白ひげ海賊団がシャボンディ諸島から新世界へと帰還する直前のことだった。
マヤは、出航の準備を進める白ひげとマルコに向けて、一つの提案を持ちかけた。
「白ひげ。お前たちが縄張りである魚人島へ帰るなら、俺たちも連れて行ってくれないか」
「ほう? 天竜人の坊ちゃんが、俺たちの船に乗るってのか?」
白ひげが面白そうに眉を上げる。マヤは首を横に振った。
「いや、俺たちは俺たちの船で行く。だが、魚人島はお前たちの保護下にある縄張りだ。いきなり天竜人が乗り込めば、島民は混乱するし、お前たちの顔も潰れかねない。だから、お前たちの船団に同行する形で島に入らせてほしい。あくまで、白ひげ海賊団の客分としてな」
その言葉に、マルコが感心したように息を吐いた。
世界政府の最高権力者でありながら、海賊の『縄張りの仁義』を弁え、白ひげの顔を立てる。その細やかな政治的配慮に、白ひげは豪快に笑い飛ばした。
「グララララ! どこまでも話の分かる男だ! いいだろう、俺たちの後ろをついて来な! 魚人島には俺から話を通しておいてやる!」
こうして、マヤ一行を乗せたコーティング船は、白ひげ海賊団の巨大なモビー・ディック号に追従する形で、深海一万メートルへの旅へと出発した。
海流に飲まれる危険な深海へのダイブも、世界最強の海賊団が先導し、海軍の最新航海技術が詰め込まれたマヤの船であれば、まるで豪華客船のクルーズのように快適だった。
ナミは揺れのない船室で、深海の特殊な海流や生態系のデータを心ゆくまで海図に書き込み、ロビンはマリージョアから持ち出した膨大な歴史の古文書を読み耽っていた。彼女たちの顔には、かつてルフィの船で見せていたような「死と隣り合わせの緊張感」は欠片もない。ただ純粋に、己の夢を追い求めている充実感だけが満ちていた。
やがて、巨大なシャボンに包まれた海底の楽園、魚人島がその美しい姿を現した。
島への到着は、魚人島全体を巻き込む一大イベントとなった。
何しろ、島を守護する大恩人である白ひげが帰還し、さらに彼が「信頼に足る客」として天竜人を連れてきたのだ。
竜宮城の主であるネプチューン王と、タイヨウの海賊団船長ジンベエは、驚愕と微かな警戒を抱きながらも、国を挙げての最大の歓迎の宴を準備した。
だが、マヤはその歓迎を受ける前に、裏で一つだけ『掃除』を済ませていた。
「マヤ殿。処理、完了しました」
竜宮城の裏手で、黒スーツにサングラス姿のエースが、血のついた手袋を外しながらマヤに報告した。その足元には、バンダー・デッケン九世が意識を失い、完全に拘束されて転がっている。
「ご苦労。ジンベエに頼んで、こいつは深海の監獄へ放り込んでもらえ。二度と日の光を見せないようにな」
「了解。それから、ホーディとかいう過激派の動きもありましたが、白ひげの親父とあんたが揃って島に入ったと聞いて、完全に沈黙しました。連中のアジトもすでに制圧済みです」
「上出来だ」
マヤは短く労い、ネクタイを締め直した。
しらほし姫を十年間も硬殻塔に縛り付けていたデッケンの狂気も、人間への憎悪を煮詰めていたホーディの反乱計画も、ルフィたちが到着する前に、マヤの政治力とエースの暗部の力によって、誰にも知られることなく完全かつ無音に排除されたのだった。
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柔らかな陽光の樹(イブ)の光が降り注ぐ竜宮城のバルコニーでは、海中とは思えないほど優雅で穏やかな時間が流れていた。
バルコニーに設えられた特注の巨大なテーブル。その横には、身長一二メートルにも及ぶ美しい人魚姫――しらほしが、巨大な両手をそっとテーブルの高さに添えていた。
その手のひらの横には、瀟洒なティーテーブルと椅子が置かれ、マヤが紅茶のカップを片手に足を組んで座っている。その傍らには、メイド服姿のナミとロビン、そして背後に立つエースが控えていた。
「よかったな。うちの(エース)が役に立ったようだな」
マヤが、カップをソーサーに戻しながら、ふと見上げて微笑んだ。
十年間、硬殻塔という鳥籠の中で恐怖に震えていたしらほしは今、マヤの絶対的な保護の下、太陽の光のような笑顔を咲かせている。
「はい……! マヤ聖のおかげです」
「とても美しいな。お前の瞳は、良い笑顔だ」
マヤが、いつものように息をするように自然な賛辞を送る。しらほしの白い頬が、ぽっと朱に染まった。
その屈託のない笑顔を見つめながら、マヤの平熱の瞳に、微かな、しかしひどく深い哀愁がよぎる。
「……お前の笑顔を見てるとよ……タイガーを思い出す。あいつも最期は、いい笑顔だったんだがな……」
その名前が落ちた瞬間。
周囲で控えていたネプチューン王とジンベエの顔色が、さっと変わった。
魚人族にとっての伝説の英雄、フィッシャー・タイガー。世界政府の中枢・聖地マリージョアを襲撃し、天竜人の奴隷たちを解放した男の名を、なぜ目の前の若い天竜人が知っているのか。
「マヤ聖……あんた、どうしてタイガーの兄貴を……」
ジンベエの絞り出すような問いに、マヤはティーカップを置き、静かに目を伏せた。
十数年前の、泥に塗れた暗黒の記憶が、波紋のようにマヤの脳裏に広がる。
聖地マリージョア。神々が住まうとされるその白亜の都の地下には、決して光の届かない巨大な水路――『どぶ』が存在していた。
そこは、天竜人の気まぐれな暴力によって命を落とした奴隷たちの死体が、ゴミのように無造作に投げ捨てられる場所だった。
当時、まだ少年だったマヤは、夜な夜な泥まみれになりながら、そのどぶへ通っていた。
なぜ、命がこんなにも軽く扱われるのか。なぜ、ただ生まれた場所が違うというだけで、同じ血の通った生き物をモノのように壊せるのか。
マヤは、天竜人という自らの血筋が孕む絶対的な狂気に吐き気を催しながら、名も無き死者たちを水路の隅へ引き上げ、泥を拭い、せめてもの弔いを行っていた。まだ微かに息のある者を見つければ、こっそりと水筒の水を飲ませた。
そのどぶの最深部、厳重な鉄格子の奥に繋がれていたのが、奴隷として捕らえられていたフィッシャー・タイガーだった。
タイガーは、夜の闇に紛れてやってくるその少年が「天竜人」であることに、薄々気づいていた。
少年の肌の艶、泥に汚れてはいるが上等な服の生地。そして何より、こんな地下深くをうろついていても、警備の兵が一切咎めないという事実から。
しかし、タイガーはあえて素性を問いただすことはしなかった。自分たち魚人にさえ、泥だらけの小さな手で水を飲ませ、無残な死体を前にポロポロと涙を流すその少年の背中に、人間という種族への微かな希望を見たからだ。
『……お前さん、変わった人間だな』
ある夜、鉄格子越しにタイガーが声をかけた。
『お前たちこそ。なんでこんな目に遭わなきゃならないんだ』
『ヘッ……俺が魚人だからさ。お前ら人間にとっては、俺たちはただの珍しい魚なんだろうぜ』
『俺は、そんな風には思わない』
少年マヤは、鉄格子の隙間から、自分の水筒を差し出した。
タイガーは無言でそれを受け取り、喉を鳴らして飲んだ。天竜人から与えられた水など、本来なら毒が入っていると疑うべきだ。だが、タイガーはその少年だけは信じた。
そして、運命の夜が訪れる。
奴隷の手引きで一度マリージョアを脱出していたタイガーが、再び奴隷たちを解放するために、単身でレッドラインをよじ登ってきた夜。
マヤは、タイガーの気配を誰よりも早く察知した。
自分が表立ってタイガーを助ければ、彼自身の立場も、逃げ出す奴隷たちの立場もさらに悪くなる。天竜人の反逆者として、海軍大将が動く事態になりかねない。
だからマヤは、暗闇の中で決死の『どぶさらい(裏工作)』を行った。
警備兵たちに嘘の巡回ルートを指示し、タイガーが向かうであろう奴隷の檻の鍵のシステムを意図的にショートさせて回った。さらに、マリージョアの地下に張り巡らされた逃走路となる隠し水路の柵を、自らの手で重い鉄扉を持ち上げて開放した。
タイガーは、あまりにもスムーズに牢の鍵が開き、警備が手薄になっている状況に気づいていた。
炎上するマリージョアの暗闇の中で、タイガーは水路の奥に向かって、ニヤリと笑って一礼した。
暴動の混乱の中、恐怖で立ちすくんでいた三人の少女――ボア・ハンコック三姉妹。
彼女たちの手を引き、マヤが用意した安全な抜け道へと導いたのも、その少年だった。
暗闇の中、顔もよく見えない。ただ、泥に塗れながらも温かい手をしたその少年は、ハンコックの震える背中を力強く押した。
『もう大丈夫だ。振り返らずに走れ。海へ向かえ!』
燃え盛る業火を背に、タイガーは脱出の際、水路の暗闇に向かって一言だけ呟いた。
『ありがとよ……どぶさらいの坊主』
それが、マヤが聞いた、タイガーの最後の言葉だった。
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沈黙が、竜宮城のバルコニーを支配していた。
マヤの口から語られた、マリージョアの襲撃事件の裏に隠された真実。
ジンベエは、わななく唇を噛み締めながら、目の前の天竜人を見つめていた。
「すまなかったな」
マヤは静かに目を伏せ、ジンベエとネプチューン王、そしてしらほしの前で、深く頭を下げた。
「俺は、最後まで見届ける事しかできなかった。その後、タイガーが死んだのは、俺があの夜、逃がしてしまったせいか……はたまた、俺がもう少し物資や逃走用の船を渡せていれば、運命は違ったのかもしれないと……ずっと、思っていた」
世界を支配する「天竜人」からの、奴隷の死に対する真摯で重い謝罪。
それは、魚人族が数百年もの間、どれほど血を流しても決して得ることができなかった、人間からの歩み寄りそのものだった。
「タイガーの兄貴は……ッ!!」
ジンベエの目から、滝のような涙が溢れ出した。
彼は巨大な体を折り曲げ、大理石の床に額を擦り付けるようにして号泣した。
「兄貴は最期まで、人間の血液を拒んで死んだ……! 人間の狂気を許せん自分を呪いながら死んでいった……。じゃが、あんたという存在が、あの地獄の中で、どれほど兄貴の魂を救ったか……ッ!! 兄貴の心の中に、あんたのような人間の温もりが残っとったと思うだけで……わしは……ッ!!」
オトヒメ王妃が命を懸けて説いた「人間への愛」。そしてタイガーが抱えた「人間への絶望」。
その両方を、マヤという一人の男の「過去の贖罪」が、すべて優しく包み込み、昇華させた。
タイガーは人間に絶望して死んだのではない。人間の愚かさを憎みながらも、最後の最後まで、マヤという一人の人間に救われた記憶を抱いて、誇り高く死んでいったのだと。
ジンベエの号泣に共鳴するように、しらほしの大きな瞳からも、ポロポロと大粒の涙が零れ落ち始めた。
「泣かすのは趣味じゃないんだがな」
マヤは苦笑し、さらに上にある彼女の目元を見上げた。
「そうだ。少し俺を、お前の目元まで上げてくれないか? その涙を、良ければ俺に拭わせてくれ」
しらほしはしゃくりあげながら、巨大な両手で優しくマヤを手のひらに優しく乗せ。自分の顔の高さまで持ち上げて持ってきた。
マヤがハンカチを取り出し、彼女の瞳の端からこぼれる涙をそっと拭う。
「ありがとうな、優しき姫さんよ。タイガーの為に泣いてくれてよ」
「え、いや、あの……」
しらほしは、涙で濡れた顔を真っ赤に染めながら、もじもじと身をよじった。
「確かに、タイガー様の為でもあるんですが……その、マヤ様のおこないに……その……///」
しらほしが恥ずかしそうに視線を逸らす。
「よい光景じゃ……」
ネプチューン王が涙ぐみながら髭を撫で、ジンベエもまた、「兄貴を立ててくれとるのか……こんな天竜人もおるんじゃな……ッ」と深く感銘を受けていた。
感動に包まれるバルコニーの隅で、ナミとロビンがヒソヒソと呆れたような声を上げる。
「……あれは、そうなるわ」
「フフ……マヤ聖、また女性を無自覚に落としてしまったわね」
マヤは苦笑しながら、しらほしの手の上で椅子に座り直した。
「泣き止んだか? ――そのうち、魚人島から外に出て、一緒に海上にでてもいいな。白ひげもいるし、俺もいるから、いつでも行けるぞ」
「本当ですか……!?」
しらほしの瞳が、パァッと輝いた。
「そうなったら嬉しいです! 本物の太陽にあたれるなんて……私、夢みたいです!」
「マヤ聖がいるんだから大丈夫よ。どんな海軍も海賊も、指一本触れさせないわ」
ナミが、誇らしげに胸を張ってウインクをする。ロビンも優しく微笑みながら頷いた。
そこにあるのは、圧倒的な権力と知識、そして過去の贖罪によって築き上げられた、完璧で優しい絶対安全の世界だった。
その裏で、ロビンはすでに海の森へ赴き、ジョイボーイの謝罪文を解読していた。しらほしの秘密を得たマヤは、世界政府の『掃除』からこの島を完全保護するための法的な網(セーフティネット)を、すでに敷き終えていた。
彼らはもう、誰にも脅かされることはない。
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――同時刻。魚人島、サンゴが丘の入り口。
「ゼェ……ゼェ……ッ!! 着いた……着いたぞォォ!!」
ボロボロに半壊したサウザンド・サニー号が、巨大なシャボンを突き破り、無惨な姿で海底に不時着した。
航海士のいない深海の旅は、まさに地獄だった。潮流に飲まれ、海王類に襲われ、船の原型を留めているのが奇跡に近いほどの惨状。
甲板に倒れ込むウソップ、チョッパー、ブルックは、もはや生気を失っていた。
「やっと……やっと着いた……。死ぬかと思った……」
「スーパー……もう限界だぜ……船底に穴が……」
フランキーが膝をつき、ゾロとサンジは無言で息を整えている。彼らの目には、ルフィという狂気の船長に付き合ったことへの深い疲労と絶望が刻まれていた。
だが、ただ一人。
ルフィだけは、無傷の笑顔で船首に立ち、魚人島の美しい街並みを見下ろしていた。
「よし!! 到着だ!! 敵はどこだ!? 俺がぶっ飛ばして、ナミたちを取り返して海賊王に俺はなってやる!!」
ルフィは腕を振り回し、意気揚々と島へ上陸する。
しかし。
彼らが目にしたのは、争い一つない、平和で穏やかな魚人島の光景だった。
街の人々は笑顔で行き交い、かつて人間を憎んでいた魚人たちも、なぜか穏やかな顔をしている。そこには、ルフィが拳で解決すべき「悪」など、どこにも存在しなかった。
「……おい。どうなってんだ? 敵はいねェのか?」
ルフィが苛立ちながら周囲を見渡す。
その時だった。はるか上空、竜宮城の巨大なバルコニーから、楽しそうな笑い声が降ってきた。
ルフィが見上げると、そこには、巨大な人魚姫の手の上で、優雅に紅茶を飲むマヤの姿があった。
そしてその傍らには、ルフィが「無理やり連れ去られた」と信じて疑わなかったナミとロビンが、心底幸せそうに笑い合いながら、マヤと談笑している光景があった。
「あ……」
ルフィの口から、間の抜けた声が漏れた。
なぜだ。
俺がこんなに苦労して、ボロボロになってここまで来たのに。
なぜ、事件は何も起きていない? なぜ、俺の出番はない?
なぜ――あいつらは、俺がいなくても、あんなに幸せそうに笑ってやがるんだ!?
「あいつら……なんで、あんなに笑ってやがるんだ……!?」
ルフィの握りしめた拳から、ギリッと嫌な音が鳴った。
自分が英雄になれる舞台は、すでにマヤの「過去の贖罪」と「圧倒的な政治力」によって優雅に完結していた。
自分がただの「暴れたいだけの惨めな海賊」に成り下がったという残酷な事実を突きつけられ、ルフィの瞳に、黒く澱んだ狂気と逆恨みの炎が灯り始めた。