に……!」
「謝罪はあとだ」
マヤはガープの言葉を遮り、普段と全く変わらない平熱のトーンで告げた。
「さあ、みんな上がってくれ。腹が減ってるだろ?」
そして、マヤはナミとロビンに向けて、優しく微笑みかけた。
「おかえり、ナミ、ロビン」
その瞬間。
ナミの瞳から、堪えきれない涙が堰を切ったように溢れ出した。
「なんで……なんで、そんな風に……っ」
「マヤ聖……」
ロビンもまた、顔をくしゃくしゃにして両手で口元を覆う。
「私たち、本当に……捨てられたかと思ったのに……っ!!」
ナミとロビンが駆け寄り、子供のように声を上げてマヤにすがりついて号泣し始めた。
その光景を見ていたハンコックの眉が、ピクリと不機嫌そうに跳ね上がる。
「むっ……マヤ様、そなたら少し馴れ馴れしすぎではないか……?」
だが、二人の耳にはハンコックの嫉妬の声など届いていない。ただ、失ったと思っていた帰るべき場所が、変わらずにここにあったことへの安堵で胸が張り裂けそうだった。
「え?」
マヤは、二人にすがりつかれて本気で困惑したように目を丸くした。
「いや、戻ってくるってわかってたさ。家族だろ?」
「え……?」
涙に濡れた顔を上げるナミに、マヤは呆れたように息を吐いた。
「一回みんなで離れて、冷静に話した方がよかっただろ? あのままじゃ小僧の話は平行線だし、あそこで意地になって戦い合えば、シャボンディの街に甚大な被害が出るしな」
「それじゃあ……わざと……?」
「殴られるのは俺だけで十分さ。それに、手配書もそのまま破棄の手続きで残しておいたしな。お前たちを見捨てる理由がない」
その言葉に、ナミとロビンは言葉を失った。
あの絶望的な突き放しすらも、すべては街への被害を抑え、自分たちを無事に手元に戻すための、マヤの孤独なパフォーマンスだったのだ。
「うわあああああんっ!!」
「……っ、本当に……ずるいお方……!」
ナミとロビンが再び顔を伏せ、マヤの服を濡らす。
「おいおい、泣きすぎだぞ」
マヤは二人の背中を軽くポンポンと叩きながら、ガープの方をジロリと睨んだ。
「……ガープ、お前ちょっと脅しすぎだぞ。そうなる可能性が高かったのは本当だったけどな。言い方を考えろ。二人とも死ぬほど絶望してたじゃないか」
「いや、事実を伝えたまでじゃ! 船長のエゴでこやつらがどれほどの危険に晒されたか、わからせる必要があったんじゃ!」
「まー、でもよく連れてきてくれた。これで貸し3つにしとくぞ」
「増えてる!!! ……じゃが、孫が本当にすまなんだ。あいつは少しあれじゃて……本当にすまんかった」
ガープが深く頭を下げる中、マヤは静かに続けた。
「まあ、こうして筋を通しに来たんだ。あの小僧の暴走も、お前たちの顔に免じて今回は許してやるよ」
「マヤ聖……!」
「ナミ、ロビン。大丈夫だ。一緒にいていいぞ」
マヤが頭を撫でると、ナミはしゃくり上げながら顔を上げた。
「ひぐっ、ひぐっ……本当にもう戻れないのかと思いました……」
「私も、もうダメかと思ったわ。本当に……」
「お前たちは俺の初の家族だぞ? そう簡単に手放すもんか。背中の刻印は伊達じゃない。ずっと一緒だ」
その言葉に、ナミとロビンの頬がカァッと朱に染まる。
それを見ていた麦わらの一味の面々は、(もう完全に家族じゃねェか……)と、呆然としながらも、安堵の息を漏らしていた。
「ゾロ」
不意に名前を呼ばれ、ゾロが姿勢を正す。
「俺たちも、船長を止められずにすまなかった」
ゾロが深く頭を下げる。それに続いて、サンジたちも一斉に頭を下げた。
「ナミさんとロビンちゃんに、とんでもねェ危険を背負わせちまった。……あんたが芝居を打ってくれなきゃ、取り返しがつかねェことになってた。すまねェ」
「ごめんなさい……!」
「本当に、申し訳ありませんでした……」
「海賊のメンツより、今はこの二人の恩人への謝罪が先だ。悪かったな」
誇り高き海賊たちが、天竜人に対して心から頭を下げる。
それは、船長の不始末のケジメであると同時に、ナミとロビンの安全を本気で守ってくれるマヤへの、心からの恩義と敬意の表れだった。
「わかった。頭を上げろ」
マヤは静かに頷き、周囲を見回した。
「……長鼻は来なかったか」
「あいつは……ルフィと同じ気持ちのまま残った」
「そうか。アイツらはアイツらで、考える時間が必要だろうさ」
マヤはパンッと軽く手を叩いた。
「さて。では、みんなで食事にでもしようか。せっかく用意したんだ。腹が減ってるだろ?」
「……うんっ!」
「ええ、いただきますわ」
「いただきます」
ハンコックも加わり、豪華なディナーが始まった。
最高級のワインが注がれ、色鮮やかな料理が運ばれてくる。
「食事しながらでいい、少し大人の話だ」
マヤがワイングラスを揺らしながら、静かに口を開く。
「俺以外の天竜人であれば、君たちは即やられていただろう。まずそこを頭に入れてくれ」
マヤの言葉に、ゾロたちがごくりと喉を鳴らす。
「あ〜でも、暗い話じゃないからビビらないでくれよ? 俺のメンツなんてみんな知ってるから、ナミとロビンが戻った事は街にすぐ知れ渡ってるさ。こう見えて、意外と俺は有名人でね」
「それは、マヤ聖がいつもみんなのお世話してるからでしょ! 率先してどぶ掃除ばかりして」
ナミが少しだけふくれて言う。
「それは手厳しい。でも、今じゃそれなりに綺麗になったもんさ」
「妾の時も、ずっとしていてくださいましたね」
ハンコックが、懐かしむように目を細めた。
「あの時代はね……酷い時代だったよ。ハンコック、生きててくれて嬉しいよ。こうして再会もできたしな」
「まさか、あの方が天竜人だとは思いもしませんでしたゆえ……探すことをしていなかったのです」
「仕方ないよ。あの時代だもの。どぶさらいしてる男なんてさ」
マヤの静かな言葉の端々に、ゾロやロビンがふと違和感を覚える。
どぶさらい。天竜人が? なぜ?
「……マヤ聖。もしかして、あなたが毎日どぶさらいをしていたのは……」
ロビンが、恐る恐る尋ねる。
「ん? ああ……天竜人がむやみに殺した奴隷たちの、遺体の処理だよ。……せめてもの、俺なりの贖罪みたいなもんさ。それと、見つからないようにあそこの道から海へ逃がすルート作りな」
その言葉に、ゾロがハッと息を呑む。
サンジもまた、タバコを持つ手をピタリと止めた。
「天竜人同士には『お互いの所有物(奴隷)には干渉しない』っていう重いルールがある。俺がいくら力を持っていても、他の天竜人の奴隷を正面から全部救い出すことはできないんだ。助けられるのは、こっそり逃がせるほんの一握りだけ。……だから、せめて見つけた遺体くらいは、どぶの中で腐らせずに弔ってやりたかったのさ」
マヤはグラスを見つめ、どこか自嘲気味に笑った。
「泥臭い話だろ? 神様気取ってる天竜人のくせに、全員を救うこともできずに、下水の中で死体の後始末をしてたんだからな」
その瞬間。
ハンコックの胸に、激しい感情が込み上げた。
(あの日……妾たち三姉妹を逃がすために、あの方はあの泥にまみれて道を繋ぎ、救えなかった者たちの弔いをしてくださっていたのか……!!)
どぶさらいの真の理由。
天竜人のルールの壁に阻まれながらも、自分にできる『せめてもの行動』を地道に泥臭く続けてきた、一人の男の不器用な優しさだった。
その事実に、麦わらの一味とハンコックは、目の前で静かに微笑む青年の『底知れぬ凄みと優しさ』に完全に言葉を失った。
「まー、ガープがだいぶ脅しただろうけど、実際に天竜人の所持品っていうのは重いルールなんだよ。一応ルールはあるからね。そもそも、海賊である君達とこうして話をしてる時点で、俺はまた、シャルリア宮に怒られてしまうくらいにね」
マヤは雰囲気を和ませるように軽く笑うと、真剣な顔に戻った。
「君たちは、まー普通に行けるように手配するから大丈夫だと思ってくれ。そうだな、船長と長鼻君には、危機が迫ってるくらいに言っておいてくれたまえ。そうして暴走しないようにうまくやってくれ」
「それは……つまり、お咎めなしってことでは?」
ゾロが信じられないという顔で問う。
「それは、俺の口からは言えないんだ。一応天竜人だからね。そう捉えてくれて構わないよ」
「マヤ聖、ありがとう。ルフィはしばらく、こちらで監視もしますゆえ」
「ガープ、監視だなんて堅苦しいこと言うなよ。ちゃんと『追ってるフリ』だけしてりゃいい。センゴクには『俺がそう指示した』とでも言っておけ。それで丸く収まるだろ? 孫を追いかけるついでに、ゆっくり遊んできな」
「まったく、かなわんわい……」
ガープが苦笑いしながら首を振る。
「妾はしばし、アマゾン・リリーに籠るゆえ。ルフィの相手はできぬでよろしいか?」
「ハンコックは守るべき国があるし、たまに会いに来てもいいよ? 七武海の活躍があったと、俺からセンゴクにそう伝えておくよ」
マヤの気遣いに、ハンコックはカァッと顔を赤らめた。
「で、では……たまに会いに来るゆえ……」
「うんうん、いいよ。という感じになったから、いいかな? ガープの孫のお友達」
「なんかすごいんだな……ありがとう」
チョッパーが、尊敬の眼差しでマヤを見上げる。
「でも、勘違いしたらだめだからね? ここまで恩赦できる天竜人なんて早々いない。今度からは気をつけてね」
「また泥をかぶるんですね……マヤ聖は」
ロビンが、切なそうに目を伏せた。
「ナミとロビンの仲間だったんだろ? それくらいはするさ。ただ、少し泣かせてしまって申し訳なかったね」
天竜人が、下々民である海賊に対して謝罪した。
そのあり得ない現実に、ガープもハンコックも絶句する。
「ありがとう……マヤ聖」
ナミが、涙ぐみながら微笑んだ。
「マヤ聖……愛してます……っ」
ロビンが、胸に手を当てて静かに言った。
「え!?」
ナミが素っ頓狂な声を上げる。
「え!? ロビン、何言ってんの!?」
「あ? え? あ、ああああ、ごめんなさい! なんか嬉しくて、つい……! ありがとうって言おうとしたのに……!」
いつもはクールで知的なロビンが、顔を真っ赤にしてパニックになっている。
マヤは、ふっと優しく微笑んだ。
「そうか。ロビンはそう思ってくれてたのか。ありがとう。俺も同じ気持ちだよ?」
「はい!? え!? わ、私もです! 愛してます!!」
ナミが対抗するように身を乗り出す。
「ありがとう、ナミ。二人とも愛してるよ。……でも、シャルリアには内緒だよ?」
マヤが口元に人差し指を当ててウインクする。
海賊であるナミとロビンからの真っ直ぐな好意を、天竜人であるマヤが少しの衒いもなく受け入れた。
その甘く、どこか浮世離れしたやり取りに、ガープが額の汗を拭う。
「と、とんでもない爆弾発言じゃわい……! 今のは聞かなかったことにしたいのじゃが……」
「…………っ!!」
だが、その和やかな空気を、ギリィッ……!という強い歯ぎしりの音が引き裂いた。
ハンコックだ。彼女は両手でテーブルクロスの端を握りしめ、顔を真っ赤にしてワナワナと震えていた。
「(妾の方が……妾の方が、十六年も前からずっとお慕い申しておったのに……! なぜこんな小娘たちに先を越されねばならぬのじゃ……!!)」
ハンコックの激しい嫉妬のオーラが、ダイニングルームの温度を数度下げた。
麦わらの一味の面々が「ヤバい、七武海がキレるぞ……!」と青ざめて身構える。
しかし、ハンコックは怒りに任せて暴れることはしなかった。
彼女は意を決したようにバッと立ち上がると、長い黒髪を揺らし、マヤの真正面へと歩み寄った。そして、海賊女帝としての威厳など微塵もない、恋する乙女のような潤んだ瞳でマヤを見つめ上げた。
「マ、マヤ様……!!」
「ん? どうした、ハンコック。飯が足りなかったか?」
「違いますっ……!!」
ハンコックは胸元で両手を強く組み、震える声で叫んだ。
「妾も……! 妾も、あの日からずっと……十六年間、あなた様を愛しております……っ!!」
その場にいた全員の思考が停止した。
絶世の美女であり、男を石にする冷酷な海賊女帝の、あまりにも純粋で必死な告白。
「なっ……! あんた、抜け駆けは卑怯よ!」
「そうね。新入りの私たちにも譲ってほしいわ」
ナミとロビンがムキになって立ち上がるが、ハンコックは一歩も引かない。
「黙れ小娘ども! 妾の想いの深さは、そなたらのようなぽっと出とは年季が違うのじゃ!! マヤ様……! どうか、妾のこの想いも……っ」
必死に答えを待つハンコック。
マヤは、三人の美しい女性たちから向けられる重すぎる好意に、一瞬だけ目をパチクリとさせた。
だが、すぐにふっと柔らかく笑い、ハンコックの艶やかな黒髪を優しく撫でた。
「……ありがとう、ハンコック。十六年もの間、俺なんかのことを想い続けてくれたんだな。……俺も、愛してるよ」
「あ……ああ……マヤ様ぁ……っ!!」
マヤの真っ直ぐな言葉と手の温もりに、ハンコックの限界が突破した。彼女はそのまま力が抜けたようにへたり込み、両手で顔を覆って歓喜の涙を流し始めた。
「ずるい! わたしも、私も愛してる!!」
「私もよ!!」
負けじとナミとロビンもマヤの腕に抱きつき、三人の絶世の美女が天竜人一人を取り合うという、常軌を逸した光景が繰り広げられる。
「ありがとう。。」
マヤは困ったように笑いながらも、誰を拒絶するでもなく、そのすべてを大きな器で受け入れていた。
残されたガープと麦わらの一味の面々は、完全に呆然としていた。
「(……とんでもなくヤバい事をしそうだったんだな、ルフィの奴……)」
ゾロが、冷や汗を流しながら呟く。
天竜人の寵愛を独占し、互いに牽制し合う三人の女たち。もしルフィが無理やりナミとロビンを連れ去っていれば、海軍や世界政府どころか、嫉妬に狂った七武海のボア・ハンコックまでもが全軍を挙げて麦わらの一味を殺しに来ていたのは間違いない。
「……帰ったら、あのバカ船長を本気で締め直さねェとな」
「ああ……同感だ」
サンジがタバコを深く吸い込み、ゾロが重々しく頷く。
自分たちの無知と身の程を知り、そしてマヤという男の底知れぬ器の大きさを目の当たりにした彼らは、ルフィへの監視と指導をかつてないほど強化することを、心に固く誓うのであった。