シャボンディ諸島を包み込む夜の闇は、深い海底の沈黙に似ていた。
ルフィたちがサウザンド・サニー号と共に深海へと潜航し、彼らを追う海軍の包囲網も撤収した41番GR(グローブ)。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った港に、海水が微かに波打つ音が響く。
ポコ……ポコポコ……。
海面が不自然に泡立ち、巨大な影がゆっくりと浮上してきた。
特殊なコーティング膜に覆われた、クジラを模した巨大なガレオン船――白ひげ海賊団の母船『モビー・ディック号』である。
船首から岸壁へと、音もなく巨体が降り立つ。
世界最強の海賊、「白ひげ」ことエドワード・ニューゲート。
その背後には、一番隊隊長マルコ、三番隊隊長ジョズら、名だたる幹部たちが続いている。彼らは皆、極度の緊張を強いられる海軍本部との戦争を間一髪で回避したものの、未だに事の全容と、自分たちを救った「天竜人」の真意を測りかねていた。
「……よい。出迎えか」
マルコが、ガス灯の薄明かりの下に立つ一つの影に目を細めた。
仕立てのよい黒のスーツに身を包み、目元をサングラスで隠した男。
隙のない立ち姿。一切の気配を消し去るその身のこなしは、海賊というよりは、世界政府の暗躍組織――サイファーポールそのものだった。
男はサングラスを外し、ゆっくりと頭を下げた。
「久しぶりだな、マルコ。……親父も。来てくれてよかった」
「……ッ!!」
その声に、マルコとジョズが息を呑んだ。
白ひげの巨体が、微かに震える。
「グラララ……」
白ひげは、太く低い笑い声を喉の奥で鳴らしながら、一歩前に出た。
「いいツラになったじゃねェか、バカ息子。……電話の時のような涙の跡は、もうねェようだな」
「ええ」
ポートガス・D・エースは、静かに頷いた。
「『海賊エース』はあの日、黒ひげティーチに殺されて死んだ。今の俺は、マヤ聖直属高まるしの極秘護衛『CP10』のエースだ。親父が死にかけだ
っていうのに……俺にできる恩返しは、これくらいしかない」
エースの背中には、かつて誇りとしていた白ひげの十字マークはもうない。今は黒いスーツの下に、マヤの『S』の紋章が刻まれている。
己の全てを捨ててでも、白ひげ海賊団を、そして自分を救ってくれた男(マヤ)のために生きる。その揺るぎない覚悟が、かつての「火拳」の荒々しさを消し去り、底知れぬ静かな覇気となって彼を包み込んでいた。
「そうか。……立派になったな、エース」
マルコが、安堵と一抹の寂しさを交えた声で呟く。
「さあ、こちらへ。マヤ殿がお待ちだ」
エースの先導で、白ひげ海賊団の面々はシャボンディの裏道を抜け、島で最も豪奢な高級居住区――マヤの宮殿へと足を踏み入れた。
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シャンデリアが眩い光を放つ、宮殿の巨大な応接室。
最高級のベルベットのソファに深く腰掛けていたマヤが、手元のワイングラスを置き、静かに立ち上がった。
「俺は綺麗な場所が好きでね。……よく来たな、エドワード・ニューゲート」
平熱の、しかし絶対的な支配力を感じさせる赤い瞳。
白ひげは、目の前に立つ若い天竜人をまじまじと見下ろした。
かつてロジャーと覇を競い、世界の頂点に君臨し続ける海の王。その巨大な威圧感を前にしても、マヤは顔色一つ変えずに涼しい顔をしている。
「グラララ! 天竜人の屋敷ってから、どんな血生臭い場所かと思えば……うちの船よりよっぽど居心地が良さそうじゃねェか」
白ひげの視線の先では、メイド服に身を包んだナミとロビンが、手際よく高級な酒や果物をテーブルに並べていた。彼女たちの顔に怯えはなく、むしろこの非日常の顔合わせをどこか楽しんでいるような余裕すらある。
(……この男、恐怖で縛り付けているわけじゃねェ。自分の意思で、この場所を選ばせてやがる)
白ひげは、事の顛末を改めて噛み締めた。
海軍本部での全面戦争という最悪の事態。それを、電話一本、いや、その裏で五老星相手に行ったであろう途轍もない根回しによって、「黒ひげの暴走」というシナリオに書き換え、海軍の顔を立て、白ひげ海賊団を無傷で存続させた。
「電話じゃ世話になったな、あんちゃん。お前の見事なシナリオのおかげで、俺の家族は守られた。……親として、デケェ借りを作っちまったな」
世界最強の男が、若き天竜人に対して、偽りない感謝の意を示す。
「気にするな。四皇のトップであるお前らが新世界の均衡を保ってくれるなら、俺の仕事も減る。お互いの利益のためだ」
マヤは淡々と答えながら、白ひげの巨体の前に立った。
「……ちょっと、前かがみになれ」
「ん?」
白ひげがいぶかしげに眉を寄せるが、マヤの瞳に敵意はない。
白ひげが少しだけ身を屈めると、マヤは右手を、白ひげの巨大な胸――心臓のあたりにかざした。
スゥゥゥ……。
淡い、温かな青緑色の光が、マヤの掌から放たれる。それは、『医療の念』として使っている。NMER(核磁気電気共鳴)の残滓だった。、細胞を活性化させ、傷ついた臓器の基礎を整える程度なら造作もない力を使っている。が、マヤの本質にかかわることを無自覚で使っている。
「おい、何をしてるよい!」
マルコが血相を変えて前に出ようとするが、それをエースの腕が静かに制止した。
「落ち着け、マルコ。マヤ殿は親父を……治してるんだ」
「治す……?」
「……ふぅッ」
白ひげが、思わず深い息を吐き出した。
目が見開かれる。
長年の戦いと老いで、鉛のように重く、常に鈍い痛みを放っていた胸の奥が、嘘のように軽く、澄み切っていくのを感じた。
「俺なりの、ちょっとしたサプライズだよ。ガキの時に使えるようになったんだよ。不思議なこともあるもんだろ?」
マヤが手を離し、ポケットに突っ込む。
「お前らほどの規格外の体なら、老いているとはいえ、基礎の血流さえ整えてやれば、まだまだ何十年も長生きできるだろ? 息子の成長も見届けなきゃならないんだ。ここでポックリ逝かれちゃ困る」
「グララララッ!!ちげぇーね。この世界じゃ、不思議なことは五万とあるからな。悪魔の実ではなさそうだがな。」
白ひげが、腹の底から豪快に笑い声を上げた。
その声の張り、生命力の満ち引きが、先ほどまでとは別人のように若々しい。
「寿命まで伸ばしてくれるとはな! お前さん、本当に底知れねェ男だ。だが……タダでそこまでしてやろうって腹じゃねェだろう?」
「ああ。借りは要らないと言ったが……お互い、今後の『仕事の分担』はしておこう」
マヤがソファに座り直し、足を組む。
「仕事、だと?」
マヤは窓の外――遥か彼方の空の上、聖地マリージョアの方角へと鋭い視線を向けた。
「ああ、俺はいつも忙しくてね。お前には、まだ四皇のトップとして海に君臨して貰わないと困るんだよ。新世界で白ひげ海賊団が睨みを効かせ続けてくれりゃ、誰も下手に動けなくなるからな」
「……俺を盾にでもする気か? 天竜人の坊ちゃんが、俺に新世界を任せて何をするつもりだ」
白ひげの覇気が微かに膨れ上がるが、マヤはそれを涼風のように受け流した。
「上の相手もしないといけなくてね」
その何気ない一言に、マルコやジョズが息を呑んだ。
白ひげの目が、さらに鋭く見開かれる。
「上の相手、だと……?」
「まー、なんてことはない。俺はこの辺一体を守りながら、生活して上の相手もしないといけないからな。お前らは新世界で今まで通りしてくれてれば、俺が行かなくて済むってことだよ。ようするに、適度に暴れてくれてればよいってことさ
」
世界政府の中枢の性質を知ってるからこそ放たれる、底知れない政治の駆け引き
エースの処遇と黒ひげの件で、すでに五老星相手に途轍もない根回しをしたことを知っている白ひげは、マヤの言う『上の相手』という言葉に、海賊の戦争とは次元の違う、巨大で冷徹な暗闘の気配を感じ取った。
この男は、海軍や海賊だけでなく、世界政府そのものを盤上で転がそうとしている。
「……グラララ。恐ろしい男だ。底が知れねェ」
白ひげは、手元の巨大な酒杯を持ち上げた。
「いいだろう。俺たちは俺たちの縄張りを守りながら、海で適度に暴れてやろうじゃねェか。お前さんも、せいぜい上で上手く立ち回るんだな」
「ああ、よろしく頼む」
マヤもワイングラスを掲げる。
グラスが触れ合う澄んだ音が、応接室に響いた。
ここに、世界を裏から支配する天竜人と、表の世界に君臨する最強の海賊による、誰も知らない『最強の同盟』が成立した。
酒を煽りながら、白ひげはふと、マヤが長年かけて海軍や民衆から得てきた「本当の力」に思いを馳せた。
「グラララ……天竜人ってのは、権力と血筋にあぐらをかいたバカばかりだと思ってたが。あんた、海軍のガープやセンゴクどころか、この街の民まで完全に味方につけてやがる。……なるほどな。上のジジイ共が手を出せねェわけだ。あんたを消せば、海軍と民衆が黙っちゃいねェ」
「ただの地道な努力の結果だよ。俺は権力や血筋に執着はない。手が届く範囲の『民』が平穏ならそれでいいのさ。……それに、イカれたルールを押し付けてくる身内から自分を守るには、こうやって外堀を埋めて『手出し無用』の状況を作るしかなかったからな」
「グラララ! 腕力じゃなく、民の心で神々の首根っこを押さえたってわけか。大したタマだ」
白ひげは上機嫌に笑い、もう一杯酒を要求した。
「そういや……海賊の中にも一人、あんたみたいに底知れねェ『おかしな野郎』がいるな。赤髪のシャンクスだ」
「……あ?」
マヤの平熱だった瞳が、微かに冷たく細められた。
その微妙な変化を、白ひげは見逃さなかった。
「あいつも、ただの海賊にしちゃア妙に顔が広くてな。どこか浮世離れしたところがある」
「……赤髪か。白ひげ、悪いが俺をアレと一緒にしないでくれよ」
「ん?」
「あいつは、絶対に自分が火の粉を被らない『安全な保険』を裏に隠し持ったまま、下界で『自由な海賊』を気取ってるだけの、タチの悪い海賊だ。泥水すすって、命がけで責任背負ってる俺たちと一緒にすんな」
シャンクスの正体――フィガーランド家という天竜人の血筋――を知らない白ひげは、マヤの言葉の真意を測りかねて眉を寄せた。
「(保険、だと……?)」
「まあいいさ。お前はただの『ちょっと顔の広い海賊』だと思ってりゃいい。だが……」
マヤが、手元のワイングラスをテーブルに置いた。
その瞬間、室内の温度が数度下がったかのような、冷酷な殺気がマヤから放たれた。
「いつかあいつの偽物の『自由』が世界を歪めるようなら、俺が直接相手しないとだしな」
静かだが絶対的な殺意。
白ひげは、(赤髪の野郎……一体、裏でどんなヤバいもんを隠し持ってやがるんだ?)と、本能的な警戒心を抱く。
シャンクスの矛盾を的確に皮肉るマヤの姿は、己の血筋に甘えず、己の手で絶対的な地位を築き上げた者の誇りに満ちていた。
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数時間後。
マヤは応接室を後にし、自身の執務室へと足を向けた。
深夜にもかかわらず、そこには灯りが点っており、ロビンが一人、巨大なデスクに広げた古文書と睨めっこをしていた。
「随分と集中してるな、ロビン」
「あ……マヤ聖」
ロビンは、羽ペンを置いて優しく微笑んだ。
「マヤ聖が手配してくれたマリージョアの書庫のデータ……本当に素晴らしいわ。私が長年追い求めていた『空白の百年』のパズルが、どんどん組み上がっていくのがわかる」
「そうか。そりゃあ良かった。だが、無理はするなよ」
「ええ、分かっているわ。……ただ、少し気になる記述が点在していて」
「気になる?」
ロビンが、古文書の分厚いページをめくりながら、真剣な眼差しをマヤに向けた。
「ええ。かつて私がいた、砂の国アラバスタ王国……あそこには、『プルトン』と呼ばれる古代兵器の在り処を示すポーネグリフがあったわ」
「プルトン。世界を滅ぼす兵器か」
「そして、この政府の古い記録や、各地の歴史の断片を照らし合わせると……もう一つの古代兵器、『ポセイドン』。それがどうやら、深海……『魚人島』に深く関わっているようなの」
その言葉に、マヤの目が鋭く光った。
「魚人島……さっき帰った白ひげの縄張りか。なるほどな」
「上の連中(五老星)がその事実にどこまで気づいているかは分からないわ。でも、もし彼らが確証を得れば……魚人島は間違いなく『掃除』の対象になる」
ロビンの声には、歴史を知る者ゆえの深い恐れが滲んでいた。
世界政府は、己の権威を脅かす歴史や兵器の存在を絶対に許さない。オハラがそうであったように、島一つを地図から消し去ることなど、彼らにとっては息をするように容易いことだ。
マヤは窓辺に歩み寄り、シャボンディ諸島の海を見下ろした。
その海の底深くには、古代兵器の謎を秘めた魚人島があり、そして今頃、航海士を持たない泥船で、無謀な航海を続けるルフィたちが向かっているはずだ。
「……そうはさせないさ。エースを呼べ」
「マヤ聖?」
「少し、俺の庭の警備を強化する必要がありそうだな。アラバスタと魚人島、この二つの国には、レヴェリーに向けて俺から直接『網』を張る」
世界政府(上)の狙いを、ロビンという最高の『知識』から読み解き、先回りして手札を揃え始めるマヤ。
彼は、圧倒的な知識と情報網、そして冷静な政治判断によって、世界の理不尽を塗り替えていくのだ。
一方その頃、何の知識も情報も持たない麦わらの一味は、パラノイアに陥る仲間と狂気の船長を乗せたまま、ただ運任せに荒れ狂う新世界へと突っ込んでいく。
「責任ある自由」と「無責任な自由」。
二つの航海は、交わることのない平行線を描きながら、激動の世界へと漕ぎ出していた。