シャボンディ諸島、41番GR。
かつて麦わらの一味がサウザンド・サニー号を停泊させていたその場所には、重苦しい潮騒だけが響いていた。海軍の包囲網が敷かれているにもかかわらず、どこか緊張感の欠けた空気が漂っている。
サニー号の甲板では、ルフィとウソップが、マヤの宮殿から戻ってきたゾロたちを待ちわびていた。
「おせェぞ! ナミとロビンは!? なんで連れてきてねェんだ!!」
ルフィが、身を乗り出して叫ぶ。だが、船に戻ってきたゾロ、サンジ、チョッパー、ブルック、フランキーの表情は、一様に鉛のように重かった。
「……あいつらは戻らねェ」
ゾロが、一切の感情を排した声で冷たく告げた。
「あそこが、あいつらの居場所だ」
「はあ!?」
ルフィの眉間に深い皺が寄る。
「何言ってんだ! あいつらは俺の仲間だぞ!! なんで置いてきたんだよ!!」
「ルフィ。これを読め」
サンジが懐から一通の手紙を取り出し、ルフィの胸に押し付けた。
それは、ナミからの手紙だった。
『ルフィへ。
私たちは、マヤ聖の元に残ります。
本当に私たちを迎えに来たいなら、新世界の荒波を自分たちの力で越えて、私たちが心から安心して乗れる海賊王の器を証明しなさい。
それができないなら、一生顔を見せないで。
ナミ、ロビン』
ルフィは、その手紙をじっと見つめ――次の瞬間、くしゃくしゃに握り潰した。
「ふざけんな!!」
「お、おいルフィ!? なにすんだよ!」
ウソップが慌てて止めようとするが、ルフィは聞く耳を持たなかった。
「こんなの嘘に決まってる!! あの天竜人の野郎に、無理やり書かされたんだ!! あいつらが俺の船を降りるわけねェ!! 俺は迎えに行く! あいつをぶっ飛ばして、ナミたちを取り返す!!」
その言葉に、ゾロが静かに刀の柄に手をかけた。
「いい加減にしろォッ!!!」
腹の底から響くような怒声と共に、ゾロがルフィの前に立ち塞がり、その胸ぐらを乱暴に掴み上げた。
「お前のその身勝手なワガママで、あいつらをまた地獄に引きずり込む気か! 海軍も、世界政府も、四皇もいる新世界へ、航海士もいねェこの船でどうやって進むってんだ!!」
「関係ねェ!! 俺が全部ぶっ飛ばす!!」
「……」
ゾロは、ルフィの淀みのない、純粋すぎる瞳を見て絶句した。
こいつは、本当に何も分かっていないのだ。自分の『自由』が、仲間の首を絞めていることにすら。恩義も、責任も、世界のリスクも、コイツの頭には存在しない。
(……船長。お前がその薄っぺらい『自由』を振りかざす限り、俺たちはいつか全滅するぞ)
サンジもまた、タバコを深く吸い込みながら、同じ絶望を共有していた。
ルフィを止めることは不可能だ。ならば、自分たちが汚れ役として手綱を握るしかない。
「出航だ」
ゾロがルフィを突き飛ばし、低い声で命じた。
「海軍が来る。この船を沈められたくなきゃ、さっさと準備しろ」
ドドドドドンッ!!!
ゾロの言葉を裏付けるように、海軍の軍艦から砲撃が始まった。
だが、その砲撃は異常だった。至近距離からの斉射であるにもかかわらず、砲弾はことごとくサニー号を逸れ、海面に巨大な水柱を上げるばかりだった。
「馬鹿者! 逃がすな! 大砲を撃てェ! ……だが、絶対に船には当てるなよ! 民間人に被害が出たらマズイからな!!」
軍艦の上で、ガープ中将が青筋を立てて怒鳴っている。
「ええ!? あんな至近距離で外すんですか!?」
「うるさい! わしの命令が聞けんのか!!」
海兵たちが涙目で砲身をずらす中、ガープは心の中で(マヤ聖……これで約束は果たしたぞい。あとは、このバカ孫がどう生きるかじゃ)と深く息を吐いた。
「コーティングは完璧だ。……過酷な旅になるが、行け」
岸壁から、シルバーズ・レイリーが静かに見送る。
サニー号は帆に風を受け、コーティングの膜に包まれながら、ゆっくりと暗い海中――魚人島方面へと潜航していった。
深海へと沈んでいく船の甲板で、ルフィはシャボンディ諸島を見上げ、ギリッと歯を食いしばった。
「待ってろよ……ナミ、ロビン。俺が必ず助け出してやる。アイツは俺がぶっ飛ばす!!」
反省の色など微塵もない、狂気すら孕んだその叫び。
ゾロとサンジは、その背中を氷のような冷たい視線で見つめていた。
---
サウザンド・サニー号、船内。
深海の暗闇の中、男子部屋にはどん底のような重苦しい空気が満ちていた。
「手紙渡したけど、マヤ聖の言う通りだったな……」
サンジが、紫煙を細く吐き出しながら呟いた。
「そうだな……。わざわざ、書いてもらっておいてこのざまだ」
ゾロが、腕を組んで壁に背を預ける。
マヤは、ルフィが手紙を読んでも『騙されている』としか思わないことを完全に読み切っていた。それでも、「ケジメとして渡してやってくれ」と彼らに託したのだ。
「書くだけ無駄って言ってたよな。本当にその通りになってびっくりだぞ……」
チョッパーが、膝を抱えて小さく震えている。
「あの……今後、男所帯ですが、頑張って、ルフィさんをコントロールしないと……その……私のように骨になってしまいますね」
ブルックが、なんとか場を和ませようとスカルジョークを飛ばすが、誰の顔にも笑いは浮かばない。
「スーパーに笑えないぜ……。本当にこのままじゃそうなっちまうぞ? いくら強くてもよ」
フランキーが、重い声で応じた。
「連携とれるのか? 船長は勝手に意固地になっちまってる。それに……航海士がいないんじゃ、サニー号を活かせるのか? 新世界の海で、どんどんボロボロになっていくのが目に見えてる。その都度、停滞するしかないんだぞ」
物理的な絶望。
新世界の海において、優秀な航海士の不在は、そのまま『死』を意味する。
暗い沈黙が落ちた。
そこへ、神妙な面持ちのウソップが近づいてきた。彼は小刻みに震え、顔面は蒼白だった。
「なぁ……? 本当に俺達は、天竜人や海軍に目をつけられたのか!? ただ、天竜人殴っただけだろ……? ナミもロビンもむこうにいってるし、お咎めなしで大丈夫なんだろ!?」
ウソップの切実な問いに、ゾロは冷ややかな視線を向けた。
「あのよ。王様ぶん殴って、『はい、そうですか』って許されるわけねェだろ? でも、マヤ聖は、ナミとロビンの件については不問にしてくれた。それだけでありがたいと思え。……だが、ルフィはいまだに、捕られたと思ってやがる」
ゾロは、心の中の言葉を飲み込んだ。
(本当はお咎めなしだと言いたいが、謝罪もしてねェあいつには、お灸を据えろってマヤ聖に言われてるからな)
これ以上、ルフィやウソップが勘違いして暴走しないための、ゾロたちなりの防衛策だった。
「まりもの言う通りだ」
サンジが、冷酷なまでに事実を突きつける。
「じゃあよ、海賊ルールに当てはめてみろ。四皇をぶん殴って、勝てなければどうなるよ?」
「……っ!?」
ウソップが、ヒュッと息を呑んで青ざめた。
「そうか……そういうことだったんだな。俺は……俺は、間違えたのか!? あの時、謝罪に行くべきだったのか!?」
「それはいまさらだろ? そもそも、ルフィが受け入れてないんだからよ。またどこかで会えば、あいつは必ず殴るんだろよ」
ゾロの言葉に、ウソップのパラノイア(疑心暗鬼)が極限に達した。
「それはスーパーにヤベーな。だから、今度はそうならないように、俺達でうまくやっていくしかないってことだ」
「じゃあ……! ルフィはいったいなんなんだ!? 船長だろ!?」
ウソップが、半狂乱になって叫ぶ。
「それでも、信じていくしかないだろ……どんな荒波だろうとよ……」
ゾロが、重く、苦しげに答えた。
(航海士もいない、船長はすぐぶん殴る。あんなに楽しかった旅が今後どうなるんだよ……死にたくねーよ!!!)
ウソップの心は、完全に絶望と恐怖に支配されていた。
生き残るためには、このイカれた船長の狂気に同調し、自分をごまかし続ける『本当の嘘つき』になるしかない。
その時だった。
「お前ら何してんだ?」
どん底の暗い空気の中に、ルフィが飛び込んできた。
その顔には、満面の笑みが浮かんでいる。
「せっかく海軍と差が開いたんだ。冒険のはじまりだぞ!! わくわくするな!」
「……っ」
「いつか強くなったら、また乗り込んで、今度こそナミとロビンを救いだす!! これは絶対だ!」
ウソップは、そのズレきった無邪気な笑顔を見て、恐怖のあまり吐き気を覚えた。
ゾロとサンジは、ただ無言で、狂気に憑りつかれた船長を見つめ返していた。
---
翌朝。シャボンディ諸島、マヤの宮殿。
深海の泥船とは対極にある、光に満ちた豪華な執務室。
マヤは、淹れたてのコーヒーを啜りながら、デスクに山と積まれた書類に目を通していた。
「どうだ、ナミ。この前の海軍の測量船の乗り心地は。カームベルトの海図は上手く描けたか?」
マヤが、巨大なデスクに広げた海図にペンを走らせるナミに尋ねる。
「ええ、バッチリよ!」
ナミが、弾けるような笑顔で振り返った。
「船底に海楼石が敷いてあるから海王類にも気づかれないし、揺れも少なくてすっごく捗ったわ。それに、世界政府の過去のデータと照らし合わせれば、あっという間よ!」
「そうか。また別の海域のデータが取りたくなったら言えよ。安全な船を手配してやるから」
「うんっ! ありがとう、マヤ聖!」
マヤは静かに頷き、今度は窓際で分厚い古文書を読んでいるロビンに視線を向けた。
「ロビン。お前が言ってた南の海の遺跡の文献、マリージョアの書庫から取り寄せといたぞ。そこの机の上に置いてある。……もし自分の目で直に遺跡を見に行きたくなったら、それも言えよ。護衛をつけてやるから」
「……ふふっ。本当に、至れり尽くせりね。ありがとう、マヤ聖。じっくり読ませてもらうわ」
二人の言葉に、マヤは書類から目を離さずにふんふんと頷いた。
「お前たちの夢なんだ、好きにしろ。ただ、無駄に命を懸ける必要はない。お前たちが安全にやりたいことができるように、道を用意してやるのが俺の役目だからな」
その言葉に、ナミとロビンは顔を見合わせて、心底幸せそうに微笑んだ。
(ルフィ……あんたの無茶苦茶な航海に付き合わなくても、私の夢は、こんなに安全で確実な方法で叶えられるのよ)
(知識を追い求めるために、もう誰からも逃げなくていい。命をすり減らさなくていい……)
命の危険に晒されず、自分の意思で自由に世界を知ることができる。
マヤが与えたのは、狂気的な冒険の強要ではなく、「権力と責任によって担保された、本当の自由」だった。
バンッ!!
その平和な静寂を破り、執務室の豪奢な扉が勢いよく開け放たれた。
「マヤ! 今日は朝からどぶ掃除に行かないアマスね!? えらいアマス! まったく、天竜人の自覚が足りないアマス!」
ドカドカと踏み込んできたのは、豪奢なドレスを身に纏い、宇宙服のようなヘルメットを被ったシャルリア宮だった。
マヤは苦笑しながら書類から顔を上げ、立ち上がって彼女を出迎えた。
「よく来たな、シャルリア。今日は書類仕事が溜まっててな」
「そうアマスか。……ふん、おい、そこの下々民のメイドたち!」
シャルリア宮は、ナミとロビンを顎でしゃくった。
「早くわらわに極上のマカロンと紅茶を出すアマス! 」
「ふふっ。はいはい、かしこまりましたシャルリア様」
「すぐにご用意いたしますわ」
ナミとロビンは、全く怯えることなく、余裕の笑顔で立ち上がった。
マヤの庇護下にある彼女たちにとって、シャルリア宮の横柄な態度は、もはや日常のコミカルなスパイスでしかなかった。
「むっ……シャルリアよ。マヤ様の前で、あまり大声を出すでない。品がないぞ」
いつの間にかマヤの隣を陣取っていたハンコックが、冷ややかな視線を送る。
「な、なによ七武海! わらわに指図する気アマスか!?」
「事実を述べたまでじゃ」
火花を散らすシャルリア宮とハンコック。
マヤは、幼馴染であるシャルリアの拗ねたような態度も、ハンコックの嫉妬も、すべてを丸ごと受け入れるように優しく微笑んだ。
「あー……朝から騒がしいな。お前ら、仲良くやれよ」
マヤはコーヒーカップを置くと、軽く伸びをした。
「さて。飯食ったら、港の補修でも手伝いに行ってくるか」
「またそんな下賤なことをするアマスか!?」
「日課だからな」
世界最高権力を持ちながらも、その責任を泥臭く背負い続ける男。
深海で狂気と疑心暗鬼に満ちた航海を始めた麦わらの一味と、世界で一番安全な場所で、地に足をつけて未来を描くマヤの宮殿。
二つの世界のコントラストは、残酷なまでに鮮やかに、新世界の幕開けを告げていた。