深海一万メートル。海底の楽園、魚人島。
巨大なシャボンに包まれたリュウグウ城の特大バルコニーには、陽樹イブから降り注ぐ柔らかな光が満ちていた。
先ほどまで、フィッシャー・タイガーの凄惨な過去と、少年だったマヤによる『どぶさらい』の真実が語られていた場所とは思えないほど、今は静かで穏やかなティータイムの空気が漂っている。
バルコニーに設えられた巨大なテーブル。その横には、身長12メートルにも及ぶ美しい人魚姫、しらほしが両手をそっとテーブルの高さに添えている。その手のひらの上には瀟洒なティーテーブルと椅子が置かれ、マヤが足を組んで座っていた。彼の背後にはメイド服の上に薄手のガウンを羽織ったナミとロビン、そして黒スーツにサングラス姿のエースが静かに控えている。
さらにバルコニーの奥には、世界最強の海賊である四皇「白ひげ」エドワード・ニューゲートが、樽のような巨大な杯で酒を煽りながら、この若き天竜人の一挙手一投足を興味深そうに眺めていた。
「泣き止んだか、しらほし」
マヤが、涙で目を腫らした巨大な人魚姫を見上げて、静かに口を開いた。
「……にしても、十年もあんな暗い塔に閉じこもってたとはな。バンダー・デッケンに怯えて、お前のその綺麗な笑顔が外に出られないなんて、世界の損失だ」
「マヤ様……」
「だから……俺の保護下に入ってくれないか。お前を俺の『所有物』として、世界政府に登録させてほしいんだ」
その言葉が落ちた瞬間、バルコニーの空気がピリッと張り詰めた。
天竜人の『所有物』。それは世界における絶対的な『奴隷』を意味する言葉だ。ネプチューン王やジンベエの顔に一瞬の緊張が走る。
だが、マヤの声には、他者を支配しようとする傲慢さは微塵もなかった。ただ、世界を俯瞰し、最も合理的で強固な盾を構築しようとする為政者としての理(ことわり)だけが響いていた。
「安心しろ。俺は奴隷を痛めつけるような悪趣味は持ち合わせていない。ここにいるナミやロビン、黒服以外、これまで誰一人所有したことはないし、こいつらと出会ったのもたかだか二年前からだ」
マヤの言葉を裏付けるように、ナミが心からの笑顔で一歩前に出た。
「私たち、マヤ聖には本当に良くしてもらってるのよ。ここはとっても快適で、安全な場所なんだから」
「ええ。彼にはとても感謝しているわ。私たちを過去の呪縛から守ってくれている、大切な恩人よ」
ロビンも深く頷く。その表情には、天竜人に虐げられているような悲壮感など微塵もない。むしろ、マヤという存在を心から信頼し、寄り添っていることが明白だった。
「そういうことだ」とマヤは続ける。
「俺の所有物という形にしておけば、何かあっても、俺がすぐにお前を取り戻せる。他の馬鹿な天竜人たちも俺の顔見知りだから、話を通しておけば手出しはしない。上の連中(五老星)にも、俺が責任を持って確約を取ってやる。そうすれば……二度とお前が暗闇に怯えることはなくなる」
その圧倒的で完璧な「安全の保証」。
そして、誰よりも魚人族の痛みを理解し、タイガーの最期に涙を流したマヤからの提案に、ネプチューンもジンベエも、そして白ひげも、もはや疑う余地を持たなかった。
「グラララ! 天竜人が魚人を守るために所有物にするとはな! 痛快な話じゃねェか。俺の縄張りの姫君だが、お前さんなら安心して任せられる」
「白ひげのオッサンがそう言うなら、わしも異論はない。姫様……マヤ聖の仰る通りになさるのが、最も安全な道じゃろう」
「私……太陽の下を、歩けるんですか?」
しらほしが、希望に満ちた大きな瞳でマヤを見つめる。
「ああ。地上に来た時は、うちの宮殿に最高のプールを用意して待ってるからな」
「はい……! 私、マヤ様のお印、喜んでお受けします!」
マヤは小さく息を吐き、あらかじめ用意させていた特注の焼き印を取り出した。
それは、忌まわしい『天駆ける竜の蹄』をベースにしながらも、鋭くしなやかな『S』の文字が竜のように絡みつく、マヤ専用の美しい紋章だった。赤々と熱せられた鉄の先が、ジリジリと空気を焦がしている。
「一応、奴隷の印に見えないようにデザインはしてあるが……少し熱いぞ。我慢してくれ」
「はいっ」
ジンベエたちが悲壮な面持ちで固唾を呑んで見守る中、マヤはしらほしの美しい肩口に、ジュッと焼き印を押し当てた。
白い煙が上がり、肉が焼ける音が微かに響く。
……が。
「あ、チクッとしましたぁ」
「「「……え?」」」
十二メートルある巨体のしらほしにとって、人間サイズの焼き印は、本当にただ「ちょっと熱い針でチクッとされた」程度の面積でしかなかった。
火傷の痛みどころか、蚊に刺された程度の感覚である。しらほしはケロッとした顔で、自分の肩にぽつんとついた小さな赤いマークを不思議そうに見つめている。
「……あ、そうか。お前デカいから、人間サイズの焼き印なんて点でしかないのか」
「もうっ! マヤ聖ったら! 私たちが深刻な顔して損したじゃない!」
「フフッ、本当に。肩透かしだったわね」
悲壮感が一気に吹き飛び、ナミとロビンが吹き出す。ジンベエやネプチューンもポカンとした後、安堵のため息をつき、バルコニーは温かく穏やかな笑いに包まれた。
すべてが平和裏に、誰も血を流すことなく解決した、完璧なハッピーエンド。
そこへ――。
ドゴォォォンッ!!!
突如として、竜宮城の巨大な正門が何者かによって吹き飛ばされた。
凄まじい土煙と瓦礫が舞い上がる中、ドカドカと荒々しい足音を立ててバルコニーに乱入してきたのは、ボロボロに傷ついた麦わら帽子を被った少年――ルフィだった。
その後ろには、深海の海王類との戦いで疲労困憊になりながらも、船長を追ってきたゾロとサンジが息を切らして続いている。
航海士のいない深海の旅は、まさに地獄だった。潮流に飲まれ、船の原型を留めているのが奇跡に近いほどの惨状の中、彼らは命からがらここまでたどり着いたのだ。
「おい!! あいつはどこだァァァ!!」
ルフィが、殺気立った声で叫ぶ。
ルフィの中には、「ここで敵のボスを倒して、騙されていたナミたちを取り戻せる」という妄想しかなかった。
しかし、彼の目に飛び込んできたのは、争い一つない平和な光景だった。
巨大な人魚の手の上に設えられたテーブル。そこで優雅に紅茶を飲む天竜人のマヤ。そしてその傍らには、ルフィが「無理やり連れ去られた」と信じて疑わなかったナミとロビンが、心底幸せそうに笑い合っている。
「お前ら……なんで、俺がいねェのに、あんなに笑ってやがるんだ……!?」
理解できない光景に、ルフィの思考がショートする。
その時、ルフィの視線が、初対面である巨大な人魚――しらほしの肩口に釘付けになった。
そこには、赤く焼け焦げた真新しい『天竜人の紋章(マヤの印)』が刻まれていた。
ハチやハンコックの過去から、それが「最悪の奴隷の証」だと思い込んでいるルフィの脳内で、見当違いの正義感と激しい怒りが爆発した。
「お前……!! そのデカい奴を奴隷にしやがったなァァァ!! ぶっ飛ばしてやる!!」
ルフィは覇気を纏い、全身から凄まじい怒気を放ちながらマヤに向かって一直線に駆け出した。
事の経緯も、それが政治的な保護であることも、しらほし本人が喜んで受け入れたことも、ルフィは何一つ知らない。ただ「目に見える形」だけを捉えて、正義のヒーロー気取りで拳を振り上げたのだ。
「ひっ……!?」
怒り狂いながら距離を詰めてくる見知らぬ少年に、しらほしは本能的な恐怖を覚え、悲鳴を上げてマヤとネプチューン王の後ろに身を隠した。
「な、何ですかあの野蛮な方……っ! こわいっ……」
「やめんかルフィ君!!」
ルフィの拳を真正面から受け止め、強引に弾き返したのは、他でもないジンベエだった。
ドンッ!という重い衝撃音と共に、ルフィが後方へと滑る。
「ジンベエ!? なんでお前がそいつを庇うんだよ! そいつは悪い天竜人だろ! 奴隷の印をつけてたぞ!!」
「いきなり乗り込んできて何たる無礼か!! そのお方は、我ら魚人族にとって最大の恩人じゃぞ!! 貴様の見当違いの暴力を振るってよい相手ではない!!」
「無礼です、やめてください!」
怯えながらも、しらほしがマヤの後ろから身を乗り出して叫んだ。
「この印は、マヤ様が私を悪い人たちから守ってくれるための、大切で、温かい印なんです!」
助けるはずだった姫本人からの拒絶。
「は……?」
ルフィは間の抜けた声を漏らし、拳を握りしめたまま立ち尽くした。
「なんでだよ……なんでお前ら、そいつの味方してんだよ!! ナミ! ロビン! お前らも騙されてるんだ!! そいつは奴隷の印だぞ!!」
必死に叫ぶルフィに対し、ナミとロビンは、まるでゴミを見るかのような、氷のように冷ややかな視線を向けた。
「はぁ……。奴隷の印? なあにそれ」
ナミが、心底呆れたようにため息をついた。
彼女は羽織っていた薄手のガウンの肩口を、スッと下ろした。隣に立つロビンも同様に、美しい背中を露わにする。
二人の滑らかな背中には、しらほしに刻まれたものと全く同じ、マヤの『S』の刻印が深く、誇らしげに刻まれていた。
「私たちにも、しっかり入ってるんだけど?」
「ええ。私たちが納得して、私たちの意志で入れてもらった……私たちを守るための印よ」
ロビンの冷たい言葉に、ルフィの目が限界まで見開かれる。
「あんた……私たちがシャボンディの屋敷でゾロ達に渡したあの手紙を読んでも、本当に、頭の中身は少しも変わってないのね」
ナミの言葉は、鋭いナイフのようにルフィの胸を抉った。
「私たちが自分で選んだ道だって、あれほどはっきり伝えたのに。まだ一緒に旅に出れると思い込んで、勝手に人の家に不法侵入してきて、急に何キレてんの? 迷惑よ」
仲間からの、完全なる突き放し。
ルフィは、呼吸の仕方を忘れたように口をパクパクと動かした。
その後ろで控えるサングラス姿のエースは、密かに頭を抱え、深く絶望していた。
(マジかよ……。つい最近、シャボンディの屋敷の事をゾロ達から事の顛末を聞いておきながら、なんでこうなるんだ……。あいつ、本当に頭の構造が1ミリも成長してねェ……っ!)
死んだはずの自分がこんなにも冷静に事態を把握しているのに、弟は昔のまま、ただ自分の感情だけで世界を引っ掻き回そうとしている。その滑稽さに、エースは乾いた笑いすら込み上げてきた。
マヤは、ルフィに対して『言葉』を一切発しなかった。
怒り狂うルフィを見ても、表情一つ変えない。ただ、怯えるしらほしを庇うように少しだけ前に座り直し、ルフィを「哀れな海賊」を見るような、冷たく、底なしに無関心な平熱の瞳で一瞥しただけだった。
「ジンベエ。ネプチューン」
マヤが、ティーカップを傾けながら静かに言った。
「しらほしの件任せて欲しい」
視界にすら入れない。相手にすらしない。
その圧倒的な「格の違い」と「無関心」こそが、ルフィにとって最大の屈辱だった。
「……ッ!! お前ェェェ!!」
再びルフィが怒りに任せて飛び出そうとした瞬間、背後から凄まじい覇気が膨れ上がった。
「小僧。てめェ……俺の縄張りで、俺の客分に向かって何騒いでやがる」
バルコニーの奥。巨大な杯を置いた白ひげが、地を這うような低い声でルフィを睨み下ろしていた。
空気がビリビリと震え、海中であるにもかかわらず、息が詰まるような重圧が場を支配する。四皇の怒りを買ったのだ。
「おい、ルフィ!! ここはマズい!! 引くぞ!!」
「バカ野郎、状況を見ろ! 全員敵に回す気か!!」
事態の異常さと、誰一人自分たちの味方をしていないという絶対的な孤立に気づいたゾロとサンジが、冷や汗を滝のように流しながらルフィの両腕を掴んだ。
「離せ!! 俺はあいつを……!!」
暴れるルフィを半ば無理やり引きずり、二人は竜宮城から全速力で退散していった。
ルフィは、言葉にならない絶望と、ドス黒い狂気を抱えたまま、魚人島の平和な光景から去っていった。
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ルフィたちの怒号が遠ざかり、バルコニーに再び穏やかな静寂が戻った。
マヤは小さく息を吐き、ソーサーにカップを置いた。
そして、マヤの後ろから恐る恐る顔を出したしらほしの、真新しい刻印を静かに見つめた。
「……すまんな、しらほし。あんな海賊に怯えさせてしまって」
「え? いえ、マヤ様……私は、マヤ様が守ってくださったから……」
マヤの瞳に、再び『どぶさらいの少年』としての哀愁がよぎる。
「いくら世界政府からお前を守るためとはいえ……天竜人の刻印(これ)がお前たち魚人族にとって、どれほど忌まわしい傷跡かは、誰よりも分かっているつもりだ」
マヤの声には、先ほどまでの冷徹さはなく、ただ一人の人間としての深い自責の念が滲んでいた。
「……タイガーの時に出来なかった無念を、こんな形でお前に押し付けてすまん」
自分が力不足だった過去の因縁を、今のしらほしに背負わせてしまった。守るためとはいえ、天竜人の所有物にしてしまった。それは、マヤにとって決して消えることのない業だった。
しかし、しらほしは、マヤのその不器用な懺悔に対して、太陽のように明るく、澄み切った笑顔を向けた。
「いいえ、マヤ様。私、本当に嬉しいんです。この印は、タイガー様が受けた悲しい傷とは違います。マヤ様の優しさが詰まった……私の『誇り』です!」
巨大人魚の屈託のない笑顔に、ジンベエやネプチューンも深く頷き、涙ぐんでいる。ナミとロビンも、マヤの背中を励ますように優しく見つめていた。
マヤは少しだけ目を丸くした後、ふっと、憑き物が落ちたように穏やかな笑みを浮かべた。
「……そうか。なら、その印に決して恥じないように……必ずお前を、本当の太陽の下へ連れて行ってやる」
深海の底で結ばれた、絶対的な保護と絆の誓い。
暴力と無責任な自由が敗北し、政治と過去の贖罪がもたらした完全なる平和の成立が、魚人島の歴史を静かに、そして美しく塗り替えていた。