深海一万メートル。巨大なシャボンに守られた魚人島の一角、人目のつかない入り江に、無惨な姿を晒す海賊船――サウザンド・サニー号が停泊していた。
海流に飲まれ、海王類の襲撃を受けた船体は、マストが折れ、外壁の至る所に致命的な亀裂が走っている。一流の船大工であるフランキーが徹夜で応急処置を施したものの、完全に航行可能な状態に戻すには、彼一人の手ではどれだけの時間を要するか見当もつかない惨状だった。
「スーパー……こいつは骨が折れるぜ。竜骨までダメージがいってねェのが唯一の救いだが……資材も人手も足りねェ」
フランキーが油まみれの手で額の汗を拭いながら、重いため息を吐いた。
その背後で、麦わらの一味の面々は重苦しい沈黙に沈んでいた。魚人島への不法侵入、四皇・白ひげの客分への無礼、そして何より、誰もルフィの「正義」に賛同してくれなかったという事実が、彼らの心を暗く塗り潰している。
そこへ、魚人島の腕利きの船大工たちが、上質な木材や特殊な樹脂を積んだ巨大な荷車を引いて現れた。
「麦わらの一味だな。……船の修理を手伝いに来た。資材も全部、こっちで用意してある」
親方らしき魚人が、無愛想に、しかし職人としての責任感を持った声で告げた。
突然の申し出に、ゾロが鋭い視線を向ける。
「手伝う? 俺たちはこの島の厄介者だろ。誰の差し金だ?」
「……マヤ聖だよ。あのお方が、『うちのナミとロビンが世話になった。その餞別として、彼らが無事に海へ出られるよう船を直してやってくれ』と、全額前払いで手配してくださったんだ」
その言葉に、一味の間に衝撃が走った。
「餞別」――それはつまり、もう二度と関わるなという明確な線引きであり、ナミとロビンが完全にマヤの陣営として彼らを突き放したという証明だった。
「ふざけんな!!」
甲板の端で膝を抱えていたルフィが、弾かれたように立ち上がり、血走った目で怒鳴り声を上げた。
「あんな奴の世話になるか!! あいつはしらほしを奴隷にした悪い奴だ! そんな奴が用意した船大工なんか、俺は絶対に認めねェ!! 帰れ!!」
ルフィの感情的な叫びが入り江に響き渡る。だが、その怒号を冷酷に切り裂いたのは、ゾロの低くドスを効かせた声だった。
「黙れ、ルフィ」
「ゾロ!? お前まであいつの味方すんのか!!」
「現実を見ろ!!」
ゾロが、かつてないほどの剣幕でルフィを怒鳴りつけた。
「ここは四皇・白ひげの縄張りだ。お前がこれ以上騒げば、白ひげ海賊団を完全に敵に回すことになる。俺たちは航海士もいねェ、船も動かせねェ、全員が深海の底で立ち往生してるんだぞ!!」
「だからって、あいつの同情なんか……っ!」
「じゃあどうするんだ!!」
サンジもまた、タバコを噛み潰しながらルフィに詰め寄った。
「フランキー一人でいつ直るか分からねェ船を待って、このまま海底で朽ち果てるか? ナミさんやロビンちゃんに、俺たちの惨めな死に様でも見せつけて同情を買う気か!? ……船長なら、感情論で仲間の命を天秤にかけるな!!」
ゾロとサンジ、両翼からの容赦ない正論。
それは、今のルフィが「船長」としての器を失い、ただ我儘を喚く子供に成り下がっているという残酷な事実の突きつけだった。
「俺は……俺は……っ」
ルフィはギリッと唇を噛み破り、血を流しながら、何も言い返すことができずにその場に崩れ落ちた。
ゾロは深くため息をつき、魚人の船大工たちに向き直って深く頭を下げた。
「……すまねェ。厚意、ありがたく受け取る。手伝ってやってくれ」
見当違いの正義を振りかざした代償。
ルフィは、自分の船の修理すら、最も憎むべき相手(マヤ)の圧倒的な財力と政治力に依存しなければ生きていけないという、どん底の屈辱を味わっていた。
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同じ頃、リュウグウ城の奥深く。
外界の音が一切届かない、厳重に防音・防壁が施された貴賓室に、マヤは一人で立っていた。
室内には明かりが点いておらず、ただ、床に刻まれた不気味な五芒星の魔法陣だけが、炎と稲妻を伴って禍々しい光を放っている。
空間そのものが歪み、空気がねっとりと重くなる。やがて、魔法陣の光の中から、ステッキを手にした老魁な人影がぬらりと現れた。
世界政府最高権力・五老星の一角、ジェイガルシア・サターン聖である。
サターン聖は、呼び出した相手の顔を見るなり、露骨に顔を顰めた。
『……また貴様か、マヤ聖。先日マリージョアで好き勝手をしてくれたばかりだというのに……今度は下界の魚人の城から呼び出すとは。我々への事前の報告もなしに、古代兵器ポセイドンを己の『所有物』にするとはどういうつもりだ』
サターン聖の底冷えするような怒気が、部屋の空気を凍らせる。天竜人であっても、世界の均衡を揺るがす古代兵器を一個人が独占するなど、本来なら決して許されることではない。
だが、マヤはその絶対的な重圧を前にしても、表情一つ変えず、ポケットに手を入れたまま平熱の瞳でサターン聖を見返した。
「相変わらず話が長いな、サターン。あんたを呼んだ覚えはない。引っこんでろ」
『……何だと?』
「話が通じない老人と世間話をする趣味はないんでね。……聞いてるんだろ? 『虚の玉座』に座る、引きこもりの神様よ。あんた宛ての書面だ。意味は分かるな」
マヤが、空虚な空間に向かって一枚の書類を突きつける。
サターン聖が顔色を変え、激怒してステッキを振り上げようとしたその瞬間――。
部屋の空気が、完全に『別次元』のものへと変異した。
圧倒的、かつ絶対的な威圧感。サターン聖すらも恐れおののき、その場に深く跪くほどの濃密な闇が、魔法陣の中心から滲み出るように顕現した。
王冠を戴く、長身の影。
世界の真の王、イムである。
『……また君か、マヤよ』
イムの声は、男とも女ともつかない、永劫の時間を生きてきた者特有の、感情の抜け落ちた響きを持っていた。
先日、パンゲア城の『虚の玉座』で対面し、マヤの理不尽なまでの政治力と暴力(お仕置きパンチ)を味わったイムは、深いため息をつくように語りかけた。
『ポセイドンを己の管理下に置き、我々の手から隠すというのか』
「そうだ。お前達の言い分も、恐れも分かる。だが、俺がしらほしを所持品にした。それは誰にも覆せない揺るがない事実だ」
マヤは淡々と事実を述べる。
「先日のマリージョアでも言ったはずだ。俺は、お前ら世界政府と仲良くやっていきたいもんでね。だからこそ言う。お前達の『過去』を、今の現実に持ち込むな」
『……』
「アラバスタの件もそうだ。俺のところのロビンが、おいたした件の責任は、こちらで取る。アラバスタ王国は俺の直轄保護下に置く。いずれコブラ王とも話をつける。……インペルダウンから逃げ出したクロコダイルが、またプルトンを求めてちょっかいをかけるのは、お前らだって面倒だろ?」
マヤの提示する条件は、すべてにおいて理にかなっていた。
世界政府が恐れるポセイドンとプルトン。それをマヤという一個人が「保護」という名目で隔離することで、海賊や革命軍に渡るリスクを完全にゼロにする。
『……君は、世界のすべてを己の箱庭に抑え込む気なのかい?』
イムが、微かに興味を惹かれたような声を出した。
「箱庭か。そんな物に興味はない。俺が後ろ盾になるほうが、お互いにとって安全で合理的だろ? 俺は、お前が失われた時代に何を恐れ、何を隠しているのかなんて、どうでもいいんだよ」
『どうでもいい……? 空白の歴史が、か?』
「ああ。俺の信条はシンプルだ。目の前で泣いてる者がいれば救う。俺の身内が過去に悪さしたなら、俺が清算する。ただ、それだけだ」
イムは沈黙した。
権力、支配、歴史の秘匿。そういった泥沼の執着に囚われた人間ばかりを見てきたイムにとって、マヤの行動原理はあまりにも異質だった。
『……ふ、面白い男だ。君とは友でいたいものだね』
「せいぜい、悪友だろうがな」
マヤは微かに笑みを作り、そして――次の瞬間、イムの目の前からフッと姿を消した。
サターン聖が反応するより早く。イムがその超常の力を行使するより早く。
マヤは音もなくイムの懐に潜り込み、そのがら空きの腹部に、研ぎ澄まされた右拳を叩き込んでいた。
ドスッッ……!!!
『……ッ!!!?』
重い衝撃音が室内に響き渡る。
イムの身体が「く」の字に折れ曲がり、肺からすべての空気が強制的に吐き出された。800年もの間、誰一人として触れることすら許されなかった神の肉体に、圧倒的な物理的苦痛が走る。
「イム様ァァァ!! 貴様、マヤ!! またしても何たる大逆をッ!!」
「騒ぐな」
悲鳴を上げるサターン聖を一瞥し、マヤはイムの腹に拳を当てたまま、静かに言葉を紡ぐ。
「これは、俺の私念だ。お前達の行いで、過去にどれだけの民が死んだか。どれだけの奴隷が生まれ、理不尽な涙が流されたか。……格差を作るやり方を、もう少し上手くやれ」
痛みに喘ぐイム。だが、次の瞬間、イムの身体を信じられない現象が包み込んだ。
殴られた腹部から、温かく、生命力そのもののような未知のエネルギー(回復の念)が流れ込み、一瞬にして内臓のダメージと痛みを完全に修復してしまったのだ。
『……お、前……今、何をした? 殴られたと同時に……回復したぞ……!?』
イムが、信じられないものを見る目でマヤを見上げた。その瞳には、永劫を生きてきた神すらも理解できない「未知の力」への恐怖と戦慄が浮かんでいた。
「俺にとっても、これは贖罪なんだよ。お前が過去に何を恐れているかまでは、自分の中にしまっておけばいい。だが、いつかそれを後悔する日が来るぞ。……それとも、永劫を生きてきた奴の末路なのか? お前、世界を回している『生者への感謝』を忘れてるんじゃねーか?」
マヤの言葉が、ただの天竜人の生意気な口答えではなく、まるで別次元の高位の存在からの『教訓』のようにイムの脳髄に響く。
『感謝、だと……? 管理と、平和の意味ではなく……?』
「だいたいそんなとこさ。だが本質を見誤るな、こう考えろ。世界にたった一人で生きていて、楽しいか? ってことさ」
マヤはイムからゆっくりと拳を離し、見下ろした。
「人は誰しもが、自分という神なんだよ。上から目線でチェスの駒みたいに命を扱うな。そこを間違えるなよ」
『……』
「そうだな、信頼の証に明かそうか。俺の名は、シンキ マヤだが、本当の名は、神鬼マヤ……『ONI OF GO D Maya』だ。ただの天竜人の名前じゃない」
『まさか……お前も!? GOD……『D』だと!?』
常に冷徹を保っていたイムの瞳が、今日一番の驚愕に見開かれた。
神(天竜人)でありながら、神の天敵である『D』の名を冠し、一切の能力を感じさせないまま自分を物理的に殴り、そして一瞬で癒す神業を見せた男。
世界政府が800年恐れ、消し去ろうとしてきたその歴史の亡霊が、まさか自分たちの最高権力者の中に紛れ込んでいるなどと、誰が想像できただろうか。
「これがヒントだ。……仲良くやっていこうな。間違った事(理不尽な暗殺や粛清)をすれば、またパンチな?」
ふふふっ、と、マヤが底意地悪く、だがどこか愛嬌のある笑みを浮かべる。
『……もう勘弁してほしいものだがね……』
「それはお前次第ってことさ。良き政治をしよう。暗殺などもってのほかだ、時の常ではあるがな」
マヤは踵を返し、扉へ向かって歩き出す
「臭い物に蓋をし続ければ、悪臭が漏れ、すべて自分に戻ってくる。だから俺は昔からずっと、どぶさらいをして、自分の足場くらい綺麗にしておきたいんだよ。分かるだろ?」
『……ふ。納得したよ。君の政治的スタンスと、その理不尽な強さがね』
イムが、深いため息と共に、どこか憑き物が落ちたような苦笑を漏らした。
こうして、世界の最高権力者であるイムは、マヤという「得体の知れないD」の前に、完全に手綱を握られることとなった。
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竜宮城のバルコニーでは、しらほしやネプチューン王、そして白ひげたちが、マヤの帰還を待ちわびていた。
「待たせたな」
扉が開き、マヤが平然とした足取りで戻ってくる。その手には、一枚の真新しい羊皮紙が握られていた。
「上への確約は取れた。これで、誰にも文句は言わせない」
マヤがテーブルの上に置いたその書面には、ただ中央に、世界政府の最高権力を示す印と共に『世界政府承認』という絶対的な文字が刻印されていた。
「こ、これは……!!」
ネプチューン王が目を剥き、ジンベエも言葉を失う。
「おいおい、天竜人の坊ちゃんよ」
白ひげが、手元の酒樽を置いて目を細めた。
「一体どういう手品を使えば、世界政府のトップから即座にこんな確約を引き出せる? お前さん、裏で何をした?」
海を長年生き抜いてきた四皇の勘が、マヤという男の「底知れなさ」を正確に察知していた。この若造は、ただの権力者ではない。物理的にも政治的にも、あまりにも規格外すぎる。
「秘密のやり取りだ。だが、書面は本物だ。……その事実だけで十分だろ、エドワード」
マヤが、涼しい顔で白ひげの鋭い視線を受け流す。
その堂々たる態度に、白ひげはしばらくマヤを睨みつけていたが、やがて「グララララ!」と腹の底から豪快に笑い声を上げた。
「違いねェ! 結果がすべてだ! 気に入ったぜ、坊主!」
マヤは視線を落とし、安堵の涙を浮かべているしらほしを見上げた。
「しらほし。これで確約は成った。いつでもお前を、俺の宮殿へ案内できる」
「はい……っ! ありがとうございます、マヤ様……っ!!」
しらほしが、満面の笑みで涙を拭う。
彼女の肩に刻まれた小さな『S』の印は、忌まわしい過去の象徴ではなく、彼女を暗闇から救い出した、世界で最も強固で優しい盾としての証だった。
悲劇を粉砕し、女の涙を拭い、笑顔を守る。
マヤという『神鬼』が歩む贖罪の道は、この深い海の底に、完全なる平和の光をもたらしたのだった。